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2011年1月9日 (日) 07:57時点における版

引退(いんたい、: retirement)は、官職地位等から退いたり、スポーツ選手などが選手としての身分を離れたりする事である。プロスポーツ選手の他、スポーツを行っている学生生徒らが最終学年となって高校・大学受験・就職活動等で試合出場の機会が無くなり、所属するクラブ部活動から離れる事も引退と呼ばれる。

また、鉄道車両などが役割を終えたときも引退と呼ぶ。

プロスポーツの場合、あらかじめ引退が予告される事があり、その場合、引退試合とされることがある。大相撲の引退においては取組としての引退試合はなく、引退決定後の断髪式が有名である。

スポーツ

プロ野球

プロ野球選手が引退する際、その手続きには次のような種類がある。但し、引退の為ではなく、移籍、傷病の治療等を前提にこれらの措置が執られる場合がある。

任意引退

原則として契約期間中又は保留期間(契約更改の為の期間)中、選手の希望により[1]行う引退のことを言う。

現在では、任意引退とは日本のみならず世界各国のプロ野球に所属することが出来なくなるが、野茂英雄メジャーリーグに移籍した際には、まだ他国のプロ球団については規定がなかった為、日本において任意引退選手となって移籍している。この他に練習生制度がありかつ支配下登録選手が60人までしか認められなかった時期には、長期間の故障やマイナーリーグに野球留学をする際に任意引退選手公示されることは珍しくなかった。日本ハムの河野博文は、ケガによる一時的な任意引退選手公示を戦力外通告だと勘違いし失踪して騒動となったが、この騒動も一因となって、練習生制度廃止および支配下登録選手70人につながった。

任意引退した選手が現役に復することも可能であるが、原則として任意引退は選手の希望によるものであるため、プロ野球界に復帰する場合には最終所属球団に復帰しなければならず、他球団に復帰する場合には最終所属球団の許可が必要である。

また、戦力外通告による必ずしも本人が望まない引退でも、翌年にチームスタッフ(コーチ、バッティング投手、ブルペン捕手、スカウト、スコアラーなど)として契約することが決まっている場合など、他球団と交渉させないために任意引退選手公示する場合がある。

なお、プロ野球選手であった者がアマチュア野球の選手・指導者に転身するためには最終所属球団からの自由契約となる必要があるため、任意引退後に改めて自由契約公示がなされる場合がある。アマチュア野球の指導者となるために任意引退選手から自由契約公示がなされた例としては1979年に任意引退となった外木場義郎2004年広島東洋カープから自由契約公示)、1985年に任意引退となった定岡正二2006年読売ジャイアンツから自由契約公示)などがある。

自由契約

日本プロフェッショナル野球協約(以下、野球協約)の規定により、球団との契約を解除されたり、球団が保有権を失った選手のことを「どの球団も自由に契約できる選手」ということにより自由契約選手という。この自由契約選手になることそのものが即座に引退に直結するものではなく、いずれの球団であっても自由に契約を結べる選手であるということに過ぎない。しかし、他球団も含めて何れかの球団との契約を結べなかった場合には実質的に引退することになる。なお、ひとたび契約締結できずに翌シーズンに入り、実質的に引退となった場合であっても何れかの球団と契約を結ぶことで現役に復することもある(2003年シーズン終了後に中日ドラゴンズから自由契約公示が為された後、2004年シーズン途中にオリックスで復帰した栗山聡など)。

一番多い形態としては保留選手名簿に記載されないことによる自由契約である。日本プロ野球においてはシーズン終了後に球団が次年度も引き続き契約する意思のある選手のリストである保留選手名簿をコミッショナーに提出し、12月2日にコミッショナーはこれを公示するが、この名簿から外れた場合、自動的に自由契約選手となる。なお、各球団はこの保留選手名簿の提出、コミッショナー公示に先立って当該選手に対して次年度は契約を結ばないことを告げる戦力外通告を行っている。これはプロ野球選手会との協定によるもので、保留選手名簿の公示が為される12月2日以前にトライアウト、入団テストなどが行われることが通例である為、公示までに契約を結ばないことを明らかにすることで当該選手が翌年も他球団に所属できる可能性を残す為である。

