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'''ジョセフ・マリー・ロケーニュ'''([[1838年]]-[[1885年]][[1月158日]])は、フランスの[[タルブ]]司教区ガルデール([[:fr:Gardères]])出身の[[パリ外国宣教会]]に所属する[[神父]]。禁教下の[[長崎市|長崎]]で[[ベルナール・プティジャン|プチジャン]]神父の布教を助けた。

ガルデールは[[ルルド]]の隣村であり、ルルドでの[[聖母マリア]]出現を日本人に初めて伝えた人物である。

==略歴==
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==天領 長崎==
==天領 長崎==

2009年11月11日 (水) 05:18時点における版

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ジョセフ・マリー・ロケーニュ1838年-1885年1月158日)は、フランスのタルブ司教区ガルデール(fr:Gardères)出身のパリ外国宣教会に所属する神父。禁教下の長崎プチジャン神父の布教を助けた。

ガルデールはルルドの隣村であり、ルルドでの聖母マリア出現を日本人に初めて伝えた人物である。

略歴

1863年:横浜に来日。 1864年:長崎に上陸。 1873年10月3日:補佐司教に任命

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天領 長崎

イエズス会領から天領へ

肥前国彼杵郡長崎村は、戦国大名大村純忠の所領であった。純忠の寄進により1580年にイエズス会領となったが、豊臣秀吉の九州征伐により、1588年に長崎は秀吉の直轄領となった。その時、代官に任命されたのは、佐賀の鍋島直茂であり、4年後の1592年には後任として国唐津(佐賀県唐津市)の寺沢広高長崎奉行となった。寺沢は関が原の戦いにおいて東軍についたため、江戸時代に入ってからも引き続き長崎奉行を務めた。

市中と郷

長崎奉行の管理下にあった天領としての長崎は、「市中」という内町・外町と、「郷」という農村部から成っていた。内町は、大村純忠が1571年に造った6町(島原町、大村町、外浦町、平戸町、横瀬浦町、文知町)をはじめとして、文禄元年までに本博多町、本興善町など23町が成立していた。外町は、材木町、本紺屋町、袋町、酒屋町などで、1597年に内町との町域を定めた。

ポルトガル等との貿易によって栄えた長崎は、町の区域が徐々に拡大していったが、その領地は幕府領と大村領に混在していたため、1605年に幕府領の一部と大村領の一部を交換し、円滑な支配が行えるようにした。

これにより「市中」と「郷」からなる天領長崎が確立したが、外町の町域はその後も拡大を続け、1672年には内町26町、外町51町とされ、両町合計77町になった。さらに、外町の出島町と遊郭のあった丸山町、寄合町の3町を加え、80町となった。1676年には外町の検地が行われ、これによって長崎の町域が決定した。1699年には、内町と外町の区分が解消されている。

幕府は、外国人居留地を建設するために幕末の1857年に大村領の戸町村を没収したが、このときまで上記の体制が続いた。

大野教会(おおのきょうかい)は、長崎県長崎市にあるカトリックの教会。長崎県指定の有形文化財である。大野地区の住民のために、出津教会の巡回教会として作られた。

ユネスコ世界遺産暫定リストに掲載されている「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を構成する遺産の一つである。

建物

マルク・マリー・ド・ロ神父の設計と指導により建てられた、平屋・瓦葺きの教会である。外壁は「ド・ロ壁」と呼ばれ、玄武岩を使用した石積みの壁となっている。

所在地

〒851-2427 長崎県長崎市下大野町2624

歴史

周辺施設

関連項目

外部リンク

DEFAULTSORT:おおのきようかい category:長崎市の教会堂


如己堂(にょこどう)は、長崎県長崎市にある、永井隆 (医学博士)白血病の療養をしていた建物である。長崎の被爆から3年後の1948年昭和23年)3月、長崎市浦上の人達やカトリック教会の協力により建てられた。この二畳一間の部屋で、永井隆の著名な作品の数々が生まれた。現在は、隣接地に長崎市永井隆記念館が建てられている。

名前の由来

新約聖書マルコによる福音書12章31節にある「己の如く人を愛せよ」という言葉から名付けられた。

歴史

如己堂が建てられた場所は、帳方屋敷の跡地でもある。帳方とは、潜伏キリシタンの信仰組織における組頭である(惣頭ともいう)。浦上村の初代帳方は孫右衛門で、その後の帳方も孫右衛門の子孫から選ばれており、この地にあった帳方屋敷に住んでいた。1856年に起きた浦上三番崩れにより、初代孫右衛門から続いた帳方は7代目の吉蔵で途絶えることになったが、この吉蔵が永井隆の夫人・みどりの曾祖父にあたる。

所在地

〒852-8112 長崎県長崎市上野町22-6

外部リンク

参考資料

  • 『長崎遊学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』(長崎文献社、2005年) ISBN 4888510911
  • 『旅する長崎学4』(長崎文献社、2006年) ISBN 9784888511131

カトリック長崎大司教区(カトリックながさきだいしきょうく)は、日本に3つある大司教区の1つである。司教座聖堂浦上教会

沿革

  • 1866年:教区創設(運営は、パリ外国宣教会
  • 1891年:九州全体を管轄へ。
  • 1927年7月16日:日本で最初の邦人教区となる。
  • 1959年5月4日:大司教区に昇格。

現況

(2008年)

人口

  • 信徒数:63,165人
  • 信者数:64,218人

教会数

  • 小教区:71
  • 準小教区:1
  • 巡回教会:60
  • 集会所:1

所在地

  • 大司教館
〒852-8114 長崎県長崎市橋口町1-1
  • 教区事務所
〒852-8113 長崎県長崎市上野町10-34 長崎カトリックセンター内
  • 司教座聖堂
〒852-8112 長崎県長崎市本尾町1-79 浦上教会

歴代教区長

  1. ベルナール・プティジャン(1866年-1884年)
  2. ジョセフ・マリー・ロケーニュ(1884年-1885年)
  3. アルフォンス・クーザン(1885年-1911年)
  4. ジャン・クロード・コンバス(1912年-1926年)
  5. ヤヌアリオ早坂久之助(1927年-1937年):初代邦人教区長。日本人として初めて司教に叙階。
  6. パウロ山口愛次郎(1937年-1969年)
  7. ヨゼフ里脇浅次郎(1968年-1990年):日本人として3番目の枢機卿。
  8. フランシスコ・ザビエル島本要(1990年-2002年)
  9. ヨセフ高見三明(2003年-)

参考資料

  • 『カトリック教会現勢 2008年』2009年6月発行、カトリック中央協議会

外部リンク

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