北村西望
北村 西望(きたむら せいぼう、1884年(明治17年)12月16日 - 1987年(昭和62年)3月4日)は、長崎県出身の日本の彫刻家。本名は北村 西望(きたむら にしも)。
北村西望 | |
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生誕 |
北村 西望(きたむら にしも)[1] 1884年12月16日[2] 日本 長崎県南高来郡南有馬村白木野[3](現・南島原市) |
死没 |
1987年3月4日(102歳没) 東京都武蔵野市[2] |
国籍 | 日本 |
出身校 | 京都市立美術工芸学校彫刻科(現・京都市立銅駝美術工芸高等学校)、東京美術学校(現・東京芸術大学) |
著名な実績 | 彫刻 |
代表作 |
「板垣退助翁」(国会議事堂内)[3] 平和祈念像(長崎平和公園)[3] |
受賞 |
1958年-文化勲章[3] 文化功労者 紺綬褒章 |
公式サイト | 西望記念館 |
メモリアル | 北村西望賞(西望賞) |
影響を受けた 芸術家 | 朝倉文夫、建畠大夢 |
影響を与えた 芸術家 | 石原昂、羽下修三 |
人物
編集昭和を代表する彫刻家の一人。代表作に長崎平和公園設置の巨大像「長崎平和祈念像」[6]、国会議事堂内設置の「板垣退助翁」などがある[3]。文化勲章[3]・紺綬褒章受章者、文化功労者。日本彫刻会では西望の功績を称え、同会展覧会における最優秀作品に贈られる賞の名称を「北村西望賞」(西望賞)としている。
また、個人寄付により小中学生の教育美術振興を目的とした「北村西望賞基金」を設け[7]、これは2016年12月 現在[update]、「北村西望賞教育美術展」として公募展の形で継続している[8]。
略歴
編集1884年(明治17年)12月16日、長崎県南高来郡南有馬村白木野[2]字宮野木場(現南島原市)の旧名家に生まれる[3]。父・陳連(のぶつら)、母・サイの四男で末子であった[10]。1892年(明治25年)に白木野尋常小学校に入り、1896年(明治29年)に有馬尋常高等小学校に進んで1900年に卒業すると、同年12月、小学校準教員免許を取得して南有馬尋常小学校に臨時採用(3ヵ月)され[注釈 1]、翌年、母校の白木野小学校に転じて、月給6円の代用教員兼準訓導として働くうち、正教員を目指して教職をやめると長崎師範学校に進む[10]。ところが入学した1902年(明治34年)に風土病にかかり、長期欠席のため退学となると帰郷して療養、このころ父の隠居所の欄間を彫る[10]。天満神社の神官に京都の美術学校で学ぶよう勧められて入学を志す[10]。
学生時代
編集病気退学して療養中に彫った欄間3面[11]を褒めた家族[12][13]と天満神社神官の勧め[10]で、1903年(明治36年)改めて京都市立美術工芸学校彫刻科(現京都市立銅駝美術工芸高等学校)に入学[2]、補欠であった[10]。彫刻とは木を彫ることだと捉えていた頃、生涯の最愛の友でライバルの建畠大夢と出会う[10]。1907年(明治40年)に同校を首席卒業し、同年東京美術学校彫刻科に進む[2]。
東京美術学校時代は1908年(明治41年)開催の第2回文展出品作「憤闘」が初入選、以後1909年(明治42年)第3回文展「雄風」褒状、翌々年1911年(明治44年)第5回文展「壮者」も褒状を受賞[2]。1912年(明治45年)、同校を首席で卒業した[2]。
戦前
編集1915年(大正4年)第9回文展「怒涛」が二等賞となり、翌1916年(大正5年)第10回文展出品作「晩鐘」が特選を受賞、以後1917年(大正6年)第11回文展「光にうたれた悪魔」が無鑑査となる[2]。この1917年より西望は東京市滝野川区(現・東京都北区 [9])に居を構え、制作につとめた。
文展が帝展に改まった[14]1919年(大正8年)第1回帝展以降は審査員を務めた[2]。同年、曠原社(こうげんしゃ)を結成した[2][9]。
1921年(大正10年)より母校の東京美術学校教授に就任[注釈 2]、翌1922年(大正11年)には彫刻研究のため西ケ原彫刻研究所を開設した[2][9]。
1925年(大正14年)には帝国美術院会員となっており(40歳)、1933年(昭和8年)からは東邦彫塑院顧問を務めた[2]。
戦前の作品は、「児玉源太郎大将騎馬像」「山県有朋元帥騎馬像」など勇壮な男性像かつ戦意高揚を意図した作品を多く手がけた[2]。西望が指導し、石原昂ら7人の彫刻家「報国芸術会」によって制作された戦没者7点[注釈 3]の胸像が1939年3月19日、遊就館に献納されている[15]。このほか、大政翼賛会の会合にも芸術界の代表者として参加している[16]。
戦後
編集戦後になると西望の彫刻モチーフは平和、自由、宗教に変化し、そういった作品を多く制作し日展に出品した[2]。
