[go: nahoru, domu]

コンテンツにスキップ

「バレーボール日本女子代表」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
1行目: 1行目:
[[Image:Kimi ga Yo at volleyball tournament.jpg|thumb|right|350px|バレーボール全日本女子(2007年ワールドカップ)]]
{{バレーボールナショナルチーム|
{{バレーボールナショナルチーム|
国={{JPN}}|
国={{JPN}}|

2007年12月26日 (水) 15:18時点における版

バレーボール全日本女子(2007年ワールドカップ)
バレーボール日本女子代表
国または地域 日本の旗 日本
協会 日本バレーボール協会
監督 柳本晶一
FIVBランキング 8位(2007年11月16日版)
オリンピック
出場回数 9回
初出場 東京 1964
最高成績 金メダル(1964、1976)
世界選手権
出場回数 13回
初出場 1960世界選手権
最高成績 金メダル(1962、1967、1974)
アジア選手権
最高成績 優勝(1975、1983、2007)
テンプレートを表示

バレーボール全日本女子(バレーボールぜんにほんじょし)とは、夏季オリンピック等の国際大会出場時に編成される、日本の女子バレーボール代表チームの名称。通称全日本

概要と特徴

ユニフォーム
1990年ごろまでは日の丸を連想するのユニフォームが定着していたが、1991年には赤、青、深緑、黒を基調にした4パターンのユニフォームが登場した。1995年にこれまで定番であったブルマーに変わりスパッツタイプが登場した。2003年にはノースリーブ型が登場し、2006年にはシャツの着丈とパンツの股上が短くなりよりセクシーになった。
プレイスタイル
守備力重視のユニチカ仕込みのバレー。アトランタ五輪敗退後、高さ重視のバレーで戦っていたが、主力選手の度重なる怪我・首脳陣の知識不足(守備力重視のスタッフぞろい)などあり方向転換した。現在は守備力+スピードである。
チーム概観
長らく世界のトップに君臨していたが、現在ではFIVBランキング8位の位置につけている。韓国よりは幾分強い。最近の日韓戦では日本が連勝している。
監督の所属チームに在籍する選手、気に入られた選手は全日本に入ることができるが、監督に嫌われている選手は全日本に入ることができない傾向が一部見られる。前監督吉川正博はデータを一切使わず、「気持ち」「根性」といった精神論でチームをまとめた結果、世界選手権13位タイというワースト記録を更新。一方、現在の監督柳本晶一は技術指導などにも優れた監督で選手・スタッフからの人望も厚い。

歴史

日本が初めて世界大会に挑戦したのは、1960年の第3回世界選手権である。日本は予選リーグを全勝で通過し、決勝リーグに進出した。決勝リーグも強豪国を撃破し、ソ連からは1セットを奪い初出場ながら銀メダルを獲得した。

1962年の世界選手権は日紡貝塚による単独チームによる出場で金メダルを獲得。1964年東京五輪も日紡貝塚を中心としたメンバーで金メダルを獲得した。大松博文監督が率いる同チームは東洋の魔女と呼ばれた。これ以後、日本とソ連が優勝を争う日ソ2強時代がしばらく続いた。

1968年メキシコシティ五輪1972年ミュンヘン五輪はいずれもソ連に敗れて銀メダルであったが、1976年モントリオール五輪では12年ぶりに金メダルを獲得した。山田重雄が率いる全日本は守りの粘り、攻撃の速さで他を圧倒し、ソ連との決勝戦は15-7,15-8,15-2と一方的な展開で試合は終了した。大会史上初の失セット0の完全勝利の快挙であった。

1976年のモントリオール五輪優勝により1980年モスクワ五輪出場権を獲得していた。選手強化も順調に進み、モスクワ五輪前年のプレオリンピックでは優勝し、金メダルを獲得できる確率ははかなり高いと言われていた。しかし1979年に開催国のソビエトがアフガニスタンに侵攻。アメリカ政府が提案したモスクワ五輪のボイコット日本政府が同調、その結果不参加となった。

1984年ロサンゼルス五輪はソ連がボイコットした。準決勝で中国に破れたが、3位決定戦でペルーに勝って銅メダルを獲得した。

ロサンゼルス五輪で銅メダルという不本意な結果に終わると『単独チーム方式』では限界があるという声がしだいに大きくなった。1986年世界選手権では所属チームにこだわらず広く各チームから才能を集める『純粋選抜方式』で挑んだが結果は7位と沈んだ。

