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'''エヴォラ'''({{Lang|pt|Évora}})は[[ポルトガル]]南東部[[アレンテージョ地方]][[エヴォラ県]]にある町である。人口は、57,073人(2011年)。面積は1307平方キロメートル。[[スペイン]]国境に近い。
'''エヴォラ'''({{Lang|pt|Évora}} {{IPA-pt|ˈɛvuɾɐ||Pt-pt Évora FF.ogg}})は[[ポルトガル]]南東部[[アレンテージョ地方]][[エヴォラ県]]にある町である。人口は、57,073人(2011年)。面積は1307平方キロメートル。[[スペイン]]国境に近い。


[[ローマ|ローマ帝国]]時代からアレンテージョ地方の中心地として栄え、[[ルネサンス]]の時代には、大学もおかれた学芸の都でもある。[[1584年]][[9月]]には、[[伊東マンショ]]らの[[天正遣欧少年使節]]が立ち寄った街でもある。
[[ローマ|ローマ帝国]]時代からアレンテージョ地方の中心地として栄え、[[ルネサンス]]の時代には、大学もおかれた学芸の都でもある。[[1584年]][[9月]]には、[[伊東マンショ]]らの[[天正遣欧少年使節]]が立ち寄った街でもある。
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エヴォラの歴史は、[[ドウロ川]]以南のポルトガル及びスペインの[[エストレマドゥーラ州]]に居住していたイベリア半島の先住民族である{{仮リンク|ルシタニア人|en|Lusitanians}}が建設したことに始まる。彼らによってアレンテージョ地方の首都として機能をエヴォラは持つこととなった。
エヴォラの歴史は、[[ドウロ川]]以南のポルトガル及びスペインの[[エストレマドゥーラ州]]に居住していたイベリア半島の先住民族である{{仮リンク|ルシタニア人|en|Lusitanians}}が建設したことに始まる。彼らによってアレンテージョ地方の首都として機能をエヴォラは持つこととなった。


[[紀元前]]57年、エヴォラは共和ローマの支配下に入った。これ以降エヴォラは二重の城壁を持った町へ発展を遂げた。[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]はエヴォラの町を"Liberalitas Julia"(肥沃なるジュリア)と呼んだ。町の成長はエヴォラが交易路の交差点であったことからも続き、[[ガリア]]や[[ルシタニア]]を旅行した博物学者[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス]](大プリニウス)はエヴォラを訪問し、著書『[[博物誌]]』に"Ebora Cerealis"として記述した。その記述によると、当時のエヴォラは周囲を[[コムギ|小麦]]畑で囲まれていたことが分かる。また、エヴォラの繁栄はこの当時に多く発行されたコインでも明らかである。町の中心部には[[コリント様式]]の神殿が建立され、ローマ初代[[皇帝]][[アウグストゥス]]が祀られた。
[[紀元前]]57年、エヴォラは[[共和ローマ]]の支配下に入った。これ以降エヴォラは二重の城壁を持った町へ発展を遂げた。[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]はエヴォラの町を"Liberalitas Julia"(肥沃なるジュリア)と呼んだ。町の成長はエヴォラが交易路の交差点であったことからも続き、[[ガリア]]や[[ルシタニア]]を旅行した博物学者[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス]](大プリニウス)はエヴォラを訪問し、著書『[[博物誌]]』に"Ebora Cerealis"として記述した。その記述によると、当時のエヴォラは周囲を[[コムギ|小麦]]畑で囲まれていたことが分かる。また、エヴォラの繁栄はこの当時に多く発行されたコインでも明らかである。町の中心部には[[コリント様式]]の神殿が建立され、ローマ初代[[皇帝]][[アウグストゥス]]が祀られた。


=== ローマからイスラームへ ===
=== ローマからイスラームへ ===
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=== レコンキスタ以降 ===
=== レコンキスタ以降 ===
1165年9月、エヴォラは「恐れ知らず」のジェラルド([[:en:Gerald_the_Fearless]])の攻撃によってムーア人の手から奪われ、翌年に[[アフォンソ1世 (ポルトガル王)|アフォンソ1世]]の統治下に入った。その後、15世紀にかけてポルトガルは経済的繁栄を築くが、[[ブルゴーニュ王朝]]・[[アヴィシュ王朝]]の時代を通して国王はエヴォラに滞在することが多く、邸宅や記念碑、宗教的建築物が建設された。王族の結婚式が行われ、この地で重要な決定もしばしば行われた。
1165年9月、エヴォラは[[ジェラルド・ジェラルデス|「恐れ知らず」のジェラルド]]の攻撃によってムーア人の手から奪われ、翌年に[[アフォンソ1世 (ポルトガル王)|アフォンソ1世]]の統治下に入った。その後、15世紀にかけてポルトガルは経済的繁栄を築くが、[[ブルゴーニュ王朝]]・[[アヴィ王朝]]の時代を通して国王はエヴォラに滞在することが多く、邸宅や記念碑、宗教的建築物が建設された。王族の結婚式が行われ、この地で重要な決定もしばしば行われた。


