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なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」を編集中

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以上の当問題における世界、宇宙といった用語の扱いの説明は、[[#sg2000|菅沼聡 (2000) 「世界全体は存在するか」]]を参考とした。</ref><!--冗長なので一旦コメントアウト <ref group="注釈">現代の物理学者も、哲学者や神学者たちとは問いかけ方が異なるとはいえ、同種の問いを発する。たとえばイギリスの理論物理学者[[ステファン・ホーキング]]はこう問うている。「仮にたったひとつの統一理論があったとしても、それはただの方程式の集まりでしかない。いったい何が、これらの方程式に火を吹き入れ、そしてそれによって記述されるような宇宙を作ったのか?」 [[#hw1988|Hawking (1988)]] p. 174。ただしこの問いにはアメリカの物理学者[[マックス・テグマーク]]から反論がある。テグマークは[[数学的宇宙仮説]](Mathematical Universe Hypothesis)の立場から、宇宙それ自体が数学であるとして、仮に何らかの数学的構造があるのなら、それ自体がすでに宇宙であるとし、火を吹き入れる必要などないとする。[[#tg2008|Tegmark (2008)]]</ref>-->。
以上の当問題における世界、宇宙といった用語の扱いの説明は、[[#sg2000|菅沼聡 (2000) 「世界全体は存在するか」]]を参考とした。</ref><!--冗長なので一旦コメントアウト <ref group="注釈">現代の物理学者も、哲学者や神学者たちとは問いかけ方が異なるとはいえ、同種の問いを発する。たとえばイギリスの理論物理学者[[ステファン・ホーキング]]はこう問うている。「仮にたったひとつの統一理論があったとしても、それはただの方程式の集まりでしかない。いったい何が、これらの方程式に火を吹き入れ、そしてそれによって記述されるような宇宙を作ったのか?」 [[#hw1988|Hawking (1988)]] p. 174。ただしこの問いにはアメリカの物理学者[[マックス・テグマーク]]から反論がある。テグマークは[[数学的宇宙仮説]](Mathematical Universe Hypothesis)の立場から、宇宙それ自体が数学であるとして、仮に何らかの数学的構造があるのなら、それ自体がすでに宇宙であるとし、火を吹き入れる必要などないとする。[[#tg2008|Tegmark (2008)]]</ref>-->。


物事の根拠を「なぜ」と繰り返し問い続けることでやがて現れる問いであることから「究極のなぜの問い(The Ultimate Why Question)」、またはより簡潔に「'''究極の問い'''」とも呼ばれる<ref>[[#sg2004|菅沼聡 (2004)]]</ref>。解答することが著しく困難であることから「'''存在の謎'''」(The riddle of existence)とも言われる<ref name="#1">[[#rs1984|Rescher (1984)]]</ref>。[[存在]]に関する問いであることから「'''存在への問い'''(The question of being)」とも言う。哲学者たちはこの問いを、あらゆる問いの中でもっとも根源的な問い・第一の問いであるとしばしば言う。同時に混乱を呼ぶ悪名高き問い、解答不可能な奇問、愚かな問い、問うてはいけない問い、また問うことが危険な問いである<ref>[[20世紀]]のアメリカの哲学者[[ロバート・ノージック]]は[[ユダヤ教]]の聖典[[タルムード]]の第一部[[ミシュナー]]の一節を引き、そこにこうした問いを問うことの危険性が示されていると思われると記している。次のような一節である。 「上には何があるか、下には何があるか、前には何があるか、後には何があるか。この四つのことがらについて思いをめぐらすもの、その者はこの世に生を受けぬほうがましであっただろう」(典礼書アッガダー2:1、[[戸田山和久]](訳)) [[#nz1997|ノージック (1997) p.171]]</ref><ref>以下、[[#iw2006|Inwagen (2006)]] の冒頭文より。「表題の問い[そもそもなぜ何かがあるのか]はあらゆる問いの中でも、もっとも深遠で困難なものだとされている。何人かの論者は実際、この問いが心を引き裂きかねない危険なものだと述べてきた。だが恐慌に陥らなければ、われわれはこの問いをいくらか推し進めることができる。」</ref>、などとも言われる。
物事の根拠を「なぜ」と繰り返し問い続けることでやがて現れる問いであることから「究極のなぜの問い(The Ultimate Why Question)」、またはより簡潔に「'''究極の問い'''」とも呼ばれる<ref>[[#sg2004|菅沼聡 (2004)]]</ref>。解答することが著しく困難であることから「'''存在の謎'''」(The riddle of existence)とも言われる<ref>[[#rs1984|Rescher (1984)]]</ref>。[[存在]]に関する問いであることから「'''存在への問い'''(The question of being)」とも言う。哲学者たちはこの問いを、あらゆる問いの中でもっとも根源的な問い・第一の問いであるとしばしば言う。同時に混乱を呼ぶ悪名高き問い、解答不可能な奇問、愚かな問い、問うてはいけない問い、また問うことが危険な問いである<ref>[[20世紀]]のアメリカの哲学者[[ロバート・ノージック]]は[[ユダヤ教]]の聖典[[タルムード]]の第一部[[ミシュナー]]の一節を引き、そこにこうした問いを問うことの危険性が示されていると思われると記している。次のような一節である。 「上には何があるか、下には何があるか、前には何があるか、後には何があるか。この四つのことがらについて思いをめぐらすもの、その者はこの世に生を受けぬほうがましであっただろう」(典礼書アッガダー2:1、[[戸田山和久]](訳)) [[#nz1997|ノージック (1997) p.171]]</ref><ref>以下、[[#iw2006|Inwagen (2006)]] の冒頭文より。「表題の問い[そもそもなぜ何かがあるのか]はあらゆる問いの中でも、もっとも深遠で困難なものだとされている。何人かの論者は実際、この問いが心を引き裂きかねない危険なものだと述べてきた。だが恐慌に陥らなければ、われわれはこの問いをいくらか推し進めることができる。」</ref>、などとも言われる。


