「八戸三社大祭」の版間の差分
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7月31日が前夜祭、1日が「お通り」、3日が「お還り」である。 |
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「三社」とは、八戸市内の[[おがみ神社|龗(おがみ)神社]](法霊神社)・[[長者山新羅神社]]・[[神明宮 (八戸市廿六日町)|神明宮]]のことで、三社の[[神輿]]行列と市内各町を中心とした組の20数台の華麗な人形[[山車]]が神社の氏子として市内を巡行する。 |
「三社」とは、八戸市内の[[おがみ神社|龗(おがみ)神社]](法霊神社)・[[長者山新羅神社]]・[[神明宮 (八戸市廿六日町)|神明宮]]のことで、三社の[[神輿]]行列と市内各町を中心とした組の20数台の華麗な人形[[山車]]が神社の氏子として市内を巡行する。 |
2011年8月8日 (月) 15:03時点における版
八戸三社大祭(はちのへさんしゃたいさい)は、毎年7月31日から8月4日に青森県八戸市で行われる祭である。 7月31日が前夜祭、1日が「お通り」、2日が「中日」、3日が「お還り」である。
「三社」とは、八戸市内の龗(おがみ)神社(法霊神社)・長者山新羅神社・神明宮のことで、三社の神輿行列と市内各町を中心とした組の20数台の華麗な人形山車が神社の氏子として市内を巡行する。 期間中は105万から110万人の観光客が訪れる[1]。
2004年2月6日に、「八戸三社大祭の山車行事」として重要無形民俗文化財に指定された[2]。
起源・歴史
祭りの大きな特徴は人形がせり上がり、左右の大きく広がる仕掛けを持つ豪華な山車にある。
当初は1体の人形を乗せる程度だったものが、明治の中頃より物語を表現する山車に変化し、昭和50年代頃から徐々に仕掛けが施されるようになった。近年では煙が吹き上がるなどの仕掛けもある。
山車は町内ごとに製作されるが、これは明治時代に大澤多門が発案したものと言われている。
明治~戦前
明治時代の中ごろまでは、江戸時代の影響を色濃く残した人形山車が使用されていた。明治20年頃から、様々な飾りをつけた風流山車と呼ばれる山車が流行し、江戸時代からの伝統的な山車は衰退していった。祭における当時の山車の位置づけは「附祭」とされたが、明治30年代から「山車」との表記が定着するようになる。
明治時代の山車の構造は、現在残されている当時の写真[3]から見る限り、台車、岩や波などの飾り、人形の三層構造の山車となっている。
また、昭和初期までは祭り期間の間、丸い軒提灯が飾られ、1メートル程度竹に花をつけた「軒花」と呼ばれる飾りが商店街につけられた。そのほか商店街では祭りにあわせ店頭に蓄音機で音楽を流したり、活花を飾るなどの催しが行われていたようである[4]。
戦後~現在
昭和41年(1966年)から昭和49年(1974年)まで一時期「はちのへ祭り」と変更されていた時期がある。これは「全市的バックアップで東北四大祭りに肩を並べよう」という観光面における構想から行われたもので、当時資金難に陥っていた神社側と町内会側はこれをいったんは容認した[5]。しかし、やがて神社側から「神社主体の祭りであることが忘れられてしまう。観光だけの祭りになってしまう。」との声が上がり、結局元の名称に戻された[6]。
年表
- 享保6年(1711年) - 法霊社(現在の龗神社)の神輿が八戸城下を巡り、長者山に渡る。
- 文政元年(1819年) - 「屋台芸者車引」(現在の「花屋台」のもと)が神輿行列に加わる。
- 文政3年(1821年) - 鮫の虎舞が行列に加わる。
- 文政8年(1825年) - 法霊社祭礼の日程を旧暦7月20日から3日間に変更となる。
- 弘化3年(1846年) - 法霊社祭礼の前日に夜祭を始める。
- 明治17年(1884年) - 長者山新羅神社が行列に加わる。
- 明治20年(1887年) - 神明宮が行列に加わり、「三社」となった。
- 昭和33年(1958年) - 八戸警察署より、電線切断事故防止のため高さ4メートル以内厳守の要望が出される。
- 昭和35年(1960年) - 日程が8月20日から8月23日に変更される。
- 昭和39年(1964年) - 祭りの運営が三社から三社大祭運営委員会に移される。
- 昭和41年(1966年) - 三社大祭の名称が「はちのへ祭り」に変更される。
