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'''在台北中華民国総領事館'''(ざいたいほくちゅうかみんこくそうりょうじかん、{{lang-zh-tw|中華民國駐臺北總領事館}})は、かつて[[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国]]が[[日本]]の[[日本統治時代の台湾|台湾]][[台北州]][[台北市 (日本統治時代)|台北市]]に設置していた[[領事館|総領事館]]である。
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当初は[[大稲埕]]六館街の[[林本源]]柏記事務所を借りて設置されていたが、[[1934年]]([[昭和]]9年)8月に[[宮前町 (台北市)|宮前町]]90番地の{{仮リンク|張秀哲|label=張月澄|zh|張秀哲}}邸に移転した<ref name="領館">{{Cite web |url=https://www.rcils.nccu.edu.tw/wp-content/uploads/2016/08/略述滿清暨日據時期英美以外各國駐北台灣領館之建置.pdf |title=略述滿清暨日據時期英美以外各國駐北臺灣領事館之建置 (1861-1945) |accessdate=2024-07-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20240701080334/https://www.rcils.nccu.edu.tw/wp-content/uploads/2016/08/%E7%95%A5%E8%BF%B0%E6%BB%BF%E6%B8%85%E6%9A%A8%E6%97%A5%E6%93%9A%E6%99%82%E6%9C%9F%E8%8B%B1%E7%BE%8E%E4%BB%A5%E5%A4%96%E5%90%84%E5%9C%8B%E9%A7%90%E5%8C%97%E5%8F%B0%E7%81%A3%E9%A0%98%E9%A4%A8%E4%B9%8B%E5%BB%BA%E7%BD%AE.pdf |archivedate=2024-07-01 |publisher=[[国立政治大学]] |language=zh }}</ref><ref name="評論">{{Cite web |author=魚夫 |url=https://opinion.cw.com.tw/blog/profile/194/article/3243 |title=亞細亞的孤兒──重繪中華民國駐臺北總領事館 |accessdate=2024-07-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20240701081957/https://opinion.cw.com.tw/blog/profile/194/article/3243 |archivedate=2024-07-01 |publisher=独立評論 |language=zh }}</ref>。建物は取り壊され、跡地は現在、[[華南銀行]]円山分行となっている<ref name="領館"/><ref name="評論"/>。