また、自由契約選手公示を行うことはシーズン中であっても可能であるが、その場合にはトレード禁止期間であってもこの自由契約選手公示を行うことで実質的にトレードが行えるようにならないよう、自由契約選手公示に先立ってウエイバー公示[2]が為される。この公示が為された後の7日間、下位球団から順に当該選手の契約譲渡を受ける権利を有することになり、どの球団も契約する意思を示さなかった場合に限って自由契約選手となる。

なお、英語においては自由契約選手もフリーエージェント(Free Agent)と表記されるが、これはいわゆるフリーエージェント制度によるものとは別個のものである(選手が「自分の意志で」自由契約を宣言できるのがフリーエージェント制度)。

失格選手

失格選手とは、野球協約により日本野球機構の構成員たる資格を失った選手を言う(構成員には選手の他に、監督コーチその他の職も含まれる)。失格選手には有期、無期、及び永久の三つがあるが、このうち永久失格選手は原則として処分が永久のものであり必然的に引退を余儀なくされる。永久失格となる要件としては、所属球団を故意に敗れさせる敗退行為八百長)などが挙げられており、これにより引退した例としては1969年から1971年の間に起こった黒い霧事件によって永久失格となった6人の選手(下記参照)がある。永久失格は一般には「永久追放」といわれることが多い。

なお、2005年までは永久追放された場合には現役に復する余地がなかったが、2005年の野球協約改正により、処分より15年が経過し、改悛の情が認められる者については処分を未来に向けて解除する条項が新設された。このため現在では失格選手となった場合であっても現役に復する余地はあるが、これにより現役に復した選手はいない(現実問題として、15年のブランクを経て現役復帰できる実力を維持しているケースはほとんどありえない。この規定自体、黒い霧事件で永久失格となった池永正明について所属球団のOBやファンから名誉回復運動が起こっていたことに対応したもので、現役復帰を想定したものではなかった)。

また、無期失格選手となった場合も資格を失っているため、必然的に引退を余儀なくされる。無期失格選手は永久失格選手と異なり、コミッショナーの判断により失格を解除できるがこれまでに現役に復した選手はいない。

過去に適用された選手

類似の概念に資格停止選手がある。

支配下選手登録抹消

支配下登録にある選手がそのまま死去した場合、支配下登録を抹消する。これは当該選手がすでに死去している為の措置であり、引退とはやや趣旨の違うものである。

過去に適用された選手

大相撲

大相撲においては、現役力士として取組に挑むことを辞めても、引き続き角界に身を置く場合を「引退」と表現し、現役を退き角界に残らない場合や、親方が停年前に角界から離れる場合を「廃業(はいぎょう)」と呼んでいた。

公式には1996年平成8年)11月17日以降、その後の去就に関わらず現役を退くことを「引退」、親方を停年前に辞めることを「退職」と表現するように改めた。そのきっかけは、同年10月に現役中だった旭道山和泰が突如衆議院議員立候補を決意、当時の境川日本相撲協会理事長に廃業届を提出した時の「廃業」の語感・イメージが悪かったからとされる。なお、このほかにプロ野球の失格選手に相当するものとして「解雇」「除名」がある。解雇は理事会の決定によって可能で、近年では琴光喜啓司若ノ鵬寿則らの例があるが、除名は全年寄・力士代表・立行司の四分の三以上の賛成が必要で戦後適用された例がない。

