[go: nahoru, domu]

コンテンツにスキップ

「毛内義巧」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
編集の要約なし
1行目: 1行目:
{{基礎情報 武士
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 毛内義巧
| 氏名 = 毛内 義巧
| 時代 = [[江戸時代]]
| 時代 = [[江戸時代]]
| 生誕 =[[享保]]3年([[1718年]])
| 生誕 =[[享保]]3年([[1718年]])
20行目: 20行目:
| 特記事項 =
| 特記事項 =
}}
}}
'''毛内 義巧'''(もうない よしとし)は、[[江戸時代]]中期の[[弘前藩]]の武士。

'''毛内 義巧'''(もうない よしとし)は、[[江戸時代]]の[[弘前藩]]の武士。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
享保10年、家督200石を継いだ。同20年手廻三番組になり、延享元年長柄奉行となった。同3年諸手足軽頭になり、宝暦元年持筒二番組足軽頭、用人となり、100石の加増を受け、300石となった。寛延2年に発生した飢饉により、藩の財政が悪化していため、倹約策を提案し、実現に命を懸けていた。宝暦3年正月の用人4奉行会議でただ一人倹約策を主張し、勘定所総司となった。12月には山方席及び山役人の引き取りも任されている。
享保10年、家督200石を継いだ。同20年手廻三番組になり、延享元年長柄奉行となった。同3年諸手足軽頭になり、宝暦元年持筒二番組足軽頭、用人となり、100石の加増を受け、300石となった。寛延2年に発生した飢饉により、藩の財政が悪化していため、倹約策を提案し、実現に命を懸けていた。宝暦3年正月の用人4奉行会議でただ一人倹約策を主張し、勘定所総司となった。12月には山方席及び山役人の引き取りも任されている。強硬で公正な倹約策により藩財政は持ち直したが、要職から遠ざけられた[[乳井貢]]などとの関係は悪化した。宝暦6年、藩主[[津軽信寧]]が江戸より入部したが、登城せず、自宅へ引き籠った。その理由は定かではない。この間に、義巧に遠ざけられていた多くの人物が復帰した。その中の一人、乳井貢は後に藩財政の立て直しに功績があった。同年12月にお役御免、同8年7月に閉門となった。家督は嫡男[[毛内茂粛|茂粛]]が継いだ。明和5年に閉門を解かれた
強硬で公正な倹約策により藩財政は持ち直したが、要職から遠ざけられた乳井貢などとの関係は悪化した。宝暦6年、藩主信寧が江戸より入部したが、登城せず、自宅へ引き籠った。その理由は定かではない。この間に、義巧に遠ざけられていた多くの人物が復帰した。その中の一人、乳井貢
は後に藩財政の立て直しに功績があった。同年12月にお役御免、同8年7月に閉門となった。家督は嫡男茂粛が継いだ。明和5年に閉門を解かれた。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
32行目: 29行目:


{{DEFAULTSORT:もうない よしとし}}
{{DEFAULTSORT:もうない よしとし}}
[[Category:弘前藩の人物]]
[[category:毛内氏|よしとし]]
[[Category:1718年生]]
[[Category:1718年生]]
[[Category:1772年没]]
[[Category:1772年没]]
[[Category:陸奥国の人物]]

2013年4月17日 (水) 13:40時点における版

 
毛内 義巧
時代 江戸時代
生誕 享保3年(1718年
死没 明和9年(1772年
別名 有右衛門、富五郎、常之、義外、茂巧、権之助
墓所 弘前市本行寺
氏族 桓武平氏千葉氏流 毛内氏
水木惣左衛門娘
テンプレートを表示

毛内 義巧(もうない よしとし)は、江戸時代中期の弘前藩の武士。

生涯

享保10年、家督200石を継いだ。同20年手廻三番組になり、延享元年長柄奉行となった。同3年諸手足軽頭になり、宝暦元年持筒二番組足軽頭、用人となり、100石の加増を受け、300石となった。寛延2年に発生した飢饉により、藩の財政が悪化していため、倹約策を提案し、実現に命を懸けていた。宝暦3年正月の用人4奉行会議で、ただ一人倹約策を主張し、勘定所総司となった。12月には山方席及び山役人の引き取りも任されている。強硬で公正な倹約策により藩財政は持ち直したが、要職から遠ざけられた乳井貢などとの関係は悪化した。宝暦6年、藩主津軽信寧が江戸より入部したが、登城せず、自宅へ引き籠った。その理由は定かではない。この間に、義巧に遠ざけられていた多くの人物が復帰した。その中の一人、乳井貢は後に藩財政の立て直しに功績があった。同年12月にお役御免、同8年7月に閉門となった。家督は嫡男茂粛が継いだ。明和5年に閉門を解かれた。

参考文献

  • 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社