== 沿革 ==
== 沿革 ==
[[1895年]][[4月17日]]([[明治]]28年)に[[日本]]と[[清]]の間に[[下関条約]]が締結されて[[台湾]]が清から日本に割譲された後も、多くの[[中国人]]が台湾に出稼ぎに来ていた。[[台湾総督府]]は彼らを制限する様々な法令を施行したが、台湾が産業発展のため人手を必要としていたことに加えて清国内での生活が苦しくなっていたため、台湾に渡ってくる中国人労働者の数は激増し、[[1912年]]([[大正]]元年)の[[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国]]建国時には1万人以上に達していた。在台湾[[華僑]]たちはコミュニティを形成するために、台湾総督府の許可を得て同郷会や会館を設立した。しかしそれらはすべて民間組織であり、中華民国政府([[北京政府|北洋政府]])が台湾に公的な機構を設置することはなかった{{Refnest|group="注"|[[1896年]]に締結された[[日清通商航海条約]]の規定により、中国は日本国内に公的な代表機構を設置する権利を有していた<ref name="領館">{{Cite web |url=https://www.rcils.nccu.edu.tw/wp-content/uploads/2016/08/略述滿清暨日據時期英美以外各國駐北台灣領館之建置.pdf |title=略述滿清暨日據時期英美以外各國駐北臺灣領事館之建置 (1861-1945) |accessdate=2024-07-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20240701080334/https://www.rcils.nccu.edu.tw/wp-content/uploads/2016/08/%E7%95%A5%E8%BF%B0%E6%BB%BF%E6%B8%85%E6%9A%A8%E6%97%A5%E6%93%9A%E6%99%82%E6%9C%9F%E8%8B%B1%E7%BE%8E%E4%BB%A5%E5%A4%96%E5%90%84%E5%9C%8B%E9%A7%90%E5%8C%97%E5%8F%B0%E7%81%A3%E9%A0%98%E9%A4%A8%E4%B9%8B%E5%BB%BA%E7%BD%AE.pdf |archivedate=2024-07-01 |publisher=[[国立政治大学]] |language=zh }}</ref>。}}。台湾には華僑のための学校も存在せず、華僑の子供たちの教育は大いに問題となった。そのため、1920年代に入ると、在台湾華僑たちは北洋政府に対して領事館の設置<ref group="注">華僑の安全保障や、華僑学校の設立のため。</ref>を陳情するようになり、北洋政府の[[外交部 (中華民国)|外交部]]も日本の[[外務省]]に働きかけるようになった。
[[1895年]][[4月17日]]([[明治]]28年)に[[日本]]と[[清]]の間に[[下関条約]]が締結されて[[台湾]]が清から日本に割譲された後も、多くの[[中国人]]が台湾に出稼ぎに来ていた。[[台湾総督府]]は彼らを制限する様々な法令を施行したが、台湾が産業発展のため人手を必要としていたことに加えて清国内での生活が苦しくなっていたため、台湾に渡ってくる中国人労働者の数は激増し、[[1912年]]([[大正]]元年)の[[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国]]建国時には1万人以上に達していた。在台湾[[華僑]]たちはコミュニティを形成するために、台湾総督府の許可を得て同郷会や会館を設立した。しかしそれらはすべて民間組織であり、中華民国政府([[北京政府|北洋政府]])が台湾に公的な機構を設置することはなかった{{Refnest|group="注"|[[1896年]]に締結された[[日清通商航海条約]]の規定により、中国は日本国内に公的な代表機構を設置する権利を有していた<ref name="領館"/>。}}。台湾には華僑のための学校も存在せず、華僑の子供たちの教育は大いに問題となった。そのため、1920年代に入ると、在台湾華僑たちは北洋政府に対して領事館の設置<ref group="注">華僑の安全保障や、華僑学校の設立のため。</ref>を陳情するようになり、北洋政府の[[外交部 (中華民国)|外交部]]も日本の[[外務省]]に働きかけるようになった<ref name="故事">{{Cite web |url=https://storystudio.tw/article/gushi/cold51 |title=【冷知識週刊】第五十一號:臺北曾經有座中華民國的外交領事館? |publisher=故事 |author=毎日一冷 Dailycold |date=2016-07-23 |access-date=2024-07-01 |archive-date=2024-07-01 |archive-url=https://web.archive.org/web/20240701082318/https://storystudio.tw/article/gushi/cold51 |language=zh }}</ref>


[[中国国民党]]率いる[[国民政府]]による[[北伐 (中国国民党)|北伐]]が始まると、華僑たちは国民政府側に助けを求めるようになり、前向きな回答を得ることができた。当時[[僑務委員会]]の職員だった{{仮リンク|黄朝琴|zh|黃朝琴}}が、この問題に尽力したと言われている。北伐完了後の[[1929年]]([[昭和]]4年)7月、[[行政院]]は華僑のために各国に在外公館を増設することを決定し、台湾に領事館を設置することを承認した<ref name="領館"/>。[[1930年]](昭和5年)[[5月17日]]、外交部は{{仮リンク|林紹楠|zh|林紹楠}}を在台北総領事に、袁家達を副領事に任命した。同年5月19日、外交部は[[台北市 (日本統治時代)|台北]]に総領事館、[[台南市|台南]]に副領事館を設置することを正式に決定した<ref group="注">台南に副領事館が設置されることはなかった。</ref>。年末には日本との間での領事館設置交渉が完了した。
[[中国国民党]]率いる[[国民政府]]による[[北伐 (中国国民党)|北伐]]が始まると、華僑たちは国民政府側に助けを求めるようになり、前向きな回答を得ることができた<ref name="故事"/>。当時[[僑務委員会]]の職員だった{{仮リンク|黄朝琴|zh|黃朝琴}}が、この問題に尽力したと言われている。北伐完了後の[[1929年]]([[昭和]]4年)7月、[[行政院]]は華僑のために各国に在外公館を増設することを決定し、台湾に領事館を設置することを承認した<ref name="領館"/><ref name="故事"/>。[[1930年]](昭和5年)[[5月17日]]、外交部は{{仮リンク|林紹楠|zh|林紹楠}}を在台北総領事に、袁家達を副領事に任命した。同年5月19日、外交部は[[台北市 (日本統治時代)|台北]]に総領事館、[[台南市|台南]]に副領事館を設置することを正式に決定した<ref group="注">台南に副領事館が設置されることはなかった。</ref>。年末には日本との間での領事館設置交渉が完了した。


