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[[1998年]]より[[フジテレビCS事業部|フジテレビTWO]]にて当番組の[[再放送]]が行われている。当初は『DELUXE』版よりスタートし、月曜時代のものについては翌[[1999年]]夏より再放送を開始した。
[[1998年]]より[[フジテレビCS事業部|フジテレビTWO]]にて当番組の[[再放送]]が行われている。当初は『DELUXE』版よりスタートし、月曜時代のものについては翌[[1999年]]夏より再放送を開始した。


フジテレビTWOでの再放送は、[[1974年]][[4月1日]]放送)以降が対象となっている。
フジテレビTWOでの再放送は、[[1974年]][[4月1日]]以降が対象となっている。


以前は、ほぼ完全な形で局に現存している第400回放送(1976年7月5日放送)以降が対象となっており、1974年以前の放送で現存が確認されているのが[[1969年]][[1月27日]]<!-- (これのみ家庭用VTRでありOPメドレーなど一部が欠落している) -->・[[2月24日]]・[[7月28日]]、[[1973年]][[8月6日]]、[[1974年]][[3月25日]]・[[4月1日]]・[[8月5日]](第300回記念)・[[8月19日]]の計8回分のみ(2008年現在)であることや、[[三波伸介]]の親族が生前の映像使用の許可を出していないことが要因とされていた。過去の総集編企画等でも大半のパートを第400回以降の映像が占めていた。1000回記念では前田武彦・三波伸介時代の映像も多数放送されたが、それ以降は井上順以降の映像が大半を占めた。
以前は、ほぼ完全な形で局に現存している第400回(1976年7月5日放送)以降が対象となっており、1974年以前の放送で現存が確認されているのが[[1969年]][[1月27日]]<!-- (これのみ家庭用VTRでありOPメドレーなど一部が欠落している) -->・[[2月24日]]・[[7月28日]]、[[1973年]][[8月6日]]、[[1974年]][[3月25日]]・[[4月1日]]・[[8月5日]](第300回記念)・[[8月19日]]の計8回分のみ(2008年現在)であることや、[[三波伸介]]の親族が生前の映像使用の許可を出していないことが要因とされていた。過去の総集編企画等でも大半のパートを第400回以降の映像が占めていた。1000回記念では前田武彦・三波伸介時代の映像も多数放送されたが、それ以降は井上順以降の映像が大半を占めた。


また、当時の出演歌手の版権上の問題や過去映像に対する解釈により、完全な形での再放送は実現していない。再放送不可能なのが確認できるのは、主だったところでは[[ジャニーズ事務所]]所属タレント([[田原俊彦]]ら元所属タレントを含む)<!-- 出演回が全編放送できない -->、[[とんねるず]]、[[おニャン子クラブ]]、[[南野陽子]]、来日アーティストら([[テレサ・テン]]、[[チョー・ヨンピル]]など一部放送可能なアーティストもいる)。[[サザンオールスターズ]]、[[ラッツ&スター|ラッツ&スター(シャネルズ)]]についても途中から再放送されなくなった。[[花のあすか組!|あすか組]]の出演回の再放送に際しては、当初は通常通り放送されていたが、途中から彼女たちの顔に[[モザイク処理|モザイクをかける処置]]がとられた。[[沢田研二]]については当初<!-- CSで夜ヒットの再放送がスタートして1巡目、2巡目の際には -->「[[コバルトの季節の中で]]」を歌った1976年10月25日分が再放送され、その後リストから外されていたが、フジテレビTWOにチャンネル名変更になってからの再放送で再び可能となった。<!-- 以前は、CSではまったく放送予定になかった回が誤って放送された際、その中に含まれていてNGにも関わらず放送されてしまったことがある。 -->
また、当時の出演歌手の版権上の問題や過去映像に対する解釈により、完全な形での再放送は実現していない。再放送不可能なのが確認できるのは、主だったところでは[[ジャニーズ事務所]]所属タレント([[田原俊彦]]ら元所属タレントを含む)<!-- 出演回が全編放送できない -->、[[とんねるず]]、[[おニャン子クラブ]]、[[南野陽子]]、来日アーティストら([[テレサ・テン]]、[[チョー・ヨンピル]]など一部放送可能なアーティストもいる)。[[サザンオールスターズ]]、[[ラッツ&スター|ラッツ&スター(シャネルズ)]]についても途中から再放送されなくなった。[[花のあすか組!|あすか組]]の出演回の再放送に際しては、当初は通常通り放送されていたが、途中から彼女たちの顔に[[モザイク処理|モザイクをかける処置]]がとられた。[[沢田研二]]については当初<!-- CSで夜ヒットの再放送がスタートして1巡目、2巡目の際には -->「[[コバルトの季節の中で]]」を歌った1976年10月25日分が再放送され、その後リストから外されていたが、フジテレビTWOにチャンネル名変更になってからの再放送で再び可能となった。<!-- 以前は、CSではまったく放送予定になかった回が誤って放送された際、その中に含まれていてNGにも関わらず放送されてしまったことがある。 -->

2009年11月4日 (水) 09:08時点における版

夜のヒットスタジオ
ジャンル 音楽番組
出演者 司会者
前田武彦(初代)
芳村真理(初代 - 4代目)
三波伸介(2代目)
朝丘雪路(2代目)
井上順(3代目)
古舘伊知郎(4代目 - 6代目)
柴俊夫(5代目)
加賀まりこ(6代目)
製作
制作 フジテレビ
放送
音声形式ステレオ放送
1978年10月 - 放送終了)
放送国・地域日本の旗 日本
フジテレビ
夜のヒットスタジオ
放送期間1968年11月4日 - 1985年3月25日
放送時間毎週月曜 22:00 - 22:54
放送分54分
夜のヒットスタジオDELUXE
放送期間1985年4月3日 - 1989年9月27日
放送時間毎週水曜 21:02 - 22:52
夜のヒットスタジオSUPER
放送期間1989年10月18日 - 1990年10月3日
放送時間毎週水曜 22:00 - 22:54

特記事項:
放送回数:全1131回
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夜のヒットスタジオ』(よるのヒットスタジオ)は、フジテレビでかつて放送されていた音楽番組である。通称「夜ヒット」。現在、CS放送のスカパー!スカパー!e2フジテレビTWOで再放送中(1976年7月放送分以降の内容から順次。2009年4月より1974年4月に遡り再放送中)。

概要

1968年11月4日から1990年10月3日まで、約22年間放送された長寿番組の1つ。

1970年代前半までは「歌謡バラエティ」番組として、1970年代後半以降は、アイドル歌手・演歌歌手からテレビ出演に消極的であったニューミュージック・ロック系アーティスト、人気俳優、海外のアーティスト、歌なしのフュージョンバンドなどを出演させた。生演奏・フルコーラスを番組制作の基本とした。『ザ・ベストテン』(TBS系)と共に、1970・1980年代の代表的音楽テレビ番組の1つ。芳村真理前田武彦井上順らによる自然体のMCスタイルが印象的。 22年間で紹介された楽曲は概ね13,000曲、出演アーティストは1,000組。

歴史

司会者

第1000回までは基本的に芳村真理を軸に男性パートナーが交代し、第1002回目からは古舘伊知郎を軸にパートナーが交代する形で司会者が変遷した。『夜ヒット』4分割後の『SUPER』以外の司会者については#派生番組を参照。

  • 初代:前田武彦・芳村真理 1968年11月4日〜1973年9月24日
    • →司会者なし(ゲスト司会による輪番制) 1973年10月1日〜1974年3月25日
  • 2代:芳村真理・三波伸介朝丘雪路 1974年4月1日〜1975年3月31日
    • →芳村真理・三波伸介 1975年4月7日〜1976年3月29日
      • 芳村・三波コンビでの司会の第1回目は前田降板の次の回に当たる1973年9月24日との記録があるが、当時の新聞の番組表には「さよなら前田武彦・芳村真理」とある。
      • 朝丘は、○周年、○百回記念といった歴代司会者が集結する機会には「ゲスト司会者扱い」として出演しなかった。また、1974年4月1日放送分では体調不良により電話のみの出演。
  • 3代:芳村真理・井上順 1976年4月5日〜1985年9月25日
  • 4代:芳村真理・古舘伊知郎 1985年10月2日〜1988年2月10日
  • 5代:古舘伊知郎・柴俊夫 1988年2月24日〜1989年9月27日
  • 6代:古舘伊知郎・加賀まりこ 1989年10月18日〜1990年10月3日

プロデューサー・ディレクター・構成作家

  • 塚田茂(作・構成) - 1968年から番組終了まで構成を担当。但し、1980年代以降は現場で直接指揮を執る形ではなく、総合監修的な役割で番組に参加しており、実際の現場指揮はスタッフ東京(後述)のメンバーが当たっていた。
  • 木崎徹(構成) - 1987年から番組終了まで担当。
  • 伊藤昭(初代プロデューサー) - 1968年から1973年まで担当。
  • 藤森吉之(ディレクター→2代目プロデューサー)- 1973年から1978年までプロデューサーを担当
  • 疋田拓(ディレクター→3代目プロデューサー)- 1976年から1987年夏までプロデューサーを担当。実験的とも言える演出方法を多用した。
  • 井上信悟(ディレクター) - 1979年より番組制作に参加。番組エンディングのクレジットでは「ディレクター」として扱われていたが、実際には疋田とともに番組演出の中心的な役割を務めた。
  • 森正行(4代目プロデューサー) - 1987年から番組終了まで担当。
  • 渡邊光男(4代目プロデューサー) - 1987年から番組終了まで担当。
  • 水口昌彦(番組終期のディレクター・現お台場明石城三奉行、編成制作局バラエティ制作センター部長)

このほか、1977年より塚田が立ち上げた構成作家グループ「スタッフ東京」も構成に参加。若き日の玉井貴代志高田文夫松岡孝らも制作に参加していた。また、『DELUXE』以降には現在フジテレビの音楽番組制作を一手に引き受けている「音組」のきくち伸らもADとして制作に関わっており、現在の「音組」の基礎を築いた番組でもあった。同局の『FNS歌謡祭』や『新春かくし芸大会』もこれらのスタッフが主要ブレーンとして製作の陣頭指揮を執っていた。

演奏

  • 豊岡豊とスイング・フェイス(指揮:豊岡豊) 1968年11月〜1969年3月
    • モノクロ放送時代のみ担当。この当時はオケピットの配置が後年知られている並びとは大幅に異なっており、吹奏楽器(トランペットなど)演奏者と弦楽器(バイオリン)演奏者の配置は全く逆となっていた(弦楽器担当者のほうが歌手たちが座っているひな壇に近い位置に陣取っていた)。
  • ダン池田とニューブリード(指揮:ダン池田) 1969年4月〜1985年3月
    • カラー放送開始と同時に番組に参加し、月曜日の放送終了までの16年間活動。バンドマスターのダン池田は、番組前期の頃は指揮だけでなく「歌謡ドラマ」にも頻繁に客演するなどコメディリリーフとしても活躍した。ダン池田は、たまにラテンパーカッション・クラシックパーカッションなどを担当する事もあった。
    • ニューブリードの起用と同時にオケピットの配置も(ひな壇に近い順番から)吹奏楽器・ドラム及びギター・弦楽器(及びシンセサイザーなどの演奏補助<1978>)という並びに変更された。
  • ザ・ニューブリードスペシャル(指揮:三原綱木)1985年4月〜1986年3月
    • 番組リニューアルとダン池田の降板を機に、「ダン池田とニューブリード」の一部メンバーを入れ替え・整理。三原は司会の井上順の誘いを受けてバンドマスターの仕事を引き受けたと言われている。三原は指揮をしないでギターを弾いていることも多々あった。
  • THE HIT SOUND SPECIAL(指揮:新井英治) 1986年4月〜1989年9月
    • 三原綱木が脱退した以外メンバーの変更はなし。指揮の荒井は、トロンボーンを演奏する事が多々あった。
  • THE HIT SOUND SPECIAL(指揮:服部隆之) 1989年10月〜1990年9月
    • 服部は指揮者のほか、番組の音楽監修として一部歌手の歌の編曲も担当した(それより前は広瀬健次郎大村雅朗らが音楽監修を担当していた)。
  • 三原綱木&ザ・ニューブリード(指揮:三原綱木)
    • 2001年の復活版(但し純然たる復活版ではない)担当。それ以外の復活版では、1991年4月3日放送分で若干オケピットの並び方が違うが、楽譜を置く台などは当時のデザイン。

