[go: nahoru, domu]

コンテンツにスキップ

「坂の上の雲」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Sapphire123 (会話 | 投稿記録)
内容: 読点削除、助詞訂正等
18行目: 18行目:
この時点での重要な[[モチーフ]]の一つは、羸弱(るいじゃく)な基盤しか持たない[[近代化|近代国家]]としての日本を支えるために、[[青年]]たちが自己と[[国家]]を同一視し、自ら国家の一分野を担う気概を持って各々の学問や専門的事象に取り組む明治期特有の人間像である。好古における騎兵、真之における[[海軍]][[戦術]]の研究、子規における短詩型文学と近代日本語による散文の改革運動等が、其々が近代日本の勃興期の状況下で、代表的な事例として丁寧に描かれている。
この時点での重要な[[モチーフ]]の一つは、羸弱(るいじゃく)な基盤しか持たない[[近代化|近代国家]]としての日本を支えるために、[[青年]]たちが自己と[[国家]]を同一視し、自ら国家の一分野を担う気概を持って各々の学問や専門的事象に取り組む明治期特有の人間像である。好古における騎兵、真之における[[海軍]][[戦術]]の研究、子規における短詩型文学と近代日本語による散文の改革運動等が、其々が近代日本の勃興期の状況下で、代表的な事例として丁寧に描かれている。


後半、とりわけ子規の没後は、秋山兄弟が深く関わった[[日露戦争]]の描写が中心となり、あたかも<小説日露戦争>の雰囲気が強くなる。作者が日露戦争そのものを巨視的且つ全体的に捉えることを意図し、後半部分では本来の[[主人公]]である秋山兄弟の他に[[児玉源太郎]]、[[東郷平八郎]]、[[乃木希典]]などの将官や各戦闘で中心的な役割を果たした[[師団]]と[[日本海海戦]]についての記述に紙幅が割かれている。読者に理解しやすいよう軍事的な記述も時系列的に述べられている。日露戦争の終結と共に、本作も兄弟のその後にれつつ締められる。
後半、とりわけ子規の没後は、秋山兄弟が深く関わった[[日露戦争]]の描写が中心となり、あたかも<小説日露戦争>の雰囲気が強くなる。作者が日露戦争そのものを巨視的且つ全体的に捉えることを意図し、後半部分では本来の[[主人公]]である秋山兄弟の他に[[児玉源太郎]]、[[東郷平八郎]]、[[乃木希典]]などの将官や各戦闘で中心的な役割を果たした[[師団]]と[[日本海海戦]]についての記述に紙幅が割かれている。読者に理解しやすいよう軍事的な記述も時系列的に述べられている。本作も、日露戦争の終結と共に兄弟のその後にれつつ締められる。


1979年から翌年にかけ「[[中央公論]]」で連載した『[[ひとびとの跫音]]』(現:[[中公文庫]]全2巻)で、子規没後の正岡家が描かれ、後日談的位置づけもされている。また番外編的な作品に、乃木が夫妻で自決するまでを描いた『[[殉死 (小説)|殉死]]』(文春文庫)<ref>「殉死」の執筆刊行(文藝春秋)は1967年で、『坂の上の雲』より早く、また司馬自身最も書き上げるのに難渋した作品と回想している。明治中後期は本作以外は無く、『[[翔ぶが如く]]』など、長編の多くは明治初期のみである。またこれ以降の時代も、小説作品では「ひとびとの―」と短編以外は書いていない。</ref>がある。エッセイ集成『司馬遼太郎が考えたこと』(全15巻、[[新潮社]]のち[[新潮文庫]]、特に本作の連載時期の巻)に、作品背景<ref>『司馬遼太郎歴史のなか邂逅.4 正岡子規、秋山好古・真之~ある明治の庶民』([[中央公論新社]]、2007年)にも明治期の人物群像エッセイ42編がある。</ref> について複数のエッセイ・解説がある。
1979年から翌年にかけ「[[中央公論]]」で連載した『[[ひとびとの跫音]]』(現:[[中公文庫]]全2巻)で、子規没後の正岡家が描かれ、後日談的位置づけもされている。また番外編的な作品に、乃木が夫妻で自決するまでを描いた『[[殉死 (小説)|殉死]]』(文春文庫)<ref>「殉死」の執筆刊行(文藝春秋)は1967年で、『坂の上の雲』より早く、また司馬自身最も書き上げるのに難渋した作品と回想している。明治中後期は本作以外は無く、『[[翔ぶが如く]]』など、長編の多くは明治初期のみである。またこれ以降の時代も、小説作品では「ひとびとの―」と短編以外は書いていない。</ref>がある。エッセイ集成『司馬遼太郎が考えたこと』(全15巻、[[新潮社]]のち[[新潮文庫]]、特に本作の連載時期の巻)に、作品背景<ref>『司馬遼太郎歴史のなか邂逅.4 正岡子規、秋山好古・真之~ある明治の庶民』([[中央公論新社]]、2007年)にも明治期の人物群像エッセイ42編がある。</ref> について複数のエッセイ・解説がある。