[[1931年]](昭和6年)[[4月6日]]に在台北中華民国総領事館が[[大稲埕]]六館街設置され<ref name="領館"/>、台湾全土の華僑の商店や組織には[[中華民国の国旗]]が掲揚された。開館式には各地の華僑の首長たちや御用紳士の[[辜顕栄]]、日本の公務員、[[イギリス]]の領事などが参加した。[[1934年]](昭和9年)に総領事に就任した{{仮リンク|郭彝民|zh|郭彝民}}は、総領事館を新たな庁舎に移転させたいと考えていた。 郭彝民は[[東京大学|東京帝国大学]]での後輩にあたる現地の有力者の{{仮リンク|張秀哲|label=張澄月|zh|張秀哲}}と親しい間柄にあり、張月澄が所有している[[宮前町 (台北市)|宮前町]]90番地の邸宅を総領事館の庁舎として賃貸することになった<ref name="領館"/>。
[[1931年]](昭和6年)[[4月6日]]に在台北中華民国総領事館が[[大稲埕]]六館街設置され<ref name="領館"/>、台湾全土の華僑の商店や組織には[[中華民国の国旗]]が掲揚された。開館式には各地の華僑の首長たちや御用紳士の[[辜顕栄]]、日本の公務員、[[イギリス]]の領事などが参加した。[[1934年]](昭和9年)に総領事に就任した{{仮リンク|郭彝民|zh|郭彝民}}は、総領事館を新たな庁舎に移転させたいと考えていた。 郭彝民は[[東京大学|東京帝国大学]]での後輩にあたる現地の有力者の{{仮リンク|張秀哲|label=張澄月|zh|張秀哲}}と親しい間柄にあり、張月澄が所有している[[宮前町 (台北市)|宮前町]]90番地の邸宅を総領事館の庁舎として賃貸することになった<ref name="領館"/>。

[[1935年]](昭和10年)に[[台湾博覧会]]が開催された。[[福建省政府]]主席の[[陳儀]]率いる視察団が台湾を訪れ、在台北総領事館が接待を担当した<ref name="故事"/>。


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[[1937年]](昭和12年)[[7月7日]]、[[盧溝橋事件]]が勃発して[[日中戦争]]に突入した。[[7月17日]]、台湾総督府は[[中国語]]での[[ラジオ放送]]を禁止した。両国の関係が緊張状態となり、華僑たちは次々と台湾を去っていった。戦争の勃発によって総領事館はほとんどの業務を停止した。外交部が帰国命令を出すまでの間、総領事館の職員は台湾に残り、華僑の帰国問題に対応した。この時期の総領事館の主な業務は、外国の海運会社と提携し、帰国を希望する華僑をまとめて送り出すことだった<ref name="領館"/>。


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=== 汪兆銘政権時代 ===
=== 汪兆銘政権時代 ===
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[[1940年]](昭和15年)、日本の[[傀儡政権]]である[[汪兆銘政権]]が成立し、日本と国交を樹立した<ref name="領館"/>。[[1941年]](昭和16年)[[1月31日]]、汪兆銘政権は在台北中華民国総領事館を張月澄邸に再設置した<ref name="領館"/><ref name="評論"/>。


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2024年7月1日 (月) 08:28時点における版

在台北中華民国総領事館
中華民國駐臺北總領事館
Consulate-General of the Republic of China, Taihoku, Formosa
所在地日本の旗 日本
住所台湾台北州台北市宮前町90番地
(現:中華民国の旗 中華民国 台北市中山区中山北路二段112号)
座標北緯25度03分38.5秒 東経121度31分22.1秒 / 北緯25.060694度 東経121.522806度 / 25.060694; 121.522806
開設1931年4月6日
1941年1月31日汪兆銘政権
閉鎖1938年2月1日
1945年8月(汪兆銘政権)

在台北中華民国総領事館(ざいたいほくちゅうかみんこくそうりょうじかん、繁体字中国語: 中華民國駐臺北總領事館)は、かつて中華民国日本台湾台北州台北市に設置していた総領事館である。

当初は大稲埕六館街の林本源柏記事務所を借りて設置されていたが、1934年昭和9年)8月に宮前町90番地の張月澄中国語版邸に移転した[1][2]。建物は取り壊され、跡地は現在、華南銀行円山分行となっている[1][2]