幕内を30場所以上務めた力士に対しては引退相撲が行われる。力士の後援会等が主催し、ふれ太鼓、相撲甚句、髪結い実演、横綱土俵入り等、1日に渡って盛大な催しとなる。その内最も有名なものが断髪式で、力士の大銀杏を交替で多数の人々(数百人規模になる事がある)が少しずつ鋏で切り取り、最後に師匠(何らかの理由で不可能な場合は一門を代表する親方などが代わって行う。詳細については断髪式の項を参照のこと)が止め鋏を入れて完全に切り取る儀式である。また横綱の場合は断髪前に最後の横綱土俵入りを行う。また、現役時代の好敵手や息子を相手にして実際に相撲を取ることもある。なお、プロ野球に見られるような「引退を公表した上で『引退試合』と銘打った公式戦に出場」ということは大相撲では滅多にない[3]。これは「死に体になった人間が出るのは相手に失礼」ということからであり、大鵬小錦などの例が有名である。琴ノ若潮丸のように師匠の定年をもって引退して部屋の後継者になることが確定している場合でも、実際に引退表明するまでは決して「師匠の定年で引退」とは公言しないのが普通である。

行司でも定年退職すると引退相撲が行われることがある。特に立行司軍配を次の立行司に継承させる儀式を行う為に開催することが多い。

サッカー

サッカーの場合、引退と定義する一つのケースとして日本サッカー協会への選手登録を取り消した場合が挙げられる。これは野球と違いプロとアマチュアの垣根が低い為であり、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)以外の国内クラブでの活躍により再びプロ選手となる事もよくあるからである。

選手が引退をするケースには、本人の意思により契約を更新しない場合と、所属クラブから11月末までに来季契約をしないという通知(いわゆる「0円提示」)が出される場合がある。前者はプロ野球における「任意引退」、後者は「自由契約」に類似するが、保有権は生じない。

選手によってはその後、日本サッカー協会による「移籍リスト」に掲載されてトライアウト等により自由に所属先を探すことになるが、リストの有効期限内に引退となるケースも多い。又協会への登録は残したまま所属不定の為に事実上「引退」となるケースもあり、翌年のトライアウトには「所属なし」の選手として参加する事も多く見られる。

プロバスケットボール

プロバスケットボールの場合、日本プロバスケットボールリーグ(bjリーグ)と日本バスケットボールリーグ(JBL)が存在し、それぞれ引退の定義が異なる。

bjリーグの場合、選手契約が満了あるいは解除となり、競技を続行する意思がない場合に引退とされる。

JBLの場合は引退選手リストに登録される、あるいは移籍選手リストに登録されて移籍先が決まらなかった場合に引退とされる。ただし引退選手リストに登録されても海外移籍など現役を続ける場合もある。

プロボクシング

日本のプロボクサーの場合、日本ボクシングコミッション(JBC)によるプロボクサーライセンスが失効となった時点で引退となる。ただしあくまで国内でのライセンス失効(国内引退)であり、海外で資格を得れば当該国で選手活動を行うことができる。そのため、JBCライセンスを失効しても海外で現役を続行する選手も少なくない(竹原真敬辰吉丈一郎など)。

日本のプロボクサーがライセンス失効となるケースは以下の通り。ただし、一度ライセンス失効になって引退となった場合でも、JBCがライセンス再付与を認めれば現役復帰が可能となり、再度プロテストで合格して現役復帰した選手も存在する。

引退届

所属ジムに引退の意思を告げた後に、JBCが定める「引退届」をJBC事務局に提出。それが受理されてライセンス失効となる。

37歳定年制

1980年代に規定された。原則的に37歳の誕生日で自動的にライセンスが失効される。

  • 2001年のルール一部改正により、現役のチャンピオンは王座から陥落するまで、また、トーナメント戦に出場している者はそのトーナメントで優勝・敗退するまでライセンスの失効は猶予される(最初に適用された選手は寺地永)。
  • 2003年のルール一部改正により、WBAWBC認定の世界王者、OPBF認定の東洋太平洋王者、あるいは日本王者となったキャリアを持つ者、WBA、WBC認定の世界タイトル挑戦経験者、そして現役の世界ランカー(WBA、WBCの15位以内)に限り、37歳を過ぎても試合に出場することができる。ただし、この特例の申請はその選手の最終試合から5年以内とし、コミッションドクターによる特別診断をパスすることが条件となる(特例を適用された選手には西澤ヨシノリリック吉村猪崎かずみら、現役では嶋田雄大池山直がいる)。

