[go: nahoru, domu]

コンテンツにスキップ

「リュベン・カラヴェロフ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
追記
+ {{Expand language|langcode=bg|Любен Каравелов|date=2024-05}}
 
(2人の利用者による、間の7版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Expand language|langcode=bg|Любен Каравелов|date=2024-05}}
'''リュベン・カラヴェロフ'''(Любен Стойчев Каравелов, [[1834年]] - [[1879年]][[1月21日]])は、[[ブルガリア]]の作家、民族解放運動家<ref name="世界文学大事典">「[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000076-I002685511-00 カラヴェロフ リュベン (世界文学大事典)]」[[国立国会図書館]]。2023年4月22日閲覧。</ref>。
{{Infobox 人物
|氏名= リュベン・カラヴェロフ
|ふりがな= <!-- 姓と名がある場合は間に半角スペースを入れる -->
|画像= Ljuben Karawelow.jpg
|画像サイズ=
|画像説明=
|出生名=
|生年月日= 1834年
|生誕地= コプリフシティツァ
|没年月日= 1879年1月21日
|死没地= ルセ
|国籍=
|別名=
|職業= 作家、民族解放運動家
|活動期間=
|団体= ブルガリア革命中央委員会
|活動拠点=ブカレスト(ルーマニア)
|代表作= 「古いブルガリア人」(1872年)
|家族=弟:ペトコ・カラヴェロフ
----
{{ウィキポータルリンク|ブルガリア}}
{{Portal 文学}}
}}
'''リュベン・カラヴェロフ'''({{lang-bg|Любен Стойчев Каравелов}}, [[1834年]] - [[1879年]][[1月21日]])は、[[ブルガリア]]の作家、民族解放運動家<ref name="世界文学大事典">「[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000076-I002685511-00 カラヴェロフ リュベン (世界文学大事典)]」[[国立国会図書館]]。2023年4月22日閲覧。</ref>。


1834年[[コプリフシティツァ]]で生まれた<ref name="松永" />。ブルガリアは14世紀末に征服されて以来[[オスマン帝国]]に支配されていたが、19世紀半ばから独立運動が盛んになっていた。カラヴェロフは1857年から1865年まで<ref name="岩波" />[[モスクワ大学]]に留学し、[[ゲルツェン]]の革命思想や[[ベリンスキー]]らの影響を受け、詩や論文を発表し始めた<ref name="松永" /><ref name="真木" />。モスクワではスラブ慈善協会と接触を持ち<ref name="岩波" />、1867年[[セルビア]]に移り<ref name="ブリタニカ" />、ブルガリア移民結社を作った<ref name="真木" />。セルビアでは1868年に投獄され1869年に釈放されている<ref name="ブリタニカ" />。1870年[[ヴァシル・レフスキ|レフスキ]]らと共に[[ブカレスト]]で[[ブルガリア革命中央委員会]]を組織し、綱領を起草<ref name="ブリタニカ" />、1869年以後カラヴェロフがブカレストで刊行した<ref name="今井" />機関紙「自由」紙上の評論活動でブルガリア人の革命意識の高揚をはかった<ref name="岩波" />。1872年に議長になり、1873年「自由」紙にかわって「独立」紙を刊行開始したが<ref name="ブリタニカ" />、1876年の一斉蜂起(四月蜂起)の前1874年にブルガリア革命中央委員会から離れた<ref name="岩波" />。ブルガリアの解放についてカラヴェロフが[[バルカン連邦]]を基調とした案を主張したためである<ref name="岩波" />。その後文筆活動を続け<ref name="岩波" />、1879年[[ルセ]]で死去した<ref name="ブリタニカ" />。
1834年[[コプリフシティツァ]]で生まれた<ref name="松永" />。ブルガリアは14世紀末に征服されて以来[[オスマン帝国]]に支配されていたが、19世紀半ばから独立運動が盛んになっていた。カラヴェロフは1857年から1865年まで<ref name="岩波" />[[モスクワ大学]]に留学し、[[ゲルツェン]]の革命思想や[[ベリンスキー]]らの影響を受け、詩や論文を発表し始めた<ref name="松永" /><ref name="真木" />。モスクワではスラブ慈善協会と接触を持ち<ref name="岩波" />、1867年[[セルビア]]に移り<ref name="ブリタニカ" />、ブルガリア移民結社を作った<ref name="真木" />。セルビアでは1868年に投獄され1869年に釈放されている<ref name="ブリタニカ" />。1870年[[ヴァシル・レフスキ|レフスキ]]らと共に[[ブカレスト]]で[[ブルガリア革命中央委員会]]を組織し、綱領を起草<ref name="ブリタニカ" />、1869年以後カラヴェロフがブカレストで刊行した<ref>今井淳子、1981年、19頁。</ref>機関紙「自由」紙上の評論活動でブルガリア人の革命意識の高揚をはかった<ref name="岩波" />。1872年にブルガリア革命中央委員会議長になり、1873年「自由」紙にかわって「独立」紙を刊行開始したが<ref name="ブリタニカ" />、1876年の一斉蜂起(四月蜂起)の前1874年にブルガリア革命中央委員会から離れた<ref name="岩波" />。ブルガリアの解放についてカラヴェロフが[[バルカン連邦]]を基調とした案を主張し、1873年に刑死したレフスキの流れをくむ[[ボテフ]]と対立したためである<ref name="岩波" /><ref>今井淳子、1981年、21頁。</ref>。その後カラヴェロフは文筆活動を続け<ref name="岩波" />、1879年[[ルセ]]で死去した<ref name="ブリタニカ" />。