沿革

1895年4月17日明治28年)に日本の間に下関条約が締結されて台湾が清から日本に割譲された後も、多くの中国人が台湾に出稼ぎに来ていた。台湾総督府は彼らを制限する様々な法令を施行したが、台湾が産業発展のため人手を必要としていたことに加えて清国内での生活が苦しくなっていたため、台湾に渡ってくる中国人労働者の数は激増し、1912年大正元年)の中華民国建国時には1万人以上に達していた。在台湾華僑たちはコミュニティを形成するために、台湾総督府の許可を得て同郷会や会館を設立した。しかしそれらはすべて民間組織であり、中華民国政府(北洋政府)が台湾に公的な機構を設置することはなかった[注 1]。台湾には華僑のための学校も存在せず、華僑の子供たちの教育は大いに問題となった。そのため、1920年代に入ると、在台湾華僑たちは北洋政府に対して領事館の設置[注 2]を陳情するようになり、北洋政府の外交部も日本の外務省に働きかけるようになった[3]

中国国民党率いる国民政府による北伐が始まると、華僑たちは国民政府側に助けを求めるようになり、前向きな回答を得ることができた[3]。当時僑務委員会の職員だった黄朝琴中国語版が、この問題に尽力したと言われている。北伐完了後の1929年昭和4年)7月、行政院は華僑のために各国に在外公館を増設することを決定し、台湾に領事館を設置することを承認した[1][3]1930年(昭和5年)5月17日、外交部は林紹楠中国語版を在台北総領事に、袁家達を副領事に任命した。同年5月19日、外交部は台北に総領事館、台南に副領事館を設置することを正式に決定した[注 3]。年末には日本との間での領事館設置交渉が完了した。

1931年(昭和6年)4月6日に在台北中華民国総領事館が大稲埕六館街設置され[1]、台湾全土の華僑の商店や組織には中華民国の国旗が掲揚された。開館式には各地の華僑の首長たちや御用紳士の辜顕栄、日本の公務員、イギリスの領事などが参加した。1934年(昭和9年)に総領事に就任した郭彝民中国語版は、総領事館を新たな庁舎に移転させたいと考えていた。 郭彝民は東京帝国大学での後輩にあたる現地の有力者の張澄月中国語版と親しい間柄にあり、張月澄が所有している宮前町90番地の邸宅を総領事館の庁舎として賃貸することになった[1]

1935年(昭和10年)に台湾博覧会が開催された。福建省政府主席の陳儀率いる視察団が台湾を訪れ、在台北総領事館が接待を担当した[3]

1937年(昭和12年)7月7日盧溝橋事件が勃発して日中戦争に突入した。7月17日、台湾総督府は中国語でのラジオ放送を禁止した。両国の関係が緊張状態となり、華僑たちは次々と台湾を去っていった。戦争の勃発によって総領事館はほとんどの業務を停止した。外交部が帰国命令を出すまでの間、総領事館の職員は台湾に残り、華僑の帰国問題に対応した。この時期の総領事館の主な業務は、外国の海運会社と提携し、帰国を希望する華僑をまとめて送り出すことだった[1]

1938年(昭和13年)1月16日、日本が国民政府との交渉の打ち切りを宣言する「第一次近衛声明」を発表すると、1月20日に中華民国は日本と断交し、外交部は在台北総領事館に帰国命令を出した[1]2月1日、帰国する華僑の最後の一団が台湾を去った後、総領事館は国旗を降ろして閉館し、職員も台湾から撤退し始めた[1]。乙種学習員の高尊彦は日本側に逮捕され、台北刑務所中国語版で獄死した[4]

汪兆銘政権時代

1940年(昭和15年)、日本の傀儡政権である汪兆銘政権が成立し、日本と国交を樹立した[1]1941年(昭和16年)1月31日、汪兆銘政権は在台北中華民国総領事館を張月澄邸に再設置した[1][2]

1945年(昭和20年)に日本が敗戦して汪兆銘政権が崩壊するとと共に、在台北中華民国総領事館は閉鎖された[1]

歴代総領事

氏名 着任 退任
中華民国の旗 中華民国
林紹楠中国語版 1931年3月27日 1932年9月10日
鄭延禧 1932年10月21日 1934年1月19日
郭彝民中国語版 1934年5月8日 1938年1月26日
中華民国の旗 中華民国汪兆銘政権
張国威 1940年12月31日 1943年2月6日
馬長亮 1943年2月6日 1945年8月