引退勧告

網膜剥離脳内出血など健康上重大な問題が発覚し、競技の継続が困難になった場合、JBCから引退勧告を受けることになる。コミッションドクターの検査結果を踏まえて勧告を出すことが多い。

  • ただし、網膜剥離の完治者については、厳重な医療診断の上で、世界戦または世界戦に準じる試合のみ出場が可能(辰吉丈一郎がこの特例を受けた)。

ライセンス剥奪

JBCルールに違反し、日本国法律に抵触し、その他ライセンスを交付される資格に欠けると裁定された場合、ライセンス剥奪となる。この場合、ボクサーライセンスのみならずすべてのJBCライセンスが対象となるため、度合いによってはトレーナー・オーナー・プロモーター・マネージャーなどとしてのライセンスも給付される資格を失い、ボクシング界から永久追放となる場合もある。

競馬

競走馬の場合、日本中央競馬会 (JRA) では競走馬登録を抹消した時点で引退となる。

引退式については、

  1. GIを勝利した馬
  2. 牡馬騸馬重賞を5勝した馬
  3. 牝馬障害競走で重賞を4勝馬
  4. 以上いずれかの条件を満たした馬と合同で引退式を行う場合(モンテプリンスシービークロスとの引退式が有名)

など、競馬発展に多大な功績を残した馬で希望すれば競馬開催日に行うことができる。ただし、引退式に掛かる経費は馬主の負担となる。

騎手の場合、騎手免許取消願が受理された時点で引退となる。騎手には定年制は設けられておらず、引退は体力の限界を判断した場合、成績低迷により騎手としての収入が少なく、生活の維持の為には比較的収入が安定する調教助手調教師への転向が必要と判断した場合など、自らに委ねられる。

中央競馬の調教師には定年制が導入されており、70歳を過ぎた最初の2月末を以て調教師免許が自動的に失効となり、調教師としての資格を返上することになる(そのため内藤繁春元調教師は定年の無い騎手に転向しようと考え、騎手免許試験を受験した)。また実績に乏しい調教師は定年が間近になってくると、管理する馬が集まらなくなる傾向にあり、また、優勝劣敗の厳しい勝負の世界であるがゆえに、管理馬の成績不振を直接の原因として厩舎経営に行き詰まるなどして、そのため定年前に自ら調教師免許を返上して厩舎を解散、引退する調教師も少なくない。

地方競馬の調教師については、主催者により千差万別である(定年制の有無など、競馬場・競馬組合毎に規定が定められている)。

なお、競馬法に違反する事件・行為などにより、資格を管理する組織(日本中央競馬会・地方競馬全国協会)から騎手・調教師などの免許の取り消し(剥奪)の処分がなされ、資格を喪失する形で強制的に引退(あるいは管理団体からの解雇)となった場合には、引退という言葉が用いられる事は少ない。特に競馬マスコミなどでは『競馬界追放』などの表現がなされ、これが引退を事実上意味するものとなる(田原成貴逮捕による調教師免許剥奪時にこの表現が使用されていた)。

