船引き
船引き(ふなひき)またはブルラーク(ロシア語: Бурлак、英語: Burlak)、ドイツ語: Treideln)とは、川を下った船やはしけを上流へ戻すために、陸地から綱などで引いて歩くこと、または引く人たちのこと[1]。ロシアではヴォルガ川を遡る時に大規模に行われた。中国でも長江、嘉陵江などで行われ、また日本でも急流を遡る時などに行われた。
ロシア
編集ロシアではヴォルガ川が古くから交通の要であり、機動船が大勢を占めるまでは、船引きがよく利用された。
ヴォルガの船引き歌
編集ヴォルガ川の船引きを歌った歌には民謡「ヴォルガの船引き歌」、別名「ヴォルガの舟唄」があり、これは五人組のミリイ・バラキレフが採譜して、1866年に彼の民謡集で発表したものである。「エイ・ウーフニェム」で始まる歌詞の全部と英語訳は英語版にある。音域がベースの基調で歌われる場合が多く、日本でも古くはフョードル・シャリアピン、ポール・ロブスンの歌、近くはダーク・ダックスなどの歌でおなじみである。歌詞の日本語訳は堀内敬三、門馬直衛などのものがある。 [2]
ヴォルガの船引き画
編集何人かの画家がヴォルガ川の船引きについて描いているが、イリヤ・レーピンが描いた『ヴォルガの船引き』(1870年 - 1873年、サンクトペテルブルク・国立ロシア美術館所蔵)が特に有名である[3]。レーピンが国内旅行で見た民衆の苦労と誇りが如実に現れていて、サンクトペテルブルクの官製美術界に対抗した「移動派」の代表作のひとつと言われる。発表されるとすぐにウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公に買われてヨーロッパ中で展示されて有名になり、レーピンが画家として世に出る契機となった。
中国
編集中国では長江、嘉陵江などで、かつて船引きが行われていた。最近は「長江三峡船引き人夫文化祭」(湖北省恩施トゥチャ族ミャオ族自治州巴東県)など観光化した行事も行われている。 [4] [5]
日本
編集ドイツ
編集ライン川に蒸気船が登場したのは、1816年のことであるが、蒸気船の運行が一般化するまで船が川を遡るには、川沿いに設けられた道、「船引き道」(ドイツ語でトライデルプファート:Treidelpfadないしトライデルヴェーク:Treidelweg)を通って、人あるいは馬が、船の帆柱から張られたロープを曳かねばならなかった。最初のうちは、土地の農民が臨時にその仕事を果たしていたが、後に船引きを専門とする人々が現れ、組合が結成され、組合の規定が定められた。18世紀の規定が現存する。1636年 イングランド王 チャールズ1世はThomas Howardをプラハに向けて派遣したが、一行の旅の記録によると、全長26 mの船をケルンからドラッフェンフェルス(Drachenfels)まで8-9頭の馬が曳いたと記されている[7]。
ドナウ川沿岸の町ノイブルク・アン・デア・ドナウ(Neuburg an der Donau)の小道ナハトベルクヴェーク(Nachtbergweg)は、かつての「船引き道」(Treidelweg)であって、現在もロープのこすれた痕跡が岩肌に残っている[8]。
参照項目
編集脚注
編集- ^ 『船引き』 - コトバンク
- ^ ヴォルガの船引歌(曲が自動的に演奏されるので注意!)
- ^ 中野京子『名画で読み解く ロマノフ家12の物語』光文社、2014年、154頁。ISBN 978-4-334-03811-3。
- ^ 長江三峡船引き人夫文化祭が開幕 観光客が船引きを体験
- ^ 中国重慶市で投資商談会 「女性船引き」のパフォーマンス
- ^ 近代の長良川舟運(明治・大正・昭和)
- ^ Gertrude Cepl-Kaufman / Antje Johanning: Mythos Rhein. Zur Kulturgeschichte eines Stromes. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2003 (ISBN 3-534-15202-6), S. 134-137.
- ^ 末永豊「ドナウ川」〔柏木貴久子 ・ 松尾誠之・ 末永豊『南ドイツの川と町』三修社 2009 (ISBN 978-4-384-04187-3)、149-156頁〕。なお、同書154頁には、マーク・トウェインの『ヨーロッパ放浪記』に、ネッカー川の船引きの話が出てくると記されている。