西望の代表作でもある長崎平和祈念像は青銅製高さ10メートル弱の巨大男性像[17]であり、長崎市の委嘱を受けて1951年(昭和26年)より4年の歳月を費やし[2]、公費で足りない制作費を内外からの浄財3千万円でまかない作成した。1955年(昭和30年)に完成し同年8月8日、長崎平和公園に設置されている[18]。
この他にも、西望は長崎原爆のみならず広島原爆の被害を受けた広島市の市民に対しても「飛躍」や平和観世音菩薩像など多くの平和祈念像を制作している[2]。
1947年(昭和22年)より日本芸術院会員、1949年(昭和24年)日展理事[19]、1958年(昭和33年)日本芸術院選考委員[20]、1962年(昭和37年)より日本彫塑会名誉会長、1969年(昭和44年)日展会長に就任、1974年(昭和49年)日展名誉会長[2]。
晩年
編集1953年(昭和28年)に戦前より長く住んだ東京都北区から東京都武蔵野市に転居し、都立井の頭公園内に自身のアトリエを建立[2]、後に東京都にアトリエと制作した約350点にのぼる自作品を寄贈[21]、それらは井の頭自然文化園彫刻館で展示された[2]。なお、西望が寄贈した作品はその後も増加、最終的に約500点となっている[2]。
1986年(昭和61年)12月より風邪を患い自宅静養していたものの翌1987年(昭和62年)3月4日、西望は心不全のため東京都武蔵野市の自宅で没した。102歳没[2]。墓所は台東区寛永寺第三霊園。
西望の「平和を祈る」像は1987年(昭和62年)1月、東京都板橋区役所新庁舎前に設置され、生前に公開された最後の作品(絶作)である[2]。
栄誉栄典
編集各自治体(武蔵野市・島原市・南島原市・東京都北区・長崎県)は「初」の名誉市民・県民に選んだ。
略年譜
編集- 1884年(明治17年) - 長崎県南高来郡南有馬村(現・南島原市)生まれ。
- 1903年(明治36年) - 京都市立美術工芸学校(現・京都市立銅駝美術工芸高等学校)入学[11][12]。後に親友であり同志となる彫刻家の建畠大夢、朝倉文夫らと出会う。
- 1907年(明治40年) - 京都市立美術工芸学校卒業後、上京し東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学。
- 1915年(大正 4年) - 第一次世界大戦の兵役除隊後、本格的に美術の道へ進み、初期の代表作「怒涛」制作。文展で二等賞に入賞し認められる。
- 1916年(大正 5年) - 同朋である建畠大夢らと美術研究サークル「八手会」(やつでかい)を結成。
- 1921年(大正10年) - 東京美術学校塑造部教授となる。
- 1931年(昭和 6年) - 京都市立美術工芸学校教諭となる。
- 1932年(昭和 7年) - ロサンゼルスオリンピック芸術競技に「The Repose (Boxing)」出品[24]。
- 1933年(昭和関東大震災満10年となる同9月1日に震災記念碑として東京銀座・数寄屋橋公園に設置し、台座の『不意の地震に不断の用意』を西望が自ら揮毫[25][26][注釈 4]。 8年) - 2年前の1931年第12回帝展に出品した作品『燈臺』を、共同募金により
- 1944年(昭和19年) - 敗色濃厚な戦局から陸軍省が兵器鋳鉄の供出を発令、多くの銅像作品が供出され滅失する事態に憂慮し、「銅像救出委員会」を結成して反対運動を行った。
- 1953年(昭和28年) - 東京都内の井の頭公園の土地を借用して個人のアトリエを建設する。
- 1955年(昭和30年) - 5年がかりで制作してきた長崎平和祈念像が完成、長崎市に納品。
- 1958年(昭和33年) - 文化勲章受章、文化功労者顕彰。
- 1962年(昭和37年) - 武蔵野市名誉市民となる[27]。
- 1969年(昭和44年) - 紺綬褒章受章。社団法人日展会長に就任する。
- 1972年(昭和47年) - 島原市名誉市民となる。市内に記念館開設[28][29]。
- 1974年(昭和49年) - 日展名誉会長となる。
- 1979年(昭和54年) - 生地の南有馬町の名誉町民となる。町内に西望公園が設置された[30]。
- 1980年(昭和55年) - 東京都名誉都民となる[31]。
- 1981年(昭和56年) - 東京都北区名誉区民及び長崎県名誉県民となる[32][33]。
- 1987年(昭和62年)3月4日 逝去。享年104(102歳没)。
作品、記念館など
編集九州
編集- 北村西望記念館 (長崎県島原市城内1-1183-1、島原城内)
- 西望記念館、西望公園 (南島原市南有馬町丙393-1)[10]
- 長崎平和公園「平和祈念像」(長崎県長崎市松山町9、平和公園内)
- 玄海国定公園・恋の浦ガーデン(福岡県福津市、旧:玄海彫刻の岬・恋の浦)
- 諏訪神社「神馬像」(長崎県長崎市上西山町18-15)
関東、中部
編集- 東京都
- 井の頭自然文化園 彫刻園 (東京都武蔵野市御殿山1-17-6、井の頭自然文化園内)
- 「板垣退助立像」(国会議事堂1階中央広間)
