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ピエール2世・ド・クルトネー

ピエール2世・ド・クルトネーPierre II de Courtenay, 1155年 - 1219年)は、ラテン帝国皇帝(在位:1216年 - 1217年)、ヌヴェール伯[1]フランス王子ピエール1世・ド・クルトネーの息子。ラテン皇帝ボードゥアン1世の妹ヨランドと結婚した[2]

ピエール・ド・クルトネー
Pierre de Courtenay
ラテン皇帝
在位 1216年 - 1217年
別号 ヌヴェール伯

出生 1155年
死去 1219年
配偶者 ヌヴェール女伯アニェス1世
  ヨランド・ド・エノー
子女 一覧参照
家名 クルトネー家
父親 ピエール1世・ド・クルトネー
母親 エリザベート・ド・クルトネー
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生涯

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1216年に妻の弟のラテン皇帝アンリ1世が嗣子なく死去し、ピエールが次期皇帝に選ばれ即位した。翌1217年、コンスタンティノープルに赴く途中、アルバニアエピロス専制公テオドロス1世コムネノス・ドゥーカスに捕えられ、2年間幽閉された後、死去した[1][3]。ピエールの幽閉中は、妻ヨランドが摂政を務め[2]、ピエールの死後、息子ロベールが皇帝位を継承した。

子女

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最初、ヌヴェール女伯アニェス1世ヌヴェール家)と結婚した[4]

二度目に、エノー伯ボードゥアン5世の娘でラテン皇帝ボードゥアン1世の妹のヨランドと結婚した[4]

脚注

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  1. ^ a b 瀬原、p. 224
  2. ^ a b 下津、p. 200
  3. ^ Chisholm, p. 293-294
  4. ^ a b MEDIEVAL LANDS, "PIERRE de Courtenay"(2016年11月20日閲覧)

参考文献

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  • 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
  • 下津清太郎 編 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1982年
  • Jiří Louda, Michael Maclagan, Lines of Succession, Little,Brown & Company, 1981.
  •   この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Peter of Courtenay". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 21 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 293–294.

関連項目

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