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2005年9月22日 (木) 13:50時点における版

藤原成経 (ふじわらのなりつね 生年不詳 - 建仁2年3月19日1202年4月13日))は平安時代後期の公卿。藤原成親の子。

後白河法皇に近侍し、右近衛少将兼丹波守になり丹波少将と呼ばれた。

1177年、父の藤原成親が平家打倒をはかって俊寛の鹿ヶ谷の山荘で密議を行ったが、密告により陰謀は露見してしまう(鹿ケ谷の陰謀)。成親は備前国に流罪となる(後に謀殺される)。成経もこれに連座して備中国へ流されるが、更に俊寛、平康頼と共に薩摩国鬼界ヶ島へ流された。

1178年に康頼とともに赦免され京へ戻る。官を復し、1185年蔵人頭1190年参議1194年に皇太后宮大夫になる。