ちなみに、オーケストラを配置しなかったのは1988年3月30日・『DELUXE』最終回・1990年10月3日、1987年・1988年・1989年の年末のスペシャル、あるいは全編総集編の回のみであり、それ以外の回は演奏時間に関係なく設置されていた。

レギュラー陣

  • 塚田茂-番組初期(1976年3月まで)の頃に「出たがり放送作家」という名目で「歌謡ドラマ」等に客演。
  • 鶴岡雅義と東京ロマンチカ-1974年10月までレギュラー出演。
  • 野沢那智-1973~1975年までレギュラー出演。主に「歌謡ドラマ」要員。
  • 小林大輔-1968~1973年頃までレギュラー出演。「コンピュータ恋人選び」コーナー担当。前田武彦が命名した「もぐらのお兄さん」の愛称で親しまれた。
  • 服部真湖-1985~1989年まで衛星中継コーナーのレポーター兼通訳としてイレギュラー出演。
  • Dee-Dee-1985年~1990年までバッグダンサーとしてレギュラー出演。当初は「B・G・M」というグループ名であったが、翌年にレコードデビューしたのを機に「Dee-Dee」に改名。

節目・記念の回

  • 第1回 - 1968年11月4日
  • 第100回 - 1970年9月28日(2時間スペシャル)
  • 第200回 - 1972年8月28日
  • 第300回 - 1974年8月5日
  • 第400回 - 1976年7月5日(〜26日まで記念月間)
  • 10周年(突入) - 1977年10月3日(2時間スペシャル、実際には11月7日放送から10年目突入)
  • 第500回 - 1978年6月5日(前週の5月29日に繰り上げて500回記念放送)
  • 第600回 - 1980年5月12日(5月5日〜26日まで記念月間)
  • 第700回 - 1982年4月12日(4月5日〜26日まで記念月間、26日に特別編成(前述参照))
  • 15周年(突入) - 1982年10月4日(2時間スペシャル、実際には11月1日放送から15年目突入)
  • 第800回 - 1984年3月26日
  • 第900回 - 1986年3月12日(26日に900回突破記念の特別編成を組む)
  • 第1000回 - 1988年2月10日(3時間特番・芳村真理勇退)
  • 20周年 - 1988年11月23日-12月7日(1週目は今昔特別編、2週目は全編海外衛星中継、3週目は総集編企画。実際には11月2日放送から21年目突入)
  • 第1100回 - 1990年2月7日
  • 第1131回(最終回) - 1990年10月3日(3時間特番)
    • 一部資料では通算放送回数を「1133回」とするものがあるが、1990年3月28日及び4月4日の放送はなかったことから実際の通算放送回数は「1131回」である。

なお、第500回以降の回数計算はなぜか実際上は1回欠落した状態で放送されていた模様であり、特別編成もその関係でその節目の回を含む月の1週目もしくは4週目、場合によってはその月全体を特別月間として編成することが多かったが、特別企画「世界紅白歌合戦」として放送された1986年12月31日も放送回数に通算されており、1988年2月10日の第1000回放送は誤りはない。

10周年・15周年記念特別番組については10年目・15年目に入った時点で行われていたが、20周年に関しては満20年に到達した時点で行われた。このほか、1980年代までは毎年10月から11月の間は「○周年突入記念月間」と銘打って、またはその間の1回を特別編成にして放送した。12年目突入の1979年には10月1日、17年目突入の1984年には10月8日にそれぞれ2時間の記念編成が組まれ、通常プログラムと異なる趣向が採られた。

