「横光利一」の版間の差分
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'''横光利一'''(よこみつ りいち、[[1898年]][[3月17日]] - [[1947年]][[12月30日]])は、[[日本]]の[[小説家]]・[[俳人]]である。[[菊池寛]]に師事し、[[川端康成]]と共に[[新感覚派]]として活躍した。本名は横光利一(としかず)。 |
'''横光利一'''(よこみつ りいち、[[1898年]][[3月17日]] - [[1947年]][[12月30日]])は、[[日本]]の[[小説家]]・[[俳人]]である。[[菊池寛]]に師事し、[[川端康成]]と共に[[新感覚派]]として活躍した。本名は横光利一(としかず)。 |
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2010年4月22日 (木) 10:22時点における版
横光 利一 (よこみつ りいち) | |
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誕生 |
1898年3月17日 日本・福島県北会津郡 |
死没 | 1947年12月30日(49歳没) |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 早稲田大学政治経済学科中退 |
活動期間 | 1923年 - 1947年 |
ジャンル | 小説 |
代表作 |
『蠅』(1923年) 『日輪』(1923年) 『機械』(1930年) 『旅愁』(1946年) |
デビュー作 | 『蝿』(1923年) |
ウィキポータル 文学 |
横光利一(よこみつ りいち、1898年3月17日 - 1947年12月30日)は、日本の小説家・俳人である。菊池寛に師事し、川端康成と共に新感覚派として活躍した。本名は横光利一(としかず)。
横光の名を冠したものとして、父の故郷の大分県宇佐市でおこなわれる横光利一俳句大会があるが、これは横光が松尾芭蕉の家系を引くことや(その後の調査で血縁関係はないことが判明)、また本人も数多くの句を作ったところよりきている。
略歴
デビュー以前
1898年(明治31年)3月17日、福島県北会津郡東山村大字湯本川向 旅館「新瀧」(今の東山温泉)で、父・梅次郎、母・こぎくの長男として生まれる(本籍地は大分県宇佐郡長峰村)。父の鉄道敷設工事の仕事の関係で、千葉県佐倉など各地を転々とする。
多感な少年期の大半は三重県伊賀で過ごし、1904年、母の実家のある三重県阿山郡東柘植村(現伊賀市柘植)に移り、柘植で小学校時代の大半を過ごした。友人に宛てた手紙でも、「やはり故郷と云えば柘植より頭に浮かんで来ません」と記している。
1910年、13歳で三重県第三中学校(現三重県立上野高等学校)入学、スポーツ万能の少年であった。当初は母と姉と共に上野に移り住んで暮らしていたが、後に1人で下宿生活を送る。この頃、近所に住んでいた少女の宮田おかつに淡い恋心を抱き、のちに、下宿時代の初恋の思い出をもとに『雪解』を発表している。このころから志賀直哉に影響を受ける。
1914年、早稲田大学英文科に入学するも文学に傾倒し除籍。再び政治経済学科に入学するも中途退学する。
デビュー
1921年頃から菊池寛に師事し、また川端と出会い以後生涯の友となる。処女作「御身」を書くがこの時には発表せずにいる。
1923年、菊池の推挙により同人誌『文藝春秋』同人となる。同5月、同誌にて「蝿」を、『新小説』に「日輪」を発表する。
同9月に関東大震災があったために、この時期に出た作家は震後作家としてもてはやされた。同人仲間・小島勗の妹・君子と結婚する。
新感覚派
1924年、「御身」と「日輪」を刊行。川端とともに、今東光、中河与一、稲垣足穂ら新進作家を糾合して「文藝時代」を創刊する。プロレタリア文学全盛の中、この雑誌は新感覚派の拠点となる。横光は新感覚派の天才と呼ばれるようになる。
1926年、妻・君子を結核によって喪う。このころの二人のことは「春は馬車に乗って」「花園の思想」などに書かれている。翌年、日向千代と再婚。
上海