- 数寄屋橋公園「燈臺」(震災復興記念塔)(東京都中央区数寄屋橋)。中央区区民文化財[注釈 4]。
- 仮称「彫刻アトリエ館」(東京都北区 西ヶ原1-16-7)[9] 2002年(平成14年)から北区の施設。元は曠原社(こうげんしゃ)の彫刻研究所、1922年(大正11年)開設。1973年(昭和28年)以降は子息の北村治禧のアトリエ。
- 武蔵御嶽神社「清廉の武将 畠山重忠」(東京都青梅市御岳山176) 昭和56(1981)年、「卒八寿西望作」。ヘリコプター運搬のため、ブロンズではなく純度の高いアルミを使用し重量を軽減した白銀の像。
- 蓼科高原芸術の森彫刻公園(長野県茅野市蓼科湖湖畔)[34]
- 西望の作品が多く展示される。
- 船原ホテル「純金風呂」(静岡県田方郡天城湯ケ島町上船原511の1)
中国地方
編集主な著作
編集- 北村西望『北村西望作品集 = Seibo Kitamura's Works』ジャパン・アート・サービス・カンパニー、1966年、NCID BN11830989。日英併記。
- 北村西望 作『北村西望百寿の譜』新三多摩新聞社、1982年、NCID BN11755497。年譜:341-362頁。
- 北村西望『百歳のかたつむり』日本経済新聞社、1983年、NCID BN11834946、ISBN 4532093155。
関連資料
編集- 北村西望作品集刊行委員会 監修『北村西望作品集 = Seibo Kitamura sakuhinshu』芸術新聞社。
- 西望会 編集『北村西望彫刻集』西望会、美術出版社 (発売) 1960年。
- 『八翁展』丸栄、1967年。
- 『日本、二十五人の美術家』芸術新聞社、1969年。
- 聖豊社編集部 編『西望塑人 : 北村西望作品集 = Scuptor Seibo works of Seibo Kitamura』
島原市、1974年。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ "北村西望(読み)きたむら せいぼう". コトバンク. 2018年8月5日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「北村西望」(2015年12月14日)、2018年8月5日閲覧。
- ^ a b c d e f g "西望記念館". 島原市. 1 December 2016. 2018年8月5日閲覧。
- ^ 君島彩子「平和モニュメントと観音像―長崎市平和公園内の彫像における信仰と形象―」『宗教と社会』第24巻、「宗教と社会」学会、2018年6月、97-111頁、CRID 1390285300171083264、doi:10.20594/religionandsociety.24.0_97、ISSN 13424726。
- ^ 小坂智子「公共空間の彫刻をめぐって - 《平和祈念像》の問いかけるもの -」『長崎国際大学論叢』第4巻、長崎国際大学、2004年1月、83-86頁、CRID 1050564288174933888、ISSN 13464094。
- ^ 北村は特定宗教によらない祈りの対象を目指し、納骨堂は別途、行政が加わって設置、聖観世音を祀った[4]。この像は彫刻作品を公共空間に置くときのさまざまな問題を示唆する[5]。
- ^ "つなごう!未来へ 島原半島世界ジオパーク" (PDF). 島原市. December 2012. 2018年8月5日閲覧。
- ^ "第38回北村西望賞教育美術展 西望賞作品" (PDF). 島原市. December 2016. 2018年8月5日閲覧。
- ^ a b c d e “(仮称)彫刻アトリエ館 : 北区文化振興財団”. kitabunka.or.jp. 2023年2月23日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “西望記念館「西望生誕之家」”. 長崎県南島原市公式ホームページ. 観光・移住 > 観光情報 > 歴史・ガイダンス. 南島原市 (2017年6月21日). 2023年2月24日閲覧。 “西望公園は、昭和54年に地元の皆さん並びに、全国から寄せられたご協力と、故北村西望先生のご厚意により、ここ西望生誕の地に作品を展示した公園です。園内には屋外に13点、西望の生家である西望記念館には、彫刻・書・絵画など約60点の作品。(ウェブサイトに「北村西望先生作業風景」、「聖観世音菩薩像」ほか建物の前景に女性の坐像を配した「北村西望先生生家」ほか写真がある。)”
- ^ a b 佐藤敬助「北村西望の研究(その1) 初期作品「欄間」の制作について」『長崎大学教育学部人文科学研究報告』第33巻、長崎大学教育学部、1984年3月、21-30頁、CRID 1050005822275192704、hdl:10069/32917、ISSN 0388-2772。