年表

年度・期間 番組タイトル
・放送時間
司会者 事項・初出演等
男性 女性
1968(昭和43年) 夜のヒットスタジオ
毎週月曜夜10時
〜10時54分
前田武彦
1968/11/4〜1973/9/24
第1回〜256回
芳村真理
1968/11/4〜1973/9/24
第1回〜256回
11月4日、放送開始。当初はモノクロ放送
・初代司会: 前田武彦・芳村真理
・レギュラー: 鶴岡雅義と東京ロマンチカ(1974年10月まで)、小林大輔アナウンサー(恋人選び担当)、
・演奏: 豊岡豊とスイング・フェイス(1968年11月〜1969年3月)
・第1回出演者:島倉千代子布施明美川憲一ピンキーとキラーズほか
恋人選びご対面他人の歌OPメドレー
11月11日、男優での第1号歌ゲスト・加山雄三初登場、森進一青江三奈らも初登場
11月25日、伊東ゆかり中尾ミエ初登場
12月16日、北島三郎水前寺清子初登場
12月23日、村田英雄橋幸夫初登場
1969(昭和44年) 1月27日には中村晃子、2月24日にはいしだあゆみ、小川知子が号泣。泣きの夜ヒットとして話題に
1月6日、ザ・ピーナッツ初登場「ガラスの城」
2月24日、都はるみ初登場「好きになった人」
3月17日、最高視聴率42.2%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録
4月より、モノクロからカラー放送へ移行
ダン池田とニューブリードがオーケストラに(1969年4月〜1985年3月)
3月31日、女優での第1号歌ゲストとして吉永小百合初登場
4月21日、坂本九初登場
6月9日、和田アキ子初登場「どしゃ降りの雨の中で」
7月7日、ハナ肇とクレイジーキャッツ初登場
7月14日、同番組構成の塚田茂が前田武彦の代理司会を担当。ザ・ドリフターズ森山良子初登場
8月4日、勝新太郎初登場
8月25日、コント55号出演
10月6日、スポーツ界からの初のゲストとして大相撲の北の富士が出演
10月13日、渡哲也初登場「ギターと旅びと」
10月20日、沢田研二ザ・タイガースのヴォーカルとして初登場
10月27日、石原裕次郎初登場
11月17日、元読売ジャイアンツ選手・金田正一が現役引退から程なく特別出演
12月8日、加藤登紀子初登場「ひとり寝の子守唄」
12月15日、藤圭子ちあきなおみ初登場
12月22日、初の海外ゲストとしてオズモンド・ブラザーズ出演
1970(昭和45年) 1月5日、堺正章井上順ザ・スパイダースの一員として番組に初登場
3月30日、司会者・土居まさるが歌手として登場「ラブレター」
6月29日、司会者・大橋巨泉が歌手として登場
9月7日、藤純子(現・富司純子)、歌手として登場
9月14日、倍賞千恵子てんぷくトリオが歌手として登場
9月28日、放送100回達成、初の2時間編成
11月9日、同年に制定された日本歌謡大賞特別企画を組む(因みに当時の同賞授与式司会は前田武彦であった)。番組史上最年少での初出演歌手・皆川おさむが出演
12月28日、歌謡界の女王・美空ひばり初登場
この年、夫婦での出演多数(井上順・青木エミ、和田浩治・梓みちよ、松山英太郎夫妻、長沢純・川口晶など)
1971(昭和46年) 2月8日、初のジョイント企画放送(沢田研二×萩原健一、このジョイントを契機として同年、GSの主要バンドメンバーを集め「PYG」を結成する)
3月15日、鶴田浩二初登場「傷だらけの人生
5月24日、「新三人娘」の先陣を切り、小柳ルミ子初登場「わたしの城下町
6月21日、夜ヒット最多出演者・五木ひろしが初登場「よこはま・たそがれ
9月27日、杉良太郎が初登場。また、「新御三家」の先陣を切り、野口五郎が初登場「青いリンゴ
11月1日、天地真理南沙織初登場
11月15日、第2回日本歌謡大賞特集を組み、尾崎紀世彦ら各賞受賞者が受賞曲を披露
11月22日、坂本九が前田武彦の代理司会を担当
1972(昭和47年) 5月29日、石坂浩二浅丘ルリ子夫妻(当時)が特別出演
8月14日、「花の中三トリオ」の先陣を切り、森昌子が初登場「せんせい
8月21日、麻丘めぐみ初登場「芽ばえ
12月4日、西城秀樹初登場「チャンスは一度
12月25日、郷ひろみ初登場「小さな体験
1973(昭和48年)
(〜9月まで)
1月1日、アグネス・チャン初登場「ひなげしの花
5月28日、桜田淳子初登場「天使も夢みる
6月4日、アン・ルイス初登場「わかりません」
7月30日、山口百恵初登場「としごろ
8月6日、テレビ西日本開局15周年記念特別番組として福岡より中継放送
9月10日、キャンディーズ初登場「あなたに夢中
6月、前田武彦の「共産党バンザイ発言」事件起きる。9月24日に司会降板、芳村真理も同時に一時番組を離れることに
1973(昭和48年)
(10月〜1974年3月)
特定司会者なし
(ゲスト歌手輪番制)
1973/10/1〜1974/3/25
第257回〜281回
固定のレギュラー司会者を設定せず、ゲスト歌手2組が交替で司会を務めるスタイルが採られる
1974年2月11日、八代亜紀初登場「しのび恋」
1974年2月18日、石川さゆり初登場
1974年3月4日、チューリップテレサ・テン初登場
1974(昭和49年)
(1974年4月〜7月)
三波伸介
1974/4/1〜1976/3/29
第282回〜386回
芳村真理/朝丘雪路
1974/4/1〜1975/3/31
芳村真理が司会復帰。三波伸介、朝丘雪路が加わりトリオ司会体制に
この頃よりスタジオに観客を入れての公開番組形式となる(1976年3月頃まで)
歌謡ドラマ
4月1日、布施明、ちあきなおみ「ドッキリ虚偽結婚発表」
4月22日、多岐川裕美初登場
1974(昭和49年)
(7月〜12月)
芳村真理
1974/4/1〜1988/2/10
第282回〜1000回
朝丘雪路が舞台長期出演のためレギュラー降板
8月5日、放送300回達成・大磯ロングビーチ中継
8月19日、五木ひろし、ご対面コーナーで2人の恩人との対面に涙の歌唱
11月4日、グレープ中村雅俊が初登場
11月18日、山口百恵の応援ゲストとして映画で共演した後の夫・三浦友和が出演。
12月、同年制定された「FNS歌謡祭」特集を組む(同年年間グランプリの五木ひろしは12月9〜30日まで4週連続出演)
12月、騎手・増沢末夫が「さらばハイセイコー」で歌手として出演
1975(昭和50年)
(〜1976年3月まで)
2月24日、スリー・ディグリーズ出演「にがい涙」「荒野のならず者」。これを契機に海外アーティストの出演機会が増え始める。
3月31日、ザ・ピーナッツ「サヨナラ」企画(初の「サヨナラ」企画)
5月5日、細川たかし初登場「心のこり
6月16日、岩崎宏美初登場「二重唱 (デュエット)
7月7日、千昌夫VS佐々木更三日本社会党委員長(当時)の「東北弁おしゃべり」対決
8月11日、沖縄・海洋博会場から台風直撃の中で中継
11月24日、同日開催された第6回日本歌謡大賞を組み、布施明ら各賞受賞者が受賞曲を披露。布施は久々に実父と感動の「ご対面」
12月1日、初の「4スタライブ」実施(憂歌団初登場「ひとり暮し」)
12月8日、戦前派の大物・淡谷のり子が特別出演(歴代出演歌手中最高齢での出演)
1976年2月16日、桂三枝が歌手として登場
この頃より作詞者・作曲者名のクレジットが曲名・歌手名と共に併記されるようになる
1976(昭和51年) 井上 順
1976/4/5〜1985/9/25
第387回〜877回
井上順が司会に参加。
この頃から、原則として全曲フルコーラスで歌われるようになる。また、ヒットメドレー企画・ジョイント企画が本格的に番組の看板企画として多用される。
ラッキーテレフォンプレゼント
4月5日、大竹しのぶ初登場「みかん」
6月21日、ジョイント―森昌子×山口百恵×桜田淳子×岩崎宏美
7月5日、放送400回突破、同月を「400回記念月間」と銘打ち放送
7月19日、あおい輝彦、かつて所属していたジャニーズメンバーと久々のご対面、即興で「太陽のあいつ」をワンコーラス披露
8月9日、アグネス・チャン「サヨナラ」企画(カナダへの一時留学による芸能活動休止)
11月8日、あおい輝彦「君が優しすぎるから」で歌の冒頭でマイクから音が出ないトラブルが発生、1番の半フレーズ近くを歌ったところで一旦演奏を打ち切り、再度歌い直しの措置がとられる
11月15日、アダモ初登場
12月6日、通常使用する第6スタジオを離れ第10スタジオより放送。特別ゲストに阪神タイガース田淵幸一選手(当時)登場
12月20日、ピンクレディー初登場「ペッパー警部
1977(昭和52年) 1月31日、当日出演予定のシルビア・クリステルが急病のため出演を直前でキャンセル(翌2月7日放送に代替出演)
5月16日、アグネス・チャン「おかえり」企画(カナダから一時帰国)
6月6日、ジョイント―キャンディーズ×ピンクレディー
6月27日、ジョイント-矢野顕子×山本邦山、このジョイント企画が評価され1977年度の民放祭優秀賞を受賞
7月11日、大磯ロングビーチより大雨の中での中継
7月18日、キャンディーズ引退発表会見の模様を放送
10月3日、放送10周年突入記念特番
・ジョイント―布施明×五木ひろし×森進一×沢田研二「マイ・ウェイ」、梓みちよ×小柳ルミ子「カルメン'77」
・花の高三トリオ×新御三家デュエット大会、ほか
11月28日、十朱幸代が歌手として初登場
12月26日、中島みゆきが登場、「わかれうた」「アザミ嬢のララバイ」を披露。このほか、この年から翌年にかけてフォーク・ニューミュージック勢の初登場が相次ぐ(7月25日:イルカChar、10月10日:五輪真弓、12月5日:原田真二アリス、1978年1月9日:世良公則とツイスト渡辺真知子、2月13日:大塚博堂、5月15日:NSP、6月5日:庄野真代、7月10日:尾崎亜美、ほか)
1978(昭和53年) 1月30日、沢田研二、伝説の畳バージョン「サムライ」熱唱
3月27日、石原裕次郎、8年半ぶりの出演「赤いハンカチ」「夜霧よ今夜も有難う」「昭和たずねびと」。石野真子、デビュー2日後にして初登場「狼なんか怖くない
4月3日、後楽園球場よりキャンディーズ最後の熱唱
5月8日、歌舞伎俳優・市川染五郎(現・松本幸四郎)が歌手として登場
6月5日、番組放送500回達成(5月29日に前夜祭として500回記念放送)
7月31日、サザンオールスターズ初登場「勝手にシンドバッド」、番組史上初めて歌詞テロップ表示の措置を採る
9月25日、南沙織「サヨナラ」企画
10月2日、関東地区にてステレオ放送を開始(これを機にOPのファンファーレ音楽をステレオ放送対応バージョンのものに変更)
12月4日、日本ゴルフ界の第一人者・青木功が特別出演
1979(昭和54年) 2月26日、森進一ナベプロ独立後最初の番組出演、「きみよ荒野へ」を涙の熱唱
3月5日、フジテレビ開局20周年記念番組として放送、ジョイント―安奈淳×西城秀樹×郷ひろみ×野口五郎「愛あればこそ」
5月14日、小林幸子初登場「おもいで酒
6月4日、ジョイント―萩原健一×柳ジョージ×井上尭之「大阪で生まれた女」
7月9日、ジュディ・オング、合成映像(ドライアイスの上に海の映像をかぶせたもの)の中で「魅せられて」を披露
7月30日、ミス・インターナショナル各国代表が総出演、トリの松崎しげるの歌ではバックダンサーを務める
8月13日、浜田省吾初登場「風を感じて」、敏いとうとハッピー&ブルー田辺靖雄「よせばいいのに」競演
9月10日、松坂慶子初登場「愛の水中花
10月8日、西武ライオンズ球場より強風の中で中継
11月12日、CHAGE&ASKA初登場
12月24日、初の聖夜週特別編成を組む
1980(昭和55年) 3月10日、庄野真代「サヨナラ」企画(長期の歌手活動休止)
4月28日、松田優作松田聖子初登場「裸足の季節」。
5月12日、放送600回達成
6月2日、イエロー・マジック・オーケストラ初登場「ライディーン」「テクノポリス
6月23日、芦ノ湖畔・箱根園庭園より中継
6月30日、吉田拓郎初登場「いつか夜の雨が」「あの娘といい気分」の2曲を披露。また、田原俊彦河合奈保子も初登場
8月11日、美空ひばり、1970年12月28日以来10年ぶりの出演
8月25日、第10スタジオ・第4スタジオからの放送実施
9月1日、ジョイント―アン・ルイス×竹内まりや「リンダ」(アンのセカンドネームが「リンダ」という縁で)
10月6日、山口百恵最後のテレビ生出演
10月20日、ポール・モーリア楽団が出演、西城秀樹と「サンタマリアの祈り」でセッション
10月27日、ノーランズ初出演
11月24日、近藤真彦初登場「スニーカーぶる〜す
12月15日、井上陽水初登場「夢の中へ」「クレイジーラブ」
1981(昭和56年) この頃より海外アーティストの出演も増加し、衛星中継も度々行う
2月2日、ポリス出演。
2月16日、郷ひろみが井上順の代理司会を担当、RCサクセション初登場「トランジスタ・ラジオ」
3月9日、桃井かおり初登場「バイバイ子守唄」
3月30日、ピンクレディー「サヨナラ」企画
6月8日、西田敏行初登場「もしもピアノが弾けたなら」
8月17日、イモ欽トリオ初登場、萩本欽一が応援ゲストとしてスタジオに駆けつける
8月31日、石野真子「サヨナラ」企画、タモリが歌手・トランペット奏者として登場
11月2日、アリス「サヨナラ」企画
11月9日、シーナ・イーストン初出演
11月30日、重傷のため長期休養中だった河合奈保子が同番組で復帰、薬師丸ひろ子が初登場
12月14日、オリビア・ニュートンジョン出演「フィジカル」
12月21日、ジョイント-北島三郎×山本譲二(師弟競演)
1982(昭和57年) 1月11日、竹下景子が芳村真理の代理司会を務める。
3月1日、デラ・セタカ&喜多郎、「千年女王」のテーマ曲で競演
3月8日、ピーター・ポール&マリー出演(春一番・PPM特集として放送)
3月22日、小泉今日子初登場「私の16才
3月29日、アンディ・ウィリアムス出演
4月12日、番組放送700回達成、4月26日に新婚夫婦300組を招待してのディナーショー形式の記念番組を放送(東京プリンスホテルより)
5月3日、シブがき隊三田寛子初登場。三田の歌につきマイク故障のトラブルが発生し、急遽再度歌い直しの措置が採られる
6月14日、RCサクセション「ガム吐き捨て」事件
7月12日、美空ひばり、作者の谷村新司を目の前に「」を熱唱
8月30日、もんたよしのりの結婚祝福企画を放送
9月20日、中森明菜初登場「少女A
10月4日、15周年突入記念スペシャル、特別ゲスト・ジョーン・バエス
12月13日、フリオ・イグレシアス、衛星中継で初出演
12月20日、海援隊「サヨナラ」企画、THE ALFEEが初登場「別れの律動」
1983(昭和58年) 1月10日、歌舞伎俳優・先代中村勘三郎が特別出演
2月28日、井上順の代理として田原俊彦が芳村真理の相手役を務める。ジョイント―佳山明生×日野美歌「氷雨」
3月21日、映画「ブッシュマン」で話題となった"ニカウさん"出演
3月28日、ライオネル・リッチー初出演
5月2日、長渕剛原田知世初登場
6月13日、カルチャークラブ初出演
6月20日、「007」シリーズの「ジェームス・ボンド」役で人気のロジャー・ムーアが特別出演
7月4日、細川たかしが井上順の代理司会を担当
10月10日、代々木第一体育館より中継、海外ゲスト: リック・スプリングフィールド
11月14日、ジョイント―チョー・ヨンピル×渥美二郎、内田あかり、殿さまキングスほか「釜山港へ帰れ」
11月21日、U2ジャッキー・チェン初出演、U2の演奏時にアンプが突然故障するハプニング発生
12月5日、ジョイント―研ナオコ×小椋佳「泣かせて」
12月19日、ポール・アンカ初出演
1984(昭和59年)
(〜1985年3月まで)
1月16日、デュラン・デュラン初出演
1月23日、ジョイント-森昌子×円広志「越冬つばめ
2月6日、安全地帯初登場「ワインレッドの心
2月13日、チェッカーズ初登場「涙のリクエスト
3月、番組放送800回達成
4月23日、荻野目洋子初登場「未来航海〜Sailing〜」
4月30日、「52歳の大型新人」芦屋雁之助初登場「娘よ」
7月30日、一世風靡セピア初登場
9月3日、舘ひろし初登場「泣かないで」
辻久子、前橋汀子ら、クラシック界からの出演者が登場
10月8日、2時間スペシャル
・松田聖子「あなた」、田原俊彦「BEAT IT」、中森明菜「イミテイション・ゴールド」、美空ひばり「ラブ・イズ・オーヴァー」など
・萩本欽一率いる「欽ちゃんファミリー」総出演
・ジョイント―石川秀美×早見優×堀ちえみ「やさしい悪魔
10月15日、ビートたけし、歌手として「たけし軍団」を率いて登場
11月19日、西城秀樹・郷ひろみ、「Careless Whisper」で「対決」
12月17日、都はるみ「サヨナラ」企画
1985年1月21日、マドンナ初出演「ライク・ア・ヴァージン
1985年2月18日、プロレス界の第一人者・アントニオ猪木が特別出演、木の実ナナ×細川俊之、ミュージカル「ショーガール」の一コマを再現
この頃よりシングル(当時はEP盤)B面・アルバム(当時はLP盤)収録曲披露の機会が多くなる(松田聖子「ボン・ボヤージュ」「夏服のイブ」、小泉今日子「風のマジカル」など)
1985(昭和60年)
(4月〜9月)
夜のヒットスタジオ
DELUXE

