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'''アルシンド'''(Alcindo Sartori, [[1967年]][[10月21日]]-)はキムタクっぽいロンゲなイメージだった
'''アルシンド'''(Alcindo Sartori, [[1967年]][[10月21日]]-)は、[[ブラジル]]、[[ジアネイラ]]出身の元[[サッカ選手]]。ポションは[[フォワード (サッカー)|フォワード]]

長男の[[イゴール・トーレス・サルトーリ|イゴール]]もサッカー選手で2011年には[[鹿島アントラーズ]]に所属。鹿島アントラーズで親子2代の外国籍選手は史上初。


== 来歴 ==
== 来歴 ==
[[CRフラメンゴ]]の下部組織で育ち、[[1986年]]にトップデビューした。フラメンゴでは[[ジーコ]]や[[レオヴェジウド・リンス・ダ・ガマ・ジュニオール|ジュニオール]]と共にプレーした。スピードのあるストライカーであったが、フラメンゴではポジションを得られず、1987年にフラメンゴが[[コパ・ウニオン]]を制覇した際には、[[ジョゼ・ロベルト・ガマ・デ・オリベイラ|ベベット]]や[[レナト・ガウショ]]の控えとなった。
[[ジーコ]]と共にプレーした。スピードのあるストライカー。しかしずっと鹿島ではない。


[[1987年]]にはU-20ブラジル代表の一員として[[FIFA U-20ワールドカップ|FIFAワールドユース選手権]]に出場。4試合すべてに出場して2得点を挙げている。


[[1990年]]に[[エスタディオ・ダ・ガヴェア|ガヴェア]]を離れ、[[サンパウロFC|サンパウロ]]へ移籍した。しかし、サンパウロでのキャリアは非常に短く、翌年には[[グレミオ]]に移った。
キャリアの終盤にはジーコ


グレミオで2シーズンを過ごした後、ジーコに招待を受け、[[1993年]]に新たに設立された日本のプロサッカーリーグ、[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]の[[鹿島アントラーズ]]に移籍。開幕から抜群のスピードと得点感覚でゴールを量産。また、フリーキックの技術も高く、主力選手としてジーコと共にサントリーシリーズ優勝の原動力となった。また、独特の風貌がメディアの注目を集め、テレビ出演や[[コマーシャル]]出演をする等(後述)、日本サッカー界を盛り上げた。鹿島では71試合の出場で50ゴールを記録した。
引退後はイラクに己の強さを求め、行った。俺は俺より強いロンゲに会いに行く。

しかし、金銭面の問題で1994年限りで鹿島を退団。その後、[[東京ヴェルディ1969|ヴェルディ川崎]]、[[コンサドーレ札幌]]に在籍。V川崎に移籍して1シーズン目は19得点を記録したもののV川崎でも金銭面の問題を巡って1年で退団。翌[[1996年]]は[[ジャパンフットボールリーグ]]のコンサドーレ札幌へ移籍した。しかし、[[4月28日]]の[[富士通サッカー部|富士通川崎]]戦で判定を不服とし審判に対し15回に渡って「バカ」と罵倒、4試合の出場停止処分を受け、さらに[[6月9日]]の[[大塚製薬サッカー部|大塚製薬]]戦で再び退場処分を受けると、その責任を感じ同チームを退団。[[コリンチャンス]]へ移籍した。翌[[1997年]]、再びヴェルディ川崎に戻り、その年は出場16試合で10得点した。

キャリアの終盤には、[[ADカボフリエンセ|カボフリエンセ]]とジーコが設立した[[CFZ]]でプレーした。

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[[2015年]][[2月]]、ブラジル女子サッカーチームの[[フォス・カタラタス]]の監督に就任した <ref> [http://megabrasil.jp/20150203_18221/ アルシンド新監督、就任早々に指揮をとる] (2015年2月2日 MEGABRASIL) </ref>。