脚注

注釈

  1. ^ 1896年に締結された日清通商航海条約の規定により、中国は日本国内に公的な代表機構を設置する権利を有していた[1]
  2. ^ 華僑の安全保障や、華僑学校の設立のため。
  3. ^ 台南に副領事館が設置されることはなかった。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 略述滿清暨日據時期英美以外各國駐北臺灣領事館之建置 (1861-1945)” (中国語). 国立政治大学. 2024年7月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年7月1日閲覧。
  2. ^ a b c 魚夫. “亞細亞的孤兒──重繪中華民國駐臺北總領事館” (中国語). 独立評論. 2024年7月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年7月1日閲覧。
  3. ^ a b c d 毎日一冷 Dailycold (2016年7月23日). “【冷知識週刊】第五十一號:臺北曾經有座中華民國的外交領事館?” (中国語). 故事. 2024年7月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年7月1日閲覧。
  4. ^ 高尊彥因公殉職,黃梅英呈請緝辦” (中国語). 国家文化資料庫 (1946年3月31日). 2024年4月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年4月30日閲覧。

脚注

注釈

出典

京都東/sandbox
中華民国の旗
用途及び属性 標準旗 市民・政府・軍隊陸上、市民・政府・軍隊海上?
縦横比 2:3
制定日 1928年12月17日95年 + 264日)
使用色
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根拠法令 中華民国国徽国旗法
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海軍旗章の掲揚方法
台湾総督
臺灣總督
台湾総督府章
台湾総督之印
所属機関台湾総督府
庁舎台湾総督府庁舎
所在地大日本帝国の旗 日本統治下台湾
官舎台湾総督官邸
任命天皇
前身福建台湾巡撫
創設1895年5月10日
初代樺山資紀
最後安藤利吉
廃止1945年10月25日
継承台湾省行政長官

台湾総督(たいわんそうとく、旧字体臺灣總督)は、台湾日本の統治下にあった1895年明治28年)から1945年昭和20年)までの間設置されていた親任官である。

50年の間で19人の武官文官が台湾総督に任命された。在任の最長は第5代総督佐久間左馬太の9年1ヶ月、最短は第15代総督南弘の2ヶ月である。歴代台湾総督はその出身母体から、一般的に前期武官総督・文官総督・後期武官総督の3種類に分類されている。

沿革

前期武官総督時代

初代総督に任命された樺山資紀は、任命翌日の5月11日に総督府条例を起草し上申したが裁可に至らなかった[1][2]。そのため、5月21日に台湾総督府仮条例を制定し、占領に対する軍事的鎮圧のため軍政が施行された。8月6日には陸軍大臣の通達として、改めて台湾総督府条例(陸達第70号)を制定[3][4]、第1条で「台湾全島鎮定ニ至ル迄台湾総督ノ下ニ軍事官衙ヲ組織スル」と規定した。これが通常の官制となるのは、1896年(明治29年)3月30日制定の台湾総督府条例(勅令第88号)の施行(4月1日)以降である[注 1]。なお台湾総督府条例は、後に台湾総督府官制(明治30年10月21日勅令第362号)となった。

軍政から民政に移行した1896年4月以降においても、初期の台湾統治は、現地居住民の抵抗運動を抑圧する必要性から、軍事力を前面に打ち出した強硬な姿勢で行われた。この頃の総督には行政権と司法権、そして台湾駐屯の陸海軍の指揮権はもとより、台湾ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律(明治29年3月31日法律第63号)(通称:六三法)によって特別立法権も付与されており、この統治四権を一手に握る総督の権限は絶大なものであった。

こうした事情から、この時代の総督に任命された樺山資紀桂太郎乃木希典児玉源太郎佐久間左馬太安東貞美明石元二郎の7名はいずれも現役の大将または中将で、初代総督の樺山を除いてそのすべてが陸軍出身者で占められている。しかも、その樺山の時代には台湾副総督という、彼の在任中の一時期のみに置かれた職があり、陸軍中将の高島鞆之助がこれに任じられていた。

そうした中で、第4代総督の児玉の頃から変化があらわれはじめる。長期にわたり総督として腰を据え、体系的な政策を必要に応じて展開、いわゆる「飴と鞭」の硬軟を使い分ける方針で台湾を包括的に支配することに成果を上げ、統治に安定がもたらされたのである。第6代総督の安東と第7代総督の明石は特に現地居住民の権益を保護する政策を実施したことで知られる。総督在任のまま死去した明石は、その任期こそ1年5か月にも満たない短いものであったが、遺言により台湾に墓地が築かれた唯一の総督でもある。