特に、アヴィシュ王朝時代、とりわけ[[マヌエル1世 (ポルトガル王)|マヌエル1世]]や[[ジョアン3世 (ポルトガル王)|ジョアン3世]]が統治した15世紀後半から[[16世紀]]の前半にかけて、エヴォラは[[ルネサンス]]の中心となり、フランス人[[彫刻家]]の{{仮リンク|ニコラ・シャントレーヌ|en|Nicolau Chanterene}}やポルトガルの[[戯曲]]の父である[[ジル・ヴィセンテ (劇作家)|ジル・ヴィセンテ]]といった芸術家が集まった。
特に、アヴィ王朝時代、とりわけ[[マヌエル1世 (ポルトガル王)|マヌエル1世]]や[[ジョアン3世 (ポルトガル王)|ジョアン3世]]が統治した15世紀後半から[[16世紀]]の前半にかけて、エヴォラは[[ルネサンス]]の中心となり、フランス人[[彫刻家]]の{{仮リンク|ニコラ・シャントレーヌ|en|Nicolau Chanterene}}やポルトガルの[[戯曲]]の父である[[ジル・ヴィセンテ (劇作家)|ジル・ヴィセンテ]]といった芸術家が集まった。


エヴォラは[[1540年]]に[[大司教座]]に昇格した。[[1559年]]には[[イエズス会]]によって{{仮リンク|エヴォラ大学|en|University of Évora}}が創設された。イエズス会の影響の下、エヴォラは[[対抗宗教改革]]の中心となり、スペインの[[クエンカ]]で生まれた[[ルイス・デ・モリナ]]などがここで宗教教育を受けた。
エヴォラは[[1540年]]に[[大司教座]]に昇格した。[[1559年]]には[[イエズス会]]によって{{仮リンク|エヴォラ大学|en|University of Évora}}が創設された。イエズス会の影響の下、エヴォラは[[対抗宗教改革]]の中心となり、スペインの[[クエンカ (スペイン)|クエンカ]]で生まれた[[ルイス・デ・モリナ]]などがここで宗教教育を受けた。


