天津町
天津町(あまつまち)は、千葉県安房郡(長狭郡)にかつて存在した町である。
あまつまち 天津町 | |
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現代の天津海岸(2011年) | |
廃止日 | 1955年2月11日 |
廃止理由 |
新設合併 天津町、小湊町 → 天津小湊町 |
現在の自治体 | 鴨川市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 関東地方 |
都道府県 | 千葉県 |
郡 | 安房郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 19.34 km2. |
総人口 |
8,021人 (国勢調査、1950年) |
隣接自治体 | 安房郡鴨川町、小湊町、君津郡上総町、夷隅郡大多喜町 |
天津町役場 | |
所在地 | 千葉県安房郡天津町大字天津 |
座標 | 北緯35度07分20秒 東経140度09分14秒 / 北緯35.12231度 東経140.15394度座標: 北緯35度07分20秒 東経140度09分14秒 / 北緯35.12231度 東経140.15394度 |
ウィキプロジェクト |
1889年(明治22年)、町村制の施行に伴い設置され、昭和の大合併に伴い廃止された。
地理
編集現在の鴨川市域の東部に位置する。南は太平洋に面し、北には清澄山系が連なる。町域のほとんどが房総丘陵に含まれる山がちな地形である。
現在の鴨川市域を、鴨川市成立時およびその後の合併時の町村によって4地区に区分する場合、「天津小湊地区」の一部に位置付けられており、その西部にあたる。鴨川市域を町村制施行当時の町村(旧町村)によって12地区に区分する場合は「天津地区」とされ[1]、現在の大字では天津(あまつ)・浜荻(はまおぎ)・浜荻元東飛地[注釈 1]・清澄(きよすみ)・四方木(よもぎ)が含まれる[1][注釈 2]。
1926年(大正15年)時点の天津町は、東に湊村(のちの小湊町)、西に東条村、北は君津郡亀山村・夷隅郡老川村と接していた[3]:1101。当時、町は天津・浜荻・清澄の3区に分けていた[3]:1101。なお、天津区はさらに引土・芝・城戸・浜・中・宿・谷・新の8町に、浜荻区は西・仲・東の3町に分けられていた[3]:1101。
清澄山の北西に広がる四方木はもと上総国に含まれ、明治の町村制施行以来望陀郡(のち君津郡)亀山村に属していた地区である。四方木が天津町に属していたのは、1954年6月の編入から、1955年2月に天津町自体が合併により廃止されるまでの半年間である。
歴史
編集前近代
編集清澄山(きよすみやま)の清澄寺(せいちょうじ)は平安時代に開かれた山岳信仰の寺で[注釈 3]、日蓮がこの寺で出家得度し、また立教開宗を行った寺として知られている。清澄地区は江戸時代以前に村は置かれず、清澄寺の境内であった[3]:1101。
天津は、古くは東条郷天津村を称した[3]:1101。天津村は、江戸時代初期に紀伊国の漁民が移住してイワシ漁を始めたといい[4][5]、漁業の拠点として著名であった[4]。天津港は、江戸時代には東廻海運の避難港としても使われた[4]。
浜荻は、古くは東条郷東条村の一部で[3]:1101、元和6年(1620年)に東条村から分村し浜荻村として成立した[6][注釈 4]。
元文4年(1739年)5月、ロシアの日本探検船団の一隻が僚船とはぐれ、天津村の沖合に停泊。地元漁民がロシア船員を招いてもてなし、航海に必要な水を提供した(元文の黒船参照)。北海道を除いた場合の日本本土へのロシア人の初上陸である[注釈 5]。
近代以後
編集1878年(明治11年)、千葉県に郡区町村編制法が施行されると、浜荻村、清澄村はそれぞれ単独で戸長役場を置いた。天津村は坂本村との連合戸長役場を置いたが、1881年(明治14年)に坂本村は天津村に編入された[注釈 6]。1884年(明治17年)に戸長役場の管轄変更が行われた際、天津村・清澄村が連合した[6]。
1889年(明治22年)、町村制の施行にともない、天津村・浜荻村・清澄村が合併し、天津町が発足[6]。天津村が著名であるからこれを新村名とし、また家屋が連接して市街を形成していることから町とした[6]。この際、浜荻村内にあった東村の飛地と、東村内にあった浜荻村の飛地が交換された[6]。
1929年(昭和4年)、房総線(現在の外房線にあたる)の上総興津駅 - 安房鴨川駅間が延伸開業し、安房天津駅が開業した。
1954年(昭和29年)、君津郡亀山村は久留里町・松丘村と合併して新自治体上総町を形成したが、この際に亀山村大字四方木は天津町に編入された。1955年、小湊町と合併して天津小湊町の一部となり消滅した。
町域の変遷