[[存在論]]のテーマは突き詰めると「何が在るのか」と「なぜ在るのか」の二つの問いに収束していくとも言われるが、この問いは後者の「なぜ在るのか」にあたる問いである<ref>[[#am2002|雨宮民雄 (2002), p.677]]</ref>。”何が”在るのかに関しては、現代の科学である程度答えを出すことができる。
[[存在論]]のテーマは突き詰めると「何が在るのか」と「なぜ在るのか」の二つの問いに収束していくとも言われるが、この問いは後者の「なぜ在るのか」にあたる問いである<ref>[[#am2002|雨宮民雄 (2002), p.677]]</ref>。”何が”在るのかに関しては、現代の科学である程度答えを出すことができる。
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[[ユダヤ教]]、そしてその後につらなる[[キリスト教]](及び[[イスラム教]])は全知全能の神による世界の創造を説いてきた。
[[ユダヤ教]]、そしてその後につらなる[[キリスト教]](及び[[イスラム教]])は全知全能の神による世界の創造を説いてきた。


もっとも、古来、ユダヤ教の内部では、本稿のような問いを投げかけることはある種のタブー、不道徳な行為として戒められてきた。これは存在の問題について本当に追求をはじめると、素朴な宗教的な説明ではとても納得できなくなる(例えば神がなぜあるのか、神がいるとしてその神が世界を作ったならなぜ苦しみがあるのか、といった問題)、そしてそうした論理的問題から信仰からの離脱、[[不信仰]]を引き起こしやすいためであった<ref>[[#ch1997|コーヘン (1997), 第二章 「神と宇宙」 pp.121-184]]</ref>。例えばユダヤ教の聖典である[[タルムード]]には次のような記述がある。『以下の四つのことについて思索する者はこの世に生まれて来なかった方がましであった――すなわち、上なるもの、下なるもの、先なるもの、後なるもの(Mハギガ 2.1)』<ref name="#2">[[#ch1997|コーヘン (1997), p.123]]</ref> そしてこの立場を支持する論拠として[[ベン・シラの知恵]]の一説をタルムードは引用している。『自分に難解すぎることを追求するな。自分の手に負えないことを詮索するな。きみの領分と定められたこと、それについて思索せよ。隠された事はきみには用はない(ベン・シラ 3.21,3.22, BTハギガ 13a)』<ref name="#2"/> これは[[ラビ]](ユダヤ教の教師)たちの間における典型的な態度であった。ユダヤ教は形而上学的な思索よりも日々の[[実践]]に重きを置く宗教であった。世界の創造について書かれた文献『[[創世記]]』の最初の文字が、なぜベートという文字から始まるのか<ref group="注釈">創世記は次の一文で始まる。右から左に読む。<br />: בראשית ברא אלהים את השמים ואת הארץ <br />読みは「ベレシート バラー エロヒーム エット ハシャマイム ヴェエット ハアレツ」。意味は「はじめに神は天と地とを創造された」</ref>という問いに関し、タルムードには次のような言葉が記されている。
もっとも、古来、ユダヤ教の内部では、本稿のような問いを投げかけることはある種のタブー、不道徳な行為として戒められてきた。これは存在の問題について本当に追求をはじめると、素朴な宗教的な説明ではとても納得できなくなる(例えば神がなぜあるのか、神がいるとしてその神が世界を作ったならなぜ苦しみがあるのか、といった問題)、そしてそうした論理的問題から信仰からの離脱、[[不信仰]]を引き起こしやすいためであった<ref>[[#ch1997|コーヘン (1997), 第二章 「神と宇宙」 pp.121-184]]</ref>。例えばユダヤ教の聖典である[[タルムード]]には次のような記述がある。『以下の四つのことについて思索する者はこの世に生まれて来なかった方がましであった――すなわち、上なるもの、下なるもの、先なるもの、後なるもの(Mハギガ 2.1)』<ref>[[#ch1997|コーヘン (1997), p.123]]</ref> そしてこの立場を支持する論拠として[[ベン・シラの知恵]]の一説をタルムードは引用している。『自分に難解すぎることを追求するな。自分の手に負えないことを詮索するな。きみの領分と定められたこと、それについて思索せよ。隠された事はきみには用はない(ベン・シラ 3.21,3.22, BTハギガ 13a)』<ref>[[#ch1997|コーヘン (1997), p.123]]</ref> これは[[ラビ]](ユダヤ教の教師)たちの間における典型的な態度であった。ユダヤ教は形而上学的な思索よりも日々の[[実践]]に重きを置く宗教であった。世界の創造について書かれた文献『[[創世記]]』の最初の文字が、なぜベートという文字から始まるのか<ref group="注釈">創世記は次の一文で始まる。右から左に読む。<br />: בראשית ברא אלהים את השמים ואת הארץ <br />読みは「ベレシート バラー エロヒーム エット ハシャマイム ヴェエット ハアレツ」。意味は「はじめに神は天と地とを創造された」</ref>という問いに関し、タルムードには次のような言葉が記されている。