- ^ a b “北村西望翁略歴”. 眞秀寺(山形県庄内町). 2023年2月24日閲覧。 “『百歳のかたつむり』より抜粋。”
- ^ 『百歳のかたつむり』
- ^ "展覧会の変遷と開催年". 日展公式サイト. 2018年8月12日閲覧。
- ^ 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「戦没勇士の胸像製作」(2015年11月20日)、2018年8月12日閲覧。
- ^ 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「芸術界の献艦運動」(2015年11月20日)、2018年8月12日閲覧。
- ^ 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「平和祈念像除幕式」(2015年11月20日)、2018年8月12日閲覧。
- ^ "平和祈念像(へいわきねんぞう)". 長崎市. 2018年8月12日閲覧。
- ^ 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「日展運営会規則など決る」(2015年11月20日)、2018年8月12日閲覧。
- ^ 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「日本芸術院会員選考委員決る」(2015年11月20日)、2018年8月12日閲覧。
- ^ 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「井之頭自然文化園彫刻館を一般公開」(2015年11月20日)、2018年8月12日閲覧。
- ^ 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「文化勲章並びに文化功労年金受領者決定及び授賞、顕彰式」(2015年11月20日)、2018年8月12日閲覧。
- ^ “名誉区民 故 北村 西望(きたむら せいぼう)氏”. www.city.kita.tokyo.jp. 東京都北区 (2014年2月1日). 2023年2月24日閲覧。
- ^ “北村西望”. Sports Reference LLC. 2020年4月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年8月18日閲覧。
- ^ “震災復興記念塔 北村西望『燈臺』をめぐって”. 2020年7月6日閲覧。
- ^ a b 増山一成. 中央区郷土資料館: “中央区民文化財74 燈臺 北村西望作 銅造彫刻 附石造台座(とうだい きたむらせいぼうさく どうぞうちょうこく つけたりせきぞうだいざ)”. 東京都中央区. 東京都中央区教育委員会事務局図書文化財課. 2023年2月24日閲覧。 “増山一成※による広報紙コラム「区内の文化財」(2017年(平成29年)7月21日号掲載)。※=中央区総括文化財調査指導員。”
- ^ “武蔵野市名誉市民”. 2016年10月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年10月4日閲覧。
- ^ “西望記念館”. 島原市. 2021年4月17日閲覧。
- ^ 和田拓治郎「北村西望生誕地現代彫刻プロジェクト「interdependence. - Cのかたち-」」『広島市立大学芸術学部紀要』第11巻、広島市立大学芸術学部、2006年3月、45頁、CRID 1050015111530389632。
- ^ “西望記念館「西望生誕之家」”. 南島原市公式ホームページ. 2021年4月17日閲覧。
- ^ “東京都名誉都民顕彰者一覧”. 東京都生活文化局. 2021年4月17日閲覧。
- ^ “名誉区民”. www.city.kita.tokyo.jp. 東京都北区. 2021年4月17日閲覧。
- ^ “長崎県の歴史”. www.pref.nagasaki.jp. 長崎県. 2021年4月17日閲覧。
- ^ 蓼科高原芸術の森彫刻公園HP
- ^ a b “山県有朋銅像”. 萩市観光協会公式ウェブサイト. 2023年10月3日閲覧。
- ^ a b 「山県有朋の銅像帰郷、萩市中央公園に移設へ 山口」『西日本新聞朝刊』1992年6月4日、20面。
- ^ 大坪, p. 267.
- ^ a b 大坪, p. 267
参考文献
編集- 大坪潤子『騎馬像の居場所』(レポート)神奈川大学21世紀COE プログラム研究推進会議〈非文字資料研究の可能性―若手研究者研究成果論文集―〉、2008年、265-272頁。hdl:10487/6768。ISBN 978-4-904124-10-9 。「「表1 騎馬像作例」の「山県有朋像」の項」
関連項目
編集外部リンク
編集- 西望記念館(西望公園)
- 西望記念館 - 島原市
- 西望記念館「西望生誕之家」 - 南島原市