[go: nahoru, domu]

コンテンツにスキップ

「東金御成街道」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m 121.113.84.108 (会話) による ID:49368982 の版を取り消しテンプレートの無断消去のガイドライン違反
1行目: 1行目:
{{出典の明記|date=2013年10月|ソートキー=道とうかねおなりかいとう}}
'''東金御成街道'''(とうがねおなりかいどう)は、[[九十九里浜|九十九里]]方面での[[鷹狩]]のために[[徳川家康]]が[[土井利勝]]に命じて造らせたほぼ一直線の[[道路]][[船橋市|船橋]]から[[東金市|東金]]までのだけでも37キロメートルに及ぶ<ref>但し、八街市滝台から東金へ至る経路は現在不明になって… 『角川日本地名大辞典 12 千葉県』、577頁</ref>。なお東金市田間から[[山武市]]小松までの部分は'''砂押街道'''と呼ばれる<ref>御成新道とも呼ばれるが、全体が同時に造成された。… 『千葉県の地名(日本歴史地名大系 12)』、55頁</ref>
'''東金御成街道'''(とうがねおなりかいどう)は、[[九十九里浜|九十九里]]方面での[[鷹狩]]のために[[徳川家康]]が[[土井利勝]]に命じて造らせた[[道路]][[船橋市|船橋]][[東金市|東金]]間37キロメートルをほぼ一直線結んで元の千葉県道・旭船橋線。なお東金市田間から[[山武市]]小松までの部分は'''砂押街道'''と呼ばれる。


== 概要 ==
沿道の村々の[[農民]]たちが[[石高]]に応じてかり出され、「三日三晩で造られた」とか、「昼は白旗、夜は提灯を掲げて昼夜兼行で工事が行われ、一晩のうちに完成した」などといわれ、'''提灯街道'''、'''一夜街道'''または'''権現道'''などとも呼ばれるが、実際には[[慶長]]18年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]([[1614年]][[1月21日]])に着工し、翌慶長19年[[1月7日 (旧暦)|1月7日]](1614年[[2月15日]])に完成した。また[[征夷大将軍|将軍]]が休息・宿泊する為に[[船橋御殿]](現・[[船橋東照宮]])、[[御茶屋御殿]]([[千葉市]][[若葉区]]御殿町)、[[東金御殿]](現・[[千葉県立東金高等学校]])も造られた。
沿道の村々の[[農民]]たちが[[石高]]に応じてかり出され、「三日三晩で造られた」とか、「昼は白旗、夜は提灯を掲げて昼夜兼行で工事が行われ、一晩のうちに完成した」などといわれ、'''提灯街道'''、'''一夜街道'''または'''権現道'''などとも呼ばれるが、実際には[[慶長]]18年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]([[1614年]][[1月21日]])に着工し、翌慶長19年[[1月7日 (旧暦)|1月7日]](1614年[[2月15日]])に完成した。また[[征夷大将軍|将軍]]が休息・宿泊する為に[[船橋御殿]](現・[[船橋東照宮]])、[[御茶屋御殿]]([[千葉市]][[若葉区]]御殿町)、[[東金御殿]](現・[[千葉県立東金高等学校]])も造られた。


家康が慶長19年月に初めて九十九里方面を訪れてから、[[徳川秀忠|秀忠]]や[[権大納言]]時代の[[徳川家光|家光]]もこの街道を利用した。その後[[寛永]]7年([[1630年]])を最後に九十九里方面での鷹狩は行われなくなり、[[寛文]]11年([[1671年]])頃には3つの御殿も取り壊しになったが、東金御殿、御茶屋御殿ともに移築と伝わる建物が現存している。
家康が慶長19年1月に初めて東金・九十九里方面を訪れてから、[[徳川秀忠|秀忠]]や[[権大納言]]時代の[[徳川家光|家光]]もこの街道を利用した。その後[[寛永]]7年([[1630年]])を最後に東金方面での鷹狩は行われなくなり、[[寛文]]11年([[1671年]])頃には3つの御殿も取り壊しになったが、東金御殿、御茶屋御殿ともに移築と伝わる建物が現存している。