毎週水曜夜9時2分
〜10時52分
曜日を月曜→水曜へ移動、2時間へ拡大
ニューブリードのバンマスがダン池田から三原綱木に交替(ザ・ニューブリードスペシャル、1985年4月〜1986年3月)
また、この頃から、番組で芳村真理プロデュースのファッションショーがレギュラー企画化される
マンスリーゲスト制(第1回目のマンスリーは小柳ルミ子)
今夜のヒットスタジオ(事前2分番組。牧原俊幸、本間淳子(後に永真理)各アナウンサーが担当)、タイムトンネル、このほかDX初期にはビデオレター、ニュースコーナーなども存在。
4月10日、ボン・ジョヴィ初出演
4月10日、吉幾三、地元の村民とご対面(村民全員が駆けつけたとの話もある)
4月17日、フランク・シナトスタジオ出演&ティナ・ターナー衛星中継出演、とんねるず初登場
6月5日、高田みづえ「サヨナラ」企画、引退前最後のテレビ出演
6月19日、世界的トランペット奏者・渡辺貞夫がマンスリー・田原俊彦とのセッションで番組初登場
高中正義TUBE初登場
7月24日、おニャン子クラブ中山美穂初登場
8月7日、谷村新司・佐藤隆が「12番街のキャロル」で「対決」
8月21日、森進一、坂本九を追悼して「見上げてごらん夜の星を」絶唱
原田知世野村宏伸渡辺典子の当時の角川映画を代表する俳優3人が特別ユニット「BIRD」として登場
9月25日、井上順が司会卒業
1985(昭和60年)
(10月〜)
古舘伊知郎
1985/10/2〜1990/10/3
第878回〜1131回
ANBアナの古舘伊知郎が司会者として参加
10月2日、ジョイント―アン・ルイス×吉川晃司「六本木心中」
10月9日、ジョイント―矢野顕子×坂本龍一(夫婦競演)
10月16日、阪神優勝の瞬間を生中継
11月13日、ホイットニー・ヒューストン初出演
11月20日、矢沢永吉、ロサンゼルスからテレビ初生出演。
12月4日、ジョイント―西城秀樹(マンスリー)×バリー・マニロウ腕の中へ
12月18日、逸見政孝が古舘の代役司会、ジョイント―沢口靖子×布施明
1986(昭和61年) オーケストラがTHE HIT SOUND SPECIALに(指揮: 新井英治、1986年4月〜1989年9月)
2月5日、露木茂、古館の代理司会を担当(芳村・露木という当時の「FNS歌謡祭」司会コンビでこの回は進行がなされた)
2月12日、本田美奈子初登場「1986年のマリリン
3月5日、BOØWY初登場「わがままジュリエット
4月2日、ハリー・ベラフォンテ出演。ゲスト歌手全員での「We Are The World」大合唱
5月28日、甲斐バンド、最初にして最後の出演、「漂泊者」などを披露
6月11日、シンディ・ローパー初出演
8月20日、ジョイント-西城秀樹×カシオペア×宇崎竜童「約束の旅」ほか
8月27日、森昌子「サヨナラ」企画
9月24日、ジャネット・ジャクソン初登場
10月22日、ロッテオリオンズから中日ドラゴンズへと移籍したばかりの落合博満が歌手として登場「サムライ街道」
11月26日、ジョイント―岩崎宏美×布施明
12月31日、特別企画「世界紅白歌合戦」として放送
1987(昭和62年)
(〜1988年2月まで)
視聴者プレゼントの賞品がテレカ
3月4日、ジョイント―宇崎竜童(マンスリー)×内田裕也、ジョー山中、桑名正博他「ロックンロール・ウィドウ
3月25日、ジョイント-EPO×鈴木雅之「Down Townラプソディー」
5月〜6月10日、結婚を控えた郷ひろみが6回連続の最長記録マンスリーゲストに。
5月13日、ジョイント―河合奈保子×杏里「オリビアを聴きながら
5月27日、大相撲・大関の小錦八十吉が特別出演
6月17日、斎藤由貴、島田歌穂ら「レ・ミゼラブル」のキャストが勢揃い、「ピープルソング」を大合唱
7月29日、光GENJI坂本冬美初登場
8月26日、久保田利伸初登場「TIMEシャワーに射たれて」、おニャン子クラブ「サヨナラ」企画
10月7日、五木ひろし、マンスリーの久保田利伸に他の歌手が歌唱中に「蹴り」を入れ、とんねるず、和田アキ子や司会の芳村真理が仲裁する一幕
10月14日、米米CLUB初登場
大物海外アーティストの出演相次ぐ(11月18日:ポール・マッカートニー、12月16日:エルトン・ジョンほか)
11月25日、「ダウン・タウン・ブギウギバンド」再結成・8年ぶりの出演
12月、渡辺謙がマンスリーゲストとして1ヶ月連続出演
12月30日、初の「スーパーデラックス」版放送
・ジョイント―田原俊彦×久保田利伸×AMAZONS「It's BAD」、中森明菜×玉置浩二×井上陽水「飾りじゃないのよ涙は」、吉田拓郎×THE ALFEE「アジアの片隅で
THE BLUE HEARTSがテレビ生番組初登場
1988年1月6日、谷村新司・堀内孝雄、「アリス」再結成・同バンド名義では7年ぶりの登場
1988年2月3日、999回記念・ロンドン衛星生中継を実施
1988年2月10日、放送1000回達成、同時に第1回より司会を務めた芳村真理が同記念放送を以て司会を引退(3時間特番、新高輪プリンスホテルより)
1988(昭和63年)
(1988年2月〜12月)
古舘伊知郎/
柴 俊夫
1988/2/24〜1989/9/27
第1002回〜1084回
柴俊夫が司会に参加、男性二人制に
4月20日、泉谷しげる初登場「褐色のセールスマン」
6月22日、尾崎豊、テレビ生番組初出演
7月20日、大江千里初登場「GLORY DAYS」
7月、マンスリー・小泉今日子が10分近い大作「夏のタイムマシーン」を前後編に分けて披露
8月、マンスリーゲスト制を休止し、特別企画として毎週異なるアーティストによる第4スタジオでの公開ライブ企画を実施(翌1989年8月期にも実施)
9月7日、所ジョージ、歌手として登場「故郷」
10月19日、志村けんが「だいじょうぶだぁ」ファミリーを率いて登場
11月、番組放送20周年
マンスリー・スタジオLIVE恋人選びコーナー12年ぶりに復活
・11月23日、初代司会の前田武彦・芳村真理を迎え20周年特別版放送
・11月30日、ザルツブルクより衛星中継
・12月7日、20周年記念今昔総集編放送
・マンスリーに松山千春登場
12月28日、「スーパーデラックス」放送
・ジョイント―HOUND DOG×THE ALFEE「SWEAT&TEARS+ff(フォルティシモ)」、渡辺美里×泉谷しげる×大友康平「恋したっていいじゃない」ほか
1989(平成元年)
(〜9月まで)
3月1日、「サディスティック・ミカ・バンド」再結成・初登場「Boys&Girl」
3月29日、パリより衛星中継
4月、さだまさし、マンスリー出演
・4月5日、「親父の一番長い日」ノーカット披露
・4月19日、「建具屋カトーの決心」TV放送と同時にレコーディング
5月3日、横浜アリーナ中継
7月12日、ジョイント―大江千里(7月マンスリーゲスト)×渡辺美里×TM NETWORK「ジェシオ'S BAR」、ほか
8月23日、DREAMS COME TRUE初登場「うれしはずかし朝帰り
9月20日、宮沢りえ初登場「DREAM RUSH」
9月27日、DELUXE終了、柴俊夫が司会降板
1989年10月〜1990(平成2年) 夜のヒットスタジオ
SUPER

毎週水曜夜10時
〜10時54分
古舘伊知郎 加賀まりこ
1989/10/18〜1990/10/3
第1085回〜1131回
2時間から1時間へと放送時間短縮(番組4分割)
バンマスが服部隆之に交替
1989年11月8日、2日前(11月6日)に逝去した松田優作を追悼するコーナーを特別に設定、松田が出演した1980年4月28日放送分のVTRを放映。
1989年11月15日、菅原文太が歌手として登場
1990年3月7日、B'z初登場
1990年4月25日、香港から生放送
1990年8月29日、番組史上最後の初出演アーティストとしてB.B.クイーンズが登場
1990年9月、22年ありがとう月間として放送
・マンスリーに松山千春再登場
・22年の最後を締めくくる歌は若手最多出演者・田原俊彦「ジャングル Jungle」
1990年10月3日、22年間にわたる歴史に幕

夜のヒットスタジオ

  • 放送期間:1968年11月4日〜1985年3月25日
  • 放送時間:月曜日 22時 - 23時

新種の歌謡バラエティ番組として(1968〜1973)

従前、フジテレビの月曜22時台はドラマ枠であったが、1960年代における22時台は当時の放送業界の認識では深夜に近い時間帯であり、視聴率は苦戦を強いられていた。1968年11月、『夜のヒットスタジオ』は3ヶ月程度の繋ぎ番組としてスタートした。第1回のゲストは島倉千代子ピンキーとキラーズ布施明小川知子ほか計8組。ネット局はフジテレビ・東海テレビ関西テレビテレビ西日本の4局で、当時クロス局であった広島テレビ仙台放送札幌テレビはネットしていない。

構成は当時多くの人気番組を抱えていた塚田茂、プロデューサーはフジテレビ朝のワイドショー番組『小川宏ショー』のスタッフであった伊藤昭。司会には塚田が構成を務めた『お昼のゴールデンショー』の司会として人気タレントとなっていた前田武彦、その相手役には『小川宏ショー』のホステス役を務めた経験から伊藤とも面識のあった芳村真理。このほかムードコーラスグループの鶴岡雅義と東京ロマンチカ(1974年10月まで出演)と、当時フジの看板アナウンサーであった小林大輔もレギュラー出演者として名を連ねた。

それまで視聴者にとって雲の上の存在だったスター歌手の人間性を引き出すことを当初のコンセプトとし、終了時まで続いた「ご対面」や「他人の歌オープニングメドレー」、エンディングで視聴者に電話をしスロットで表示された額(最高10万円)をプレゼントする「ラッキーテレフォンプレゼント」のほか、その回のゲストが歌う曲をモチーフとしたコント形式の「歌謡ドラマ」、ゲスト歌手の性格・嗜好を電子計算機にインプットし相性の合うタレントをはじき出す「コンピュータ恋人選び」といったバラエティ色の強い企画が用意された。当時集団就職等で夜遅くまで働いている若者たちが丁度落ち着いてテレビを見られる時間帯に歌を聴かせる番組、楽しませる番組が一つぐらいあってもいいのではという点もあり、その時折に沿った童謡をBGMに司会者が登場するシーンや「ご対面」などはその点を強く意識したものであると言われている(伊藤昭談)。

司会者が歌手たちと自然体でやり取りするというスタイルも異色であった。前田は自らを「あだ名の名人」と称して、必ず歌手やスタッフに仇名を付けた(例:芳村真理→「ナマズのおばさん」、塚田茂→「ドンドンクジラ」、小林大輔→「モグラのお兄さん」等。前田自らも「カワウソおじさん」と称した)。芳村の司会振りはそれまでのテレビ番組の世界では置物的色彩の強かった女性司会者の概念を覆した。

レコード会社や事務所側との出演交渉が難航したこともあり、番組スタートからしばらくは低空飛行を続けたが、1969年1月27日と1969年2月24日の放送で小川知子、中村晃子いしだあゆみが「ご対面」「コンピューター恋人選び」のコーナーで相次いで号泣するハプニングが発生(「泣きの夜ヒット事件」)。スターが一人の人間として涙を流しながら必死で歌うシーンが話題となり、これを機に視聴率が急上昇し、1969年3月17日の放送では最高視聴率42.2%を記録。『夜ヒット』は当時高視聴率番組が少なかったフジテレビにあって貴重な「ドル箱」番組となった。

1969年4月7日、モノクロ放送からカラー放送に移行と同時に、番組専属の演奏バンドとして結成間もない「ダン池田とニューブリード」を抜擢。この頃から当初は出演を拒否していた歌手・タレントが続々と出演するようになり、時には出演したいのに出演できない歌手も出るほど(前田武彦談)であったという。『夜ヒット』の出演者人選の特色の一つに「男優・女優を歌手としてゲスト出演させた」点が挙げられるが、この時期には吉永小百合加山雄三勝新太郎石原裕次郎浅丘ルリ子ら当時のスター俳優が多数出演した。1969年末には海外ゲスト第1号として、当時日本でもアイドル的存在として人気急上昇中であったオズモンド・ブラザーズ (en:The Osmonds) が出演するなど、「バラエティに富んだ出演者陣を網羅する」という番組の特色の土壌がこの時期に築かれた。

当時の歌謡番組は『ロッテ 歌のアルバム』(TBS)等に象徴される純然たる歌謡ショー形式の番組が大半であったが、1969年10月にスタートした『NTV紅白歌のベストテン』で「ウソ発見器」などのコーナーで歌手の人間性を重視する構成がなされたり、歌手が自然体でMCを行う歌謡番組が多く登場するなど、当初異色の扱いだった『夜ヒット』は、他局の歌謡番組の制作方針にも大きな影響をもたらした。

番組の挫折とバラエティ色の強化(1973〜1976)

1973年6月、前田武彦が参議院大阪選挙区補欠選挙に立候補した日本共産党沓脱タケ子候補の応援演説の際に「生放送中に候補者が当選した際にはバンザイを必ずやりますから見ていてください」という旨の約束をし、その候補者が当選したことから『夜ヒット』のエンディング時にバンザイのポーズをしたところ、このことが「反共」を掲げていた鹿内信隆フジサンケイグループ議長の逆鱗に触れ、これが引き金となり、最終的に前田は同年9月をもって当番組の司会を勇退、他局の大半のレギュラーもこれと時同じくして降板の憂き目に遭った(「共産党バンザイ事件」)。

この騒動は『夜ヒット』に大きなダメージを与えた。低視聴率に苦悩していた当時のフジテレビにとり数少ない「数字を見込める番組」であったこともあり番組自体は続けられることとなったが、番組についてしまった負のイメージの早期払拭を図るべく、前田の解任と同時に芳村真理も一旦降板させ、1973年10月からはあえて正規の司会者を置かずに、ゲスト歌手の中から男女1名ずつ司会を起用。水前寺清子坂本九佐良直美井上順など司会者としての実力もある歌手から五木ひろし森進一ピーター南沙織など司会経験がほとんどない歌手に至るまで、意外性のある人選で注目度を維持し続けることを狙いとしたが、このスタイルはあくまでも暫定的なもので、実際には早い段階で芳村を番組の軸としての仕切り直しが検討されていた。芳村には一旦降板と同時に夜ヒットスタッフによる新番組『木曜リクエストスタジオ』が用意され、その半年後には『夜ヒット』に復帰したため、復帰当初は「出来レース」との批判もなされた。

1974年4月から『夜ヒット』はスタジオ観覧者を募っての公開放送に転換。司会は芳村と、当時『笑点』(日本テレビ)の豪快な進行振りで司会者としても定評が確立しつつあった三波伸介、そして華やかさをより前面に押し出す意味合いからもう一人の女性司会者として朝丘雪路のトリオ体制となった。当初は芳村と朝丘の二人が番組進行の全般を行い、その間にコメディリリーフ的な役割として三波がちょこちょこと茶化しを入れに割り込むという当時のテレビ番組としては一風変わったMCスタイルが採られたが、1974年7月に入り長期の舞台公演の仕事が入った朝丘の出演が不定期となり、代わって三波が番組進行に本格的に参加することが多くなっていき、1975年4月からは芳村と三波でのコンビ司会体制に完全移行した。