1986年に出された長編歴史エッセイ『ロシアについて 北方の原形』([[文春文庫]])では、ロシア建国と日露交渉の経緯などが書かれ「『坂の上の雲』の余談のつもりで書いている」と述べた。
1986年に出された長編歴史エッセイ『ロシアについて 北方の原形』([[文春文庫]])では、ロシア建国と日露交渉の経緯などが書かれ「『坂の上の雲』の余談のつもりで書いている」と述べた。

2010年12月17日 (金) 02:01時点における版

坂の上の雲』(さかのうえのくも)は、司馬遼太郎による長篇歴史小説。著者の代表作の一つとされる。

1968年昭和43年)から1972年(昭和47年)にかけ『産経新聞』に連載。単行版全6巻(文藝春秋、初版1969~1972年)、文庫版全8巻(文春文庫、初版1978年、解説は島田謹二)で刊行。

内容

東京陸軍士官学校
(明治40年)
秋山好古、真之兄弟が明治13年から15年まで下宿していた旧旗本佐久間正節屋敷が存在していた場所。麹町区土手三番町(現:千代田区五番町)

司馬遼太郎は、自身の太平洋戦争末期の体験から日本の成り立ちについて、深い感慨を持つに至った。戦後新聞社勤務を経て、昭和30年代に作家となったが、題材として振り返るには、資料収集も含め時間を要した。近代日本の定義を明治維新以後に置くとするなら、本作品は長編作品としては初の近代物である。

『坂の上の雲』とは、封建の世から目覚めたばかりの日本が、そこを登り詰めてさえ行けば、やがては手が届くと思い焦がれた欧米的近代国家というものを「坂の上にたなびく一筋の雲」に例えた切なさと憧憬をこめた題名である。作者が常々問うていた日本特有の精神と文化が、19世紀末の西洋文化に対しどのような反応を示したか、を正面から問うた作品である。彼はそのために事実のみを書く、と言う方針を持っていたとするが、これについては問題点も指摘されている。

当初は秋山好古秋山真之の兄弟と、正岡子規の3人を主人公に、松山出身の彼らが明治という近代日本の勃興期を、いかに生きたかを描き、青春群像小説の面も強調されている。

前半は、秋山好古が小学校助教試験を受けに大阪に渡り、堺県の合格証を元に小学校教師をした後、大阪師範学校を経て陸軍士官学校に学びフランス留学を経て日本騎兵を一から作り上げてゆく様子を基点にしている。秋山真之は、松山中学から実兄の好古を頼り上京。帝国大学進学を目指し、共立学校にて正岡子規とともに高橋是清に英語を学び、共立学校を経て大学予備門(のちの一高)に在籍する。正岡子規に遅れ上京した真之との交友関係は、読者には楽しく、明治初期の青年の志や情熱について理解を深める材料ともなる。夏目漱石が彼達の友人に属し、子規との交友関係を綴る件は、明治特有の時代風潮を語っている。子規は、帝国大学文学部へ進学。真之は、海軍兵学校へと異なる道を歩む。

この時点での重要なモチーフの一つは、羸弱(るいじゃく)な基盤しか持たない近代国家としての日本を支えるために、青年たちが自己と国家を同一視し、自ら国家の一分野を担う気概を持って各々の学問や専門的事象に取り組む明治期特有の人間像である。好古における騎兵、真之における海軍戦術の研究、子規における短詩型文学と近代日本語による散文の改革運動等が、其々が近代日本の勃興期の状況下で、代表的な事例として丁寧に描かれている。

後半、とりわけ子規の没後は、秋山兄弟が深く関わった日露戦争の描写が中心となり、あたかも<小説日露戦争>の雰囲気が強くなる。作者が日露戦争そのものを巨視的且つ全体的に捉えることを意図し、後半部分では本来の主人公である秋山兄弟の他に児玉源太郎東郷平八郎乃木希典などの将官や各戦闘で中心的な役割を果たした師団日本海海戦についての記述に紙幅が割かれている。読者に理解しやすいよう軍事的な記述も時系列的に述べられている。本作も、日露戦争の終結と共に兄弟のその後に触れつつ締められる。

1979年から翌年にかけ「中央公論」で連載した『ひとびとの跫音』(現:中公文庫全2巻)で、子規没後の正岡家が描かれ、後日談的位置づけもされている。また番外編的な作品に、乃木が夫妻で自決するまでを描いた『殉死』(文春文庫)[1]がある。エッセイ集成『司馬遼太郎が考えたこと』(全15巻、新潮社のち新潮文庫、特に本作の連載時期の巻)に、作品背景[2] について複数のエッセイ・解説がある。

1986年に出された長編歴史エッセイ『ロシアについて 北方の原形』(文春文庫)では、ロシア建国と日露交渉の経緯などが書かれ「『坂の上の雲』の余談のつもりで書いている」と述べた。

