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'''ウィリアム・ダンピア'''(William Dampier, [[1651年]] - [[1715年]][[3月]])は、[[イギリス]]の[[海賊]][[バッカニア]])、船長、[[作家]]、[[博物学]]観察者。[[ニューホランド (オーストラリア)|ニューホラント]]([[オーストラリア]])、[[ニューギニア]]を探検した最初のイギリス人。世界周航を2回成し遂げた最初の人物であり、3回目も達成した
'''ウィリアム・ダンピア'''(William Dampier, [[1651年]] - [[1715年]][[3月]])は、[[イングランド]]の[[私掠船|私掠船長]]([[海賊]][[バッカニア]])、船長、[[作家]]、[[博物学]]観察者。[[ニューホランド (オーストラリア)|ニューホラント]]([[オーストラリア]])、[[ニューギニア]]を探検した最初のイングランド人。[[世界一周|世界周航]]3回成し遂げた最初の人物であ


== 前半生 ==
== 前半生 ==
ダンピアは[[1651年]][[6月8日]]に[[サマセット州]]イーストコーカーで生まれ、洗礼を施された。彼は16歳で船乗りになった。エドワード・スプラグとともに[[英蘭戦争#.E7.AC.AC.E4.B8.89.E6.AC.A1.E8.8B.B1.E8.98.AD.E6.88.A6.E4.BA.89|第三次英蘭戦争]]に従軍し、[[1673年]]のスホーネヴェルト海戦[[:en:Battle of Schooneveld]]を戦った。[[1674年]]、[[ジャマイカ]]で農園支配人になったが、すぐ海に戻った。
ダンピアは[[1651年]][[6月8日]]に[[サマセット州]]イーストコーカーで生まれ、[[洗礼]]を施された。彼は16歳で船乗りになった。[[:en:Edward_Spragge|エドワード・スプラグ]]とともに[[英蘭戦争#第三次英蘭戦争|第三次英蘭戦争]]に従軍し、[[1673年]]のスホーネヴェルト海戦 ([[:en:Battle of Schooneveld|Battle of Schooneveld]]) を戦った。[[1674年]]、[[ジャマイカ]]で農園支配人になったが、すぐ海に戻った。


== 最初の世界周航 ==
== 最初の世界周航 ==
[[1670年代]]のダンビアは中米の[[スパニッシュ・メイン]]を荒らし回るバッカニアの乗組員で、カンペチェ湾に2回訪れている。これが彼の最初の世界周航につながる。彼は[[1679年]]にダリエン地峡の太平洋岸における[[スペイン]]船拿捕に参加していたし、その海賊団は[[カリブ海]]に戻る前に[[ペルー]]のスペイン植民地を略奪している。
[[1670年代]]のダンビアは中米の[[スパニッシュ・メイン]]を荒らし回るバッカニアの乗組員で、カンペチェ湾に2回訪れている。これが彼の最初の世界周航につながる。彼は[[1679年]]に[[ダリエン地峡]]の太平洋岸における[[スペイン]]船拿捕に参加していたし、その海賊団は[[カリブ海]]に戻る前に[[ペルー]]のスペイン植民地を略奪している。