編集- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、天津村・浜荻村・清澄村が合併し長狭郡天津町が発足。
- 1897年(明治30年)4月1日 - 長狭郡が平郡・朝夷郡とともに安房郡に編入。同郡天津町となる。
- 1954年(昭和29年)6月1日 - 亀山村の大字四方木を編入。
- 1955年(昭和30年)2月11日 - 小湊町と合併し天津小湊町が発足。同日天津町廃止。
変遷表
1868年 以前 |
明治14年 | 明治22年 4月1日 |
明治30年 4月1日 |
昭和29年 6月1日 |
昭和30年 2月11日 |
平成17年 2月11日 |
現在 | |||
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長狭郡 | 天津村 | 天津村 | 天津町 | 安房郡 に編入 |
天津町 | 天津町 | 天津小湊町 | 鴨川市 | 鴨川市 | |
根本村 | ||||||||||
浜荻村 | ||||||||||
清澄村 | ||||||||||
望陀郡 | 四方木村 | 亀山村 の一部 |
君津郡 が発足 |
亀山村 の一部 |
天津町 に編入 |
人口・世帯
編集人口
編集総数 [単位: 人]
1891年(明治24年) | 7,231 |
1925年(大正14年) | 6,638 |
1950年(昭和25年) | 8,021 |
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世帯
編集総数 [単位: 世帯]
1954年(大正14年) | 1,515 |
1950年(昭和25年) | 1,705 |
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歴代町長
編集- 四宮喜三郎(一期) 明治22年5月13日〜明治25年9月
- 小沢直光 明治25年11月16日〜明治32年11月28日
- 相川織江 明治33年3月6日〜明治36年4月20日
- 織田慶如 明治36年6月1日〜明治44年5月31日
- 斎藤半左衛門 明治44年9月26日〜大正7年11月15日
- 辰野利三郎(一期)大正8年1月27日〜大正13年4月7日
- 四宮喜三郎(二期)大正13年9月28日〜昭和2年6月13日
- 辰野利三郎(二期)昭和2年7月1日〜昭和5年4月10日
- 宇都宮節蔵 昭和5年10月12日〜昭和5年10月30日
- 武津為世 昭和5年12月5日〜昭和12年5月19日
- 高浜三四郎 昭和12年8月31日〜昭和19年10月16日
- 関君平 昭和19年10月20日〜昭和20年12月31日
- 四宮長喜 昭和21年1月1日〜昭和23年4月13日
- 今井三郎 昭和23年5月12日〜昭和30年2月10日
経済
編集1888年(明治21年)に記された分合取調文書によれば、清澄村は農業で、他の村は漁業と農業が主であったとある[6]。
1926年(大正15年)の『安房郡誌』によれば、天津町は漁業を主とし、商業・農業がこれに次ぐという[3]:1102。海産物としてはイワシ・カツオ・ヒラメ・サバ・サンマが挙げられ、水産加工品としてイワシの煮干し、鰹節、干しイワシが列挙されている[3]:1102。このほか林産資源として松・杉の材木や、薪炭が挙げられている[3]:1102。
交通
編集鉄道
編集道路
編集名所・旧跡・祭事
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b “大字別世帯数および人口” (pdf). 鴨川市統計書 平成28年版. 鴨川市役所. pp. 18-19. 2018年4月4日閲覧。
- ^ 郵便番号検索
- ^ a b c d e f g h i j k l 千葉県安房郡教育会 編『千葉県安房郡誌』千葉県安房郡教育会、1926年 。
- ^ a b c “天津小湊(町)”. 世界大百科事典 第2版(コトバンク所収). 平凡社. 2018年4月4日閲覧。
- ^ 山村順次. “天津小湊”. 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク所収). 小学館. 2018年4月4日閲覧。
- ^ a b c d e f g 「天津町」『明治22年千葉県町村分合資料 十八 長狭町村分合取調』、49-53頁 。2018年4月4日閲覧。
参考文献
編集- 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 12 千葉県』、角川書店、1984年 ISBN 4040011201
- 日本加除出版株式会社編集部『全国市町村名変遷総覧』、日本加除出版、2006年、ISBN 4817813180
関連項目
編集外部リンク
編集- 千葉県安房郡天津町 (12B0020027) - 歴史的行政区域データセットβ版