文学活動においてはカラヴェロフはブルガリア文学の批判的リアリズムの基礎を築いた<ref name="真木" />。保守主義者を批判した1872年の中編小説「古いブルガリア人」や反トルコ思想を盛った1871年の短編小説「指導者」などの小説があり、[[ゴーゴリ]]や[[チェルヌイシェフスキー]]らの影響がみられる<ref name="真木" />。他に多くの詩や評論、民間伝承、翻訳の著作があり、青少年の教育にも注力した<ref name="真木" />。
文学活動においてはカラヴェロフはブルガリア文学の批判的リアリズムの基礎を築いた<ref name="真木" />。保守主義者を批判した1872年の中編小説「古いブルガリア人」や反トルコ思想を盛った1871年の短編小説「指導者」などの小説があり、[[ゴーゴリ]]や[[チェルヌイシェフスキー]]らの影響がみられる<ref name="真木" />。他に多くの詩や評論、民間伝承、翻訳の著作があり、青少年の教育にも注力した<ref name="真木" />。


10歳ほど年下の弟{{仮リンク|ペトコ・カラヴェロフ|bg|Петко Каравелов}}は政治家で、1880年以降3度にわたって首相を務めた<ref name="ブリタニカ" />。
肉親には10歳ほど年下の弟で1880年以降3度にわたって首相を務めた政治家{{仮リンク|ペトコ・カラヴェロフ|bg|Петко Каравелов}}がいる<ref name="ブリタニカ" />。


==脚注==
== 脚注 ==
{{Reflist | refs=
{{Reflist | refs=
<ref name="今井">今井淳子「[https://doi.org/10.20680/aees.4.0_1 ブルガリア民族解放運動と1876年4月蜂起 (I)]」『東欧史研究』4巻、東欧史研究会、1981年。2023年4月22日閲覧。</ref>
<ref name="岩波">「カラヴェロフ」『岩波世界人名大辞典』[[岩波書店]]。[[ジャパンナレッジ]]。2023年4月22日閲覧。</ref>
<ref name="岩波">「カラヴェロフ」『岩波世界人名大辞典』[[岩波書店]]。[[ジャパンナレッジ]]。2023年4月22日閲覧。</ref>
<ref name="ブリタニカ">「[https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%99%E3%83%AD%E3%83%95-47256#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 カラベロフ]」『[[ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典』。コトバンク。2023年4月22日閲覧。</ref>。
<ref name="ブリタニカ">「[https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%99%E3%83%AD%E3%83%95-47256#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 カラベロフ]」『[[ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典』。コトバンク。2023年4月22日閲覧。</ref>。
15行目: 38行目:
<ref name="松永">松永綠彌「[https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%99%E3%83%AD%E3%83%95-47256#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 カラベロフ]」『[[世界大百科事典]]』[[平凡社]]。[[コトバンク]]。2023年4月22日閲覧。</ref>
<ref name="松永">松永綠彌「[https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%99%E3%83%AD%E3%83%95-47256#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 カラベロフ]」『[[世界大百科事典]]』[[平凡社]]。[[コトバンク]]。2023年4月22日閲覧。</ref>
}}
}}