文官総督時代

その明石が総督のとき、1919年(大正8年)8月20日の台湾総督府官制中改正ノ件(大正8年勅令第393号)による台湾総督府官制の改正により、以後台湾では文官でも総督になることが可能になるとともに、台湾軍の指揮権が廃止され、台湾軍の指揮権は台湾軍司令官に移譲された。

文官総督時代には、田健治郎内田嘉吉伊沢多喜男上山満之進川村竹治石塚英蔵太田政弘南弘中川健蔵の9名が総督に任命されている。いずれも内務省逓信省農商務省などの高級官僚や外地の民政担当官を経て貴族院議員に勅任された勅選議員(中川健蔵は、台湾総督退任後に、勅選議員)で、その時々に政権を担当していた政党の推薦を受けて任命された。

台湾の統治方式が抗日運動の鎮圧から経済の構築による社会の安定に転換したのがこの時期にあたる。

後期武官総督時代

二・二六事件は陸軍の青年将校が起したものであったが、事件後の綱紀粛正の名のもとに海軍からも大将2名を予備役に編入することになった。この貧乏くじを引かされることになったのが連合艦隊司令長官を退任したばかりの小林躋造海軍大将で、その処遇のために彼を台湾総督にしたのは、当時の新聞が「異例中の異例人事」と評するほどの驚愕人事であった。

台湾省行政長官陳儀(右)と降伏文書を交わす第10方面軍参謀長諫山春樹(左)(1945年10月25日)

小林は在任4年半の間に現地人の皇民化政策を推進したが、ちょうどこの頃に海軍の南進策が国策として固まったことから、次の台湾総督も海軍出身者をということになり、長谷川清海軍大将がこれに決まった。この長谷川もそろそろ予備役に編入されておかしくない年齢であったが、台湾の軍事拠点化を推進するという建前もあって現役のまま総督に就任、ここに武官総督が復活することになった。ただし、台湾軍の指揮権は依然として台湾軍司令官のもとに、後にはこれを改編した第10方面軍司令官のもとにあり、長谷川は武官総督といってもその性格は前期のそれとは大きく様相を異にするものであった。

ところが、太平洋戦争で日本の敗色が濃くなった1944年暮、人材の不足や台湾決戦を想定して指揮系統を一本化するという名目のもと、第10方面軍司令官の安藤利吉陸軍大将が台湾総督を「兼任」すると、前期総督と同等の強大な権限を持つに至った。一方で台湾人にも帝国議会の選挙権や被選挙権が与えられるなど、日本人との台湾人の関係対等化も進んだものの、翌年の終戦によって台湾総督府も降伏し、解体されることになり、1945年10月25日、台北公会堂で安藤は陳儀中華民国台湾省行政長官との間に降伏文書を交わし、半世紀にわたった台湾総督府の歴史に幕を引いた。

歴代台湾総督一覧

氏名 写真 出身地 就任 退任 在任期間 爵位 階級 政党
初期武官総督時代
1 樺山資紀 鹿児島県 1895年5月10日 1896年6月2日 1年 + 23日 子爵 海軍大将 無所属
2 桂太郎 山口県 1896年6月2日 1896年10月14日 134日 子爵 陸軍中将
3 乃木希典 山口県 1896年10月14日 1898年2月26日 1年 + 135日 男爵 陸軍中将
4 児玉源太郎 山口県 1898年2月26日 1906年4月11日 8年 + 44日 男爵 陸軍中将
5 佐久間左馬太 山口県 1906年4月11日 1915年5月1日 9年 + 20日 子爵 陸軍大将
6 安東貞美 長野県 1915年5月1日 1918年6月6日 3年 + 36日 子爵 陸軍大将
7 明石元二郎 福岡県 1918年6月6日 1919年10月24日 1年 + 140日 なし 陸軍大将
文官総督時代
8 田健治郎 兵庫県 1919年10月29日 1923年9月2日 3年 + 308日 男爵 なし 立憲政友会
9 内田嘉吉 東京府 1923年9月6日 1924年9月1日 361日 なし
10 伊沢多喜男 長野県 1924年9月1日 1926年7月16日 1年 + 318日 憲政会
11 上山満之進 山口県 1926年7月16日 1928年6月16日 1年 + 336日
12 川村竹治 秋田県 1928年6月16日 1929年7月30日 1年 + 44日 立憲政友会
13 石塚英蔵 福島県 1929年7月30日 1931年1月16日 1年 + 170日 立憲民政党
14 太田政弘 山形県 1931年1月16日 1932年3月2日 1年 + 46日
15 南弘 富山県 1932年3月2日 1932年5月26日 85日 立憲政友会
16 中川健蔵 新潟県 1932年5月26日 1936年9月2日 4年 + 99日 立憲民政党
後期武官総督時代
17 小林躋造 広島県 1936年9月2日 1940年11月27日 4年 + 86日 なし 海軍大将 無所属
18 長谷川清 福井県 1940年11月27日 1944年12月30日 4年 + 33日 海軍大将
19 安藤利吉 宮城県 1944年12月30日 1945年10月25日 299日 陸軍大将