[[1759年]]、[[ポンバル侯爵]]がイエズス会をポルトガルから追放し大学が閉鎖されるとエヴォラは徐々に衰退していった。(なお、エヴォラ大学は1973年に再建された。)
[[1759年]]、[[ポンバル侯爵]]がイエズス会をポルトガルから追放し大学が閉鎖されるとエヴォラは徐々に衰退していった。(なお、エヴォラ大学は1973年に再建された。)
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* [[エヴォラ大聖堂]] - [[1280年]]から[[1340年]]の間に主に建設されたエヴォラの誇る大聖堂。[[1335年]]頃に作られた[[使徒]]の像を伴った入り口と美しい教会堂の[[身廊]]と[[回廊]]を持つ。(十字形教会堂の左右の)翼廊の[[チャペル]]の1つは、[[マヌエル様式]]であり、メイン・チャペルは、[[バロック様式]]である。また、[[パイプオルガン]]と聖歌隊用の部屋は[[ルネサンス様式]]である。
* [[エヴォラ大聖堂]] - [[1280年]]から[[1340年]]の間に主に建設されたエヴォラの誇る大聖堂。[[1335年]]頃に作られた[[使徒]]の像を伴った入り口と美しい教会堂の[[身廊]]と[[回廊]]を持つ。(十字形教会堂の左右の)翼廊の[[チャペル]]の1つは、[[マヌエル様式]]であり、メイン・チャペルは、[[バロック様式]]である。また、[[パイプオルガン]]と聖歌隊用の部屋は[[ルネサンス様式]]である。
* {{仮リンク|サン・フランシスコ教会|en|Igreja de São Francisco (Évora)}} - 15世紀の終わりから16世紀の初めにかけて建設された[[ゴシック様式]]とマヌエル様式が混合した建築物である。長い身廊は、ゴシック建築末期の傑作である。多くの礼拝堂がバロック様式で装飾されている。隣接する{{仮リンク|人骨堂|en|Capela dos Ossos}}は、16世紀に[[フランシスコ会]]の修道士によって造られた瞑想の場で、壁面が5000体もの人骨で埋め尽くされている。
* {{仮リンク|サン・フランシスコ教会|en|Igreja de São Francisco (Évora)}} - 15世紀の終わりから16世紀の初めにかけて建設された[[ゴシック様式]]とマヌエル様式が混合した建築物である。長い身廊は、ゴシック建築末期の傑作である。多くの礼拝堂がバロック様式で装飾されている。隣接する{{仮リンク|人骨堂|en|Capela dos Ossos}}は、16世紀に[[フランシスコ会]]の修道士によって造られた瞑想の場で、壁面が5000体もの人骨で埋め尽くされている。
* {{仮リンク|マヌエル王宮|en|Royal Palace of Évora}} - [[マヌエル1世]]によって建てられた邸宅。ゴシック様式とルネサンス様式が融合した建物であり、ヴァスコ・ダ・ガマがここでインドへの航海を任命されたと伝えられている。
* {{仮リンク|マヌエル王宮|en|Royal Palace of Évora}} - [[マヌエル1世 (ポルトガル王)|マヌエル1世]]によって建てられた邸宅。ゴシック様式とルネサンス様式が融合した建物であり、ヴァスコ・ダ・ガマがここでインドへの航海を任命されたと伝えられている。
* {{仮リンク|エヴォラ大学|en|University of Évora}} - 1559年に建設されたイエズス会の神学校を起源とする。16世紀の[[マニエリスム]]の教会と17世紀から18世紀にかけて建設された巨大な回廊がある。
* {{仮リンク|エヴォラ大学|en|University of Évora}} - 1559年に建設されたイエズス会の神学校を起源とする。16世紀の[[マニエリスム]]の教会と17世紀から18世紀にかけて建設された巨大な回廊がある。
* {{仮リンク|ローマ神殿 (エヴォラ)|label=ローマ神殿|en|Roman Temple of Évora}} - 1世紀にローマ皇帝[[アウグストゥス]]を祀るために作られた神殿。女神[[ディアナ]]を祀ったものであるとの俗説から、ディアナ神殿とも呼ばれる。
* {{仮リンク|ローマ神殿 (エヴォラ)|label=ローマ神殿|en|Roman Temple of Évora}} - 1世紀にローマ皇帝[[アウグストゥス]]を祀るために作られた神殿。女神[[ディアーナ|ディアナ]]を祀ったものであるとの俗説から、ディアナ神殿とも呼ばれる。
* {{仮リンク|カダヴァル公爵邸|en|Palace of the Dukes of Cadaval}} - 14世紀に出来た建築物で、17世紀に[[ファサード]]は改装されている。
* {{仮リンク|カダヴァル公爵邸|en|Palace of the Dukes of Cadaval}} - 14世紀に出来た建築物で、17世紀に[[ファサード]]は改装されている。
* {{仮リンク|ロイオス教会|pt|Convento dos Lóios (Évora)}} - ディアナ神殿の隣にある15世紀に建築された教会。教会と回廊はゴシック様式を採用し、内壁は[[アズレージョ]]と呼ばれるタイルワークで飾られている。
* {{仮リンク|ロイオス教会|pt|Convento dos Lóios (Évora)}} - ディアナ神殿の隣にある15世紀に建築された教会。教会と回廊はゴシック様式を採用し、内壁は[[アズレージョ]]と呼ばれるタイルワークで飾られている。
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=== 登録基準 ===
=== 登録基準 ===
{{世界遺産基準|2|4}}
{{世界遺産基準|2|4}}

== 出身者 ==
*[[ブルーノ・ガスパール]] - サッカー選手
*[[ペドロ・フェルナンデス・デ・キロス]] - 探検家
*[[ジョアオ・マゲイジョ]] - 宇宙物理学者


== ギャラリー ==
== ギャラリー ==
97行目: 104行目:
Image:Evora.aqueduct.jpg|アグア・デ・ラプラタ送水路
Image:Evora.aqueduct.jpg|アグア・デ・ラプラタ送水路
Image:Evora49.jpg|エヴォラの風景(アグア・デ・ラプラタ送水路を望む)
Image:Evora49.jpg|エヴォラの風景(アグア・デ・ラプラタ送水路を望む)
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2022年5月18日 (水) 15:06時点における最新版

Évora
Brasão de エヴォラ Bandeira de エヴォラ
Localização de {{{município}}}
住民呼称 eborense
面積 1,307.04 km²
人口 57,073 人 (2011年)
人口密度 43.67 人/km²
教区数 19
首長 José Ernesto Ildefonso Leão de Oliveira(PS
創設 1166年
地方(NUTS II) アレンテージュ
下位地方(NUTS III) アレンテージュ・セントラル
エヴラ
(旧)州 アルトゥ・アレンテージュ
守護聖人 São Pedro
記念日 6月29日
ウェブサイト Câmara Municipal
ポルトガルの自治体

エヴォラÉvora [ˈɛvuɾɐ] ( 音声ファイル))は、ポルトガル南東部アレンテージョ地方エヴォラ県にある町である。人口は、57,073人(2011年)。面積は1307平方キロメートル。スペイン国境に近い。