プロレス

プロレスラーの引退は、事実上の引退でない場合が多い。エースであるレスラー等は興行上休む事が許されない為に、怪我等をしても無理を押して出場し続ける事も多く、体調上の問題から引退を宣言する場合も多いが、引退後体調がよくなると復帰を宣言する場合が多々ある(プロレス以外でもテニス伊達公子やボクシングのジョージ・フォアマンF1ミハエル・シューマッハのように引退後復帰した例はあるが、プロレスに比べると非常に少ない)。その為に大仁田厚など複数回の引退宣言を行った選手もいる。引退時の興行は観客の入りもよく、ご祝儀的な事でもある為、その後の復帰等については批判も多い。体調不良で引退→体調回復で復帰という流れは、日本のプロレス界ではテリー・ファンクが作ったといわれている。テリー・ファンクが復帰した際には「引退試合」で涙したファンを中心に大きな批判が起こり、人気は大幅にダウンした。小林邦昭は引退する際に「絶対に復帰しない」事を明言したが、1試合限定復帰(後述)をしている。また、川田利明は「俺がプロレス辞める時は『引退』ではなく『休業』という事にしてくれ。」とコメントしている。アントニオ猪木はプロレス以外の競技も含めた現役復帰について「生活に困っているから戻っただけでしょう」と釘を刺した上で、自身の復帰は否定している。

このような背景もありレスラーが傷病により一時的にリングを離れる場合、比較的軽いものだったとしても「引退危機」と報じられるケースが多々ある。しかし近年は長期離脱となった場合でも引退を否定した上で復帰をした選手も少なくない。

なお、日本で引退興行を大々的にやった最初のレスラーは吉村道明だが、引退後の吉村は復帰どころか、プロレス界とのかかわりもほとんど持たなかった。

かつての全日本女子プロレスでは「25歳定年制」が布かれていたが、他団体やフリーで現役続行あるいは復帰するケースが多く、現役から完全に退いた場合も含め「引退」よりむしろ「卒業」と表現している。これは定年制が有名無実化した後も同様であった。定年制無実化のきっかけとなったのは、ブル中野とされている。中野は25歳を過ぎても現役を続けていたが、引退興行などを行わず29歳で静かにリングを去った。現存する女子団体のアイスリボンでも正式には「引退」ではなく「卒業」を使用している。

また、プロレス特有の事情として、ストーリーラインの都合上で「1試合限定復帰」というアングルが組まれることがある。有名な例では坂口征二バディ・ロジャースなど。

フィギュアスケート

フィギュアスケート選手の引退も特殊なケースと見られる。オリンピックを筆頭とするISU管轄の競技会はアマチュア選手に限定しているため、プロスケーターに転向することはすなわち競技生活から身を引くことである。そのため、プロ転向した場合も「引退」と表現されるが、プロ参加可能なISU非公認の競技会も存在する。

政治

政界における引退とは政治家が政界から身を引くことを言う。身の引き方は任期による退任、自発的辞任、解任、落選を問わないが、一般的に引退を宣言以降、自分自身が当選するための選挙活動、政治活動はしないとされる。当然ながら、法的には引退には全く根拠のないものであり、引退を撤回して、再度政治家を目指してもなんら差支えない。例外的なケースではあるが、藤井裕久のように、衆議院議員選挙で落選して引退表明した後に比例復活での繰り上げ当選により政界復帰することもある(藤井はその後党税制調査会長、財務大臣にまで就任している)。

なお、国政から地方もしくはその逆で首長議員に転身する場合は引退とは言わない。また、選挙で落選しただけで次回選挙へ立候補意欲がある人物の場合、資金管理団体が存続する場合も引退とは呼ばない。

政治家が引退する理由には高齢により後進に道を譲るものが多いが、自らの不祥事を認めた場合(例:堀江メール問題における永田寿康)や自分が所属する派閥に対して不満があったり、意見が食い違ったりした場合に責任を取って引退する議員もいる(例:「郵政解散」での中村正三郎)。また、極稀なケースとして、近藤剛のように政治家以外の重要な役職に就任し、政治家との兼任が難しい場合(近藤の場合は日本道路公団総裁に就任するため、参議院議員を辞職)もある。竹中平蔵のように自分を政界に勧誘した人間(竹中の場合は小泉純一郎)の退陣に伴って議員を引退する例もあるが、この場合は「投票した選挙民への背信ではないか?」と批判されることもある。