クックという私掠船長との出会い([[1683年]])が、ダンピアの前人未踏の業績への道を決定づけた。クックは[[ホーン岬]]経由で太平洋に入り、1年にわたってスペイン領(ペルー、[[ガラパゴス諸島]]、[[メキシコ]])を略奪した。この遠征は徒党を組んで行われ、艦隊は10隻もの船を擁したことさえあった。クックはメキシコで死に、デイヴィス船長が新たな頭目となった。ダンピアはチャールズ・スワン[[:en:Charles Swan|Charles Swan]]の船、シグネット号に転属した。[[1686年]][[3月31日]]、彼らは太平洋を越えて東インド([[グアム]]、[[ミンダナオ]])を襲撃することにした。スワン以下37名を除く海賊たちは、[[マニラ]]、プロ・コンドール島、[[中国]]、[[香料諸島]]、ニューホラント(オーストラリア)に達した。
クックという私掠船長との出会い([[1683年]])が、ダンピアの前人未踏の業績への道を決定づけた。クックは[[ホーン岬]]経由で太平洋に入り、1年にわたってスペイン領(ペルー、[[ガラパゴス諸島]]、[[メキシコ]])を略奪した。この遠征は徒党を組んで行われ、艦隊は10隻もの船を擁したことさえあった。クックはメキシコで死に、デイヴィス船長が新たな頭目となった。ダンピアはチャールズ・スワン ([[:en:Charles Swan (pirate)|Charles Swan]]) の船、シグネット号に転属した。[[1686年]][[3月31日]]、彼らは太平洋を越えて東インド([[グアム]]、[[ミンダナオ]])を襲撃することにした。スワン以下37名を除く海賊たちは、[[マニラ]]、プロ・コンドール島、[[中国]]、[[香料諸島]]、ニューホラント(オーストラリア)に達した。


[[1688年]]初頭、シグネット号はオーストラリア北西岸キング・サウンド近くに上陸した。船を修理する間、ダンピアは現地の動植物を記録した。その年、彼と船員2名は、掟によって、[[ニコバル諸島]]で置き去りにされた。彼らは小さな船を造り、[[スマトラ島]]のアチンにたどり着いた。さらなる冒険の後、[[1691年]]、ダンピアは喜望峰を回ってイギリスに帰還した。無一文だったが、貴重な手記を持って。
[[1688年]]初頭、シグネット号はオーストラリア北西岸キング・サウンド近くに上陸した。船を修理する間、ダンピアは現地の動植物を記録した。その年、彼と船員2名は、掟によって、[[ニコバル諸島]]で置き去りにされた。彼らは小さな船を造り、[[スマトラ島]]のアチンにたどり着いた。さらなる冒険の後、[[1691年]]、ダンピアは[[喜望峰]]を回ってイングランドに帰還した。無一文だったが、貴重な手記を持って。


== ローバック号の遠征 ==
== ローバック号の遠征 ==
[[1697年]]に「最新世界周航記」として出版されたダンピアの手記は、イギリス海軍省に注目された。[[1699年]]には、ローバック号[[:en:HMS Roebuck|HMS Roebuck]]の指揮権を与えられ、オーストラリアとニューギニアを探検することになった。
[[1697年]]に「最新世界周航記」として出版されたダンピアの手記は、[[海軍本部 (イギリス)|海軍省]]に注目された。[[1699年]]には、ローバック号 ([[:en:HMS_Roebuck_(1690)|HMS Roebuck]]) の指揮権を与えられ、オーストラリアとニューギニアを探検することになった。


1699年[[1月14日]]に出航し、[[7月26日]]にはオーストラリア西部、[[シャーク湾]]のダーク・ハートグ島に到達した。水を求めて沿岸を北東に進み、ダンピア群島、ローバック湾に達したが、水は得られず、[[ティモール島]]に向けて北上することになった。彼は東に進路をとり、1699年[[12月3日]]にはニューギニアを発見したが、北に通過した。東進し、[[ニューハノーヴァー島|ニュー・ハノーヴァー島]]、[[ニューアイルランド島|ニュー・アイルランド島]]、[[ニューブリテン島|ニュー・ブリテン島]]とたどり、それら[[ビスマルク諸島]]とニューギニアの間に横たわる[[ダンピア海峡]]を発見した。
1699年[[1月14日]]に出航し、[[7月26日]]にはオーストラリア西部、[[シャーク湾]]のダーク・ハートグ島に到達した。水を求めて沿岸を北東に進み、ダンピア群島、ローバック湾に達したが、水は得られず、[[ティモール島]]に向けて北上することになった。彼は東に進路をとり、1699年[[12月3日]]にはニューギニアを発見したが、北に通過した。東進し、[[ニューハノーヴァー島|ニュー・ハノーヴァー島]]、[[ニューアイルランド島|ニュー・アイルランド島]]、[[ニューブリテン島|ニュー・ブリテン島]]とたどり、それら[[ビスマルク諸島]]とニューギニアの間に横たわる[[ダンピア海峡]]を発見した。


