酒井忠発
酒井 忠発(さかい ただあき)は、江戸時代後期の大名。出羽国庄内藩の第9代藩主。酒井佐衛門尉家15代当主。官位は従四位下・左衛門尉、侍従。
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 文化9年9月13日(1812年10月17日) |
死没 | 明治9年(1876年)2月12日 |
戒名 | 忠発令 |
墓所 | 山形県鶴岡市家中新町 大督寺 |
官位 | 従四位下・左衛門尉、侍従 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家慶→家定→家茂 |
藩 | 出羽庄内藩主 |
氏族 | 左衛門尉酒井家 |
父母 | 父:酒井忠器、母:松平信明娘・亀代姫 |
兄弟 | 忠発、増山正修、市橋長和、米津政易、米津政明、忠寛、妹(内藤信親正室)、妹(松平勝善正室)、妹(五島盛徳正室)、妹(松平忠精正室) |
妻 | 正室:鐐姫 |
子 |
忠恕、忠篤、忠宝、忠庸、稲葉正邦正室、鋹子、愛子、大河内輝声正室、錦子 養子:忠利 |
生涯
編集8代藩主・酒井忠器の長男。文化9年(1812年)9月13日生まれ。文政9年(1826年)12月に叙任する。天保4年(1833年)12月に従四位下へ叙任する。天保13年(1842年)4月14日、父の隠居により跡を継ぐ。嘉永2年(1849年)からは洋式砲術の訓練や海岸警備の強化に努め、嘉永6年(1853年)に品川台場の警備を務めた。安政6年(1859年)9月に蝦夷地の警備を務め、翌年には蝦夷地に出兵して殖民を奨励した。長男の忠恕が早世したため、文久元年(1861年)8月6日に弟の忠寛に家督を譲って隠居した。明治9年(1876年)2月12日に65歳で死去した。
日本最古の魚拓
編集天保10年(1839年)2月、現在の東京都墨田区錦糸町付近で釣り上げられた鮒の魚拓「錦糸堀の鮒」が日本最古の魚拓とされ、忠発が釣り上げたものとされている。本間美術館学芸員・佐藤七郎の調査では、この魚拓に記された「天保十年亥二月晦日 於錦糸堀 御獲鮒之図」の「御獲」という記述と、当時江戸にいた酒井家の人物を調査した結果、忠発以外に該当する人物はいないとしている。