== 所属クラブ ==
== 所属クラブ ==
*1995年 {{flagicon|JPN}} 東京ヴェルディ
*1986年-1990年 {{flagicon|BRA}} [[CRフラメンゴ|フラメンゴ]]
*1991年 {{flagicon|BRA}} [[サンパウロFC|サンパウロ]]
*1992年 {{flagicon|BRA}} [[グレミオ]]
*1993年-1994年 {{flagicon|JPN}} [[鹿島アントラーズ]]
*1995年 {{flagicon|JPN}} [[東京ヴェルディ1969|ヴェルディ川崎]]
*1996年 {{flagicon|JPN}} [[コンサドーレ札幌]]
*1996年 {{flagicon|BRA}} [[コリンチャンス]]
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*1997年 {{flagicon|JPN}} ヴェルディ川崎
*1998年 {{flagicon|BRA}} フルミネンセ
*1999年 {{flagicon|BRA}} [[ADカボフリエンセ|カボフリエンセ]]
*2000年 {{flagicon|BRA}} [[CFZ|CFZ・ド・リオ]]

== 指導歴 ==
*2015年2月 - {{Flagicon|BRA}} [[フォス・カタラタス]]監督


== タイトル ==
== タイトル ==
=== クラブ ===
=== クラブ ===
*フラメンゴ
** [[リオデジャネイロ州選手権]]: 1986
** [[グアナバラ杯]]: 1988, 1989
** [[リオ杯]]: 1986
** リオデジャネイロスポーツ記者協会杯: 1986
** {{Flagicon|NIR}} リンフィールドFC百周年杯: 1986
** [[コパ・ウニオン]]、モドゥロ・ヴェルデ: 1987
** Taça Euzebio de Andrade: 1987
** {{Flagicon|GAB}} Torneio EL Gabón: 1987
** {{Flagicon|ANG}} Torneio Internacional de Angola: 1987
** Troféu João Havelange: 1987
** Taça Governador Jader Ribeiro: 1988
** {{Flagicon|ESP}} [[トロフェオ・コロンビーノ]]: 1988
** {{Flagicon|JPN}} [[キリンカップサッカー|キリンカップ]]: 1988
** {{Flagicon|GER}} Copa Porto de Hamburgo: 1988
** Troféu Classico das Multidoes: 1989
** Troféu Seis Anos da Rede Manchetes de Televisão: 1989
** {{Flagicon|USA}} [[マールボロ・カップ]]: 1990
** [[コパ・ド・ブラジル]]: 1990
** Torneio de Verão de Nova Friburgo: 1990
** Taça Associação dos Cronistas Esportivos de Sergipe: 1990
** {{Flagicon|JPN}} Copa Sharp: 1990
** Torneio Quadrangular de Varginha: 1990
*グレミオ
** Campeonato Gaucho: 1993
*鹿島アントラーズ
** {{Flagicon|JPN}} Jリーグサントリーシリーズ(1stステージ): [[1993年のJリーグ|1993]]
** {{Flagicon|JPN}} メイヤーズカップ: 1993
** {{Flagicon|JPN}} ペプシカップ: 1993
* ヴェルディ川崎
* ヴェルディ川崎
** {{Flagicon|JPN}} [[FUJI XEROX SUPER CUP|XEROX SUPER CUP]]: 1995
** {{Flagicon|JPN}} [[FUJI XEROX SUPER CUP|XEROX SUPER CUP]]: 1995
** {{Flagicon|JPN}} [[天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]: [[第76回天皇杯全日本サッカー選手権大会|1997]]
*コリンチャンス
** {{Flagicon|ESP}} Troféu Ramón de Carranza: 1996
*フルミネンセ
** Copa Rio de Janeiro: 1998
; 個人
*鹿島アントラーズ
** アントラーズ功労賞:2013


