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'''紀元前352年'''は、[[ローマ暦]]の年である。当時は、「ポプリコラとルティルスが[[執政官|共和政ローマ執政官]]に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、[[ローマ建国紀元]]402年)。[[紀年法]]として[[西暦]](キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前352年と表記されるのが一般的となった。 |
'''紀元前352年'''(きげんぜん352ねん)は、[[ローマ暦]]の年である。 |
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当時は、「ポプリコラとルティルスが[[執政官|共和政ローマ執政官]]に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、[[ローマ建国紀元]]402年)。[[紀年法]]として[[西暦]](キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前352年と表記されるのが一般的となった。 |
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== 他の紀年法 == |
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* [[干支]] : [[己巳]] |
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* [[日本]] |
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** [[皇紀]]309年 |
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** [[孝安天皇]]41年 |
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* [[中国]] |
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** [[周]] - [[顕王]]17年 |
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** [[秦]] - [[孝公 (秦)|孝公]]10年 |
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** [[楚 (春秋)|楚]] - [[宣王 (楚)|宣王]]18年 |
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** [[田斉|斉]] - [[威王 (斉)|威王]]5年 |
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** [[燕 (春秋)|燕]] - [[文公 (戦国燕)|文公]]10年 |
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** [[趙 (戦国)|趙]] - [[成侯 (趙)|成侯]]23年 |
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** [[魏 (戦国)|魏]] - [[恵王 (魏)|恵王]]18年 |
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** [[韓 (戦国)|韓]] - [[釐侯 (韓)|昭侯]]11年 |
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* [[朝鮮]] |
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** [[檀君紀元|檀紀]]1982年 |
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* [[ベトナム]] : |
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* [[仏滅紀元]] : 193年 |
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* [[ユダヤ暦]] : |
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== できごと == |
== できごと == |
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=== ギリシア === |
=== ギリシア === |
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* [[マケドニア王国|マケドニア王]][[ピリッポス2世]]は、[[フォキス]]勢に対する攻勢に2度失敗したあと、[[クロコスの戦い]] ([[:en:Battle of Crocus Field|Battle of Crocus Field]]) で大勝利を収め、フォキス勢を南方へ追い落とした。フォキス方に加勢する[[アテナイ]]と[[スパルタ]]の軍勢が到着すると、ピリッポスは[[テルモピュレ|テルモピュライ]]で侵攻を止めた。アテナイ勢がこの狭隘な路を占拠したため、ピリッポスはギリシア中央部へは侵入しなかった。フォキス方の将軍[[フォキスのオノマルコス|オノマルコス]]は、[[傭兵]]たちへの支払いに充てるため、[[デルポイ]]の神殿の秘宝を略奪していたが、ピリッポスはクロコスにおける勝利によって、[[アポローン]]の名における正当な復讐者としての立場を得た。討ち死にしたオノマルコスの遺体は磔にされ、捕虜となったフォキス勢は、神殿を略奪した者への儀礼的処刑として溺死させられた。 |
* [[マケドニア王国|マケドニア王]][[ピリッポス2世 (マケドニア王)|ピリッポス2世]]は、[[フォキス]]勢に対する攻勢に2度失敗したあと、[[クロコスの戦い]] ([[:en:Battle of Crocus Field|Battle of Crocus Field]]) で大勝利を収め、フォキス勢を南方へ追い落とした。フォキス方に加勢する[[アテナイ]]と[[スパルタ]]の軍勢が到着すると、ピリッポスは[[テルモピュレ|テルモピュライ]]で侵攻を止めた。アテナイ勢がこの狭隘な路を占拠したため、ピリッポスはギリシア中央部へは侵入しなかった。フォキス方の将軍[[フォキスのオノマルコス|オノマルコス]]は、[[傭兵]]たちへの支払いに充てるため、[[デルポイ]]の神殿の秘宝を略奪していたが、ピリッポスはクロコスにおける勝利によって、[[アポローン]]の名における正当な復讐者としての立場を得た。討ち死にしたオノマルコスの遺体は磔にされ、捕虜となったフォキス勢は、神殿を略奪した者への儀礼的処刑として溺死させられた。 |
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*ピリッポスは、次に[[トラキア]]へと転進した。トラキア侵攻は成功し、この地の支配権を掌握し、トラキア王[[ケルソブレプテス]] ([[:en:Cersobleptes|Cersobleptes]]) の息子を[[人質]]として連れ去った。テッサリアにおける勝利によって、ピリッポスは、テッサリア同盟の盟主([[アルコン]])となった。 |