- 昭和50年(1975年) - 「はちのへ祭り」から三社大祭の名称に戻される。
- 昭和57年(1982年) - 日程が現在の8月1日から8月3日に変更される。
- 平成15年(2003年) - 三社大祭の日程に後夜祭が加えられる。
- 平成19年(2007年) - 一般客が参加可能な「三社大祭引っ張り隊」の制度が導入される。
開催期間・日程
- 前夜祭(7月31日) - 八戸市中心街と八戸市庁前に山車が集結し、一斉にお囃子を演ずる。
- お通り(8月1日) - 神輿や神楽、山車などの合同運行。
- 中日(8月2日) - 山車の夜間合同運行(2010年度は八戸市中心街に山車が集結し、一斉にお囃子を演ずる。)
- お還り(8月3日) - 神輿や神楽、山車などの合同運行。
- 後夜祭(8月4日) - 前夜祭と同じ進行。(2010年度は山車の夜間合同運行。)後夜祭は2003年に新設。
また、期間中は八戸市庁前市民広場、長者まつりんぐ広場に「お祭り広場」が設けられ、多くの出店が立ち並ぶ。八戸市庁前では祭り期間の後半の3日間(中日から後夜祭にかけて)に八戸青年会議所の主催で開催される。
運行コース
運行コースは近年、観光客に配慮する形でその年により変更されている。そのため運行コースをめぐり、観光に配慮する一方で、伝統を重視する声があるなど意見が分かれている[7]。
現在の運行コースは以下の通りである(平成20年現在)[8]。
- お通り(8月1日) - 八戸市庁前出発。三日町・荒町を通過し、ゆりの木通りを運行。
- 中日(8月2日) - 八戸市庁前出発。八日町・柏崎新町を通過し、六日町、廿六日町を経て三日町へ一巡する形で運行。
- お還り(8月3日) - 鍛冶町付近より出発。六日町・柏崎新町を通過し、十三日町まで運行。(ただしおがみ神社の山車は三日町の手前で右折)
観覧・参加方法
- 有料観覧席 - お通り、お還り、後夜祭の各コースに数百席が用意される。詳細は八戸観光コンベンション協会に要問い合わせ。
- 三社大祭引っ張り隊 - 山車を引っ張るのは、基本的には各山車の町内の人たちであるが、平成19年(2007年)に八戸市外の人や観光客も申込みにより山車の引き子として参加できる「引っ張り隊」の制度が導入された。
- 引っ張り隊の内容 - はっぴ、花笠、豆絞り、公式ガイドブック、傷害保険付。申込み先は八戸観光コンベンション協会。定員は1日あたり40名(平成20年現在)。参加料は平成19年は2,000円であったが、翌年は直前に起きた地震の影響を考慮し、平成20年分については無料にされた[9]。
山車等展示場所
三社大祭期間以外では、以下の場所で山車等を見学できる。
- 八戸地域地場産業振興センター - 1階ホールに山車を展示。JR八戸駅前。
- 八戸市役所 - 本館1階にミニチュアの山車を展示(イベント等で他場所に貸し出される場合あり)。
- 龗神社 - 江戸時代の山車に使われた人形がある。JR本八戸駅から徒歩5分。
- お祭り工房淀の館-お祭り期間は淀山車組の山車小屋でもある。
脚注・参考文献
- ^ 青森県、「平成21年度版 よくわかる青森県(PDF)」p40(Ⅱ-1-(13)観光)。
- ^ 八戸三社大祭の山車行事(青森県)
- ^ 「はちのへ市史研究第7号」p45、八戸市史編纂室所蔵写真より。
- ^ 「はちのへ市史研究第7号」p43、明治44年9月4日「はちのへ新聞」
- ^ デーリー東北1975年6月26日「天鐘」
- ^ デーリー東北1975年5月29日「はちのへ祭 名称問題を話し合い」
- ^ デーリー東北2007年7月24日「祭りのカタチ 模索する八戸三社大祭 (1)伝統×観光 お還り終点〝迷走〟」
- ^ 八戸三社大祭 山車運行図
- ^ 東奥日報2008年7月26日「三社大祭『地震に負けない』」
- 阿部達『八戸の民俗芸能』、八戸市、2001年
- 三浦忠司『八戸三社大祭の歴史 江戸時代の八戸城下祭礼の伝統』、八戸歴史研究会、2006年
- 『八戸三社大祭文化財調査報告書』、八戸市教育委員会、2002年
- 「明治期における八戸三社大祭の風景」(『はちのへ市史研究』第7号、八戸市、2009年、所収)
関連項目
- 東北三大祭り
- 騎馬打毬 - 八戸三社大祭の中日に長者山新羅神社で催される。
- 南部道楽フェスティバル
外部リンク
- 八戸三社大祭(八戸市、はちのへの観光)
- 八戸三社大祭の山車行事(文化庁、国指定文化財等データベース)
- 八戸三社大祭の山車行事(青森県、あおもりの文化財)