ただし、引退後に長老、評論家、研究者などとして活動し、政界に一定の影響力を残すこともある(吉田茂中曽根康弘など)。また、政党の中には引退した人物に後進の政治家の選挙活動の支援を依頼したり、政党内の政策研究組織への参加を許可しているケースもある。顧問最高顧問などの肩書きを与える例も多い。

そのため、中曽根は定年制導入による衆議院選不出馬会見で「引退はしない」と公言しているが、これは「国会議員を引退しない」という意味ではなく、「国会議員引退後の政治活動は引退しない」あるいは「資金管理団体・近代政治研究会を解散しない」という意味である。また、日本共産党では、宮本顕治不破哲三が議員引退後も議長の椅子に座り続けていた。また自民党の河本派では、派閥会長の河本敏夫が議員を引退した後も、後継難から河本が派を代表し続け、「旧河本派」と称していた。

アメリカ合衆国大統領の場合、大統領が議員を兼任できないこともあって、大統領引退は即政界引退となるのが一般的である。大統領退任後に返り咲いたのは19世紀グローバー・クリーブランドが唯一の例であり、大統領選挙に出た大統領経験者もセオドア・ルーズベルト以来久しく絶えている。ジミー・カーターのように政界に顔を出し続ける例もあるが、大統領や議員に立候補するわけではなく長老・有識者としてのものである。

なお、以上に述べたのはアメリカ及び戦後の日本の政界の話であって、戦前の日本政界のように元老重臣枢密顧問官など「第一線を退いた人物が功労経験を買われて就くポスト」が存在する場合には、そういうポストに就いた人間にとっては、たとえ政党や衆議院の第一線を退いたとしても引退という言葉は成り立ちにくい。たとえば若槻礼次郎は、第2次若槻内閣が崩壊し民政党の党首を退いた時点で今なら政界引退であるが、実際にはその後も終戦まで重臣として政治に関わり続けた。幣原喜重郎のように、第2次若槻内閣の総辞職で外相の地位を退いて以来10年以上、貴族院議員を唯一のポストとして引退同然の生活を送っていた人間が、終戦直後の人材難で突如復活して首相となった例もある。また中国では、かつての「八大元老」のように、ポスト上からは引退したはずの大物政治家がその個人的権威によって事実上政界を支配していたことがあった。

将棋

将棋界では、フリークラス規定の年齢・年数制限によるもの以外は強制的な引退はない(つまり順位戦の参加資格があれば、理論上は半永久的に現役を続けることが出来る)。そのため、フリークラスに転向し引退規定に該当するまでは何歳まで指しても、規定上は何の問題もない(ただしフリークラスの定年を過ぎて順位戦を指している棋士はC級2組からの陥落が即引退となる)。ただ病没などを別とすれば、実際には棋力や体力の限界を悟ったり順位戦で降級になったりという状況になった時に引退となる場合が主である。一流棋士においては、順位戦のA級(名人戦挑戦者決定リーグ)もしくはB級1組から落ちたことがきっかけとなって、規定上まだ指せるにもかかわらず引退する例が多い。むろん規定上指せなくなるまで指す例もあり、丸田祐三の現役最年長記録77歳は「一流棋士が規定上指せなくなるまで指した結果」の記録である。一流棋士における他の引退例としては、木村義雄は二度目に名人を陥落した際に、まだ50歳にもなっていなかったにもかかわらず「良き後継者を得た」との名文句を残して引退表明し、二上達也は50代でB級1組在位中、しかも落ちそうになったわけでもないタイミングで引退表明をしている。特殊な例として、西本馨は四段昇段後に失明した影響で戦績がふるわなくなり、特例として記録係による棋譜の読み上げを要請したが却下され、それが一因となって引退に追い込まれた(失明前は好成績を収めていた)。