[[明治維新]]後各所で分断されたが、[[津田沼町]]大字大久保[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[騎兵第1旅団 (日本軍)|騎兵第1旅団]]前から現在の葉市[[稲毛区]]六方[[陸上自衛隊]][[下志津駐屯地]]の前までが[[軍事国道]]特1号<ref>軍事国道特1号は下志津駐屯地を迂回して[[千代田町 (千葉県)|千代田村]]畔田まで至っていた。</ref>の指定を経て、[[千葉県道69号長沼船橋線]]および[[千葉県道66号浜野四街道長沼線]]の一部として、また東金市田間から山武市小松までは[[千葉県道124号緑海東金線]]として現存しているほか随所に残っており、[[八街市]]内の一部は市指定の[[史跡]]となっている。
[[明治維新]]後各所で分断されたが、津田沼町大字大久保(現[[習志野市]]大久保)から千代田畔田(現[[四街道市]]までが[[軍事国道]]特1号の指定を経て、千葉県道旭船橋線から、[[千葉県道69号長沼船橋線]]および[[千葉県道66号浜野四街道長沼線]]の一部として、また東金市田間から山武市小松までは[[千葉県道124号緑海東金線]]として現存しているほか随所に残っており、[[八街市]]内の一部は市指定の[[史跡]]となっている。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[御成街道]]
*[[御成街道]]
*[[下志津駐屯地]]
*[[駒形観音堂]]
*[[駒形観音堂]]
*[[白幡幡神社]]
*[[八鶴湖]]
*[[千葉郡]] - [[千葉街道]]と並び、千葉郡内を貫く重要な道であった。

== 脚注 ==
{{Reflist}}

== 参考文献 ==
* 『角川日本地名大辞典 12 千葉県』角川書店、昭和59年。
* 『千葉県の地名(日本歴史地名大系 12)』 平凡社、1996年、ISBN 4-582-49012-3


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
*[http://homepage1.nifty.com/togane-onarikaido/index.html 東金御成街道] - 御成街道小史など
*[http://homepage1.nifty.com/togane-onarikaido/index.html 東金御成街道] - 御成街道小史など
*[http://www.ktr.mlit.go.jp/chiba/limit/rekishi/index.htm 千葉古街道歴史散歩] - 千葉国道事務所のページ
*[http://www.ktr.mlit.go.jp/chiba/limit/rekishi/index.htm 千葉古街道歴史散歩] - 千葉国道事務所のページ
<!--:このホームページの東金市の[[八鶴湖]]までの部分は、明治維新後八街市滝台から東金市田間を廃道とし東金御殿に至る別の道を割り当てたものであり徳川家康の造成した御成街道ではなく、従って一直線ではない。-->


{{Road-stub}}
{{Road-stub}}

2013年10月10日 (木) 05:38時点における版

東金御成街道(とうがねおなりかいどう)は、九十九里方面での鷹狩のために徳川家康土井利勝に命じて造らせた道路船橋東金間約37キロメートルをほぼ一直線に結んでいた。元の千葉県道・旭船橋線。なお東金市田間から山武市小松までの部分は砂押街道と呼ばれる。

沿道の村々の農民たちが石高に応じてかり出され、「三日三晩で造られた」とか、「昼は白旗、夜は提灯を掲げて昼夜兼行で工事が行われ、一晩のうちに完成した」などといわれ、提灯街道一夜街道または権現道などとも呼ばれるが、実際には慶長18年12月12日1614年1月21日)に着工し、翌慶長19年1月7日(1614年2月15日)に完成した。また将軍が休息・宿泊する為に船橋御殿(現・船橋東照宮)、御茶屋御殿千葉市若葉区御殿町)、東金御殿(現・千葉県立東金高等学校)も造られた。

家康が慶長19年1月に初めて東金・九十九里方面を訪れてから、秀忠権大納言時代の家光もこの街道を利用した。その後寛永7年(1630年)を最後に東金方面での鷹狩は行われなくなり、寛文11年(1671年)頃には3つの御殿も取り壊しになったが、東金御殿、御茶屋御殿ともに移築と伝わる建物が現存している。

明治維新後各所で分断されたが、津田沼町大字大久保(現習志野市大久保)から千代田町畔田(現四街道市)までが、軍事国道特1号の指定を経て、千葉県道旭船橋線から、千葉県道69号長沼船橋線および千葉県道66号浜野四街道長沼線の一部として、また東金市田間から山武市小松までは千葉県道124号緑海東金線として現存しているほか随所に残っており、八街市内の一部は市指定の史跡となっている。

関連項目

外部リンク