三波にとっては初めての本格的な歌謡番組での司会であった。『夜ヒット』は前田時代から「歌謡番組」を軸としてバラエティ色を盛り込む構成がとられていたが、三波登板の時期にはその回で歌われる曲を題材としたコント「歌謡ドラマ」が名物企画となり、東北弁で桜田淳子和田アキ子扮するホステスを口説く中年男性や、はげ頭のカツラをつけて新婦役の小柳ルミ子の父親を演じるなど、芸人としての三波の魅力が最大限発揮された。また、三波の芸人ならではの軽妙洒脱な司会進行ぶりも、番組カラーの明瞭化をアピールする上で効果を発揮した。

その一方でお笑い色が強くなったことへの批判に対応すべく、1975年に入ってからは実力派アーティストのスリー・ディグリーズen:The Three Degrees)や淡谷のり子を出演させたり、バンバンシグナルといった新人のフォークグループにもいち早く出演交渉を行い、同年秋からはそれまでは省略していた作詞・作曲者のクレジットを曲名・歌手名テロップとの併記で表示するようになった。こうして総合音楽番組への方向転換への機運が高まり、翌1976年春にはスタート当初からの人気コーナーだった「歌謡ドラマ」を排除。それと同時に三波も番組を離れ、歌謡バラエティとしての『夜ヒット』にはこの時点で一応の区切りが付けられた。

この時期最大のハプニングといえば、1975年8月の沖縄国際海洋博覧会からの生中継である。中継当日に台風が沖縄全土を襲来し、特設ステージを設置したにもかかわらずほとんど使用できず、スタッフ用の手狭なブースの中で放送を行う事態に陥った。これ以降、西武球場からの中継では強風、大磯ロングビーチからの中継では大雨など、「夜ヒットが野外会場から放送するときは気候に恵まれない」とのジンクスを生むきっかけとなった出来事であった。

総合音楽番組への変容(1976〜1985)

1976年4月、三波伸介に代わる男性司会者として井上順を起用。バラエティ性の強いコーナーを全廃、1回あたりの出演者数を9〜10組から7〜8組に減らし、原則としてフルコーラスを披露する形を採った。

この時期には「歌、そして歌手を中心に」という番組の趣旨から、それまでは軽視されていた歌中の演出についても様々な試みがなされた。例えば、スタジオ一面に敷きつめた畳の上で歌った沢田研二の「サムライ」、当時まだ珍しかった生放送での合成映像により海の上で歌っているという演出効果を行ったジュディ・オングの「魅せられて」、世良公則とツイストの「あんたのバラード」や山口百恵の「絶体絶命」などでの歌舞伎との融合、郷ひろみの「ハリウッド・スキャンダル」におけるスタジオ全体の電飾装置の配置などである。オーケストラの配置についても、ステレオ放送開始に対応してか、1978年からはシンセサイザーや補助のギター演奏者を配置するブースが設けられ、ストリングスの配置人数も1980年3月からは6名から8名に増員される等、音のクオリティの向上も頻繁に図られた。

当時ADを務めたきくち伸によれば、『夜ヒット』は当時局内でも一番製作現場が厳しい番組として恐れられていたという。当時の看板プロデューサー・疋田拓の総合演出のもと、リハーサルは毎回10時間以上に及び、若手スタッフは怒号の入り混じった製作首脳陣の指示に従い、本番中も数十秒の間にセット・舞台装置のチェンジを完了させるなど、相当の労力が一つ一つの演出・構成に対して注がれていた。その緊迫感は、宇崎竜童、郷ひろみら当時の出演歌手や関係者の多くから後年「夜ヒットの現場は"戦場"そのものだった」と形容されるほどであった。和田アキ子は後年「バンドの人もカメラマンの人もみんな厳しかった」と当時の現場スタッフたちの様子を回顧している。

他方、この時期の司会進行は、それまでのパターンを踏襲しながらも、ボケ(井上)とツッコミ(芳村)の役割が明確化されたスタイルでなされた。井上は当時「芳村家・井上家でホームパーティーをやる」、芳村も「歌手・出演者・スタッフ全てとお祭りをする」というコンセプトでスタッフや歌手たちに接していたと後年回顧している。上述のスタジオ全体を覆う厳格さ・緊迫感の中で萎縮している歌手たちの気持ちを解きほぐし、最大限の力を発揮してもらいたいとの思いがあってのことであったという。この司会コンビによって『夜ヒット』は大人向けからファミリー向けの番組へと変質していった。なお、両者の細かな役割分担は時期によって微妙に異なり、1980年ごろまでは細部進行を芳村が行い、井上は茶化しや盛り上げ役を担当するパターンが一般的だったが、その後は井上も細部進行を行いつつ茶化しを入れ、所々で芳村が軌道修正やフォローのための要所を締めるコメントや掛け合いをして歌手を送りだすことが多くなった。また、海外アーティストの来日時等に用意されたいわゆる「4スタライブ」の進行については、芳村と井上が各回で交互に担当する形となっていた。

芳村真理の派手な服装と奇抜なヘアスタイルもこの時期に顕著となった。芳村は花井幸子イッセイ・ミヤケなど自身と交友の深い国内のデザイナーのもの以外にも、クリッツアやジャン=ポール・ゴルチエなど当時日本ではまだ浸透していなかった海外のデザイナーの服も多く着用していた。女性歌手にあっては、芳村に負けじと特注の衣装を何着も用意し、また服飾関係の知識に精通した人物の助力を借りてその衣装に似合うスタイリングを行うケースも多く見られた。この慣習がのちにスタイリストという職業が脚光を浴びる契機を作ったとも伝えられている。芳村に対しては当時「司会者の方が歌手よりも派手なのは如何なものか」といった批判も向けられていたが、この番組特有の華やかさのベースとして不可欠の要素となっていた。

この時期には、1977年に中島みゆきアリス五輪真弓、1979年には浜田省吾、1980年には吉田拓郎YMO、1981年には井上陽水、1983年には長渕剛などこれまでテレビ出演に消極的姿勢を採ってきたフォーク系・ニューミュージック系の一流ミュージシャンが次々と初出演した。また、松坂慶子小林旭松田優作三浦友和舘ひろし田中裕子など多くの俳優が頻繁に歌手として出演し、前橋汀子中村紘子などの海外でも活躍する歌手以外のアーティストも出演。1980年代に入ってからはシーナ・イーストンフリオ・イグレシアスポリスオリビア・ニュートンジョンジョン・デンバーU2などの海外アーティストを登場させる一方で、戸川純シーナ&ザ・ロケッツVOW WOWLOUDNESSTHE MODSといった異色・新手のバンド・ミュージシャンに対しても門戸を広げるなど、「広いジャンルの歌を楽しめる番組」「普段テレビで見ることができないアーティストを見られる番組」という番組イメージを確立していった。

また、人気歌手同士による"ジョイント"企画("花の高2トリオ"の森昌子・山口百恵・桜田淳子×岩崎宏美小室等×矢野顕子ダラ・セダカ×喜多郎萩原健一×柳ジョージ×井上堯之、岩崎宏美×布施明、杏里×河合奈保子大江千里×渡辺美里×TM NETWORK宇崎竜童×内田裕也THE ALFEE×HOUND DOGなど)や、山口百恵を筆頭に南沙織石野真子高田みづえなど、結婚のため引退する歌手を送り出す「サヨナラ」企画は「ヒットスタジオだからこそ実現可能な企画」と言われた。 当時の音楽業界において『夜ヒット』でトリで歌を披露することは歌手にとっての一つのステータスと認識されており、森進一、五木ひろし、沢田研二、山口百恵、西城秀樹、郷ひろみ、松田聖子、中森明菜らが抜擢された。また『夜ヒット』への出演が曲の売り上げやアーティスト自体の人気に好影響をもたらすことも少なくなく(山本譲二がこの番組で「みちのくひとり旅」を話題曲として披露したのを契機にスター歌手の仲間入りを果たしたエピソードがある)、新曲発表の際には各事務所・レコード会社が『夜ヒット』への出演枠を奪い合った。

しかし、1981年春より同じく月曜に放送していた『紅白歌のベストテン』が完全ランキング方式の『ザ・トップテン』にリニューアルしたのを機に、日本テレビと関係のある事務所(研音など)の所属歌手や、日本テレビの関連会社が版権を有する曲を歌う歌手の中には『夜ヒット』出演に制約を受けるケースが生じたり、『夜ヒット』のスポンサーと利害関係のあった企業のCMソングを歌っているという理由で『夜ヒット』に出演できないアーティストが現れ始めた(但し「B面・アルバムの曲を披露する」という形で『夜ヒット』出演を優先させた歌手も多かった)。また、1978年の『ザ・ベストテン』(TBS)の登場により、歌番組のトレンドが本格志向な音楽番組から情報番組的な色彩を加味したものへと移行してゆく中で、1980年代半ばに入ると長年安定していた視聴率が下降線を辿り始めた。そのような歌謡番組全体を取り巻く環境の変化の中で、1985年4月、放送曜日の変更と2時間枠への拡大という刷新が図られることになった。

夜のヒットスタジオDELUXE

  • 放送期間:1985年4月3日〜1989年9月27日
  • 放送時間:水曜日 21時2分 - 23時
    • 21時0分から21時2分まで予告番組『今夜の夜のヒットスタジオDX』を放送。牧原俊幸本間淳子永麻理各アナウンサーが出演。
    • 当番組の移動に伴い、関西テレビの放送枠であった水曜22時枠は『夜ヒット』を放送していた月曜22時枠に入替となった(『三枝の愛ラブ!爆笑クリニック』)。

ワールドワイドな音楽情報番組として刷新(1985)

1985年4月3日、『夜ヒット』は「ワールドワイドな音楽番組として国際色をより強くし、フルコーラスの原則を徹底してより歌を楽しんでもらう」との方針から、『DELUXE』として水曜21時・22時台の2時間枠の大型番組にリニューアルされた。放送曜日移動の理由は、フジテレビが水曜19・20時台にプロ野球中継をする機会が稀であり、その後に出演者の拘束時間などの面で何かと縛りのきつい生放送の番組を持って来ても特に支障なしとの判断が働いたためと伝えられる(詳しくはプロ野球中継#プロ野球中継と通常番組を参照)。

司会は芳村真理井上順のコンビが続投。オープニング映像を、それまでのスタジオ風景を背景とした白色テロップによる簡素なものから、宇宙空間をサーキットで走っていきスタジオ風景にワープする様を描いたCG映像に変更(制作費は数千万と言われる)。また、それまではスタジオ内の吊るされたスタンドマイクから司会者の声を拾い上げていたが、リニューアルを機にハンドマイクを持たせるようになった。演奏は引き続きニューブリードが務めることとなったが、ダン池田に代わりグループサウンズ出身者の三原綱木をバンドマスターに引き入れ、「ザ・ニューブリードスペシャル」としてメンバーを再編成した(1986年3月まで担当。その後はいわゆる"仕込屋"と言われるオーケストラ編成、「THE HIT SOUND SPECIAL」に交替)。多様な音楽に更に深く対応していくとの方針であったため、オーケストラの人員配置についても大幅な変更がなされ、吹奏楽部門担当は計13名を7名に削減、トランペット担当の演奏者が座っていた場所に木琴・鉄琴・クラシックパーカッションなどの打楽器担当者の席が配置された(1988年3月23日をもって撤廃)。また指揮者席も設置され、オーケストラが演奏を行わない際に指揮者はその席に座位するようになった。またメインセットについても、階段状のセットに電飾が施され、ひし形の飾りが立体化されるなどの変更が行われた。

新生『夜ヒット』を象徴する企画が、一組のゲストに1ヶ月連続で出演してもらい、毎回異なる趣向のステージングでそのアーティストの多面的な魅力を引き出すというコンセプトで設置された「マンスリーゲスト」制である。最初のマンスリーゲスト(1985年4月)は小柳ルミ子、最多出場マンスリーゲストは郷ひろみ田原俊彦の各3回である。この企画の中で布施明五木ひろし等が三味線やフルートなどの楽器演奏に挑戦したり、他歌手とのジョイント、近藤真彦が歌舞伎の扮装で登場したり、中森明菜がボーカルに特殊加工を施し黒装束で妖艶に舞い踊る派手なパフォーマンスを展開した。