引退表明は順位戦で陥落が決まった時期にされることが多いが、それ以外の時期にされる場合もある。どちらにしても、その時点でトーナメント表に名前が載っている対局は全て消化するのが決まりで、消化しない場合には「不戦敗」の扱いとなる。よって、場合によってはその残りの対局で勝ち進んでしまい、米長邦雄のように引退表明後1年近くたってもまだ現役で指していたという例もある。いくら勝ってもいずれ引退には違いないのだが、将棋界では「勝っても負けても同じ、という対局でも全力を出す」というのが不文律となっている(いわゆる「米長哲学」)。以前は順位戦陥落での引退は年度末である3月31日付となっていたが、2010年にC級2組から陥落し年齢制限による引退が確定していた有吉道夫が引退確定前に対局が組まれていたNHK杯戦で予選を突破し新年度の本戦に出場することが決定したのをきっかけに、最終対局日付での引退に規定が変更された(なお、有吉の引退は5月24日までずれこみ、引退決定後の対局は6勝4敗であった)。

一方、成績が振るわず順位戦のC級2組から陥落し、フリークラスの状態のまま10年が経過すると、その棋士は強制的に引退となる。これは相撲界の「廃業」に近い形であるが、待遇上は強制的でなく引退した者と同じ「退役棋士」として扱われる。退役棋士は将棋連盟会員の身分を保持し、奨励会員の師匠となることも出来る。一方で奨励会を辞めた者は引退ではなく「退会」と呼ばれ区別されている。一旦奨励会を抜けて四段になった棋士が将棋連盟を辞める場合にも「退会」ということになるが、その例は非常に少ない(2010年1月1日現在、棋士番号制度以降の棋士277人中では永作芳也一人)。

なお引退した棋士や退会した奨励会員は、一定期間アマチュア棋戦に参戦することはできない規定となっている(ただし、一旦四段になって引退した棋士がアマチュア棋戦に参戦した例はたとえ一定期間経過後でも絶無である)。

囲碁

日本の囲碁界の事情は将棋界に近いが、順位戦という制度が囲碁にはないため、一流棋士の退き際は完全に本人の価値観にゆだねられる。ゲームの性質上加齢によるマイナスが少ないこともあって、87歳で死ぬまで現役だった橋本宇太郎をはじめ、坂田栄男藤沢秀行梶原武雄など70代になっても打ち続けた一流棋士は数多く存在する。2009年に引退した窪内秀知は当時89歳であった。

芸能界

芸能界における引退は大きく分けて3つのパターンが存在する。すなわち、

  1. 引退を事前に公表し、引退記念コンサートなどイベントを開催するもの。
  2. 人気が無く(無くなり)、世間から注目を集めることもなくひっそりと引退するもの。
  3. 不祥事や契約上のトラブルなどを理由にした所属事務所からの契約解除。

の3つである。ある程度名の知れていた人物は1.の形をとる。しかし、人気が高くても諸事情によって引退イベントを開催できない場合もある。

引退を発表しても世間から余り注目されない多くの芸能人は2.の道を余儀なくされる。公式ファンクラブが存在するなど一定のファンがついている芸能人に関してはファンクラブ会報誌で引退を告知したりすることがある。最近ではインターネットが広く浸透していることにより、公式HPやブログで引退を告知するだけという場合もある。

この1.2.のパターンの場合には、公式ファンクラブが存在する場合などに、引退の公式発表の数ヶ月前から関連グッズが在庫処分を目的とした投げ売り状態になるなど、何らかの予兆が見られる場合もある。

3.の形をとる場合は、所属事務所からの一方的な発表がされるにとどまり、不祥事を起こした本人自らのコメントが聞けない場合も多い。一部のメンバーの不祥事・逮捕に伴うグループ解散の場合は、他のメンバーがコメントを出す場合がある。

