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「織田信長」の版間の差分

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桶狭間の戦いの後今川家の支配から独立した[[三河国]]の[[徳川家康]]と同盟して背後を固めると([[1562年]])、[[斎藤氏]]攻略に専念し、[[1567年]]、美濃国を手に入れた。井ノ口を[[岐阜市|岐阜]]と改め、このころから『天下布武』の朱印を用いるようになって、本格的に天下統一を目指すようになった。[[1568年]]、[[越前国]]に身を寄せていた[[足利義昭]]を招いて戴き、電撃的に上洛して、義昭を15代[[征夷大将軍]]に擁立した。
桶狭間の戦いの後今川家の支配から独立した[[三河国]]の[[徳川家康]]と同盟して背後を固めると([[1562年]])、[[斎藤氏]]攻略に専念し、[[1567年]]、美濃国を手に入れた。井ノ口を[[岐阜市|岐阜]]と改め、このころから『天下布武』の朱印を用いるようになって、本格的に天下統一を目指すようになった。[[1568年]]、[[越前国]]に身を寄せていた[[足利義昭]]を招いて戴き、電撃的に上洛して、義昭を15代[[征夷大将軍]]に擁立した。


=== 信長包囲網 ===
=== 信長包囲網 ===
信長の傀儡の地位に我慢ならなかった足利義昭は、間もなく[[武田信玄]]・[[朝倉義景]]などの大名や[[延暦寺]]・[[石山本願寺]]などの寺社勢力に呼びかけて反信長包囲網を結成した。信長は、[[1570年]]、朝倉・浅井連合軍を[[姉川の戦い]]で破り、[[1571年]]、延暦寺を焼き討ちするなどして対抗した。
信長の傀儡の地位に我慢ならなかった足利義昭は、間もなく[[武田信玄]]・[[朝倉義景]]などの大名や[[延暦寺]]・[[石山本願寺]]などの寺社勢力に呼びかけて反信長包囲網を結成した。信長は、[[1570年]]、朝倉・浅井連合軍を[[姉川の戦い]]で破り、[[1571年]]、延暦寺を焼き討ちするなどして対抗した。



2004年9月21日 (火) 09:14時点における版

織田 信長おだ のぶなが天文3年5月12日1534年6月23日) - 天正10年6月2日1582年6月21日))は戦国時代の男性武将。既存の権威や勢力を否定、門地によらない人材登用、新兵器の活用などを通して天下統一事業を推進した。その一方で延暦寺焼き討ちなどの苛烈な政策により悪評も絶えず、魔王とも呼ばれる。法名は総見院殿贈大相国一品泰巌尊儀など。織田氏は平氏ではないが、信長は平氏を称したので正式な名のりは平信長(たいらの・のぶなが)

ファイル:Nobunaga.png

生涯

誕生から青年期

1534年、尾張国守護代家の家老であった織田信秀の次男(三男とする説も)として誕生した。幼名、吉法師。幼くして尾張国の那古屋城々主になった。若い頃から奇矯な行動が多く、周囲から「大うつけ」と称されることもあった。

1546年、元服して織田上総介信長と称すると、1548年美濃国戦国大名斎藤道三の娘濃姫と政略結婚した。1551年、父信秀の没後、家督を継承したが、奇行が災いして、柴田勝家らの重臣が実弟信行の擁立を企てて反旗を翻した。数年を経て敵対勢力の鎮圧に成功した信長は、1559年、尾張国内の支配権を確立すると、1560年、尾張に攻め上ってきた今川義元を桶狭間において破った(桶狭間の戦い)。

上洛

桶狭間の戦いの後今川家の支配から独立した三河国徳川家康と同盟して背後を固めると(1562年)、斎藤氏攻略に専念し、1567年、美濃国を手に入れた。井ノ口を岐阜と改め、このころから『天下布武』の朱印を用いるようになって、本格的に天下統一を目指すようになった。1568年越前国に身を寄せていた足利義昭を招いて戴き、電撃的に上洛して、義昭を15代征夷大将軍に擁立した。

反信長包囲網

信長の傀儡の地位に我慢ならなかった足利義昭は、間もなく武田信玄朝倉義景などの大名や延暦寺石山本願寺などの寺社勢力に呼びかけて反信長包囲網を結成した。信長は、1570年、朝倉・浅井連合軍を姉川の戦いで破り、1571年、延暦寺を焼き討ちするなどして対抗した。

1572年、足利義昭に呼応した武田信玄は、上洛を決意し、徳川家領内に侵入して織田・徳川連合軍を三方原の戦いで破ったが、信玄の病死によって武田軍は甲州に撤退し、反信長包囲網が破綻した。

勢いを得た信長は、1573年、義昭を京都から追放し、浅井氏朝倉氏を滅亡させると、1575年、信玄の後継者であった武田勝頼を、大量の鉄砲を投入して長篠の戦いで破った。

1576年岐阜城から近江国琵琶湖々岸に完成した安土城に移り、天下統一事業に邁進した。

天下統一

1577年豊臣秀吉を中国地方に派遣して毛利氏攻略を開始した。1578年、上杉謙信が上洛を計画中に病死したこともあって、信長の天下統一事業は、ますます現実味を帯び、1580年、有利な条件で顕如と和睦して、石山本願寺を大阪から退去させた。

