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== 生涯 ==
== 生涯 ==
享保10年(1725年)、家督200石を継いだ。同20年(1735年)手廻三番組になり、延享元年(1744年)長柄奉行となった。同3年(1746年)諸手足軽頭になり、宝暦元年(1751年)持筒二番組足軽頭、用人となり、100石の加増を受け、300石となった。寛延2年(1749年)に発生した飢饉により、藩の財政が悪化していため、倹約策を提案し、実現に命を懸けていた。宝暦3年(1753年)正月の用人4奉行会議で、ただ一人倹約策を主張し、勘定所総司となった。12月には山方席及び山役人の引き取りも任されている。強硬で公正な倹約策により藩財政は持ち直したが、要職から遠ざけられた[[乳井貢]]などとの関係は悪化した。宝暦6年(1756年)、藩主[[津軽信寧]]が江戸より入部したが、登城せず、自宅へ引き籠った。その理由は定かではない。この間に、義巧に遠ざけられていた多くの人物が復帰した。その中の一人、乳井貢は後に藩財政の立て直しに功績があった。同年12月にお役御免、同8年(1758年)7月に閉門となった。家督は嫡男[[毛内茂粛|茂粛]]が継いだ。明和5年(1768年)に閉門を解かれた。
享保10年(1725年)、家督200石を継いだ。同20年(1735年)手廻三番組になり、延享元年(1744年)長柄奉行となった。同3年(1746年)諸手足軽頭になり、宝暦元年(1751年)持筒二番組足軽頭、用人となり、100石の加増を受け、300石となった。寛延2年(1749年)に発生した飢饉により、藩の財政が悪化していため、倹約策を提案し、実現に命を懸けていた。宝暦3年(1753年)正月の用人4奉行会議で、ただ一人倹約策を主張し、勘定所総司となった。12月には山方席及び山役人の引き取りも任されている。強硬で公正な倹約策により藩財政は持ち直したが、要職から遠ざけられた[[乳井貢]]などとの関係は悪化した。宝暦6年(1756年)、藩主[[津軽信寧]]が江戸より入部したが、登城せず、自宅へ引き籠った。その理由は定かではない。この間に、義巧に遠ざけられていた多くの人物が復帰した。その中の一人、乳井貢は後に藩財政の立て直しに功績があった。同年12月にお役御免、同8年(1758年)7月に閉門となった。家督は嫡男[[毛内茂粛|茂粛]]が継いだ。明和5年(1768年)に閉門を解かれた。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2015年8月29日 (土) 14:57時点における版

 
毛内 義巧
時代 江戸時代
生誕 享保3年(1718年
死没 明和9年7月19日1772年8月17日
別名 有右衛門、富五郎、常之、義外、茂巧、権之助
墓所 弘前市本行寺
主君 津軽信寿津軽信著津軽信寧
弘前藩
氏族 桓武平氏千葉氏流 毛内氏
水木惣左衛門娘
毛内茂粛
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毛内 義巧(もうない よしとし)は、江戸時代中期の弘前藩の武士。

生涯

享保10年(1725年)、家督200石を継いだ。同20年(1735年)手廻三番組になり、延享元年(1744年)長柄奉行となった。同3年(1746年)諸手足軽頭になり、宝暦元年(1751年)持筒二番組足軽頭、用人となり、100石の加増を受け、300石となった。寛延2年(1749年)に発生した飢饉により、藩の財政が悪化していたため、倹約策を提案し、実現に命を懸けていた。宝暦3年(1753年)正月の用人4奉行会議で、ただ一人倹約策を主張し、勘定所総司となった。12月には山方席及び山役人の引き取りも任されている。強硬で公正な倹約策により藩財政は持ち直したが、要職から遠ざけられた乳井貢などとの関係は悪化した。宝暦6年(1756年)、藩主津軽信寧が江戸より入部したが、登城せず、自宅へ引き籠った。その理由は定かではない。この間に、義巧に遠ざけられていた多くの人物が復帰した。その中の一人、乳井貢は後に藩財政の立て直しに功績があった。同年12月にお役御免、同8年(1758年)7月に閉門となった。家督は嫡男茂粛が継いだ。明和5年(1768年)に閉門を解かれた。

参考文献

  • 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社