芸術家

作家、音楽家などの芸術家の場合も、死去するまで活動せずに生前に体力や創作意欲の衰えなどで引退することがある。指揮者のように単独では活動できない職業では、前記芸能界の場合のように人気が無くなっての引退もある。必ずしも全面的に活動をやめるわけでない場合もあり、指揮者ではカルロ・マリア・ジュリーニは引退表明後に学生オーケストラを指揮したことがあり、ブルーノ・ワルターは引退後にステレオ録音が登場したため、スタジオでの録音活動を再開している。ラファエル・クーベリックのように引退後に現役復帰した例もある(「体調不良及び作曲活動のため」として引退したが、祖国チェコスロバキア社会主義政権が崩壊するという予想外の事態になり、現役復帰してチェコ・フィルハーモニーとの活動を再開した)。1969年に引退表明した作家の海音寺潮五郎の場合は新聞・雑誌の連載ものからの引退表明で、余命を考えて(8年後に死去)仕事を絞る意味からの引退であった。

なお、個人で活動できる芸術家の場合、上記のスポーツ関係者や芸能人と異なって不祥事が引退につながらないこともある。陶芸家の加藤唐九郎は「自分で焼いた壺を永仁年間のものとして重要文化財指定まで受けた」という永仁の壺事件を起こしたが、陶芸家を引退させられるようなことはなく、かえって「重要文化財を焼ける男」として名声が高まった。

その他の引退

サッカーラグビーなどの団体競技ではナショナルチームへ今後参加しない意思を表明する「代表引退」が存在する。この場合、クラブチームでの活動は継続される。あくまでも選手が公に意思表示をするだけのものであるため、代表引退後の代表再復帰に関しては特に制約はない。個人競技においても「国際大会からの引退」など、特定の活動からのみ退く引退も存在する。たとえばマラソン選手が「引退」を表明しても、市民ランナーとして走り続けることまでは否定しない例が多い。宗猛は第一線を退いていた時期にアジア大会代表選考レースで代表クラスの成績をあげてしまい、「代表に選ばれても辞退する」と表明したことがある。

鉄道路線や、鉄道車両、名称がある列車が廃止される場合も引退と言われることがよくある(路線の場合は廃止・廃線のほうが一般的である。)。また、飛行機の場合も同様である。これらに関してはさよなら運転も参照の事。

また、長年親しまれた、愛着のあった道具や機械が新型と入れ替わる場合も引退と言うことがある。

慣用句

「引退」という言葉を直接用いず、その分野にまつわる道具・器具・場所などを用いた慣用句で置き換えて表現する場合がある。

例を挙げると、「マウンドを去る」(プロ野球投手)、「バットを置く」(プロ野球野手)、「土俵を去る」(大相撲)、「グローブを吊るす」(プロボクシング)、「永田町を去る」(国会議員)、「バッジを外す」(国会議員、弁護士)、「白衣を脱ぐ」(医師看護師)、「霞ヶ関を去る」(本省・本庁勤務の国家公務員)、「兜町を去る」「北浜を去る」(証券取引所関係者)、「マイクを置く」(歌手アナウンサー)、「を折る」(書道家画家)、「ペンを折る」(小説家漫画家記者)、「文壇を去る」(小説家)、「教壇を去る」(教授教師)、「が消える」(鉄溶鉱炉火力発電所)など。

また、警察自衛隊鉄道など制服を着用する数多くの職業や野球・サッカーなどユニフォームを着用する数多くのスポーツで、「制服を脱ぐ」「ユニフォームを脱ぐ」という表現が引退・退職の慣用句として用いられている。

注釈

  1. ^ 日本プロフェッショナル野球協約第59条
  2. ^ 日本プロフェッショナル野球協約の原文による。ウエイバーとは権利放棄(waiver)の意であり、一般的にはウェーバーと表記される。
  3. ^ 高見山大五郎が引退を表明しつつ千秋楽まで現役を続けた例がある。またそれ以前に「10勝できなければ引退」とのコメントが場所前に新聞に載った横綱鏡里喜代治が、途中で6敗しながら千秋楽まで取り、勝ち越して引退した例もある。

関連項目