==個人成績==
==個人成績==
108行目: 168行目:
==エピソード==
==エピソード==
{{雑多な内容の箇条書き|date=2013年5月}}
{{雑多な内容の箇条書き|date=2013年5月}}
*Jリーグブームの1993年-1994年頃は[[三浦知良]]、[[ラモス瑠偉]]らを凌ぐ人気で、[[アデランス]]のコマーシャルにも出演。当時若年ながら頭頂部の抜け毛具合が[[河童]]や[[フランシスコ・ザビエル]]に似ていると、老若男女にその存在が浸透し、社会現象にもなった。ハゲのおかげでCMに出られた事を「そのハゲも金になるんだな」とジーコに散々からかわれたという。また、その人気にあやかって、鹿島のソバ屋で「あるしん丼」という料理も売られた<ref>[http://npn.co.jp/article/detail/50766997/ 「時代」を彩った男と女・あの人は今 元Jリーガー・アルシンドさん]‐リアルライブ 2009年11月05日付(2010年9月21日閲覧)</ref>。
*Jリーグブームの1993年-1994年頃は[[三浦知良]]、[[ラモス瑠偉]]らを凌ぐ人気なわけがない。
*2003年、[[鹿島アントラーズ]]のカシマサッカーミュージアムのオープニングセレモニーに来賓として出席した。{{要出典範囲|[[週刊サッカーマガジン]]の「懐かしの名選手」特集において「いつの日か、アントラーズで監督をしたい」と思いを語っている。|date=2010年9月}}
*2006年に『[[SMAP×SMAP]]』([[関西テレビ放送|関西テレビ]]・[[フジテレビジョン|フジテレビ]])の企画「スマスマW杯」([[フットサル]]の試合)において、助っ人としてSMAPチームに参戦し、2得点をあげた。また2007年には、『[[夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!スペシャル|とんねるずのスポーツ王は俺だ!夢対決2007]]』([[テレビ朝日]])の「サッカーボウル」において、ストライクを連発するなど好調ぶりを発揮し、健在ぶりを示した。
*ブラジルのサッカー選手は[[ジーコ]]や[[ペレ]]など、サッカーネームを使う選手も多いが、アルシンドは[[イタリア系ブラジル人|イタリア移民2世]]のために姓名が短かったことから本名でプレーした。
*[[中村俊輔]]が[[セルティックFC]]時代に[[グラスゴー]]で行われた日本のテレビ番組に出演。[[リトバルスキー]]とタッグを組み競技などで中村に挑戦していた。なお、リトバルスキーと共にほぼ完璧な日本語を話していた。
*[[2011年]]3月、縁のある日本が[[東北地方太平洋沖地震]]で大惨事となり心を痛めていたが、同年4月に[[ジーコ]]の呼びかけで南米でチャリティーマッチを行った。[[ドゥンガ]]、[[ロマーリオ]]などと共にプレーした。また、同年6月にはカシマスタジアムで行われた[[震災復興チャリティーイベント SMILE AGAIN〜YELL FROM KASHIMA〜]]に参加。「ANTLERS LEGENDS」のメンバーとして、鹿島OBや長男のイゴールと同じチームでともにプレーした。
*[[2013年]]5月11日、「Jリーグ20周年 アニバーサリーマッチ」と銘打たれた浦和-鹿島戦にて元浦和所属の[[ポンテ]]と共に試合前のセレモニーに参加した。


== 語録 ==
== 語録 ==

2015年7月24日 (金) 19:21時点における版

アルシンド
2011年3月、クリチバにて
名前
本名 Alcindo Sartori
カタカナ アルシンド・サルトーリ
ラテン文字 ALCINDO Sartori
基本情報
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
生年月日 (1967-10-21) 1967年10月21日(56歳)
出身地 メジアネイラ
身長 175cm
体重 77kg
選手情報
ポジション FW
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1986-1990 ブラジルの旗 フラメンゴ 211 (32)
1990 ブラジルの旗 サンパウロ 14 (1)
1991-1993 ブラジルの旗 グレミオ 0 (0)
1993-1994 日本の旗 鹿島アントラーズ 71 (50)
1995 日本の旗 ヴェルディ川崎 38 (19)
1996 日本の旗 コンサドーレ札幌 5 (1)
1996 ブラジルの旗 コリンチャンス 12 (2)
1996 ブラジルの旗 フルミネンセ 2 (0)
1997 日本の旗 ヴェルディ川崎 16 (10)
1998 ブラジルの旗 フルミネンセ
1999 ブラジルの旗 カボフリエンセ
2000 ブラジルの旗 CFZ・ド・リオ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