ギリスへの帰途、[[1701年]][[2月21日]]、ローバック号は[[アセンション島]]近くで難破し、乗組員は5週間も島で過ごす羽目になった。[[4月3日]]に[[イギリス東インド会社]]の船に救助され、8月にイギリスに帰還した。
ングランドへの帰途、[[1701年]][[2月21日]]、ローバック号は[[アセンション島]]近くで難破し、乗組員は5週間も島で過ごす羽目になった。[[4月3日]]に[[イギリス東インド会社|東インド会社]]の船に救助され、8月にイングランドに帰還した。


書類多数がローバック号とともに失われたが、ダンピアはオーストラリア、ニューギニアに関する多くの新たな海図(海岸線、貿易風、潮流が記されている)を喪失から免れさせることができた。
書類多数がローバック号とともに失われたが、ダンピアはオーストラリア、ニューギニアに関する多くの新たな海図(海岸線、貿易風、潮流が記されている)を喪失から免れさせることができた。


帰還したダンピアは、虐待のかどで軍法会議に処された。往路の途中、ダンピアは乗組員ジョージ・フィッシャーを船から追放し、ブラジルで投獄させていた。フィッシャーはイギリスに戻り、海軍省に不服を申し立てたのだった。ダンピアは怒りに満ちた答弁書を書いたが、結局有罪とされ、航海の報酬を減らされ、海軍を解雇された。
帰還したダンピアは、虐待のかどで軍法会議に処された。往路の途中、ダンピアは乗組員ジョージ・フィッシャーを船から追放し、ブラジルで投獄させていた。フィッシャーはイングランドに戻り、海軍省に不服を申し立てたのだった。ダンピアは怒りに満ちた答弁書を書いたが、結局有罪とされ、航海の報酬を減らされ、海軍を解雇された。


== 2回目の世界周航 ==
== 2回目の世界周航 ==
ダンピアは1699年~1701年の遠征の記録''A Voyage to New Holland''を書いた後、[[私掠船|私掠活動]]に戻った。
ダンピアは1699年から1701年の遠征の記録 ''A Voyage to New Holland'' を書いた後、[[私掠船|私掠活動]]に戻った。


1701年に勃発した[[スペイン継承戦争]]に際して、イギリスの私掠船長たちはフランスとスペインの利権を叩く用意を進めていた。ダンピアは、政府船セント・ジョージ号(大砲26門、乗組員120名)の指揮官に任命された。ガレオン船シンク・ポーツ号(大砲16門、乗組員63名、[[:en:Cinque Ports (1703 ship)|Cinque Ports]])と組み、[[1703年]][[4月30日]]までともに行動した。
1701年に勃発した[[スペイン継承戦争]]に際して、イングランドの私掠船長たちはフランスとスペインの利権を叩く用意を進めていた。ダンピアは、政府船セント・ジョージ号(大砲26門、乗組員120名)の指揮官に任命された。ガレオン船シンク・ポーツ号(大砲16門、乗組員63名、[[:en:Cinque Ports (1703 ship)|Cinque Ports]])と組み、[[1703年]][[4月30日]]までともに行動した。


彼らはフランス船の襲撃に失敗したが、スペインの小船を3隻と、550トン船を1隻拿捕した。
彼らはフランス船の襲撃に失敗したが、スペインの小船を3隻と、550トン船を1隻拿捕した。