1988年ソウル五輪では、山田重雄監督の下、日立中心のチーム構成で挑んだ。準決勝の対ペルー戦はフルセットの接戦となった。決勝進出まであと2ポイントというところまで迫ったが、ペルーの粘りで敗れてしまった。3位決定戦の対中国戦も敗れ、初めてオリンピックでメダルなしに終わった。

1992年バルセロナ五輪は5位、1996年アトランタ五輪は9位と成績は下降を続けた。2000年シドニー五輪最終予選では3連勝の後、中国、イタリア、クロアチア、韓国に4連敗をして、初めて五輪出場権を逃した。日本女子バレーの人気も実力もどん底となった。

2002年世界選手権は史上最悪の13位で終わり、直後の釜山アジア大会でも中国、韓国から1セットも取れずに3位で終わった。これらの責任を取る形で吉川正博監督を含む強化委員全員が辞任した。

2003年柳本晶一が監督に就任。吉原知子がキャプテンとして全日本に復帰し、大山加奈栗原恵などの若手選手が積極的に起用された。2004年5月のオリンピック世界最終予選では開幕から7連勝を果たし2大会振りの出場権を獲得した。同年8月のアテネ五輪ではなんとか決勝トーナメントに駒を進めたが準々決勝で中国に敗れベスト8の成績に留まった。

2007年には木村沙織荒木絵里香など若き才能が活躍、第14回アジア選手権で24年ぶりに金メダルを獲得。

過去の成績

  • 1964年 - 金メダル
  • 1968年 - 銀メダル
  • 1972年 - 銀メダル
  • 1976年 - 金メダル
  • 1980年 - 不参加
  • 1984年 - 銅メダル
  • 1988年 - 4位
  • 1992年 - 5位
  • 1996年 - 9位
  • 2000年 - 予選敗退
  • 2004年 - 5位
  • 2008年 - 
  • 1952年 - 不参加
  • 1956年 - 不参加
  • 1960年 - 銀メダル
  • 1962年 - 金メダル
  • 1967年 - 金メダル
  • 1970年 - 銀メダル
  • 1974年 - 金メダル
  • 1978年 - 銀メダル
  • 1982年 - 4位
  • 1986年 - 7位
  • 1990年 - 8位
  • 1994年 - 7位
  • 1998年 - 8位
  • 2002年 - 13位
  • 2006年 - 6位
  • 1973年 - 準優勝
  • 1977年 - 優勝
  • 1981年 - 準優勝
  • 1985年 - 4位
  • 1989年 - 4位
  • 1991年 - 7位
  • 1995年 - 6位
  • 1999年 - 6位
  • 2003年 - 5位
  • 2007年 - 7位

代表メンバー

歴代監督の一覧

国籍
前田豊 日本の旗 日本 1960年
大松博文 日本の旗 日本 1961年 - 1964年
船山浩志 日本の旗 日本 1966年 - 1967年
山田重雄 日本の旗 日本 1967年 - 1968年
小島孝治 日本の旗 日本 1970年 - 1972年
船山浩志 日本の旗 日本 1973年
山田重雄 日本の旗 日本 1973年 - 1978年
小島孝治 日本の旗 日本 1978年 - 1982年
生沼スミエ 日本の旗 日本 1982年
米田一典 日本の旗 日本 1983年 - 1984年
小島孝治 日本の旗 日本 1985年 - 1986年
岩本洋 日本の旗 日本 1987年
山田重雄 日本の旗 日本 1988年
宗内徳行 日本の旗 日本 1989年
米田一典 日本の旗 日本 1990年 - 1993年
横田忠義 日本の旗 日本 1994年
小島孝治 日本の旗 日本 1995年
吉田国昭 日本の旗 日本 1996年
葛和伸元 日本の旗 日本 1997年 - 2000年
吉川正博 日本の旗 日本 2001年 - 2002年
柳本晶一 日本の旗 日本 2003年 -

1973年ワールドカップにヤシカによる単独チームの監督として出場。同時期に山田重雄が監督を務めるもうひとつの全日本が存在する。

参考文献