また、ワールドワイドな番組を目指すというコンセプトを反映し、話題の海外アーティストを生出演させるセクションを設置した。特に大物のアーティストについては主要スタッフが海外へ赴き、直接出演交渉することもあったという。リニューアル直後の1985年4月17日に米国ショービジネス界の雄・フランク・シナトラ(スタジオ生出演)とティナ・ターナー(衛星生中継)が出演した際には5000万円は下らない制作費が投じられたといい、この2人が生番組で会すること自体海外の番組でもほとんどないことであったために当時の海外の音楽業界でも話題となり、これを契機に出演交渉がスムーズにいくようになったとも言われている。エルトン・ジョンジャネット・ジャクソンポール・マッカートニーボン・ジョヴィホイットニー・ヒューストンシーラ・Eバリー・マニロウといったアーティストが出演した。

このほか、バックダンサー要員として、振付師西条満の弟子で番組独自の女性ユニット「B・G・M」を結成(のち「Dee‐Dee」に改名)させ、エンディングテーマ曲「YOU'VE GOTTA NAME」でレコードデビューさせた。また、ゲスト歌手の過去の出演シーンと現在の姿・歌声とを対比させる「タイムトンネル」、月曜日時代から不定期に行っていた司会の芳村のプロデュース企画「ファッションショー」をレギュラー化するなど新企画も立ち上げられた。ランキング番組主流の中で、ランキングに入らなくとも恒常的な人気のあるアーティストの曲が締め出されているという『ザ・ベストテン』などへの批判を汲み、『DELUXE』へのリニューアル当初にあった「夜ヒットはもう終わった」という局内外での批判を跳ね除けてみせた。

新旧交替-井上順と芳村真理の降板、若手の積極的起用(1985〜1988)

1985年9月25日、井上順が「自らの可能性をより広める」ためとして司会を降板。代わってテレビ朝日から独立して間もない古舘伊知郎が起用された。古舘の司会第1回目の放送(1985年10月2日)で芳村真理は「時間が経てば終わるのよ」とフォローの言葉をかけ、古舘の緊張をほぐしたという[1]。当時「ストロボする言葉マシーン」を自称していた古舘はプロレスF1の実況中継の時と同様に巧みな話術を展開し、それまで井上と芳村が交互に担当していた「4スタライブ」の進行も一手に引き受けることとなった。後に芳村は、古舘と最初に組んだ『夜ヒット』の放送の時に「自分の中で(司会勇退に向けて)心の整理を始めていた」「この人なら、後を任せられると思った」などと回顧している。

この時期には新進気鋭のアーティストの存在に注目し、久保田利伸レッド・ウォーリアーズ今井美樹BOØWYTHE BLUE HEARTS米米CLUB尾崎豊らを他に先駆けて出演させた。また、ミュージカルの1シーンの再現や、渡辺謙松坂慶子ら人気俳優の「マンスリーゲスト」への起用のほか、アルバム収録曲が頻繁に披露されるなど、クオリティの高い番組制作が試みられた。松坂慶子が銀粉まみれの男性ダンサーと入り乱れながらの「桃色吐息」の熱演(1986年5月28日放送)、西城秀樹バリー・マニロウのジョイントによる「腕の中へ」(1985年12月4日放送)、THE ALFEEをバックコーラスに従えての吉田拓郎による「アジアの片隅で」(1987年12月30日放送)、アン・ルイス吉川晃司による「六本木心中」での過激なパフォーマンス(1985年10月2日放送)、宇崎竜童内田裕也うじきつよしらロック仲間総出での「ロックンロール・ウィドウ」(1987年3月4日放送) などのシーンが生まれ、玄人筋の音楽ファンからも一定の評価を受けるようになった。

古舘起用を機に、これまで制作の中心的役割を担ってきた塚田茂疋田拓が制作の一線を外れ、代わって日本テレビ出身で古舘とは学生時代より面識があったという木崎徹、プロデューサー・ディレクターには渡邊光男水口昌彦などの若手作家・スタッフ陣が起用され、それまで番組出演回数や貢献度などを主たる選定基準としていた「マンスリーゲスト」に出演2回目の若手・久保田利伸を抜擢(1987年10月)するなど、製作者や出演者に新旧交替の傾向が強くなった。そして芳村真理も1987年秋、「家庭の時間を持ちたい」と芸能活動の事実上のセミリタイヤ宣言と同時に、足かけ20年に渡って続けた『夜ヒット』司会の降板を発表。1988年1月の勇退記念企画を経て、同年2月10日の第1000回放送「芳村真理サヨナラ特番」では、総勢300名以上の歴代の出演歌手と歴代の男性司会者(故人の三波伸介を除く)が出演し、芳村の最後の司会を見守った。芳村は放送の最後に一列に並んだ彼らから薔薇の花を一輪ずつ受け取り、「テレビの向こうにたくさんの懐かしい顔が見えます」と、既に業界の一線を離れている過去の番組関係者や出演歌手らに向けたメッセージを残して番組を去っていった。この時の最高視聴率は日本のレギュラー音楽番組歴代2位となる36.0%を記録した[2]

なお、月曜日時代から続いていた「ラッキーテレフォンプレゼント」は1987年に「夜ヒットテレカ」プレゼント企画スタートのため終了。また、現在通称として使われている『夜ヒット』の呼称は古舘が司会に起用されてから頻繁に使用されるようになった。

若手主導に(1988〜1989)

1987年秋、疋田拓に代わってプロデューサーに起用された渡邊光男はかねてより「今は女性の時代だが、あえて男性色を出したい」との意向を示しており、塚田茂に代わり番組構成の実権を握ることとなった木崎徹も「それまでの『歌謡番組』というヒットスタジオのイメージを"破壊"する」というポリシーを持っていたことも重なり、芳村真理勇退後の新司会者には基本的に男性タレント、かつ司会者としての経験が浅い意表を突く人物を起用するという方針の下で選考をした(この方針は当時公表されておらず、各メディアは竹下景子楠田枝里子らを「有力候補」として挙げていた。選考段階でも楠田らの名前がスタッフの間では少なからず出ていたようである)結果、俳優の柴俊夫が選ばれ、第1002回目放送(1988年2月24日)より古舘と柴の男性ペアにより番組の進行が行われることになった。同時にエンディング時に使用されていた円形のテーブルも通常の平面的なものへと変わり、オープニング時の司会者登場のシーンも、最初から両司会者がいわゆる「板付き」で既にスタンバイしている状態で番組本編が始まる、などといった具合にマイナーチェンジが加えられた。

1988年11月、放送開始20周年を契機に、それまでテレビ出演に消極的であった松山千春をマンスリーゲストに起用。同月第4週から12月第1週までの3回は特別企画を組み、様々な形で20年間の足跡を回顧した。11月23日の『夜のヒットスタジオDX20周年前夜祭』では、初代司会者の前田武彦と芳村真理を迎え、今昔の『夜ヒット』を対比するというコンセプトから新旧の歌手が登場し、かつての名曲に今のアイドル歌手らが挑んだり、「歌謡ドラマ」を復活させるなどの企画を組んだ。この際に行われた企画モノは視聴率向上に一役買い、この放送を契機に「恋人選び」コーナーを正式に復活させたり、総集編企画の多用や公開レコーディングの実施、マンスリーゲスト以外の歌手でもメドレー形式で歌を披露させる機会を増やすなど様々な企画がテコ入れとして投入されたが、これら企画の恒常化は、皮肉にも番組の視聴率低迷を加速させる結果をもたらした。一方で、1988年夏ごろから行われるようになったマンスリーゲストによる別スタジオでのファン限定ライブ企画に関しては、基本的に番組内では一部しか放映されず、アーティスト側の意向によっては非公開で行われるケースもあったことから、視聴者の存在を軽視しているとの批判が出されていた。

出演歌手は、俳優や海外アーティストの出演機会が減り、他方ではアイドル歌手やジャニーズ系タレントが複数名出演する回があった。それまで『夜ヒット』の常連組の出演サイクルは、原則として3〜4回に1回というペースが長らく堅持されていたが、この時期になるとマンスリーゲストではないにもかかわらず2週連続で出演するケースも目立っていた。

1989年9月、『DELUXE』は4年半で終了。同年10月、番組はジャンルにより4分割化され、総合番組としての『夜ヒット』は1時間番組の『SUPER』として仕切り直しが図られることになった。

『オレたちひょうきん族』との関係について

『DELUXE』放送の水曜日は『オレたちひょうきん族』(ひょうきん族)のスタジオ収録日でもあり、『ひょうきん族』の出演者が『DELUXE』に飛び入り出演することがしばしばあった。明石家さんまは「タケちゃんマン7」の中での悪役キャラクター「パーデンネン」の変装をしている最中、芳村真理から毎週のように「さんまちゃん、派手ね〜」と言われたという。さんまは1985年9月18日に桑田佳祐、1988年3月2日には薬師丸ひろ子の変装をして『夜ヒット』に乱入したが、歌手として出演することはできなかった。また、真偽は不明だが芳村との関係で生じた珍事件がさんまやビートたけし、島田紳助らにより多く紹介されている。

夜のヒットスタジオSUPER

  • 放送期間:1989年10月18日〜1990年10月3日
  • 放送時間:水曜日 22時 - 23時(※1990年4月までは月末最終週放送日のみ、23時24分まで放送時間を拡大)

番組の迷走、そして終焉(1989〜1990)

芳村から柴に司会が変わって以降視聴率の低下が始まっていた「DELUXE」版の終了に伴い、「SUPER」が1989年10月からスタートした。司会はDX版から続投の古舘伊知郎と新たに加賀まりこが参加。オープニングの司会者のトークを3分間にし、司会者登場のシーン及びトークの削除のほか、1968年の開始以来続いていた童謡の演奏によるオープニングがなくなり、オープニングの司会者のトーク、CMをはさんでオープニングメドレーに入る形式となった。1回の放送につきゲストとして出演するアーティスト数は5組〜6組という少数限定制、「神田川」「関白宣言」「万里の河」といったかつてのヒット曲を紹介するなどの演出上のてこ入れが図られた。なお、初回に関しては月曜日時代と同じ7組でスタートした。指揮者も荒井英治から服部隆之になった。

新司会の加賀はB'z稲葉浩志CHAGE and ASKA酒井法子光GENJI諸星和巳工藤静香プリンセス・プリンセス奥居香などの若手アーティストなどに対して問題発言を起こし[3]、本番中に吉幾三の頬にキスをして、吉がキスマークをつけたまま歌ったこともあった(1989年11月29日放送)。彼女の「独りよがり」とも取られかねない言動は視聴者の反発を招き、抗議の電話が殺到したとも言われている。一方、1989年11月8日放送では、放送前々日に死去した松田優作の追悼コーナーが急遽組まれたが、松田が出演していた時のVTR(1980年4月28日放送)を流した際、加賀は泣きながらコメントを語った。

この時代になると、歌番組に対するニーズの変化もあり(純粋に音楽を楽しむというよりも、ヒットチャートを調べるために見るという「目的から手段への変化」である)、放送時間の短縮を機に予算が大幅に削減されたことも影響し、大物アーティストの出演頻度が下がり[4]、これに起因して出演者も若手バンド、あるいはロック・アイドル歌手が大半を占めるようになり(1990年4月18日放送に出演した石川さゆりを最後に純然たる演歌歌手の出演は途絶えた)、「幅広いジャンルを網羅する」という部分は事実上形骸化してしまった。

番組の権威失墜を最も象徴しているのは、アーティスト側の要請に屈する姿勢が顕著になったこと、同時に出演者の幅が狭まったことである。例えば、菅原文太が出演した際に、歌を1コーラスのみにしてほしいと要望しトーク部分を引き伸ばそうとする行動に出たり(1989年11月15日放送)、長渕剛に配慮して3曲ノーカットで歌を披露させたり、別スタジオで曲が披露される機会が増えたことなどが挙げられる。2〜3曲を披露するアーティスト(長渕剛・松山千春・甲斐よしひろ・久保田利伸ら)が毎回のように最低1組は登場していた。このような編成が影響し、オーケストラの演奏する機会も減り、殆どオープニングの歌手のメドレー・外国人ゲスト登場の音楽や歌手の誕生日のときのBGM音楽のときにのみ演奏を行うという「置物」状態となってしまった。

かつての『夜ヒット』の長所であった「アットホームさ」「生歌・生演奏・フルコーラス」「緊張感・臨場感」「幅広いジャンル」、そして「アーティストへの強い影響力」が失われたことで視聴者離れは更に深刻化し、新体制となって8ヶ月後の1990年5月9日の放送では5.6%という史上最低視聴率を記録。ライバル番組として共に一時代を築いた『ザ・ベストテン』(1989年9月終了)や『歌のトップテン』(1990年3月終了)の相次ぐ打ち切りの動きも含めて、『夜ヒット』も存亡の危機に直面した。