この遠征で最も注目されたのは、[[アレキサンダー・セルカーク]]を取り巻く一連の出来事である。シンク・ポーツ号の船長トーマス・ストラドリングと、航海長を務めていたセルカークとの間には、いさかいが絶えなかった。[[1704年]]10月、シンク・ポーツ号は[[チリ]]沖[[ファン・フェルナンデス諸島]]の無人島に補給のため停泊した。セルカークはシンク・ポーツ号の耐久性を強く懸念しており、ピアとの口論の後、島に置き去りにされた。セルカークは4年と4ヶ月もの間、島から出ることができず、彼の体験は[[ダニエル・デフォー]]の小説[[ロビンソン・クルーソー]]の基となった。
この遠征で最も注目されたのは、[[アレキサンダー・セルカーク]]を取り巻く一連の出来事である。シンク・ポーツ号の船長トーマス・ストラドリングと、航海長を務めていたセルカークとの間には、いさかいが絶えなかった。ダンピアの指揮するセント・ジョージ号と別れた後の[[1704年]]10月、シンク・ポーツ号は[[チリ]]沖[[ファン・フェルナンデス諸島]]の無人島に補給のため停泊した。セルカークはシンク・ポーツ号の耐久性を強く懸念しており、ストラドリとの口論の後、ただ一人で島に置き去りにされた。セルカークは4年と4ヶ月もの間、島から出ることができず、彼の体験は[[ダニエル・デフォー]]の小説[[ロビンソン・クルーソー]]の基となった。


セルカークの懸念はまったく正しかった。後日、シンク・ポーツ号は乗組員の大半を巻き添えに沈んだ
セルカークの懸念はまったく正しかった。後日、シンク・ポーツ号は乗組員の大半を巻き添えに沈み、生き残った者もスペインに捕えられた


ダンピアは[[1707年]]にイギリスに帰還し、[[1709年]]に''A Continuation of a Voyage to New Holland''を出版した。
ダンピアは[[1707年]]にイングランドに帰還し、[[1709年]]に''A Continuation of a Voyage to New Holland''を出版した。


== 3回目の世界周航 ==
== 3回目の世界周航 ==
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== 影響 ==
== 影響 ==
ダンピアは著名な人や物に影響を与えた。
ダンピアの航海で、多くの植物、動物、食べ物、調理技術…等について書き残し、後世のあらゆるや物大きな影響を与えた。
* [[博物学]]に関しての観測分析は、[[チャールズ・ダーウィン]][[アレクサンダー・フォン・フンボルト]]の理論構築の推進となった。
* 航海術に関する工夫、[[ジェームス・クック]][[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ホレーショ・ネルソン]]が学んだ。
* ダンピアの航海に乗り組んだ[[アレキサンダー・セルカーク]]の体験、[[ダニエル・デフォー]][[ロビンソン・クルーソー]]の基になった。
* [[パンノキ]]に関する報告は、ウィリアム・ブライと[[バウンティ (帆船)|バウンティ号]]の不幸な航海につながった([[バウンティ号の反乱]])。
* [[オックスフォード英語辞典]]では、特に[[バーベキュー]]、[[アボカド]]、[[箸]]や[[亜種]]といった言葉は、著作から80回以上引用されている。彼自身がそれらを造語したという訳ではないが、その著作での関連用語は、英語圏で最初に知られた使用例である。
* ダンピアの航海記録の[[パナマ]]に関する表現が、[[スコットランド]]のダリエン計画([[:en:Darien scheme|Darien scheme]])に悪影響を及ぼし、1707年の[[合法 (1707年)|合法]]につながった。


{{botanist|Dampier}}
* [[博物学]]に関する彼の観測分析は、[[チャールズ・ダーウィン]][[アレクサンダー・フォン・フンボルト]]の理論構築に助けとなった。
* 彼の航海術に関する工夫、[[ジェームス・クック]][[ホレーショ・ネルソン]]が学んだ。
* ダンピアの航海に乗り組んだ[[アレキサンダー・セルカーク]]の体験、[[ダニエル・デフォー]][[ロビンソン・クルーソー]]の基になった。
* 彼の[[パンノキ]]に関する報告は、ウィリアム・ブライと[[バウンティ (帆船)|バウンティ号]]の不幸な航海につながった([[バウンティ号の反乱]])。
* [[オックスフォード英語辞典]]では、彼の言葉の引用が1000以上ある。
* の航海記録の[[パナマ]]に関する表現が、[[スコットランド]]のダリエン計画([[:en:Darien scheme|Darien scheme]])に悪影響を及ぼし、1707年の[[合法 (1707年)|合法]]につながった。


