松平光慈
松平 光慈(まつだいら みつちか)は、山城淀藩の第2代藩主。のち志摩鳥羽藩主となり、信濃松本藩の初代藩主となる。戸田松平家6代。英明の人とされ、松本藩戸田松平家治世の基礎を築いた。
時代 | 江戸時代中期 |
---|---|
生誕 | 正徳2年9月22日(1712年10月22日) |
死没 | 享保17年8月11日(1732年9月29日) |
改名 | 三之助(幼名)→戸田孫四郎→戸田光茂(初名)→松平光慈 |
別名 | 戸田光慈 |
戒名 | 泰心院 |
墓所 | 岐阜県本巣市の智勝院 |
官位 | 従五位下、丹波守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 |
山城淀藩主→志摩鳥羽藩主→ 信濃松本藩主 |
氏族 | 戸田松平家 |
父母 |
父:松平光煕 母:都筑氏 養父:戸田光規 |
兄弟 | 光慈、戸田光清、光雄 |
子 |
娘(青山幸道正室のち建部長教正室) 養子:光雄 |
生涯
編集正徳2年(1712年)9月22日、淀藩初代藩主松平光煕の三男として生まれる。享保元年(1716年)4月27日に叔父の戸田光規(松平光永三男、旗本3000俵)の養嗣子として家督を継ぎ、寄合に列した。しかし同年10月22日、実父光煕の嫡子となった。本家を継ぐはずだった長兄(太郎松)や次兄(亀四郎)が相次いで早世したためである。なお、旗本戸田家は絶家となる。
享保2年(1717年)11月1日、父の死去により跡を継ぐ。同時に志摩鳥羽に移封された。享保8年(1723年)4月1日、将軍徳川吉宗に御目見する。享保10年(1725年)10月18日、鳥羽藩から信濃松本へ移封となる。同年12月18日、従五位下・丹波守に叙位・任官する。享保13年(1728年)4月1日、将軍徳川吉宗の日光参詣の警衛にあたる。享保15年(1730年)9月23日、初入国の許可を得る。享保16年(1731年)8月11日から21日にかけて領内を巡視する。なお、享保12年(1727年)閏1月、本丸御殿が火災で焼失しており、財政難で再建できず、二の丸御殿を政庁として使用した。
系譜
編集父母
側室
- 新家氏
子女
養子
- 松平光雄 ー 実弟