その後、トップバッターに実力派アーティストを置いてかつてのヒット曲を披露させる試みを行い、他方トリの位置に実力派に代えて若手のバンド等を多く起用するといった、それまでの『夜ヒット』が守り続けてきた「様式美」ともいうべき部分にもメスが入れられたものの、1990年8月、フジテレビは番組の打ち切りを決定。同年10月3日の放送をもって、足掛け22年、放送回数1131回に渡ってテレビ史上に様々な影響を残し続けてきた『夜ヒット』はその歴史に幕を閉じた。

派生番組

番組放送当時は、『夜のヒットスタジオ』を4分割した「ヒットスタジオグループ」と称していたが、その中の一つの『演歌』が一足早く終了したことや、当初は別枠だった『R&N』と『International』が統合されたこと、また古舘伊知郎が『R&N』の司会を早々に降板したことなどから、もっぱら『夜ヒット』とは別個の番組として理解されている。フジテレビ側の公式見解においても厳密な意味で『夜ヒット』シリーズに含まれるのは『SUPER』のみで、以下の3番組はその派生番組として位置付けられている。

ヒットスタジオコンプレックス

  • 放送期間:1990年4月6日〜9月28日、金曜日深夜(土曜未明)。

『R&N』と『International』を1枠に統合。

ヒットスタジオR&N

  • 放送期間:1989年10月6日〜1990年9月28日
  • 放送時間:金曜日 24時40分 - 26時
  • 司会

『R&N』は「ロック&ニューミュージック」の略。全国のライブハウスからオススメのミュージシャンを紹介する「インディーズ情報」(バブルガム・ブラザーズ、戸川純時代は「WeLoveROOKIE」のタイトルで放送)や、新譜情報を紹介する「MUSICPRICE」などのコーナーもあった。

1989年10月13日深夜の放送で、忌野清志郎率いるタイマーズFM東京を非難する「FM東京」を歌い、放送禁止用語を連発した。フジテレビ側では放送を中断せず曲の一部始終を流した(地方局の録画放送も同様。後年のフジテレビ721の再放送では歌の部分のみカット)。

古舘が司会を担当していた頃は、出演者自身の曲ではあるがオープニングメドレーが行われるなど、他の派生番組以上に『SUPER』との関連性は高かった。バブルカム・ブラザーズがメインMCに抜擢されて以降は、出演者は冒頭からいわゆる「板付き」の状態で横一列に並び、そこに司会のバブルカム・ブラザーズと戸川が別々に登場し、軽いトークをした後すぐに最初の歌手の曲を紹介するという形に変更され、番組構成も『夜ヒット』とは大きく異なる形式が採られた。

ヒットスタジオInternational

  • 放送期間:1989年10月6日〜1990年9月28日
  • 放送時間:金曜日 26時30分 - 27時30分
  • 司会:服部まこ(1990年4月6日〜9月28日)

ヒットスタジオ演歌

  • 放送期間:1989年9月〜1990年4月
  • 放送時間:土曜日 14時30分 - 15時30分(月1回)
  • 司会: 堀内孝雄

レギュラー放送終了後のスペシャル番組

  • ありがとう&さよなら夜のヒットスタジオ(1990年10月3日、21:00-23:48)
    • 最終回特番。歴代司会者、主な出演歌手らがスタジオに集合。フジテレビなど系列8局で電話リクエストを受け付けた。関東地区では同年11月3日の12:00-14:55に再放送された。
  • 夜のヒットスタジオ大感謝祭スペシャル(1990年12月26日、1991年4月3日)
  • 島原救済緊急特別番組・夜のヒットスタジオスペシャル(1991年7月3日、21:20-23:30)
  • 夜のヒットスタジオ・リターンズスペシャル(1993年3月31日、21:00-23:03)
    • 司会:井上順、田原俊彦、八木亜希子(フジテレビアナウンサー、当時)。芳村真理が特別ゲストで番組途中より参加し、彼女がセレクトした名場面のコーナーも設置された。ゲスト歌手は田原のほか中森明菜、プリンセス・プリンセス都はるみ、CHAGE and ASKA(コンサート会場の大阪城ホールより生中継で出演)。プリンセス・プリンセスは今野登茂子病欠のためメンバー4人だけ出演。山形テレビ最後のネット番組。この番組は20%以上の高視聴率を挙げ、以後数年間にわたる『夜ヒット』特別番組放送の契機となった。
  • 夜のヒットスタジオ春・秋スペシャル(1994年〜1996年)
    • 1994年10月12日(21:00-23:03)『'94夜のヒットスタジオ超豪華秋スペシャル』 - 『緊急たけし生特報スペシャル』の放送中止を受けて急遽企画された番組。司会:井上順、中井美穂(フジテレビアナウンサー、当時)。出演:田原俊彦、松田聖子、中森明菜、小泉今日子少年隊光GENJI SUPER5SMAPほか。本放送の出演経験がなく初登場のSMAPは中継で登場。芳村真理、小泉今日子らがVTRでインタビュー出演。
    • 1995年4月5日(20:00-23:14)『'95夜のヒットスタジオ・グレートアーティスト・超豪華!春のスペシャル』 - 司会:関口宏、中井美穂。出演:田原俊彦、松田聖子、中森明菜、工藤静香、西城秀樹藤井尚之TRFH Jungle with tほか。出演者はTKファミリー中心だった。浜田雅功が番組史上初の口パク出演[5](あくまでも自称である)
    • 1996年4月3日(21:00-23:08)『'96夜のヒットスタジオ・桜満開!超デラックス』 - 司会:明石家さんま近藤サト(フジテレビアナウンサー、当時)。出演:近藤真彦、中森明菜、V6、THE ALFEE、DREAMS COME TRUEほか。さんまも1曲歌った。
  • クリスマススペシャル(1994年〜1996年)司会:関口宏(1994年)、石田純一(1995年)、明石家さんま(1996年)、中井美穂。
    • 1994年12月24日(19:00-20:54)『'94夜のヒットスタジオ 超X'masデラックス
    • 1995年12月23日(19:00-20:54)『'95夜のヒットスタジオ 純白のX'masスペシャル
    • 1996年12月25日(22:30-24:09)『'94夜のヒットスタジオ 超X'masデラックスin NY』 - ニューヨークから衛星生中継。中森明菜、小泉今日子、SMAP、内田有紀、TRF、小沢健二らが出演。
  • ザッツお台場エンターテイメント!第1夜・歌番組の38年(1997年3月31日、19:00-21:24)
    • フジテレビ新社屋移転記念特番として放送。お台場新社屋V4スタジオロサンゼルスの衛星生中継の二元構成。ロサンゼルスからは明石家さんまと中井美穂の司会で、松田聖子、中森明菜、工藤静香、内田有紀らが登場。V4スタジオからは露木茂と八木亜希子の司会で、安室奈美恵観月ありさシャ乱Qが新曲を歌った。スタジオの外ではV6が大階段から歌ったほか、KinKi Kidsも中継で登場した。『夜ヒット』のメインセットを完全再現した最後の特番となった。開局を翌日に控えたさくらんぼテレビ高知さんさんテレビでも試験放送にてオンエアされた。
  • 拓郎&マチャミの夜のヒットパレード(2002年8月14日、19:00-21:00)

通算出演回数

番組最多出演歌手は五木ひろしで222回。女性歌手では、初代マンスリーゲストでもある小柳ルミ子が最も多く、144回にわたり出演している。

『夜ヒット』の出演枠については事務所のいわゆる「力関係」が大きく作用しており、特に1970年代までは渡辺プロダクション(ナベプロ)、1980年代についてはバーニングプロダクションジャニーズ事務所が当番組と強いパイプを持っており、新人歌手の番組初出演などにつき優遇的な扱いを受けていた。例えば、バーニングプロの石野真子はデビュー2日目となる1978年3月27日に初登場をした。このほか、芸映ホリプロダクションサンミュージックについても、前述の3事務所ほどではないがある程度番組出演枠については優遇される立場にあった。下記のリストでは、森進一布施明沢田研二小柳ルミ子はナベプロ所属、郷ひろみ細川たかしはバーニング所属、田原俊彦近藤真彦はジャニーズ所属、和田アキ子山口百恵がホリプロ所属、西城秀樹岩崎宏美河合奈保子が芸映所属、桜田淳子松田聖子がサンミュージック所属、といった具合である。

順位 回数 歌手名 出演期間
1 222回 五木ひろし 1971年6月21日(第138回)〜1990年1月10日(第1096回)
2 204回 森進一 1968年11月11日(第2回)〜1989年9月20日(第1083回)
3 188回 西城秀樹 1972年12月4日(第214回)〜1988年11月23日(第1041回)
4 176回 布施明 1968年11月4日(第1回)〜1988年1月13日(第996回)
5 175回 郷ひろみ 1972年12月25日(第217回)〜1990年6月20日(第1117回)
6 158回 田原俊彦 1980年6月30日(第607回)〜1990年9月19日(第1130回)
7 151回 沢田研二(※) 1969年10月20日(第51回)〜1990年2月21日(第1102回)
8 144回 小柳ルミ子 1971年5月24日(第134回)〜1989年9月13日(第1082回)
9 126回 近藤真彦 1980年11月24日(第628回)〜1990年7月18日(第1121回)
10 123回 野口五郎 1971年9月27日(第152回)〜1987年3月4日(第951回)
11 116回 八代亜紀 1974年2月18日(第276回)〜1990年2月14日(第1101回)
12 111回 和田アキ子 1969年6月9日(第32回)〜1990年3月14日(第1105回)
13 104回 岩崎宏美 1975年6月16日(第345回)〜1988年6月1日(第1016回)
14 100回 前川清(※) 1969年4月14日(第25回)〜1989年5月10日(第1064回)
15 87回 松田聖子 1980年4月28日(第598回)〜1990年9月5日(第1128回)
15 87回 河合奈保子 1980年6月30日(第607回)〜1990年6月27日(第1118回)
17 86回 中森明菜 1982年9月20日(第723回)〜1990年8月22日(第1126回)
18 83回 山口百恵 1973年7月30日(第248回)〜1980年10月6日(第621回)
19 74回 細川たかし 1975年5月5日(第339回)〜1989年12月13日(第1093回)
19 74回 桜田淳子 1973年5月28日(第239回)〜1986年10月8日(第930回)

CSでの再放送・映像の保存頻度

1998年よりフジテレビTWOにて当番組の再放送が行われている。当初は『DELUXE』版よりスタートし、月曜時代のものについては翌1999年夏より再放送を開始した。

フジテレビTWOでの再放送は、1974年4月1日以降が対象となっている。

以前は、ほぼ完全な形で局に現存している第400回(1976年7月5日放送)以降が対象となっており、1974年以前の放送で現存が確認されているのが1969年1月27日2月24日7月28日1973年8月6日1974年3月25日4月1日8月5日(第300回記念)・8月19日の計8回分のみ(2008年現在)であることや、三波伸介の親族が生前の映像使用の許可を出していないことが要因とされていた。過去の総集編企画等でも大半のパートを第400回以降の映像が占めていた。1000回記念では前田武彦・三波伸介時代の映像も多数放送されたが、それ以降は井上順以降の映像が大半を占めた。

また、当時の出演歌手の版権上の問題や過去映像に対する解釈により、完全な形での再放送は実現していない。再放送不可能なのが確認できるのは、主だったところではジャニーズ事務所所属タレント(田原俊彦ら元所属タレントを含む)、とんねるずおニャン子クラブ南野陽子、来日アーティストら(テレサ・テンチョー・ヨンピルなど一部放送可能なアーティストもいる)。サザンオールスターズラッツ&スター(シャネルズ)についても途中から再放送されなくなった。あすか組の出演回の再放送に際しては、当初は通常通り放送されていたが、途中から彼女たちの顔にモザイクをかける処置がとられた。沢田研二については当初「コバルトの季節の中で」を歌った1976年10月25日分が再放送され、その後リストから外されていたが、フジテレビTWOにチャンネル名変更になってからの再放送で再び可能となった。

『SUPER』の再放送は、近年まで5回分程度にとどまっていた。2008年にそれまで再放送のなかった4回分が新たに追加されたが、再放送の充分でない状況に変わりはない。

なお、初代司会の前田武彦は司会当時、当番組の映像を数多く家庭用VTRに保存していたが、司会解任時にテープを全て廃棄してしまったという[6]

