メインページへ 07/10/28  更新(07/10/27初版)
秋の昭和 へ行って来た


     07年10月某日、昭和のばあちゃん(義母)から郵便封書が届いた。 妻宛ではなく、俺宛である。昭和から送られてくる宅配便の宛名もしかり、俺 宛などというのは記憶にない。俺宛なので、妻はじっと我慢で封を切らなかった。 中には、「庄一さんが書いてくれた」手書の「御使」が入っていた。
     そういえば、昔のお祝い事や法事のお知らせは、みんな半紙・障子紙(和紙) で短冊をつくり、筆で手書をする。コピーなどというものはむろん無かった。

     子供がその短冊を持たされて、近所をまわった。
     「はいっとー、おつかいです」。
     「まぁ、よぐきてくれたごと、ちょっくら待っちぇろ」。
    といって、留守居のお年よりは戸棚に入っているなけなしのお菓子などをお礼 に出してくれたものである。
     というのは、昭和三十年代の話である。

     時は流れて幾星霜、
    昭和館の先代主人、宗司あんにゃの五年祭と、そのご母堂、文(ふみ)ばあの 五十年祭の御使いである。

     人の多いところはきらい、混雑がきらい、並ぶなどというのはもってのほか。 行列の出来る店とかなどは行ったこともない。日曜日の行事であるが、前々日 の金曜日は会社を休んで出掛けることにした。3日前に出掛けたといっても、 歩いて行った訳ではない。


    07年10月19日 出立(東京→昭和)
     ふだんは、浅草駅07:10発の田島行き快速に乗れば、田島駅10:55 発昭和行きのバスに間に合う。その次は、浅草駅09:10発で、田 島駅で1時間25分待ちで、14:10発昭和行きバス。その次は、 浅草駅13:50発で、田島駅で20分待ち、18:10発昭和行き。その後 は、、もうない。
     では、浅草駅09:10発に間に合うように参ろうと予定を立てた。
     ところが、最近JRが「新宿から会津へ3時間半!」との宣伝で新宿駅発の 特急が運行している。新宿駅10:35発「特急スペーシアきぬがわ 3号」で田島駅27分待ちで、14:10発昭和行きバスに間に合う ことがわかった。
    これが間違いの元であった。
     朝の8時半には自宅を出た。昭和館についたのは午後7時過ぎ、10時間半 ほどを費やした。なんでそうなるの!
     長くなるので、この件は後で別ページを作ることにして、次にすすむ。
    電車に乗った証拠として、車窓風景を載せる。
    風合いのブックカバーは、妻が夜なべで作った会津木綿の手製である。
    妻が夜なべで作った」というところだけ嘘である。


    07年10月19日 夜(昭和)
    奥会津の秋の味覚を堪能、
    自然産舞茸の天ぷら。
    芥子菜和え、つるむらさき。
    ジュンサイ、ビールを3本。

    床の間にある掛け軸。
    何度か見ているが、
    意味がわからない。
    酔った頭で考えた。

    拡大図
      
    手書をタイプ
    「南山」は「南山御蔵入(みなみやまおくらいり)」 の事ではないか。この地方は昔は「南山御蔵入」と呼ばれた天領地であった筈 である。幕府の直轄領ということである。それを「天領地」といって正しいか どうかはわからないで書いているが。後から会津藩所領地となる。とすると、 この掛軸の文章はご当地のことではないか。
    いつの頃か風来のお坊さんでも立寄られたか。賛詞を綴って宿泊費でも棒引き したか。それはわからない。
    「南山」が片付け(当を得ていれ)ば、後は簡単である。
      この地(南山)は、いにしえ(古)より、翠(みどり)の鬱蒼とした木々の景色がある。
      いつでも多くの木々が芽を伴って茂る。
      このめでたさを寿(ことほ)げば、ここは常しえ(とこしえ、千歳)のまつり ごと(斎)の地である。
    と、読んで(解釈して)みた。
    そういえば、この床の間の左上には天井と壁の間に神棚も祀られている。
    という字はわからないが、天領地だった ので、「公の木をウ冠で守る」とでも意味させるのかネ。
    「四時」とは春夏秋冬、つまり、いつでも。「九」は「数多く、無数」の意であろう。
    ホントかい。わがんねだ。

     と、ここまで書いてからパソコンのおまけの辞書で「南山」を引くと、「南 山の寿」という定型があり、『「詩経‐小雅・天保」にあり人の長寿を祝う語』とある。

     と、ここまで書いてから自宅で検索してみた。真筆であれば、巌谷一六氏 (巌谷小波の父らしい)ということになるが、、
    巖谷一六(1834〜1905)、近江人で、名は修、字は誠卿、号を一六・古梅・迂 堂などと称し、明治二十四年に貴族院議員、詩文や書など多芸人、特に書(中 沢雪城に師事)に秀でて明治初期の三大家(日下部鳴鶴・長三洲・巖谷一六) の一人でもある。とあった。
    おまけ:一六居士修の真贋

    07年10月20日(昭和)
    朝景色。昭和館2階より。

    左:左上方の大木の下に旧診療所の廃屋あり。   右:玄関前庭。


    野尻川。
    田の口沢に向かう道の橋上。



    夜。本日は、大広間でお客様の法事あり。
    お手伝いの方々と、一緒に食事。


    07年10月21日(法事)
    奥座敷にて
    準備。

    五年祭並びに五十年祭の儀 ニ礼ニ拍手一礼

    墓地へ。

    帰り道。




    ←↓碑

    五十年祭
    文(ふみ)
    ばあさま

    直会
    (なおらい)
    於:しらかば荘


    07年10月21、22日(すこしだけ奥会津風物)
    隣りのひろじさんの家。

    見送る人達。
    最終バスを待つ。

    左のはぜには、
    大豆の枝(勿論実付き)
    の乾燥。
    秋の空は気まぐれ曇空。
    そして翌日は、、、



    のどかな秋の日差しです。

    右写真→
    左昭和館の屋根。右はひろじさん家。
    真中の道路は、国道400号線。
    真正面に火の見やぐらも見えます。

    莚の四隅の押さえをご覧あれ。
    日向ぼっこのかぼちゃが「仕事」をしています。
    日が差してきた庭では、。


    夏は大きな朝顔棚もたつ。
    いつも何かの花が咲いている庭です。
    軒下には唐辛子の実。
    莚(むしろ)をひいて粟の実?の乾燥。


    07年10月22日(昭和:舟鼻峠あたり)



    続く、、07/10/28記 (甚)
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