「利用者:Sapphire123/作業用ページ」の版間の差分
Sapphire123 (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
Sapphire123 (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
||
1行目: | 1行目: | ||
ここは、利用者:Sapphire123/作業用ページです。 |
ここは、利用者:Sapphire123/作業用ページです。 |
||
'''ジョセフ・マリー・ロケーニュ'''([[1838年]]-[[1885年]][[1月158日]])は、フランスの[[タルブ]]司教区ガルデール([[:fr:Gardères]])出身の[[パリ外国宣教会]]に所属する[[神父]]。禁教下の[[長崎市|長崎]]で[[ベルナール・プティジャン|プチジャン]]神父の布教を助けた。 |
|||
ガルデールは[[ルルド]]の隣村であり、ルルドでの[[聖母マリア]]出現を日本人に初めて伝えた人物である。 |
|||
==略歴== |
|||
1863年:横浜に来日。 |
|||
1864年:長崎に上陸。 |
|||
1873年10月3日:補佐司教に任命 |
|||
{{christ-stub} |
|||
{{DEFAULTSORT:ろけにゆ しよせふ まり}} |
|||
[[Category:キリスト教聖職者] |
|||
[[Category:カトリック教会の人物] |
|||
[[Category:キリシタン] |
|||
[[Category:フランスの宣教師] |
|||
[[Category:在日宣教師] |
|||
[[Category:幕末の人物] |
|||
[[Category:明治時代の人物] |
|||
[[Category:長崎市の歴史] |
|||
[[Category:1838年生] |
|||
[[Category:1885年没] |
|||
==天領 長崎== |
==天領 長崎== |
2009年11月11日 (水) 05:18時点における版
ここは、利用者:Sapphire123/作業用ページです。
ジョセフ・マリー・ロケーニュ(1838年-1885年1月158日)は、フランスのタルブ司教区ガルデール(fr:Gardères)出身のパリ外国宣教会に所属する神父。禁教下の長崎でプチジャン神父の布教を助けた。
ガルデールはルルドの隣村であり、ルルドでの聖母マリア出現を日本人に初めて伝えた人物である。
略歴
1863年:横浜に来日。 1864年:長崎に上陸。 1873年10月3日:補佐司教に任命
{{christ-stub}
[[Category:キリスト教聖職者] [[Category:カトリック教会の人物] [[Category:キリシタン] [[Category:フランスの宣教師] [[Category:在日宣教師] [[Category:幕末の人物] [[Category:明治時代の人物] [[Category:長崎市の歴史] [[Category:1838年生] [[Category:1885年没]
天領 長崎
イエズス会領から天領へ
肥前国彼杵郡長崎村は、戦国大名大村純忠の所領であった。純忠の寄進により1580年にイエズス会領となったが、豊臣秀吉の九州征伐により、1588年に長崎は秀吉の直轄領となった。その時、代官に任命されたのは、佐賀の鍋島直茂であり、4年後の1592年には後任として国唐津(佐賀県唐津市)の寺沢広高が長崎奉行となった。寺沢は関が原の戦いにおいて東軍についたため、江戸時代に入ってからも引き続き長崎奉行を務めた。
市中と郷
長崎奉行の管理下にあった天領としての長崎は、「市中」という内町・外町と、「郷」という農村部から成っていた。内町は、大村純忠が1571年に造った6町(島原町、大村町、外浦町、平戸町、横瀬浦町、文知町)をはじめとして、文禄元年までに本博多町、本興善町など23町が成立していた。外町は、材木町、本紺屋町、袋町、酒屋町などで、1597年に内町との町域を定めた。
ポルトガル等との貿易によって栄えた長崎は、町の区域が徐々に拡大していったが、その領地は幕府領と大村領に混在していたため、1605年に幕府領の一部と大村領の一部を交換し、円滑な支配が行えるようにした。