== 著作 ==
== 著作 ==
* ''A New Voyage Round the World''(''最新世界周航記''、[[1697年]])
* ''A New Voyage Round the World''([[1697年]])
**『最新世界周航記』 [[平野敬一]]訳、[[岩波書店]]「[[17・18世紀大旅行記叢書]] 第Ⅰ期 第1巻」1992年/[[岩波文庫]](上下)2007年
* ''Voyages and Descriptions''([[1699年]])
* ''Voyages and Descriptions''([[1699年]])
* #''A Supplement of the Voyage Round the World''
*#''A Supplement of the Voyage Round the World''
* #''The Campeachy Voyages''
*#''The Campeachy Voyages''
* #''A Discourse of Winds''
*#''A Discourse of Winds''
* ''A Voyage to New Holland''(第1部[[1703年]]、第2部[[1709年]])
* ''A Voyage to New Holland''(第1部[[1703年]]、第2部[[1709年]])

== ウィリアム・ダンピアが登場する作品 ==
* 『ダンピアのおいしい冒険』([[トマトスープ (漫画家)|トマトスープ]]による漫画、2019-2023年連載)
*『[[ガリバー旅行記]]』巻頭の版元への手紙の中で、ガリバーはダンピアに彼の著“A Voyage round the world”出版にあたって大学生を雇い原稿を整理・校正させるようにアドバイスしたと書いている。
*音楽朗読劇READING HIGH 『El Galleon ~エルガレオン~』(原作・脚本・演出 : [[藤沢文翁]]、ウィリアム・ダンピア役[[梅原裕一郎]]、初演2020年2月7日(金)〜8日(土)[[東京国際フォーラム]] ホールA)


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
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* Anton Gill, ''Devil's Mariner''
* Anton Gill, ''Devil's Mariner''
* Riccardo Capoferro, ''Frontiere del racconto. Letteratura di viaggio e romanzo in Inghilterra, 1690-1750'', Meltemi, 2007.
* Riccardo Capoferro, ''Frontiere del racconto. Letteratura di viaggio e romanzo in Inghilterra, 1690-1750'', Meltemi, 2007.
* [[ウッズ・ロジャーズ]], ''Cruising Voyage Round the World'', [[1712年|1712]].
* Woodes Rogers, ''Cruising Voyage Round the World'', [[1712年|1712]].
**[[ウッズ・ロジャーズ]] 『世界巡航記』 平野敬一・小林真紀子訳、[[岩波書店]]「[[17・18世紀大旅行記叢書]] 第Ⅱ期 第6巻」2004年。{{ISBN2|4-00-008846-7}}。
* Clennell Wilkinson, ''William Dampier, John Lane at the Bodley Head'', 1929.
* Clennell Wilkinson, ''William Dampier, John Lane at the Bodley Head'', 1929.
* Diana Wells, “Lives of the Trees: An Uncommon History”, 2010.
* Mitchell, Adrian (2010). Dampier's Monkey: the South Seas Voyages of William Dampier. Kent Town, S.A.: Wakefield Press. p. 173. {{ISBN2|978-186-25-4759-9}}.


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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* [http://www.adb.online.anu.edu.au/biogs/A010265b.htm J. Bach, 'Dampier, William (1651 - 1715)', [[:en:Australian Dictionary of Biography|Australian Dictionary of Biography]], Volume 1, [[メルボルン大学出版]], 1966, pp 277-278.]
* [http://www.adb.online.anu.edu.au/biogs/A010265b.htm J. Bach, 'Dampier, William (1651 - 1715)', [[:en:Australian Dictionary of Biography|Australian Dictionary of Biography]], Volume 1, [[メルボルン大学出版]], 1966, pp 277-278.]