芥川龍之介の最後の時期に「君は上海に行くべきだ」と言われ、1928年に約1ヶ月上海に滞在する。これにより「上海」を執筆し始める。連作長編の形で執筆されたこの作品は、内容的には1925年の五・三〇事件を背景に、上海における列強ブルジョアジーと中国共産党、押し寄せるロシア革命の波と各国の愛国主義といった諸勢力の闘争を描いた野心作であると同時に、形式的には新感覚派文学の集大成であり、新心理主義への傾倒の兆しもみられる問題作であった。
大正末期から昭和初期のこの頃、芥川をはじめ、吉行エイスケ、村松梢風、金子光晴などが上海を訪れている。また内山完造の経営していた内山書店には魯迅をはじめ、中国や日本の文学者が多く集まっていた。
純粋小説論
1930年、町工場の人間模様を実験的な手法で描いた「機械」を発表する。1932年、新感覚派の集大成というべき「上海」と「寝園」を、1934年には「紋章」を刊行。
翌年、「純文学にして通俗小説、このこと以外に、文藝復興は絶對に有り得ない」と説く「純粋小説論」、それを実行した「家族会議」を発表する。「純粋小説論」はこの頃に翻訳が出たアンドレ・ジッドの「贋金つくり」が影響している。
『旅愁』と戦争の時代
1936年、半年間、ヨーロッパを旅行する。行きの船では高浜虚子や宮崎市定がいて、句会をしばしばひらいていたという。出発直後に二・二六事件が起こる。ヨーロッパではベルリンのオリンピックや、パリでの人民戦線政府への激動を直接体験する。この経験をもとに、翌年から「旅愁」の連載をはじめる。
又、このころから段々と太平洋戦争の影が文学界にも影を落としてくる。世相が戦争に向かう中、国粋主義的傾向を強めてゆき、文芸銃後運動に加わる。
また、1943年3月31日付の、海軍に徴用され報道班員となった書類が残っていて、1943年4月にニューギニア派遣の話が実現寸前までいったが、病気で中止となったと、親しい人に書簡で伝えている。しかし、その前後、1942年の初夏と1943年8月の2度ほど、ラバウル近辺に派遣されていたことが、坂井三郎の証言で明らかになっている。このことにより敗戦後に文壇の戦犯と名指しで非難されることになり、横光の評価を落としていくことになる。
晩年
1945年6月、山形県に疎開。疎開先で健康を害する。敗戦後、帰京。翌年、「旅愁」四篇を刊行する。西洋の思想と日本の古神道との対決を志したこの長編は、盧溝橋事件の勃発までを書いたところで未完に終わってしまった。
1947年、疎開時の日記という体裁をとった小説「夜の靴」発表。絶筆となったのは、母の実家にあったランプを通して青春時代の柘植での思い出を書いた「洋燈(ランプ)」で、執筆中の12月30日、49歳で急性腹膜炎のため死去。
翌年1月3日に葬儀が行なわれる。川端は弔辞で「君の名に傍えて僕の名の呼ばれる習わしも、かえりみればすでに二十五年を越えた」と常に川端の名前が横光の後に挙げられることを述べ、「君に遺された僕のさびしさは君が知ってくれるであらう。君と、最後に会った時、生死の境にたゆたふやうな君の眼差の無限の懐かしさに、僕は生きて二度とほかでめぐりあへるであらうか」と早すぎる別れを惜しんだ。同年、遺作である「微笑」が発表される。
評価
横光の評価は戦後の批判により地に落ちた。だが、1980年代より多面的な検討がなされ、前田愛の「上海」論(著作集、筑摩書房)や菅野昭正「横光利一」(福武書店)が発表された。1981年から、河出書房新社で刊行された全集(全16巻別巻1)が研究を深め、2002年におうふうで「横光利一事典」が出されるなど再評価されつつある。その流れの中で、1987年に見つかった川端康成の初期作品が実は横光利一の作品だと判明して大騒ぎになるなどの珍事もあった。
作品としてみると「蝿」や「ナポレオンと田虫」「上海」など映像を意識した作品が数多くあるが、これは同時代に製作されたソビエト映画「戦艦ポチョムキン」に見られるモンタージュ技法に非常に近いものがある。横光自身も、映画監督の衣笠貞之助と親交があり、新感覚派の文学と映画との近さは指摘されている。画家の佐野繁次郎と親交が深く、本の装丁や新聞や雑誌掲載作品の挿絵を多く佐野に依頼している。
宮沢賢治を高く評価し、賢治没後の最初の全集の刊行に協力したり、また1933年のナチスの焚書に抗議する意味で結成された学芸自由同盟にも参加するなど、多面的な関心を持っていたことも見落とせない。
作品
- 御身
- 蝿
- ナポレオンと田虫
- 春は馬車に乗って
- 上海
- 日輪
- 機械
- 紋章
- 寝園
- 家族会議
- 純粋小説論(評論)
- 厨房日記
- 旅愁
- 夜の靴
- 微笑
- 時間
- 比叡
- 睡蓮
- 罌粟の中