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'''松永 久秀''' (まつなが ひさひで、[[永正]]7年([[1510年]]) - [[天正]]5年[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]([[1577年]][[11月19日]]))は[[室町時代]]末期の武将。[[日本のキリシタン一覧|吉利支丹]]。
'''松永 久秀''' (まつなが ひさひで、[[永正]]7年([[1510年]]) - [[天正]]5年[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]([[1577年]][[11月19日]]))は[[室町時代]]末期の武将。[[日本のキリシタン一覧|吉利支丹]]。出自について[[阿波国]]、[[山城国]]西岡出身など諸説があり[[摂津国]]五百住の土豪の出とも伝えられる。はじめ[[藤原氏]]を称したが、[[1561年]]([[永禄]]4年)から[[源氏]]を称した。


[[細川氏]]の被官[[三好長慶]]に右筆として仕え、[[1549年]]、長慶に従って上洛し幕政に関与する。長慶が[[畿内]]を平定した[[1553年]]に摂津国滝山城々主に任ぜられた。[[1559年]](永禄2年)、[[大和国]][[信貴山城]]に移り、翌[[1560年]]、[[興福寺]]の大和国支配を終焉させて大和一国を統一し、[[1562年]][[多聞山城]]を築城し移り住んだ。
出自について[[阿波国]]、[[山城国]]西岡出身など諸説があり[[摂津国]]五百住の土豪の出とも伝えられる。


長慶がその晩年に気力を失うと、家宰として重きをなし本家を凌駕する実力を持つに至った。長慶が没した[[1564年]][[三好三人衆]]とともに長慶の後嗣[[三好義継]]の後見人になり、[[1565年]]将軍[[足利義輝]]を暗殺して畿内に君臨するようになったが、同年弟[[松永長頼]]が[[丹波国]]で敗死すると三好三人衆と対立するようにな
はじめ[[藤原氏]]を称したが、[[1561年]]([[永禄]]4年)から[[源氏]]を称した。[[細川氏]]の被官[[三好長慶]]に右筆として仕え、[[1549年]]、長慶に従って上洛し幕政に関与する。


[[1568年]]9月[[織田信長]]が上洛すると降伏して大和一国を安堵された[[1571年]]([[元亀]]2年)5月[[武田信玄]]と通じて信長に背き、[[1573年]](天正元年)3月将軍[[足利義昭]]と同盟した。同年7月、義昭が追放されて幕府が滅亡し11月に三好義継が[[河内国]]若江城に敗死したのを機会に再び信長に帰順した。
[[1553年]]、長慶が[[畿内]]を平定すると摂津国滝山城々主に任ぜられた。[[1559年]](永禄2年)、[[大和国]][[信貴山城]]に移り、翌[[1560年]]、[[興福寺]]の大和国支配を終焉させて大和一国を統一し、[[1562年]][[多聞山城]]を築城し移り住んだ。


[[1577年]]8月、[[石山本願寺]]や[[毛利氏]]と連携して、再度、信長に反抗して蜂起したが、同年10月信貴山城を包囲された。のとき所有していた名器[[平蜘蛛の茶釜]]が信長に渡るのを拒んだ久秀は、茶釜を道連れに爆死した。
[[1564年]]長慶が没すると[[三好三人衆]]とともに長慶の後嗣[[三好義継]]の後見人になり、[[1565年]]将軍[[足利義輝]]を暗殺して畿内に君臨たが、同年弟[[松永長頼]]が[[丹波国]]で敗死すると三人衆と対立するようになった


将軍足利義輝暗殺東大寺大仏殿焼討の首謀者とされ(大仏殿焼失については、陣取っていた三好方の失火とする説もある)、狡猾で意地汚いイメージ付き纏うが、実美男子で立振舞が優な教養人であったという。
[[1568年]]9月、上洛した[[織田信長]]降伏して大和一国を安堵されたが、[[1571年]]([[元亀]]2年)5月[[武田信玄]]と通じて信長に背き、[[1573年]](天正元年)3月将軍[[足利義昭]]と同盟した。同年7月、幕府が滅亡し11月に三好義継が[[河内国]]若江城に敗死したため再び信長に帰順した。


*儒学者の[[松永尺五]]は彼の曾孫に当たる。
[[1577年]]8月、再び信長に反抗して[[石山本願寺]]や[[毛利氏]]と連携して蜂起したが、同年10月信貴山城を包囲された。のとき所有していた名器[[平蜘蛛の茶釜]]が信長に渡るのを嫌った久秀は、茶釜を道連れに爆死した。

将軍足利義輝暗殺東大寺大仏殿焼討の首謀者(大仏殿焼失については、陣取っていた三好方の失火とする説もある)であるため彼は狡猾で意地汚い悪役として時代劇に登場すること多いが、実は立振舞が優美男子で文化に精通した教養人であったという。

なお、儒学者の[[松永尺五]]は彼の曾孫に当たる。


[[Category:戦国武将|まつなかひさひて]]
[[Category:戦国武将|まつなかひさひて]]

2004年12月20日 (月) 12:58時点における版


松永 久秀 (まつなが ひさひで、永正7年(1510年) - 天正5年10月10日1577年11月19日))は室町時代末期の武将。吉利支丹。出自について阿波国山城国西岡出身など諸説があり摂津国五百住の土豪の出とも伝えられる。はじめ藤原氏を称したが、1561年永禄4年)から源氏を称した。

細川氏の被官三好長慶に右筆として仕え、1549年、長慶に従って上洛し幕政に関与する。長慶が畿内を平定した1553年に摂津国滝山城々主に任ぜられた。1559年(永禄2年)、大和国信貴山城に移り、翌1560年興福寺の大和国支配を終焉させて大和一国を統一し、1562年多聞山城を築城し移り住んだ。

長慶がその晩年に気力を失うと、家宰として重きをなし本家を凌駕する実力を持つに至った。長慶が没した1564年三好三人衆とともに長慶の後嗣三好義継の後見人になり、1565年に将軍足利義輝を暗殺して畿内に君臨するようになったが、同年弟松永長頼丹波国で敗死すると三好三人衆と対立するようになる。

1568年9月に織田信長が上洛すると降伏して大和一国を安堵された。1571年元亀2年)5月に武田信玄と通じて信長に背き、1573年(天正元年)3月に将軍足利義昭と同盟した。同年7月、義昭が追放されて幕府が滅亡し11月に三好義継が河内国若江城に敗死したのを機会に再び信長に帰順した。

1577年8月、石山本願寺毛利氏と連携して、再度、信長に反抗して蜂起したが、同年10月に信貴山城を包囲された。このとき所有していた名器平蜘蛛の茶釜が信長に渡るのを拒んだ久秀は、茶釜を道連れに爆死した。

将軍足利義輝暗殺や東大寺大仏殿焼討の首謀者とされ(大仏殿焼失については、陣取っていた三好方の失火とする説もある)、狡猾で意地汚いイメージが付き纏うが、実像は美男子で立振舞が優雅な教養人であったという。