1582年、武田勝頼を天目山に追って自害させ武田氏を滅ぼし、1582年6月2日、毛利遠征の途上に逗留した本能寺を明智光秀に襲われ、自害して果てた(本能寺の変)。

政策と人格

商工業者に楽市・楽座の朱印状をあたえ、不必要な関所を撤廃して経済と流通を活性化させるとともに、検地を徹底して領国支配を確立し、家臣を城下に居住させて常備軍を編成した。

宗門は法華宗を公称していたが、唯物論者で、神仏の存在や霊魂の不滅を信じることはなかった。反面、安土城内に信長に代わる『梵山』と称する大石を安置して御神体とし、家臣や領民に礼拝を強要したと伝えられる(→ルイス・フロイスの『日本史』)。

能力主義を重視して足軽出身の豊臣秀吉や浪人出身の明智光秀を登用するなど人材活用に優れていたが、勘気が強く譜代の重臣佐久間信盛林通勝らを些細な理由で追放するなどして、信長の死後、織田家が急速に衰退する一因を作った。

好奇心が強く火縄銃を活用したことは言うまでもないが、正親町天皇を招いて開催された『馬揃え』にビロードのマントや西洋式の帽子を着用して参加した。

当時流行した茶の湯家臣団掌握の手段など、政治的に活用し、一国に値する程の価値があった『名器と称される茶道具』(今で言う、どんなに金を出しても欲しい“お宝”)を恩賞として与えたりもした。

小姓森蘭丸衆道関係に有ったという事でも知られる。

天下布武

天下布武とは、訓読すれば「天(あめ)の下、武を布(し)く」。 「武力を持って天下を取る」という風に解釈されることが多いが、近年の研究では「武家の政権を以て天下を支配する」という意味に取ることが多い。上述のように信長は居所を岐阜と改名した頃からこの印を用いているが、岐阜の命名は中国の周の文王(ぶんのう)が岐山(きざん)に拠って天下を臨んだことにちなんでおり(阜は丘の意味)、その志が窺われる。 中世の世界は、公家寺家武家からなっており、信長の志した天下布武とは、その公家、寺家を廃して本格的な武家政権を作るという意味をもっていたと考えられる。その実現のために寺家対策として、一向一揆を叩き、本願寺顕如らを石山合戦で破ったのである。また、室町幕府は公家との結びつきが京都にあるという地理的条件からも強く、そのために足利義昭を追放したと考えることが出来る。こうして、信長の志した天下布武の志向は、武家の勢力を強め、後の徳川幕府に結実していくのである。

家臣の分類

                 他に有力重臣として、池田恒興前田利家佐々成政羽柴秀吉金森長近などもいる。

信長の息子たち

墓所・霊廟

以下の場所に、墓所及び霊廟がある。

  • 「信長公廟」:京都市中京区本能寺
    • 石造宝篋印塔入母屋造の廟屋。本能寺の変で焼失した後に、場所を移して再建された本能寺に墓所がある。
  • 「織田信長公本廟」:京都市上京区の蓮台山阿弥陀寺
    • 石碑。本能寺の変の直後に、住職が寺に葬ったと伝える。
  • 「織田信長墓所」:高野山奥の院
    • 五輪塔。明治以後忘れ去られていたが、1970年に発見された。
  • 京都市北区大徳寺塔頭の総見院
    • 五輪塔。一周忌に秀吉が建立した寺院といい、遺骸が見つからなかったため、木像を2体造り、1体を火葬して1体を総見院に安置したという。
  • 「織田信長公本廟」:安土城二の丸跡
  • 「織田信長公御分骨廟」:富山県高岡市の高岡山瑞龍寺
    • 石造宝篋印塔。
  • 「織田信長父子廟所」:岐阜県岐阜市の神護山崇福寺
    • 石碑。市指定史跡。信長の側室お鍋の方が遺品を贈り、位牌を安置してはずです。


  • 「織田信長信忠公供養塔」:大阪府堺市の南宗寺本源院
  • 建勲神社」:京都市北区
    • 別格官幣社。秀吉は弔うために船岡山に寺を建てようとして天正寺という寺号を朝廷から賜るが、建立途中で終わる。1869年(明治2年)に明治政府は織田信長を祀る神社の建立を指示。1870年(明治3年)、天童藩知事の織田信敏が江戸邸宅内に織田信長を祀られ、その後1875年(明治8年)に船岡山の山腹に新たに創建。1910年(明治43年)に現在地の山頂に遷座。
  • 「建勲神社」:山形県天童市
    • 県社。政府は1869年(明治2年)に、織田信長を祀る神社の建立を指示。1870年(明治3年)、天童藩の知事、織田信敏が現在の舞鶴山に織田信長を祀る。1884年現在地に遷座。
  • 「建勲神社」(摂社):岐阜県岐阜市若宮町の橿森神社
    • 織田信長が美園で開いた楽市楽座市神が橿森神社の御神木に祀られた。明治になって境内に建勲神社を勧請した。
  • 愛知県西春日井郡清洲町の清洲古城跡
    • 信長を祀る神明造の小祠がある。

その他各地に、供養塔や建勲神社などがある。

現代への影響

現代にも信長はさまざまな影響を与えている。尊敬する人物に信長を上げる人も多い。NHKの大河ドラマでも人気を博した。特に信長を題材としたゲームは数多く、株式会社コーエーから出されている信長の野望シリーズ太閤立志伝シリーズ、戦国時代を題材にしたシステムソフトα天下統一シリーズなどは人気が高い。 中でも特筆すべき点は、結果的であっても日本の政教分離に貢献した事である。 彼が歴史に存在しなければ、現代の日本はイデオロギーに支配された国家になっていた事が容易に推測される。