1989年に放映されたNHKスペシャル『太郎の国の物語 「明治」という国家』(日本放送出版協会、新版がNHKブックス全2巻)で、司馬は総括的な感慨を述べている。

2007年(平成19年)春、松山市に「坂の上の雲ミュージアム」が開館した。

評価

司馬は本作を執筆するにあたり、「フィクションを禁じて書くことにした」と晩年に述べている(「坂の上の雲 秘話」、朝日文庫版『司馬遼太郎全講演5』所収)。フィクションを禁じたので、描いたことはすべて事実であり、事実であると確認できないことは描かなかったと作者は主張しているが、実際は多くの研究者作家により、作中の誤りや創作部分が指摘されている。一例として28サンチ榴弾砲を旅順に移送する件について、史実では第三軍司令部の大本営あて返電には「…ソノ到着ヲ待チ能ワザルモ、今後ノタメニ送ラレタシ…」とあるにも関わらず、作中では「送るに及ばず」と拒否したことになっている。また、旅順要塞攻略における児玉源太郎の第三軍への指揮権介入の件については、その事実を証明する一次資料は存在せず、司馬作品以前に同様のエピソードが取り上げられたこともないため、司馬の創作ではないかとの意見が強い。

本作品は司馬の著作の中でも特に議論を呼んだことで有名で、明治という時代そのものに対する高評価、日露戦争を一種の自衛戦争であると捉えた司馬の史観旅順攻撃を担当した乃木希典およびその配下の参謀たちが能力的に劣っていたために多大な犠牲を強いることになったとする筆者の見解については、未だに賛否両論がある。また藤岡信勝は、この作品をきっかけとして自由主義史観を標榜するようになった[3]。歴史書・伝記の「読書アンケート」で一貫してトップであった。

読み手によりイデオロギーの恣意的な解釈が利き、人気作品でドラマ化された事で議論や評価も幅広い作品となっており、戦争賛美の作品と解釈される危惧の可能性から司馬本人は本作の映像化等の二次使用には一切許諾しないという立場を取っていた。権利相続者のみどり夫人の許諾を得て建設された「坂の上の雲ミュージアム」は特定の政治、思想、信条を極端に賛美しないという意図で建設されている。

書誌情報

単行本

  • 文藝春秋新装版
  1. 2004年4月10日刊行 ISBN 4-16-322810-1
  2. 2004年4月10日刊行 ISBN 4-16-322820-9
  3. 2004年5月15日刊行 ISBN 4-16-322900-0
  4. 2004年5月15日刊行 ISBN 4-16-322910-8
  5. 2004年6月15日刊行 ISBN 4-16-323010-6
  6. 2004年6月15日刊行 ISBN 4-16-323020-3

文庫本

  • 文春文庫新装版
  1. 1999年1月10日刊行 ISBN 4-16-710576-4
  2. 1999年1月10日刊行 ISBN 4-16-710577-2
  3. 1999年1月10日刊行 ISBN 4-16-710578-0
  4. 1999年1月10日刊行 ISBN 4-16-710579-9
  5. 1999年2月10日刊行 ISBN 4-16-710580-2
  6. 1999年2月10日刊行 ISBN 4-16-710581-0
  7. 1999年2月10日刊行 ISBN 4-16-710582-9
  8. 1999年2月10日刊行 ISBN 4-16-710583-7

※なお『司馬遼太郎全集』(文藝春秋、初版1973年)では「24・25・26巻」にある。

映像化

主な関連文献

※近年刊行のみ掲げる。
  • 『「坂の上の雲」 人物読本』 (文藝春秋編、文春文庫、2010年11月)
  • 『文藝春秋にみる「坂の上の雲」とその時代』 (文藝春秋、2009年11月)、伊藤正徳吉村昭児島襄ほか多数
  • 福井雄三『「坂の上の雲」に隠された歴史の真実 明治と昭和の虚像と実像』(文庫判:主婦の友社、2007年)
  • 青山淳平『「坂の上の雲」と潮風の系譜』(光人社、2005年)
  • 菊田慎典『「坂の上の雲」の真実』(光人社、2004年)
  • 別宮暖朗兵頭二十八対談『「坂の上の雲」では分からない旅順攻防戦』(並木書房、2004年)
  • 中村政則 『「坂の上の雲」と司馬史観』(岩波書店、2009年11月)
  • 塩澤実信 『「坂の上の雲」 もうひとつの読み方』(北辰堂出版、2009年11月)

脚注

  1. ^ 「殉死」の執筆刊行(文藝春秋)は1967年で、『坂の上の雲』より早く、また司馬自身最も書き上げるのに難渋した作品と回想している。明治中後期は本作以外は無く、『翔ぶが如く』など、長編の多くは明治初期のみである。またこれ以降の時代も、小説作品では「ひとびとの―」と短編以外は書いていない。
  2. ^ 『司馬遼太郎歴史のなか邂逅.4 正岡子規、秋山好古・真之~ある明治の庶民』(中央公論新社、2007年)にも明治期の人物群像エッセイ42編がある。
  3. ^ 「『近現代史』の授業をどう改造するか」7(『社会科教育』1994.10)、『汚辱の近現代史』(徳間書店、1996年) ISBN 4-19-860588-2
  4. ^ 著者池田清は、司馬とは友人で、初版は司馬の没後直後の1996年9月、ごま書房