:『文字ベートは前方以外はすべて閉じている<ref group="注釈">創世記の最初の単語 בראשית (発音:ベレシート、意味:初めに)の一文字目である[[ヘブライ語]]の文字ベート [[:en:Bet_(letter)|'''ב''']] は右側が閉じ、左側だけが開いている。ヘブライ語は右から左に書くため、文字が進んでいく方向だけが開き、それ以外の方向は閉じている事になる。</ref>。したがって、きみは上にはなにがあるのか、下にはなにが、先にはなにが、後にはなにがあるのか、と詮索してはならないのであり、宇宙が創造されたその日以後のことだけを考察すればよいのである(PTハギガ 77c)』<ref>[[#ch1997|コーヘン (1997), p.124]]</ref>
:『文字ベートは前方以外はすべて閉じている<ref group="注釈">創世記の最初の単語 בראשית (発音:ベレシート、意味:初めに)の一文字目である[[ヘブライ語]]の文字ベート [[:en:Bet_(letter)|'''ב''']] は右側が閉じ、左側だけが開いている。ヘブライ語は右から左に書くため、文字が進んでいく方向だけが開き、それ以外の方向は閉じている事になる。</ref>。したがって、きみは上にはなにがあるのか、下にはなにが、先にはなにが、後にはなにがあるのか、と詮索してはならないのであり、宇宙が創造されたその日以後のことだけを考察すればよいのである(PTハギガ 77c)』<ref>[[#ch1997|コーヘン (1997), p.124]]</ref>
こうした形で「前を向いて生きていけばよい」という形のメッセージが残された。
こうした形で「前を向いて生きていけばよい」という形のメッセージが残された。
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=== 人間原理 ===
=== 人間原理 ===
{{main|人間原理}}
{{main|人間原理}}
この問いに[[人間原理]]を使うことができそうにも思える。人間原理とは「この宇宙の構造が人間の生存を許す環境になっている」という([[ファインチューニング]]ともいわれる)現象に対する説明として、「そうでなければ人間というものが生まれて宇宙を観測するということがそもそも起きていない」という形で応じる方法。つまり観測者として問いを発している私たちも、中立で独立したものではなく、系の一部として問いの中に組み込まれている([[観測選択効果]])。この人間原理を「なぜ何かが存在するのか」というこの問いに対して使用する応答も一部ある。しかし一般にこの問いの解答に人間原理を使うことは、妥当ではないと指摘される<ref>[[#cn2004|Conee (2004)]]</ref>。人間原理を使用して答えうるのは別の形の問い、たとえば「なぜ何かが存在していると知っているのか」といったものへの解答としかならないと言われる<ref name="#1"/>。
この問いに[[人間原理]]を使うことができそうにも思える。人間原理とは「この宇宙の構造が人間の生存を許す環境になっている」という([[ファインチューニング]]ともいわれる)現象に対する説明として、「そうでなければ人間というものが生まれて宇宙を観測するということがそもそも起きていない」という形で応じる方法。つまり観測者として問いを発している私たちも、中立で独立したものではなく、系の一部として問いの中に組み込まれている([[観測選択効果]])。この人間原理を「なぜ何かが存在するのか」というこの問いに対して使用する応答も一部ある。しかし一般にこの問いの解答に人間原理を使うことは、妥当ではないと指摘される<ref>[[#cn2004|Conee (2004)]]</ref>。人間原理を使用して答えうるのは別の形の問い、たとえば「なぜ何かが存在していると知っているのか」といったものへの解答としかならないと言われる<ref>[[#rs1984|Rescher (1984)]]</ref>。


=== 擬似問題である ===
=== 擬似問題である ===

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