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== 来歴・人物 ==
== 来歴・人物 ==
[[埼玉県立浦和高等学校|浦和中学]]、[[第一高等学校 (旧制) |一高]]を経て、[[東京帝国大学]]卒業。[[検事]]任官。[[塩野季彦]]らの「公安(思想)検事」に連なり、法務省刑事局長、最高検検事などを経て[[1967年]][[検事総長]]に就した。検事在任中、刑法改正準備会会等も歴任し、刑事法の戦前体制から戦後体制への転換において重要な役割を果たした。退官後、[[弁護士]]登録(第一東京弁護士会)。[[文明堂]]、[[らや]]、[[東電通]]等の[[監査役]]を務め、また、[[三越]][[岡田茂 (三越) |岡田茂]]元社弁護人でもあった。1995年11月9日、[[慶応大学病院]]にて死去。[[勲一等瑞宝章]]受章(1975年4月29日)。英霊にこえる会会長
[[埼玉県立浦和高等学校|浦和中学]]、[[第一高等学校 (旧制) |一高]]を経て、[[東京帝国大学]]卒業。[[検事]]任官。[[塩野季彦]]らの「公安(思想)検事」に連なり、法務省刑事局長、最高検検事などを任。前任の検事[[馬場義続]]が後任に[[竹内寿平]]画策してい、[[1967年]][[検事総長]]に就任した。


検事総長在任中、刑法改正準備会会長等も歴任し、刑事法の戦前体制から戦後体制への転換において重要な役割を果たした。退官後、[[弁護士]]登録(第一東京弁護士会)。[[文明堂]]、[[とらや]]、[[東電通]]等の[[監査役]]を務め、また、[[三越]]・[[岡田茂 (三越) |岡田茂]]元社長弁護人でもあった。1995年11月9日、[[慶応大学病院]]にて死去。[[勲一等瑞宝章]]受章(1975年4月29日)。英霊にこたえる会会長。
[[人民戦線事件]]で[[美濃部亮吉]]らの取調べを行った検事でもある。美濃部に対する井本の取調べ手法について「その調べ方のいやらしさはいま思い出しても気持が悪くなる。とにかく治安維持法に違反するようにいわない限り絶対に供述書を作らない。彼の意思に沿った答弁をしない限り、よく考えておけといって、2週間でも3週間でも放っておかれる」と記した論文が存在する。<ref>[[戒能通孝]]「基本法改正の態度として」法律時報32巻8号(昭和35年)</ref>

東京地裁検事局時代に、[[人民戦線事件]]で[[美濃部亮吉]]らの取調べを行った検事でもある。美濃部に対する井本の取調べ手法について「その調べ方のいやらしさはいま思い出しても気持が悪くなる。とにかく治安維持法に違反するようにいわない限り絶対に供述書を作らない。彼の意思に沿った答弁をしない限り、よく考えておけといって、2週間でも3週間でも放っておかれる」と記した論文が存在する。<ref>[[戒能通孝]]「基本法改正の態度として」法律時報32巻8号(昭和35年)</ref>

[[ゾルゲ事件]]も担当主任にあり、刑事局第六課長(のち思想課長)。1944年6月には[[花岡事件]]の捜査に出張した。


=== 著名な親類 ===
=== 著名な親類 ===

2007年7月14日 (土) 01:58時点における版

井本臺吉(台吉)(いもとだいきち、1907年4月3日 - 1995年11月9日)は、元検事総長(在任期間 1967年11月2日 - 1970年3月31日)。

来歴・人物

浦和中学一高を経て、東京帝国大学卒業。検事任官。塩野季彦らの「公安(思想)検事」に連なり、法務省刑事局長、最高検検事などを歴任。前任の検事総長・馬場義続が後任に竹内寿平にと画策していたが、1967年検事総長に就任した。

検事総長在任中、刑法改正準備会会長等も歴任し、刑事法の戦前体制から戦後体制への転換において重要な役割を果たした。退官後、弁護士登録(第一東京弁護士会)。文明堂とらや東電通等の監査役を務め、また、三越岡田茂元社長弁護人でもあった。1995年11月9日、慶応大学病院にて死去。勲一等瑞宝章受章(1975年4月29日)。英霊にこたえる会会長。

東京地裁検事局時代に、人民戦線事件美濃部亮吉らの取調べを行った検事でもある。美濃部に対する井本の取調べ手法について「その調べ方のいやらしさはいま思い出しても気持が悪くなる。とにかく治安維持法に違反するようにいわない限り絶対に供述書を作らない。彼の意思に沿った答弁をしない限り、よく考えておけといって、2週間でも3週間でも放っておかれる」と記した論文が存在する。[1]

ゾルゲ事件も担当主任にあり、刑事局第六課長(のち思想課長)。1944年6月には花岡事件の捜査に出張した。

著名な親類

  • 井本恭一(故人、日本精工株式会社監査役)
  • 小川泰弘(JPYC創設者)
  • 長谷川光延(自由民主党元目黒区議会議員)

ブレーン

1期後輩の福田赳夫笹川良一も1995年に死去している。

脚注

  1. ^ 戒能通孝「基本法改正の態度として」法律時報32巻8号(昭和35年)
  2. ^ 1967年8月、井本台吉の次期検事総長実現に奔走。11月、井本が検事総長に就任。岩淵辰雄の発案で、福田赳夫池田正之輔、岩淵による検事総長就任祝いをセット。1968年4月、井本の依頼に基づき、福田、池田、岩淵を招き返礼の宴をセットしたが、岩淵が風邪のため欠席したことにより、一部の誤解を受ける。 鷲見氏によれば、井本が法務省刑事局長時代、笹川良一児玉誉士夫らは頭が上がらない存在だったらしい。