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'''ジョリーズシンジュ'''(''{{lang|en|Jolie's Shinju}}''、[[2005年]][[4月22日]] - )は、[[日本]]生まれの[[競走馬]]。[[シンガポール]]で調教され、シンガポール4歳チャレンジ三冠を達成した。[[2009年]]度の[[シンガポールの競馬|シンガポール競馬]]における[[年度代表馬]]となり、日本国内生産馬が日本国外で年度代表馬となった初のケースである<ref>[[2010年]][[3月5日]]付[[中日スポーツ]]紙面、同日閲覧</ref>。

2011年1月24日 (月) 10:26時点における版

ジョリーズシンジュ
欧字表記 Jolie's Shinju
品種 サラブレッド
性別
毛色 黒鹿毛
生誕 2005年4月22日(19歳)
ジョリーズヘイロー
インディアリングクオリティ
母の父 Danzig
生国 日本の旗 日本
北海道浦河町
生産者 丸幸小林牧場
馬主 HIPPOCRATES STABLE[1]
調教師 マイケル・クレメンツ(シンガポール
高岡秀行(シンガポール)
→レナード・トゥリロー(シンガポール)
高岡秀行(シンガポール)
競走成績
生涯成績 27戦9勝
獲得賞金 1363252.50シンガポールドル
48600オーストラリアドル
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ジョリーズシンジュJolie's Shinju2005年4月22日 - )は、日本生まれの競走馬シンガポールで調教され、シンガポール4歳チャレンジ三冠を達成した。2009年度のシンガポール競馬における年度代表馬となり、日本国内生産馬が日本国外で年度代表馬となった初のケースである[2]

経歴

ジョリーズシンジュは2005年4月22日北海道浦河町にある丸幸小林牧場で誕生した。2006年10月、北海道新ひだか町で行われた北海道オータムセールに上場され、シンガポールの医師タン・カイ・チャーによって315万円で落札された。ジョリーズシンジュはヒポクラテス厩舎(タンの仮定名称)の名義でシンガポールで競走生活を送ることになり、タンの所有馬すべてを管理していたクレメンツ厩舎に入厩した。

ジョリーズシンジュは2008年1月1日にデビューし、デビュー戦を優勝するなど7月下旬にかけて7戦3勝を挙げた。8月にタンとクレメンツの間で意見が対立し、タンはジョリーズシンジュを日本産馬を多く管理する高岡秀行厩舎へ転厩させた。

転厩後から翌2009年5月にかけて9戦し3勝を挙げ、シンガポール4歳チャレンジ三冠に挑戦した(シンガポールには牝馬クラシックに相当するレースがないため)。それまで1200m以下のレースにしか出走経験がなかったためスタミナ面を懸念する向きもあったが、1400mのパトロンズボウル、1600mのシンガポールダービートライアル、2000mのシンガポールダービーのすべてにおいてスタートから積極的に先頭に立つ競馬をして逃げ切り勝ちを収め、シンガポール4歳チャレンジ三冠を達成した。なお、牝馬がシンガポールダービーを勝ったのは36年ぶりのことであった。

シンガポール4歳チャレンジ三冠達成後、陣営はオーストラリアへの遠征計画を発表。最大目標はG1コックスプレートに据えられ、ステップレースとして9月12日ムーニーバレー競馬場で行われた重賞(G2)ダットタンチンナムステークスが選ばれた。ダットタンチンナムステークスでは逃げの戦法に出たが直線でフービーガットユーなど2頭に交わされ、3着に敗れた[3]。続いて9月25日目標としているコックスプレートと同距離の準重賞JRAカップに出走し、1番人気に支持されたが直線失速しブービーの12着と敗退[4]。その後の検査で心房細動を発症していたことが判明した[5]

精密検査の結果異常なしということで再度コックスプレートを目指すことになったが、高岡調教師と馬主側で意見の相違があり、オーストラリア滞在のまま担当調教師がレナード・トゥリローに変更された[6]10月17日距離1400メートルの牝馬限定重賞(G2)トリスタークステークスに出走したが、勝ち馬から6馬身ほど遅れた8着に敗退[7]。その結果コックスプレートは断念、メルボルンカップウィークの牝馬限定重賞を目標とすることになった。10月31日にフレミントン競馬場距離1600メートルの牝馬限定G1メイヤークラシックに出走、当地の若手有力騎手であるブレイク・シンを起用し逃げをうったが直線に入るとずるずる後退し、大差のしんがり負けを喫した[8]

2010年3月2日シンガポールターフクラブは本馬を2009年の年度代表馬に選出した[9]

同年2月26日シンガポールで復帰初戦を迎え芝1400mのクランジステークスA戦に出走、先行したが直線に入りずるずると後退、しんがり負けを喫した。その後3月11日高岡秀行厩舎への再転厩が発表された[10]3月28日新設重賞ムーンビームヴァーズに出走、好枠を利し逃げたが直線残り300m地点で捕まり4着に敗退した。その後、5月16日シンガポール航空インターナショナルカップではリザーズディザイアの6着に敗れた。6月26日のウイ・ティークラシックSで逃げバテ5着に敗れた。7月のチェアマンズトロフィーを最後にオーストラリアへ移籍し、現役を続けてそのまま繁殖入りする予定であったが、レース後右前靭帯の損傷が判明し引退することとなった[11]

血統

ジョリーズシンジュ血統ヘイロー系ロイヤルチャージャー系)/Hail to Reason3×4=18.75%、Turn-to4×5×5=12.50%、Native Dancer5×4=9.375%、Almahmoud4×5=9.375% (血統表の出典)

ジョリーズヘイロー
Jolie's Halo
1987 黒鹿毛 アメリカ
父の父
Halo
1969 黒鹿毛 アメリカ
Hail to Reason Turn-to
Nothirdchance
Cosmah Cosmic Bomb
Almahmoud
父の母
Jolie Jolie
1980 黒鹿毛 アメリカ
Sir Ivor Sir Gaylord
Attica
Who's to Know Fleet Nasrullah
Masked Lady

インディアリングクオリティ
Endearing Quality
1991 黒鹿毛 アメリカ
Danzig
1977 鹿毛 アメリカ
Nothern Dancer Nearctic
Natalma
Pas de Nom Admiral's Voyage
Petitioner
母の母
So Endearing
1978 アメリカ
Raise a Native Native Dancer
Raise You
Straight Deal Hail to Reason
No Fiddling F-No.1-s


脚注

参考文献