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2024年1月17日 (水) 20:00時点における最新版

ウィリアム・ダンピア

ウィリアム・ダンピア(William Dampier, 1651年 - 1715年3月)は、イングランド私掠船長海賊バッカニア)、船長、作家博物学観察者。ニューホラントオーストラリア)、ニューギニアを探検した最初のイングランド人。世界周航を3回成し遂げた最初の人物である。

前半生

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ダンピアは1651年6月8日サマセット州イーストコーカーで生まれ、洗礼を施された。彼は16歳で船乗りになった。エドワード・スプラグとともに第三次英蘭戦争に従軍し、1673年のスホーネヴェルト海戦 (Battle of Schooneveld) を戦った。1674年ジャマイカで農園支配人になったが、すぐ海に戻った。

最初の世界周航

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1670年代のダンビアは中米のスパニッシュ・メインを荒らし回るバッカニアの乗組員で、カンペチェ湾に2回訪れている。これが彼の最初の世界周航につながる。彼は1679年ダリエン地峡の太平洋岸におけるスペイン船拿捕に参加していたし、その海賊団はカリブ海に戻る前にペルーのスペイン植民地を略奪している。

クックという私掠船長との出会い(1683年)が、ダンピアの前人未踏の業績への道を決定づけた。クックはホーン岬経由で太平洋に入り、1年にわたってスペイン領(ペルー、ガラパゴス諸島メキシコ)を略奪した。この遠征は徒党を組んで行われ、艦隊は10隻もの船を擁したことさえあった。クックはメキシコで死に、デイヴィス船長が新たな頭目となった。ダンピアはチャールズ・スワン (Charles Swan) の船、シグネット号に転属した。1686年3月31日、彼らは太平洋を越えて東インド(グアムミンダナオ)を襲撃することにした。スワン以下37名を除く海賊たちは、マニラ、プロ・コンドール島、中国香料諸島、ニューホラント(オーストラリア)に達した。

1688年初頭、シグネット号はオーストラリア北西岸キング・サウンド近くに上陸した。船を修理する間、ダンピアは現地の動植物を記録した。その年、彼と船員2名は、掟によって、ニコバル諸島で置き去りにされた。彼らは小さな船を造り、スマトラ島のアチンにたどり着いた。さらなる冒険の後、1691年、ダンピアは喜望峰を回ってイングランドに帰還した。無一文だったが、貴重な手記を持って。

ローバック号の遠征

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1697年に「最新世界周航記」として出版されたダンピアの手記は、海軍省に注目された。1699年には、ローバック号 (HMS Roebuck) の指揮権を与えられ、オーストラリアとニューギニアを探検することになった。

1699年1月14日に出航し、7月26日にはオーストラリア西部、シャーク湾のダーク・ハートグ島に到達した。水を求めて沿岸を北東に進み、ダンピア群島、ローバック湾に達したが、水は得られず、ティモール島に向けて北上することになった。彼は東に進路をとり、1699年12月3日にはニューギニアを発見したが、北に通過した。東進し、ニュー・ハノーヴァー島ニュー・アイルランド島ニュー・ブリテン島とたどり、それらビスマルク諸島とニューギニアの間に横たわるダンピア海峡を発見した。

イングランドへの帰途、1701年2月21日、ローバック号はアセンション島近くで難破し、乗組員は5週間も島で過ごす羽目になった。4月3日東インド会社の船に救助され、8月にイングランドに帰還した。

書類多数がローバック号とともに失われたが、ダンピアはオーストラリア、ニューギニアに関する多くの新たな海図(海岸線、貿易風、潮流が記されている)を喪失から免れさせることができた。

帰還したダンピアは、虐待のかどで軍法会議に処された。往路の途中、ダンピアは乗組員ジョージ・フィッシャーを船から追放し、ブラジルで投獄させていた。フィッシャーはイングランドに戻り、海軍省に不服を申し立てたのだった。ダンピアは怒りに満ちた答弁書を書いたが、結局有罪とされ、航海の報酬を減らされ、海軍を解雇された。