アルシンド(Alcindo Sartori, 1967年10月21日-)は、ブラジルメジアネイラ出身の元サッカー選手。ポジションはフォワード

長男のイゴールもサッカー選手で2011年には鹿島アントラーズに所属。鹿島アントラーズで親子2代の外国籍選手は史上初。

来歴

CRフラメンゴの下部組織で育ち、1986年にトップデビューした。フラメンゴではジーコジュニオールと共にプレーした。スピードのあるストライカーであったが、フラメンゴではポジションを得られず、1987年にフラメンゴがコパ・ウニオンを制覇した際には、ベベットレナト・ガウショの控えとなった。

1987年にはU-20ブラジル代表の一員としてFIFAワールドユース選手権に出場。4試合すべてに出場して2得点を挙げている。

1990年ガヴェアを離れ、サンパウロへ移籍した。しかし、サンパウロでのキャリアは非常に短く、翌年にはグレミオに移った。

グレミオで2シーズンを過ごした後、ジーコに招待を受け、1993年に新たに設立された日本のプロサッカーリーグ、Jリーグ鹿島アントラーズに移籍。開幕から抜群のスピードと得点感覚でゴールを量産。また、フリーキックの技術も高く、主力選手としてジーコと共にサントリーシリーズ優勝の原動力となった。また、独特の風貌がメディアの注目を集め、テレビ出演やコマーシャル出演をする等(後述)、日本サッカー界を盛り上げた。鹿島では71試合の出場で50ゴールを記録した。

しかし、金銭面の問題で1994年限りで鹿島を退団。その後、ヴェルディ川崎コンサドーレ札幌に在籍。V川崎に移籍して1シーズン目は19得点を記録したもののV川崎でも金銭面の問題を巡って1年で退団。翌1996年ジャパンフットボールリーグのコンサドーレ札幌へ移籍した。しかし、4月28日富士通川崎戦で判定を不服とし審判に対し15回に渡って「バカ」と罵倒、4試合の出場停止処分を受け、さらに6月9日大塚製薬戦で再び退場処分を受けると、その責任を感じ同チームを退団。コリンチャンスへ移籍した。翌1997年、再びヴェルディ川崎に戻り、その年は出場16試合で10得点した。

キャリアの終盤には、カボフリエンセとジーコが設立したCFZでプレーした。

引退後はブラジルに帰国し、父の農場経営を引き継いだ[1]

2015年2月、ブラジル女子サッカーチームのフォス・カタラタスの監督に就任した [2]

所属クラブ

指導歴

タイトル

クラブ

  • フラメンゴ
  • グレミオ
    • Campeonato Gaucho: 1993
  • 鹿島アントラーズ
    • 日本の旗 Jリーグサントリーシリーズ(1stステージ): 1993
    • 日本の旗 メイヤーズカップ: 1993
    • 日本の旗 ペプシカップ: 1993
  • ヴェルディ川崎
  • コリンチャンス
    • スペインの旗 Troféu Ramón de Carranza: 1996
  • フルミネンセ
    • Copa Rio de Janeiro: 1998
個人
  • 鹿島アントラーズ
    • アントラーズ功労賞:2013

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯オープン杯 期間通算
1986 フラメンゴ
1987 フラメンゴ
1988 フラメンゴ
1989 フラメンゴ
1990 フラメンゴ
1991 サンパウロ
1992 グレミオ
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1993 鹿島 - J 28 22 5 2 5 3 38 27
1994 鹿島 - J 43 28 1 0 0 0 44 28
1995 V川崎 - J 38 19 - 2 1 40 20
1996 札幌 11 旧JFL 5 1 - - 5 1
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯オープン杯 期間通算
1996 コリンチャンス
1997 フルミネンセ
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1997 V川崎 21 J 16 10 0 0 0 0 16 10
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯オープン杯 期間通算
1998 フルミネンセ
1999 カボフリエンセ
2000 CFZ
通算 ブラジル
日本 J 125 79 6 2 7 4 138 85
日本 旧JFL 5 1 - - 5 1
総通算

その他の公式戦

エピソード

語録

独特のハイトーンな早口で知られ、CMなどではユーモラスな決め台詞で当時の流行となった。

著書

脚注

関連項目