ネット局


備考

  • かつてFNS系列だった札幌テレビ・山形テレビ・福島中央テレビ・広島テレビ・テレビ山口でもネットしていた(その後、札幌テレビ・福島中央テレビ・広島テレビは日本テレビ系列、テレビ山口はTBS系列、山形テレビはテレビ朝日系列になっている。なお、札幌テレビ・広島テレビ・テレビ山口はクロスネット局だった)。
  • 四国放送・西日本放送・高知放送は一時期のみのネットとみられる。
  • 福島テレビは、当時TBS系列メインの編成でありながら1971年10月に福島中央テレビとネット交換をして以降も最終回まで同時ネットを継続させた。このためTBSとのクロスネット時代は『月曜ロードショー』のネットは行っていない。
  • 1985年4月に『DELUXE』となり放送曜日が変更された際、ネットを打ち切る局が出た。
    • 山梨放送は1978年3月6日から、鹿児島テレビは1980年代前半からネットしていたが、共に1985年3月で打ち切り(枠移動先の水曜日は日本テレビのネットのため)。テレビ山口・テレビ大分も同じく1985年3月で打ち切り(枠移動先の水曜日はテレビ山口はTBS、テレビ大分はテレビ朝日の番組をネット)。なお、鹿児島テレビはネット開始まではテレビ朝日の番組を放送していた。
    • テレビ長崎は1985年3月でネットを打ち切った(鹿児島テレビおよび山梨放送と同じ事情)が、1990年10月1日よりフジテレビ系列フルネット局になったため、1990年10月3日の最終回は再び同時ネットした。
    • テレビ宮崎は1985年3月で一旦ネットを打ち切る(水曜21時台と22時台がテレビ朝日系同時ネット〈『欽どこ』、『特捜最前線』〉だったため)が、半年後の1985年10月にテレビ朝日が22時台に『ニュースステーション』を開始するにあたりクロスネット局での放送を行わないことになったため水曜21時台以降がフジ系枠となり再びネットを開始した。
  • 青森放送は1985年『DELUXE』以降からネット開始。『きょうの出来事』などが終了後、本放送同日23時40分から2時間40分遅れでネットしていた。スポンサーもローカルスポンサーに差し替えられていた。

セット

基本的には22年間の放送期間全期を通じて、左側にビッグバンドの演奏スペースを、右側に本編では歌手・司会者の待機場所として使用される通称「大階段」セットと円形の小階段セットを、スタジオの上部には丸みを帯びた菱形の連なった飾りを両スペースにそれぞれ配置するという基本コンセプトは一切変わらなかったが、放送時期によって若干のマイナーチェンジがなされている。この番組セットのデザインは初代美術担当の妹尾河童が手掛けたものである。

初代(1968年11月〜1969年3月)

  • セットデザインの模様がカラー放送開始以後のそれとは異なり、線のはっきりした菱形模様が伸縮したようなデザインが使用されていた。
  • ビッグバンドの配置もカラー放送開始以後とは異なり、歌手の待機場所に近いほうから、ストリングス→ギター(下段)・ドラム(上段)→ピアノ(下段)・ブラス(上段)という配置となっていた。コーラスは指揮者の隣に配置された1本のリボンマイクロホンで歌に参加する手法が採られていた。
  • スタジオの背景色は基本的には紺色であった。

2代目(1969年4月〜1973年)

  • セットデザインが擦れかかった菱形模様の伸縮したようなデザインへと変更。このデザインは放送終了時まで変更されなかった。
  • ビッグバンドもストリングスとブラスの配置が逆となり、これも以降放送終了時まで変更はなかった。
  • コーラスもこのころより、大階段セットと一体化している円形階段の最上段で歌に参加することが多くなった。
  • スタジオの背景色はその回によってまちまちで、白背景や紺背景の場合も1970年ごろまではあった。その後は青背景に統一され、以後この部分での変更は番組終了まで行われなかった。
  • 1969年秋頃に一時曲名テロップが縦書きのものに変更されたが、短期間で元の横書き形式のものに戻されている。

3代目(1973年〜1976年3月)

  • ビッグバンドの演奏スペースと、大階段と円形階段のセットが切り離された。通常オーケストラの配置に組み込まれているレギュラーで出演していたコーラス3名も、階段状セットに配置されていた円形のひな壇の上でコーラスを担当する形となっていた。
  • 歌手の座る椅子の置場は、円形階段のところではなく、大階段セットの端の部分に置かれるようになった。
  • 司会者のMCスペースとして1ヶ所、指揮者の指揮スペースとして1ヶ所、歌手の立ち位置として計2ヶ所(正面およびビッグバンドの演奏スペースのストリングス・ピアノ演奏者の配置している箇所)に円形のシートのようなものが敷かれるようになった。この中のデザインは当初は丸みを帯びた菱形を1つだけ大きく描いたものが使用されていたが、1974年からは黒を基調に白いドット柄が複数輪を描くようなデザインに、1975年からスタジオ上段の飾りのデザインと同様の丸みを帯びた菱形模様が輪を描くようなデザイン(黒基調、菱形模様が白)が使用された。
  • 公開放送のスタイルを採ったことから、スタジオの裏に観客が座るベンチが置かれた。人気歌手が出るときには用意していたベンチに収まりきらず、立ち見をする観客もいたという。

4代目(1976年4月〜1985年3月)

  • ビッグバンドの演奏スペースと、大階段と円形階段のセットが再び直結。演奏スペースが広くなったためか、このころから適宜、演奏補助者(シンセサイザー、ギター、コーラスなど)がスペースの隅(ピアノ伴奏者の左隣)に座れるスペースが用意されるようになり、1978年からは、長方形型の補助者用のスペースが常時配置されるようになった。また、コーラス担当者も上段のストリングス演奏者のスペースの左隣に常時スタンバイする形となった。
  • ビッグバンドの譜面台のデザインも、それまでは演奏バンドであるニューブリード専用のもの(中央に「NEW BREED」と書かれたもの)や当時のフジテレビのロゴマークである「8」マークを描いた、同局の音楽番組共通のものが使用されていたが、1978年5月の「500回記念」(実際は第499回放送)からは番組限定の白を基調に、丸みのある菱形の下半分を黒く描いた柄が使用されるようになった。
  • 1976年7月の第401回以降は、円形階段の最上部にその時折の季節の花々が配置されるようになった。
  • 1979年10月からは、大階段側のほうにあった上部の菱形の飾りが上下に昇降できるようになり、歌の間はスタジオの最上部に隠されるようになった。これによって、大掛かりなセットや演出が階段の上にも行えるようになった。
  • スタジオ床に当初4箇所あった円形のスペースは、1976年以降は中央の歌手の立ち位置のスペースがまず撤去され、1978年以降はオープニング時以外はMC用のスペースについても撤去されるようになり、指揮者用とビッグバンド側の歌手用スペースの2ヶ所だけが残された。また1980年からは指揮者用のものを除き、上記の複数の菱形が円弧を描くデザインの配色が白黒逆転したものに変更された。

5代目(1985年4月〜1990年9月)

  • 『DELUXE』へのリニューアルに伴い、基本コンセプトは維持しつつも、セットを全て新調。階段状のセットおよびビッグバンドの演奏スペースには電飾が付けられ、スタジオ上部の菱形模様も立体的なものとなり、それぞれの菱形の中央に電飾が一つずつ付けられた(ただし、1989年夏ごろからは番組短縮が決定したことに伴い以前と同様に平面的なものに切替えられた)。また、ブラスバンドの譜面台もデザインはそれまでと同様であるが若干縦長のものとなり、演奏中には白光するようになった(これは大階段と円形階段のセットも同様)。
  • ブラス担当が4名減り、その代わりに打楽器担当(木琴など)の演奏場所が配置されるようになった(1988年3月で撤去)。
  • 1988年3月以降、司会者が男性のコンビになったことも影響してか、演奏スペース側にも階段セット(ブラス担当者が座っているスペースの2段目の部分に階段セットを接着させたもの)が追加された。
  • 1989年に第6スタジオの床が張り替えられたことから、それまで指揮者用、歌手の立ち位置としてそれぞれ1ヶ所ずつバンドの演奏スペース側に配置されていた円形のスペースは全編を通じて撤去された。

オープニング映像と番組内でのテロップ表記の変遷

  1. (番組開始〜1975年10月27日)ドット抜きされた番組ロゴが現れ、徐々にドットが埋まっていき、ロゴが現れる。
    • 1973年9月までは、オープニングでの司会者名・歌手名テロップを始め、CMに入る直前に画面右端に表示される番組タイトルロゴ、曲名テロップなど、番組内で表示されるテロップは全て白色のものに統一されていた。同年10月の歌手輪番制司会体制に移行して以降、オープニング時の司会者名・歌手名テロップは黒く縁取られた黄色のテロップを、曲名テロップも同様に黒縁付きの色つきのものにそれぞれ変更された。
  2. (1975年11月3日〜1983年3月28日) 画面右下と左下から多数の白い斜めの太線が出てきて、画面全体が線で埋まると線が回転し、番組ロゴに変形する。
    • 1975年11月から、上記のCM入り前の番組タイトルロゴも黒縁付きの色付きテロップに変更(当初は緑色に統一されていたが、1977年からは影付きのものに変更されたため、そのCMに入る直前に披露された曲のイメージを考慮した色が使用されるようになった)された。また、曲名テロップについても作詞者・作曲者名が併記されるようになった。
    • 1981年1月の放送より、曲名テロップのフォントサイズが縮小された。
  3. (1983年4月4日〜1985年3月25日) 格子模様が現れ、徐々に模様が細かくなり、光の筋のような線に変形し、番組ロゴが現れる。
    • (以上の映像は、スタジオ風景が背景になっている)
  4. (1985年4月3日〜1989年9月27日) 宇宙空間をサーキットで走っていき、ライトアップされたスタジオ風景にワープし、ロゴが現れる。※時期によって、ロゴのカラーリングが変わったり、ロゴがばらばらになるなどの変化はある。
    • このオープニング映像は『とんねるずのみなさんのおかげです』『志村けんのバカ殿様』「爆チュー問題」のコントなどで、出演者がジェットコースターに乗っているように見せる合成映像として使われることも多かった。出演者が「何で夜ヒットなんだ?」と慌てたり、「(芳村)真理さーん!」と呼びかける様子が視聴者の笑いを誘った。
    • 『DX』への改編の初期のころ(1985年4月〜6月ごろ)は、曲名テロップの下にこれまで併記されていた歌手名テロップがなぜか省略されていたが、すぐに元の(上段から)手書きの曲名・作詞及び作曲者名・歌手名の表記に戻された。また、番組で使用するテロップの製作に主に携わっていた藤井苑子が年に数回休暇を取ることがあり、その際にはあらかじめ定式化されたテロップを代用することもあった。
  5. (1989年10月18日〜1990年10月3日) さまざまなポーズをとった多数のCGイラストが回転し、それらが消え、ロゴが現れる。

関連書籍

  • 夜のヒットスタジオ ぼくのスター名鑑(前田武彦著、1969年、新人物往来社
  • 芳村真理の夜のヒットスタジオDELUXE(芳村真理著、1988年、フジテレビ出版)ISBN 978-4594002527

関連項目

脚注

  1. ^ 古舘が自身の著書で回顧している。
  2. ^ TBSの研究 (4)低迷続く視聴率読売新聞、2005年12月9日。
  3. ^ 奥居香については「ブタ」発言があった直後のラジオ番組にて、加賀の番組内で見せた態度を痛烈に批判すると共に、自身を含むメンバー全員につき、番組への出演を拒否することを表明、以後1993年の復活版を除いて、1度も出演することはなかった。1989年11月29日放送分冒頭での司会者トークで、古舘は加賀の司会者起用により「30代・40代の男性視聴者が増えているようだ」と述べた一方、「得るものがあれば失うものもある」と前置きして、10代特にプリンセス・プリンセスファンの視聴者離れを冗談交じりに語っている。
  4. ^ それまで月に1、2回出演していた番組最多出演者の五木ひろしは1990年1月10日放送を最後に出演がなくなった。このほか、布施明井上陽水サザンオールスターズ北島三郎森進一らも「SUPER」への改編後は1度も登場していないほか、1980年代には毎週のように出演していたジャニーズ事務所の所属タレントの出演頻度もこの時代になってから激減している。
  5. ^ 自著エッセイ『読め!』より。
  6. ^ 前田が自らの著書で後年回顧している。

外部リンク

フジテレビ 月曜22時台
前番組 番組名 次番組
夜のヒットスタジオ

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