脚注

注釈

  1. ^ 1896年3月30日には勅令として同条例のほか、台湾総督府評議会章程・台湾総督府民政局官制・台湾総督府地方官官制・台湾総督府税関官制・台湾総督府撫墾署官制・台湾総督府直轄諸学校官制・台湾総督府郵便及電信局官制・台湾総督府燈台所官制・台湾総督府測候所官制・台湾総督府製薬所官制・台湾総督府職員加俸支給規則・台湾総督府巡査及看守手当支給規則・嘱託員及雇員使用竝技師技手俸給支出ノ件・台湾総督府文官特別任用令が制定された(官報1896年3月31日)。

出典

関連項目

第1回立法委員選挙
第1屆立法委員選舉
中華民国
1934年 ←
1948年1月21日 (1948-01-21) - 1月23日
→ 1969

立法院全759議席
  第1党 第2党 第3党
 
党首 蔣介石 張君勱 曽琦
政党 中国国民党 中国民主社会党 中国青年党
獲得議席 716議席 17議席 6議席

   中国国民党 (716)
  無所属 (20)

選挙前立法院長

孫科
中国国民党

選出立法院長

孫科
中国国民党

1948年中華民国立法委員選挙(1948ねんちゅうかみんこくりっぽういいんせんきょ、: 1948年中華民國立法委員選舉、正式名称: 第1屆立法委員選舉[1])は、1948年民国37年)1月21日から23日にかけてに行われた、中華民国国会である立法院を構成する立法委員を選出する選挙である。

中国国民党率いる国民政府は当初、この選挙を1947年(民国36年)10月の国民大会代表選挙中国語版と同時に実施する予定であった。しかし第二次国共内戦下での交通の不便を理由に、最終的には予定より遅れて翌年に実施された[2]。中国国民党、中国民主社会党中国青年党が選挙に参加し、中国共産党中国民主同盟などは参加を拒否した[3]

当時の中華民国の人口は約4億6100万人[4]、立法院の総議席数は759席であり、約60万人につき1人の立法委員が選出されたことになる。

背景

脚注

注釈

出典

  1. ^ 立法委員選舉” (中国語). 中央選挙委員会. 2024年6月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月15日閲覧。
  2. ^ 朱宗震等 (2000) (中国語). 中华民国史第三编,第六卷. 中華書局. ISBN 7101020186 
  3. ^ 李維周等 (1998). 周恩来传. 中央文献出版社 
  4. ^ “China's Population Reaches 461,000,000”. ワシントン・ポスト. (1947年11月22日). p. 2 
中華民国第一回国民大会代表選挙
中華民國第一屆國民大會代表選舉
中華民国
1947年11月21日 - 11月23日
→ 1969

国民大会全3045議席
  第1党 第2党 第3党
 
党首 蔣介石 曽琦 徐傅霖
政党 中国国民党 中国青年党 中国民主社会党
党首選挙区 浙江奉化 四川隆昌 広東和平
獲得議席 2901議席 76議席 68議席

   中国国民党 (2901)
   中国青年党 (76)


脚注

注釈

出典

Die vier Sektoren Berlins nach Beschluss der Konferenz von Jalta
Nach der 1958 in der Berlin-Krise von Nikita Chruschtschow

ベルリン問題(ベルリンもんだい、ドイツ語: Berlin-Frage)とは、1945年から1990年の間分断されていたドイツにおける、ベルリンの特殊な地位に関する問題である。

脚注

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