* ピリッポスは、次に[[トラキア]]へと転進した。トラキア侵攻は成功し、この地の支配権を掌握し、トラキア王[[ケルソブレプテス]] ([[:en:Cersobleptes|Cersobleptes]]) の息子を[[人質]]として連れ去った。テッサリアにおける勝利によって、ピリッポスは、テッサリア同盟の盟主([[アルコン]])となった。 |
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*:(以上のできごとは[[紀元前353年]]にあったとする見解もある<ref>{{cite web|url=http://ask.reference.com/related/Battle+of+Crocus+Field|title=Word Dynamo: Battle of Crocus Field|publisher=Dictionary.com, LLC|accessdate=2012-12-16}}</ref>。) |
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* [[魏 (戦国)|魏]]と[[韓 (戦国)|韓]]の軍が襄陵を包囲していた[[田斉|斉]]・[[宋 (春秋)|宋]]・[[衛]]の連合軍を撃破した([[襄陵の戦い]])。斉の[[威王 (斉)|威王]]は[[楚 (春秋)|楚]]に仲介を依頼し、楚は景舎を派遣して講和を求めさせた。魏の[[恵王 (魏)|恵王]]は斉や宋と会合した。 |
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* [[秦]]の大良造の[[商鞅]]が魏を攻撃し、安邑を包囲して降した。 |
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*[[秦]]の[[孝公]]を{{仮リンク|咸陽城|zh|秦咸阳城遗址}}を(現·[[咸陽市]])に造り、都をここに移した。 |
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== 誕生 == |
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== 死去 == |
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== 脚注 == |
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'''出典''' |
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{{脚注ヘルプ}} |
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{{Reflist}} |
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<!-- == 参考文献 == --> |
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== 関連項目 == |
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{{Commonscat|352 BC}} |
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* [[年の一覧]] |
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* [[年表]] |
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* [[年表一覧]] |
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<!-- == 外部リンク == --> |
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{{十年紀と各年|世紀=4|年代=300|BC=1}} |
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[[Category:紀元前 |
[[Category:紀元前352年|*]] |
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世紀 | 前5世紀 - 前4世紀 - 前3世紀 |
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十年紀 |
前370年代 前360年代 前350年代 前340年代 前330年代 |
年 |
前355年 前354年 前353年 紀元前352年 前351年 前350年 前349年 |
紀元前352年(きげんぜん352ねん)は、ローマ暦の年である。
当時は、「ポプリコラとルティルスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元402年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前352年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
[編集]できごと
[編集]ギリシア
[編集]- マケドニア王ピリッポス2世は、フォキス勢に対する攻勢に2度失敗したあと、クロコスの戦い (Battle of Crocus Field) で大勝利を収め、フォキス勢を南方へ追い落とした。フォキス方に加勢するアテナイとスパルタの軍勢が到着すると、ピリッポスはテルモピュライで侵攻を止めた。アテナイ勢がこの狭隘な路を占拠したため、ピリッポスはギリシア中央部へは侵入しなかった。フォキス方の将軍オノマルコスは、傭兵たちへの支払いに充てるため、デルポイの神殿の秘宝を略奪していたが、ピリッポスはクロコスにおける勝利によって、アポローンの名における正当な復讐者としての立場を得た。討ち死にしたオノマルコスの遺体は磔にされ、捕虜となったフォキス勢は、神殿を略奪した者への儀礼的処刑として溺死させられた。
- ピリッポスは、次にトラキアへと転進した。トラキア侵攻は成功し、この地の支配権を掌握し、トラキア王ケルソブレプテス (Cersobleptes) の息子を人質として連れ去った。テッサリアにおける勝利によって、ピリッポスは、テッサリア同盟の盟主(アルコン)となった。
中国
[編集]- 魏と韓の軍が襄陵を包囲していた斉・宋・衛の連合軍を撃破した(襄陵の戦い)。斉の威王は楚に仲介を依頼し、楚は景舎を派遣して講和を求めさせた。魏の恵王は斉や宋と会合した。
- 秦の大良造の商鞅が魏を攻撃し、安邑を包囲して降した。
- 秦の孝公を咸陽城を(現·咸陽市)に造り、都をここに移した。
誕生
[編集]「Category:紀元前352年生」も参照
死去
[編集]「Category:紀元前352年没」も参照
脚注
[編集]注釈
出典
- ^ “Word Dynamo: Battle of Crocus Field”. Dictionary.com, LLC. 2012年12月16日閲覧。