[go: nahoru, domu]

コンテンツにスキップ

「佐竹義倫」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m 破れ→敗れ
編集の要約なし
6行目:
| 時代=[[江戸時代]]末期(幕末)
| 生誕=[[弘化]]5年([[1848年]])
| 死没=[[万延]]元年[[8月4日 (旧暦)|8月4日]]([[1860年]][[9月18日]])
| 改名=
| 別名=主計(通称)

2023年8月2日 (水) 10:06時点における版

 
佐竹義倫
時代 江戸時代末期(幕末)
生誕 弘化5年(1848年
死没 万延元年8月4日1860年9月18日
別名 主計(通称)
主君 佐竹義睦義堯
出羽国久保田藩角館所預
氏族 佐竹東家→佐竹北家
父母 父:佐竹義祚、母:岩城隆喜の娘
養父:佐竹義許
兄弟 義寿義倫
養子:義尚
テンプレートを表示

佐竹 義倫(さたけ よしとも)は、佐竹氏一門の佐竹北家第17代当主。佐竹北家角館第10代所預。

生涯

弘化5年(1848年)、佐竹東家の当主佐竹義祚の次男として生まれる。幼名は輝吉、虎菊、通称は主計。

嘉永5年(1852年)、佐竹北家当主の佐竹義許が早世したため、その遺跡を相続する。実父の義祚は幼少の藩主佐竹義睦に代わり、藩政を主導していた。しかし、安政4年(1857年)、政争に敗れ蟄居を命じられて、隠居した。万延元年(1860年)8月4日、義倫は13歳で早世した。

佐竹北家の家督は文久2年(1862年)に藩主佐竹義堯の命で、江戸幕府旗本根来盛実相馬樹胤の三男)の次男竹之助が相続した。

参考文献

  • 林正崇『図説・角館城下町の歴史』無明舎出版、1982年