これにより「市中」と「郷」からなる天領長崎が確立したが、外町の町域はその後も拡大を続け、1672年には内町26町、外町51町とされ、両町合計77町になった。さらに、外町の出島町と遊郭のあった丸山町、寄合町の3町を加え、80町となった。1676年には外町の検地が行われ、これによって長崎の町域が決定した。1699年には、内町と外町の区分が解消されている。
幕府は、外国人居留地を建設するために幕末の1857年に大村領の戸町村を没収したが、このときまで上記の体制が続いた。
大野教会(おおのきょうかい)は、長崎県長崎市にあるカトリックの教会。長崎県指定の有形文化財である。大野地区の住民のために、出津教会の巡回教会として作られた。
ユネスコの世界遺産暫定リストに掲載されている「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を構成する遺産の一つである。
建物
マルク・マリー・ド・ロ神父の設計と指導により建てられた、平屋・瓦葺きの教会である。外壁は「ド・ロ壁」と呼ばれ、玄武岩を使用した石積みの壁となっている。
所在地
〒851-2427 長崎県長崎市下大野町2624
歴史
- 1893年(明治26年)竣工。
周辺施設
- 道の駅 夕陽が丘そとめ
- 旧出津救助院
- ド・ロ神父遺跡(ド・ロ神父記念館)
関連項目
外部リンク
DEFAULTSORT:おおのきようかい category:長崎市の教会堂
如己堂(にょこどう)は、長崎県長崎市にある、永井隆 (医学博士)が白血病の療養をしていた建物である。長崎の被爆から3年後の1948年(昭和23年)3月、長崎市浦上の人達やカトリック教会の協力により建てられた。この二畳一間の部屋で、永井隆の著名な作品の数々が生まれた。現在は、隣接地に長崎市永井隆記念館が建てられている。
名前の由来
新約聖書マルコによる福音書12章31節にある「己の如く人を愛せよ」という言葉から名付けられた。
歴史
如己堂が建てられた場所は、帳方屋敷の跡地でもある。帳方とは、潜伏キリシタンの信仰組織における組頭である(惣頭ともいう)。浦上村の初代帳方は孫右衛門で、その後の帳方も孫右衛門の子孫から選ばれており、この地にあった帳方屋敷に住んでいた。1856年に起きた浦上三番崩れにより、初代孫右衛門から続いた帳方は7代目の吉蔵で途絶えることになったが、この吉蔵が永井隆の夫人・みどりの曾祖父にあたる。
所在地
〒852-8112 長崎県長崎市上野町22-6
外部リンク
参考資料
- 『長崎遊学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』(長崎文献社、2005年) ISBN 4888510911
- 『旅する長崎学4』(長崎文献社、2006年) ISBN 9784888511131
カトリック長崎大司教区(カトリックながさきだいしきょうく)は、日本に3つある大司教区の1つである。司教座聖堂は浦上教会。
沿革
- 1866年:教区創設(運営は、パリ外国宣教会)
- 1891年:九州全体を管轄へ。
- 1927年7月16日:日本で最初の邦人教区となる。
- 1959年5月4日:大司教区に昇格。
現況
(2008年)
人口
- 信徒数:63,165人
- 信者数:64,218人
教会数
- 小教区:71
- 準小教区:1
- 巡回教会:60
- 集会所:1
所在地
- 大司教館
- 〒852-8114 長崎県長崎市橋口町1-1
- 教区事務所
- 〒852-8113 長崎県長崎市上野町10-34 長崎カトリックセンター内
- 司教座聖堂
- 〒852-8112 長崎県長崎市本尾町1-79 浦上教会
歴代教区長
- ベルナール・プティジャン(1866年-1884年)
- ジョセフ・マリー・ロケーニュ(1884年-1885年)
- アルフォンス・クーザン(1885年-1911年)
- ジャン・クロード・コンバス(1912年-1926年)
- ヤヌアリオ早坂久之助(1927年-1937年):初代邦人教区長。日本人として初めて司教に叙階。
- パウロ山口愛次郎(1937年-1969年)
- ヨゼフ里脇浅次郎(1968年-1990年):日本人として3番目の枢機卿。
- フランシスコ・ザビエル島本要(1990年-2002年)
- ヨセフ高見三明(2003年-)
参考資料
- 『カトリック教会現勢 2008年』2009年6月発行、カトリック中央協議会
外部リンク
警告: 既定のソートキー「なかさきたいしきようく」が、その前に書かれている既定のソートキー「ろけにゆ しよせふ まり」を上書きしています。 [[Category:日本のカトリック教会]
{{christ-stub}