2回目の世界周航

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ダンピアは1699年から1701年の遠征の記録 A Voyage to New Holland を書いた後、私掠活動に戻った。

1701年に勃発したスペイン継承戦争に際して、イングランドの私掠船長たちはフランスとスペインの利権を叩く用意を進めていた。ダンピアは、政府船セント・ジョージ号(大砲26門、乗組員120名)の指揮官に任命された。ガレオン船シンク・ポーツ号(大砲16門、乗組員63名、Cinque Ports)と組み、1703年4月30日までともに行動した。

彼らはフランス船の襲撃に失敗したが、スペインの小船を3隻と、550トン船を1隻拿捕した。

この遠征で最も注目されたのは、アレキサンダー・セルカークを取り巻く一連の出来事である。シンク・ポーツ号の船長トーマス・ストラドリングと、航海長を務めていたセルカークとの間には、いさかいが絶えなかった。ダンピアの指揮するセント・ジョージ号と別れた後の1704年10月、シンク・ポーツ号はチリファン・フェルナンデス諸島の無人島に補給のため停泊した。セルカークはシンク・ポーツ号の耐久性を強く懸念しており、ストラドリングとの口論の後、ただ一人で島に置き去りにされた。セルカークは4年と4ヶ月もの間、島から出ることができず、彼の体験はダニエル・デフォーの小説ロビンソン・クルーソーの基となった。

セルカークの懸念はまったく正しかった。後日、シンク・ポーツ号は乗組員の大半を巻き添えに沈み、生き残った者もスペインに捕えられた。

ダンピアは1707年にイングランドに帰還し、1709年A Continuation of a Voyage to New Hollandを出版した。

3回目の世界周航

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1708年、ダンピアは私掠船長ウッズ・ロジャーズのデューク号で航海長として働いていた。この航海は大成功を収めた。1709年2月2日にはセルカークを救助し、遠征で得られた利益は約20万ポンドにのぼった。しかし、ダンピアは分け前を受け取る前に、1715年ロンドンで死んだ。

影響

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ダンピアの航海では、多くの植物、動物、食べ物、調理技術…等について書き残し、後世のあらゆる人物や物事に大きな影響を与えた。

著作

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ウィリアム・ダンピアが登場する作品

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  • 『ダンピアのおいしい冒険』(トマトスープによる漫画、2019-2023年連載)
  • ガリバー旅行記』巻頭の版元への手紙の中で、ガリバーはダンピアに彼の著“A Voyage round the world”出版にあたって大学生を雇い原稿を整理・校正させるようにアドバイスしたと書いている。
  • 音楽朗読劇READING HIGH 『El Galleon ~エルガレオン~』(原作・脚本・演出 : 藤沢文翁、ウィリアム・ダンピア役梅原裕一郎、初演2020年2月7日(金)〜8日(土)東京国際フォーラム ホールA)

参考文献

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  • Diana and Michael Preston, A Pirate of Exquisite Mind
  • Anton Gill, Devil's Mariner
  • Riccardo Capoferro, Frontiere del racconto. Letteratura di viaggio e romanzo in Inghilterra, 1690-1750, Meltemi, 2007.
  • Woodes Rogers, Cruising Voyage Round the World, 1712.
    • ウッズ・ロジャーズ 『世界巡航記』 平野敬一・小林真紀子訳、岩波書店17・18世紀大旅行記叢書 第Ⅱ期 第6巻」2004年。ISBN 4-00-008846-7
  • Clennell Wilkinson, William Dampier, John Lane at the Bodley Head, 1929.
  • Diana Wells, “Lives of the Trees: An Uncommon History”, 2010.
  • Mitchell, Adrian (2010). Dampier's Monkey: the South Seas Voyages of William Dampier. Kent Town, S.A.: Wakefield Press. p. 173. ISBN 978-186-25-4759-9.

外部リンク

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