== 参考文献 ==
* 今井淳子「[https://doi.org/10.20680/aees.4.0_1 ブルガリア民族解放運動と1876年4月蜂起 (I)]」『東欧史研究』4巻、東欧史研究会、1981年。

{{Normdaten}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:からへろふ りゆへん}}
{{DEFAULTSORT:からへろふ りゆへん}}
[[Category:独立運動家]]
[[Category:19世紀の小説家]]
[[Category:19世紀の小説家]]
[[Category:19世紀の詩人]]
[[Category:19世紀の詩人]]
[[Category:ブルガリアの評論家]]
[[Category:ブルガリアの評論家]]
[[Category:革命家]]
[[Category:1834年生]]
[[Category:1834年生]]
[[Category:1879年没]]
[[Category:1879年没]]

2024年5月14日 (火) 10:11時点における最新版

リュベン・カラヴェロフ
生誕 1834年
コプリフシティツァ
死没 1879年1月21日
ルセ
職業 作家、民族解放運動家
団体 ブルガリア革命中央委員会
代表作 「古いブルガリア人」(1872年)
活動拠点 ブカレスト(ルーマニア)
家族

弟:ペトコ・カラヴェロフ


テンプレートを表示

リュベン・カラヴェロフブルガリア語: Любен Стойчев Каравелов, 1834年 - 1879年1月21日)は、ブルガリアの作家、民族解放運動家[1]

1834年コプリフシティツァで生まれた[2]。ブルガリアは14世紀末に征服されて以来オスマン帝国に支配されていたが、19世紀半ばから独立運動が盛んになっていた。カラヴェロフは1857年から1865年まで[3]モスクワ大学に留学し、ゲルツェンの革命思想やベリンスキーらの影響を受け、詩や論文を発表し始めた[2][4]。モスクワではスラブ慈善協会と接触を持ち[3]、1867年セルビアに移り[5]、ブルガリア移民結社を作った[4]。セルビアでは1868年に投獄され1869年に釈放されている[5]。1870年レフスキらと共にブカレストブルガリア革命中央委員会を組織し、綱領を起草[5]、1869年以後カラヴェロフがブカレストで刊行した[6]機関紙「自由」紙上の評論活動でブルガリア人の革命意識の高揚をはかった[3]。1872年にブルガリア革命中央委員会議長になり、1873年「自由」紙にかわって「独立」紙を刊行開始したが[5]、1876年の一斉蜂起(四月蜂起)の前1874年にブルガリア革命中央委員会から離れた[3]。ブルガリアの解放についてカラヴェロフがバルカン連邦を基調とした案を主張し、1873年に刑死したレフスキの流れをくむボテフと対立したためである[3][7]。その後カラヴェロフは文筆活動を続け[3]、1879年ルセで死去した[5]

文学活動においてはカラヴェロフはブルガリア文学の批判的リアリズムの基礎を築いた[4]。保守主義者を批判した1872年の中編小説「古いブルガリア人」や反トルコ思想を盛った1871年の短編小説「指導者」などの小説があり、ゴーゴリチェルヌイシェフスキーらの影響がみられる[4]。他に多くの詩や評論、民間伝承、翻訳の著作があり、青少年の教育にも注力した[4]

肉親には10歳ほど年下の弟で1880年以降3度にわたって首相を務めた政治家ペトコ・カラヴェロフブルガリア語版がいる[5]

脚注[編集]

  1. ^ カラヴェロフ リュベン (世界文学大事典)国立国会図書館。2023年4月22日閲覧。
  2. ^ a b 松永綠彌「カラベロフ」『世界大百科事典平凡社コトバンク。2023年4月22日閲覧。
  3. ^ a b c d e f 「カラヴェロフ」『岩波世界人名大辞典』岩波書店ジャパンナレッジ。2023年4月22日閲覧。
  4. ^ a b c d e 真木三三子「カラベーロフ」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館。コトバンク。2023年4月22日閲覧。
  5. ^ a b c d e f カラベロフ」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』。コトバンク。2023年4月22日閲覧。
  6. ^ 今井淳子、1981年、19頁。
  7. ^ 今井淳子、1981年、21頁。

参考文献[編集]