ローマ帝国時代からアレンテージョ地方の中心地として栄え、ルネサンスの時代には、大学もおかれた学芸の都でもある。1584年9月には、伊東マンショらの天正遣欧少年使節が立ち寄った街でもある。

歴史

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ローマ時代

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アレンテージョ地方はテージョ川の南に広がる平野地帯であり、エヴォラは河口に位置するポルトガルの首都リスボンより東に約130kmの所に位置している。旧市街の史跡の保存状態も良く、ユネスコ世界遺産に登録されている。

エヴォラの歴史は、ドウロ川以南のポルトガル及びスペインのエストレマドゥーラ州に居住していたイベリア半島の先住民族であるルシタニア人英語版が建設したことに始まる。彼らによってアレンテージョ地方の首都として機能をエヴォラは持つこととなった。

紀元前57年、エヴォラは共和政ローマの支配下に入った。これ以降エヴォラは二重の城壁を持った町へ発展を遂げた。ガイウス・ユリウス・カエサルはエヴォラの町を"Liberalitas Julia"(肥沃なるジュリア)と呼んだ。町の成長はエヴォラが交易路の交差点であったことからも続き、ガリアルシタニアを旅行した博物学者ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)はエヴォラを訪問し、著書『博物誌』に"Ebora Cerealis"として記述した。その記述によると、当時のエヴォラは周囲を小麦畑で囲まれていたことが分かる。また、エヴォラの繁栄はこの当時に多く発行されたコインでも明らかである。町の中心部にはコリント様式の神殿が建立され、ローマ初代皇帝アウグストゥスが祀られた。

ローマからイスラームへ

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4世紀になるとエヴォラにもキリスト教が浸透し、司教座を持つようになった。

民族移動時代の間、エヴォラは西ゴート族の領土となった。エヴォラの地位は聖堂を持つ都市へと昇格していた。とはいえ、この時代の建造物は多く残されていない。

715年ターリク・イブン・ズィヤード率いるムーア人が、エヴォラを征服した。イスラームの統治は、1165年にまで及んだが、その間エヴォラはゆっくりとではあるが繁栄を取り戻していった。エヴォラは要塞とモスクを持つ町となり、この地方の農業の中心地となった。エヴォラの町の特徴は、ムーア人の影響を受けている。

レコンキスタ以降

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1165年9月、エヴォラは「恐れ知らず」のジェラルドの攻撃によってムーア人の手から奪われ、翌年にアフォンソ1世の統治下に入った。その後、15世紀にかけてポルトガルは経済的繁栄を築くが、ブルゴーニュ王朝アヴィス王朝の時代を通して国王はエヴォラに滞在することが多く、邸宅や記念碑、宗教的建築物が建設された。王族の結婚式が行われ、この地で重要な決定もしばしば行われた。

特に、アヴィス王朝時代、とりわけマヌエル1世ジョアン3世が統治した15世紀後半から16世紀の前半にかけて、エヴォラはルネサンスの中心となり、フランス人彫刻家ニコラ・シャントレーヌ英語版やポルトガルの戯曲の父であるジル・ヴィセンテといった芸術家が集まった。

エヴォラは1540年大司教座に昇格した。1559年にはイエズス会によってエヴォラ大学英語版が創設された。イエズス会の影響の下、エヴォラは対抗宗教改革の中心となり、スペインのクエンカで生まれたルイス・デ・モリナなどがここで宗教教育を受けた。

1759年ポンバル侯爵がイエズス会をポルトガルから追放し大学が閉鎖されるとエヴォラは徐々に衰退していった。(なお、エヴォラ大学は1973年に再建された。)

多くの芸術家によってたくさんの建物がエヴォラの地に建設された。現存する建築物の様式は多様性に富んでおり、ロマネスク建築ゴシック建築マヌエル建築ルネサンス建築バロック建築と様々である。

現在、歴史地区の範囲は1.05平方kmであり、約4000の建物がある。

世界遺産

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世界遺産 エヴォラ歴史地区
ポルトガル
エヴォラ大聖堂
エヴォラ大聖堂
英名 Historic Centre of Évora
仏名 Centre historique d'Évora
登録区分 文化遺産
登録基準 (2),(4)
登録年 1986年
公式サイト 世界遺産センター(英語)
使用方法表示

エヴォラの旧市街は、1986年に「エヴォラ歴史地区」としてユネスコ世界遺産に登録された。

世界遺産登録範囲には以下のような歴史的建造物が含まれる。

登録基準

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この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

出身者

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ギャラリー

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座標: 北緯38度34分15秒 西経7度54分20秒 / 北緯38.57083度 西経7.90556度 / 38.57083; -7.90556