[go: nahoru, domu]

コンテンツにスキップ

「エディ・コクラン」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
青心(会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
1行目: 1行目:
'''エドワード・レイ・コクラン'''('''Edward Ray Cochran''', [[1938年]][[10月3日]] - [[1960年]][[4月17日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ロカビリー]]奏者。ロックンロール草創期に活躍した大スターの一人。通称は'''エディ・コクラン'''('''Eddie Cochran''')。
'''エドワード・レイ・コクラン'''(''Edward Ray Cochran'', [[1938年]][[10月3日]] - [[1960年]][[4月17日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ロカビリー]]奏者。ロックンロール草創期に活躍した大スターの一人。通称は'''エディ・コクラン'''(''Eddie Cochran'')。


代表曲はサマータイム・ブルース」「カモン・エヴリバディなど。特に「サマー」は、[[ザ・フー]]がカヴァーした事でも有名。
代表曲はサマータイム・ブルース」「カモン・エヴリバディなど。特に「サマータイム・ブルース」は、[[ザ・フー]]などがカヴァーした事でも有名。


== 略歴 ==
== 略歴 ==
[[ミネソタ州]]のアルバート・リアという小さな町に誕生。1955年、ハンク・コクラン(血縁関係なし、後にカントリー・ミュージックの作詞作曲者となる)とコクラン・ブラザーズという[[デュオ]]を組むと同時に、セッション・ミュージシャンとしても活動を始める。
[[ミネソタ州]]のアルバート・リアという小さな町に誕生。1955年、ハンク・コクラン(血縁関係なし、後にカントリー・ミュージックの作詞作曲者となる)とコクラン・ブラザーズという[[デュオ]]を組むと同時に、セッション・ミュージシャンとしても活動を始める。


その後ソロになりメジャーレーベルのリバティレコードと契約。[[1956年]]には、映画[[女はそれを我慢できない (1956年の映画)|女はそれを我慢できない]]に出演し、作中でトゥエンティ・フライト・ロックを演奏する。さらに[[1957年]]に発表したジョン・D・ルーダーミルクが書いたシングルシッティン・イン・ザ・バルコニーが最初がヒットとなる。そして、彼の代表曲(マネージャーのジェリー・ケイプハートとの共作)サマータイム・ブルーズが[[1958年]][[6月11日]]に発売されると、9月には[[ビルボード]]の8位まで上昇する。その後もカモン・エヴリバディ」「サムシン・エルス」「マイ・ウェイ」「スリー・ステップス・トゥ・ヘヴンなどのヒットを連発する。
その後ソロになりメジャーレーベルのリバティレコードと契約。[[1956年]]には、映画[[女はそれを我慢できない (1956年の映画)|女はそれを我慢できない]]に出演し、作中でトゥエンティ・フライト・ロックを演奏する。さらに[[1957年]]に発表したジョン・D・ルーダーミルクが書いたシングルシッティン・イン・ザ・バルコニーが最初がヒットとなる。そして、彼の代表曲(マネージャーのジェリー・ケイプハートとの共作)サマータイム・ブルーズが[[1958年]][[6月11日]]に発売されると、9月には[[ビルボード]]の8位まで上昇する。その後もカモン・エヴリバディ」「サムシン・エルス」「マイ・ウェイ」「スリー・ステップス・トゥ・ヘヴンなどのヒットを連発する。


しかし[[イギリス]]ツアーの最中の1960年[[4月16日]]、婚約者でソングライターのシャロン・シーリー、歌手の[[ジーン・ヴィンセント]]と同乗したタクシーが街灯に衝突して大破した。コクランらは病院に搬送され、同乗者2人は助かったものの、コクランは翌日死亡した。齢21。
しかし[[イギリス]]ツアーの最中の1960年[[4月16日]]、婚約者でソングライターのシャロン・シーリー、歌手の[[ジーン・ヴィンセント]]と同乗したタクシーが街灯に衝突して大破した。コクランらは病院に搬送され、同乗者2人は助かったものの、コクランは翌日死亡した。齢21。


死後、コクランと交流のあったものの1959年に飛行機事故で死去した[[バディ・ホリー]]、[[リッチー・ヴァレンス]]、[[ビッグ・ボッパー]]への追悼のために制作されたスリー・スターズが発売された。[[1987年]]には[[ロックの殿堂]]入りを果たした。
死後、コクランと交流のあったものの1959年に飛行機事故で死去した[[バディ・ホリー]]、[[リッチー・ヴァレンス]]、[[ビッグ・ボッパー]]への追悼のために制作されたスリー・スターズが発売された。[[1987年]]には[[ロックの殿堂]]入りを果たした。


== 主なカヴァー・ヴァージョン ==
== 主なカヴァー・ヴァージョン ==

2010年8月29日 (日) 07:34時点における版

エドワード・レイ・コクランEdward Ray Cochran, 1938年10月3日 - 1960年4月17日)は、アメリカロカビリー奏者。ロックンロール草創期に活躍した大スターの一人。通称はエディ・コクランEddie Cochran)。

代表曲は「サマータイム・ブルース」「カモン・エヴリバディ」など。特に「サマータイム・ブルース」は、ザ・フーなどがカヴァーした事でも有名。

略歴

ミネソタ州のアルバート・リアという小さな町に誕生。1955年、ハンク・コクラン(血縁関係なし、後にカントリー・ミュージックの作詞作曲者となる)と「コクラン・ブラザーズ」というデュオを組むと同時に、セッション・ミュージシャンとしても活動を始める。

その後ソロになりメジャーレーベルのリバティレコードと契約。1956年には、映画「女はそれを我慢できない」に出演し、作中で「トゥエンティ・フライト・ロック」を演奏する。さらに1957年に発表したジョン・D・ルーダーミルクが書いたシングル「シッティン・イン・ザ・バルコニー」が最初がヒットとなる。そして、彼の代表曲(マネージャーのジェリー・ケイプハートとの共作)「サマータイム・ブルーズ」が1958年6月11日に発売されると、9月にはビルボードの8位まで上昇する。その後も「カモン・エヴリバディ」「サムシン・エルス」「マイ・ウェイ」「スリー・ステップス・トゥ・ヘヴン」などのヒットを連発する。

しかしイギリスツアーの最中の1960年4月16日、婚約者でソングライターのシャロン・シーリー、歌手のジーン・ヴィンセントと同乗したタクシーが街灯に衝突して大破した。コクランらは病院に搬送され、同乗者2人は助かったものの、コクランは翌日死亡した。齢21。

死後、コクランと交流のあったものの1959年に飛行機事故で死去したバディ・ホリーリッチー・ヴァレンスビッグ・ボッパーへの追悼のために制作された「スリー・スターズ」が発売された。1987年にはロックの殿堂入りを果たした。

主なカヴァー・ヴァージョン

ディスコグラフィ

LIBERTY正規アルバム

  • singin' to my baby (1959)
  • MEMORIAL ALBUM (1960)
  • CHERISHED MEMORIES (1962)
  • MY WAY (1964)
  • ON THE AIR (1972)