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'''リュベン・カラヴェロフ'''(Любен Стойчев Каравелов, [[1834年]] - [[1879年]][[1月21日]])は、[[ブルガリア]]の作家、民族解放運動家<ref name="世界文学大事典">「[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000076-I002685511-00 カラヴェロフ リュベン (世界文学大事典)]」[[国立国会図書館]]。2023年4月22日閲覧。</ref>。
'''リュベン・カラヴェロフ'''(Любен Стойчев Каравелов, [[1834年]] - [[1879年]][[1月21日]])は、[[ブルガリア]]の作家、民族解放運動家<ref name="世界文学大事典">「[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000076-I002685511-00 カラヴェロフ リュベン (世界文学大事典)]」[[国立国会図書館]]。2023年4月22日閲覧。</ref>。


1834年[[コプリフシティツァ]]で生まれた<ref name="松永">松永綠彌「[https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%99%E3%83%AD%E3%83%95-47256#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 カラベロフ]」『[[世界大百科事典]]』[[平凡社]]。[[コトバンク]]。2023年4月22日閲覧。</ref>。ブルガリアは14世紀末に征服されて以来[[オスマン帝国]]に支配されていたが、19世紀半ばから独立運動が盛んになっていた。カラヴェロフは1857年から1865年まで<ref name="岩波" />[[モスクワ大学]]に留学し、[[ゲルツェン]]の革命思想や[[ベリンスキー]]らの影響を受け、詩や論文を発表し始めた<ref name="松永" /><ref name="真木">真木三三子「[https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%95-1519384 カラベーロフ]」『[[日本大百科全書]](ニッポニカ)』[[小学館]]。コトバンク。2023年4月22日閲覧。</ref>。モスクワではスラブ慈善協会と接触を持ち<ref name="岩波" />、1867年[[セルビア]]に移り<ref name="ブリタニカ" />、ブルガリア移民結社を作った<ref name="真木" />。セルビアでは1868年に投獄され1869年に釈放されている<ref name="ブリタニカ" />。1870年[[ヴァシル・レフスキ|レフスキ]]と共に[[ブカレスト]]でブルガリア革命中央委員会を組織し、主に機関紙「自由」紙上の評論活動でブルガリア人の革命意識の高揚をはかった<ref name="岩波" />。しかし1876年の一斉蜂起(四月蜂起)の前1874年にブルガリア革命中央委員会から離れた<ref name="岩波" />。ブルガリアの解放についてカラヴェロフが[[バルカン連邦]]を基調とした案を主張したためである<ref name="岩波">「カラヴェロフ」『岩波世界人名大辞典』[[岩波書店]]。[[ジャパンナレッジ]]。2023年4月22日閲覧。</ref>。1879年[[ルセ]]で死去した<ref name="ブリタニカ">「[https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%99%E3%83%AD%E3%83%95-47256#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 カラベロフ]」『[[ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典』。コトバンク。2023年4月22日閲覧。</ref>。
1834年[[コプリフシティツァ]]で生まれた<ref name="松永">松永綠彌「[https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%99%E3%83%AD%E3%83%95-47256#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 カラベロフ]」『[[世界大百科事典]]』[[平凡社]]。[[コトバンク]]。2023年4月22日閲覧。</ref>。ブルガリアは14世紀末に征服されて以来[[オスマン帝国]]に支配されていたが、19世紀半ばから独立運動が盛んになっていた。カラヴェロフは1857年から1865年まで<ref name="岩波" />[[モスクワ大学]]に留学し、[[ゲルツェン]]の革命思想や[[ベリンスキー]]らの影響を受け、詩や論文を発表し始めた<ref name="松永" /><ref name="真木">真木三三子「[https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%95-1519384 カラベーロフ]」『[[日本大百科全書]](ニッポニカ)』[[小学館]]。コトバンク。2023年4月22日閲覧。</ref>。モスクワではスラブ慈善協会と接触を持ち<ref name="岩波" />、1867年[[セルビア]]に移り<ref name="ブリタニカ" />、ブルガリア移民結社を作った<ref name="真木" />。セルビアでは1868年に投獄され1869年に釈放されている<ref name="ブリタニカ" />。1870年[[ヴァシル・レフスキ|レフスキ]]と共に[[ブカレスト]]で[[ブルガリア革命中央委員会]]を組織し、主に機関紙「自由」紙上の評論活動でブルガリア人の革命意識の高揚をはかった<ref name="岩波" />。しかし1876年の一斉蜂起(四月蜂起)の前1874年にブルガリア革命中央委員会から離れた<ref name="岩波" />。ブルガリアの解放についてカラヴェロフが[[バルカン連邦]]を基調とした案を主張したためである<ref name="岩波">「カラヴェロフ」『岩波世界人名大辞典』[[岩波書店]]。[[ジャパンナレッジ]]。2023年4月22日閲覧。</ref>。1879年[[ルセ]]で死去した<ref name="ブリタニカ">「[https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%99%E3%83%AD%E3%83%95-47256#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 カラベロフ]」『[[ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典』。コトバンク。2023年4月22日閲覧。</ref>。


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2023年4月22日 (土) 22:14時点における版

リュベン・カラヴェロフ(Любен Стойчев Каравелов, 1834年 - 1879年1月21日)は、ブルガリアの作家、民族解放運動家[1]

1834年コプリフシティツァで生まれた[2]。ブルガリアは14世紀末に征服されて以来オスマン帝国に支配されていたが、19世紀半ばから独立運動が盛んになっていた。カラヴェロフは1857年から1865年まで[3]モスクワ大学に留学し、ゲルツェンの革命思想やベリンスキーらの影響を受け、詩や論文を発表し始めた[2][4]。モスクワではスラブ慈善協会と接触を持ち[3]、1867年セルビアに移り[5]、ブルガリア移民結社を作った[4]。セルビアでは1868年に投獄され1869年に釈放されている[5]。1870年レフスキと共にブカレストブルガリア革命中央委員会を組織し、主に機関紙「自由」紙上の評論活動でブルガリア人の革命意識の高揚をはかった[3]。しかし1876年の一斉蜂起(四月蜂起)の前1874年にブルガリア革命中央委員会から離れた[3]。ブルガリアの解放についてカラヴェロフがバルカン連邦を基調とした案を主張したためである[3]。1879年ルセで死去した[5]

文学活動においてはカラヴェロフはブルガリア文学の批判的リアリズムの基礎を築いた[4]。保守主義者を批判した1872年の中編小説「古いブルガリア人」や反トルコ思想を盛った1871年の短編小説「指導者」などの小説があり、ゴーゴリチェルヌイシェフスキーらの影響がみられる[4]。他に多くの詩や評論、民間伝承、翻訳の著作があり、青少年の教育にも注力した[4]

脚注

  1. ^ カラヴェロフ リュベン (世界文学大事典)国立国会図書館。2023年4月22日閲覧。
  2. ^ a b 松永綠彌「カラベロフ」『世界大百科事典平凡社コトバンク。2023年4月22日閲覧。
  3. ^ a b c d e 「カラヴェロフ」『岩波世界人名大辞典』岩波書店ジャパンナレッジ。2023年4月22日閲覧。
  4. ^ a b c d e 真木三三子「カラベーロフ」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館。コトバンク。2023年4月22日閲覧。
  5. ^ a b c カラベロフ」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』。コトバンク。2023年4月22日閲覧。