鈴谷 (重巡洋艦)
鈴谷(すずや)は、日本海軍の重巡洋艦[4][5]。 最上型重巡洋艦(二等巡洋艦最上型)の3番艦である[6]。その艦名は、樺太の鈴谷川から取って名付けられた[7][8]。 日本海軍の軍艦としては、通報艦(防護巡洋艦)鈴谷[9](旧ロシア帝国軍艦ノーヴィック)に続いて二代目[7][10][11]。 15.5cm砲搭載の二等巡洋艦(軽巡洋艦)として建造され[12]、後に主砲を20cm砲に換装し重巡洋艦となった。日本海軍の書類上の分類は、戦没まで二等巡洋艦(軽巡洋艦)だった[6]。
鈴谷 | |
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第七戦隊就役時期(1937年) | |
基本情報 | |
建造所 | 横須賀海軍工廠 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 二等巡洋艦(軽巡洋艦→重巡洋艦) |
級名 | 最上型 |
艦歴 | |
発注 | ①計画 |
起工 | 1933年12月11日 |
進水 | 1934年11月20日 |
竣工 | 1937年10月31日 |
最期 |
1944年10月25日戦没 北緯11度47分 東経122度26分 / 北緯11.783度 東経122.433度[1] |
除籍 | 1944年12月20日 |
要目(1941年) | |
基準排水量 | 12,000トン |
公試排水量 | 13,887トン |
全長 | 200.6 m |
最大幅 | 20.2 m |
吃水 | 5.9 m |
主缶 | ロ号艦本式缶8基 |
主機 | 艦本式タービン4基4軸 |
出力 | 154,000馬力(新造時公試成績) |
速力 | 35.5 ノット(新造時公試成績) |
燃料 | 重油:2,243トン(新造時実測値) |
航続距離 | 14ノットで8,032海里(新造時公試成績) |
乗員 | 竣工時定員874名[2] |
兵装 |
竣工時 60口径15.5cm3連装砲塔5基 40口径12.7cm連装高角砲4基 25mm連装機銃4基 13mm連装機銃2基 61cm3連装魚雷発射管4基 主砲換装後 50口径20.3cm2連装砲塔5基 40口径12.7cm連装高角砲4基 25mm連装機銃4基 13mm連装機銃2基 61cm3連装魚雷発射管4基 |
装甲 | 舷側:100mm 弾薬庫:140mm 甲板:35 - 60mm |
搭載機 |
零式水偵1機、零式観測機2機(-1942年6月25日定数)[3] 零式水偵3機(1機は九四式水上偵察機12型で代用可)(1942年6月25日定数-)[3] (カタパルト2基) |
概要
編集日本海軍は艦齢を重ねた旧式艦の代艦を建造することになり、軽巡の場合は最初に4隻(龍田、天龍、球磨、多摩)を以下4隻(最上、鈴谷、三隈、熊野)と置換することにした[13]。 第四艦隊事件により最上型の船体強度に問題があることが判明したため、船体線図が改正された。そのため1番艦(最上)、2番艦(三隈)とは船体形状に違いがあり、鈴谷型(鈴谷・熊野)と分類されることもあるが、日本海軍の書類上の分類は4隻とも二等巡洋艦最上型である[6]。また、ボイラーは初期2艦(最上、三隈)の重油専焼罐大型8基小型2基・計10基から、重油専焼罐大型8基に変更されている。そのため、第3砲塔と艦橋構造物との間の大型吸気トランクがなく、一番煙突の太さもボイラー減少の分だけ径が細くなっている。
1937年竣工。太平洋戦争開戦時には第七戦隊に所属しており、マレー作戦、蘭印作戦、セイロン沖海戦(通商破壊活動)、ミッドウェー海戦(支援部隊)、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦(ヘンダーソン基地砲撃)、ニュージョージア島の戦い、ラバウル空襲、マリアナ沖海戦、捷号作戦などに参加した。10月25日、サマール島沖追撃戦(レイテ沖海戦)で空襲を受け、酸素魚雷が誘爆、沈没した。
艦歴
編集建造経緯
編集1933年(昭和8年)8月1日に鈴谷と命名[4]。同日附で二等巡洋艦最上型に類別[14]。本艦建造のため、横須賀海軍工廠第二船台で建造中の潜水母艦大鯨(のち空母龍鳳)は建造を急ぐ必要にせまられ[15]、突貫工事の末同年11月16日に進水している[16]。だが当時の日本海軍としては例のない電気溶接を多用し、さらにディーゼルエンジン搭載の大型艦だったため、不具合が続出した。 12月11日[17]、鈴谷は大鯨と同じ船台で起工された[18]。
1934年(昭和9年)11月20日[19]午後3時[20]、昭和天皇臨席の元で進水[21][22][23]。他に海軍大臣大角岑生、内務大臣後藤文夫、海軍大将加藤寛治、横須賀鎮守府司令長官末次信正、横須賀海軍工廠長村田豊太郎、博義王他皇族多数が鈴谷進水式に参加した[24]。 昭和天皇即位後の進水式臨席は、重巡妙高に続いて二度目[25]。また天皇が行幸した最後の進水式となった[26]。
同日附で吉田庸光大佐が艤装員長に任命された[27]。 鈴谷進水後の12月3日、同船台ではただちに潜水母艦剣埼(のち空母祥鳳)の建造がはじまり、さらに剣埼進水後は高崎(空母瑞鳳)も建造されている[28][29]。この第二船台は、4年間で1万トンを超える軍艦4隻(大鯨《龍鳳》、鈴谷、剣埼《祥鳳》、高崎《瑞鳳》)を建造することになった[16]。 12月5日、横須賀海軍工廠に鈴谷艤装員事務所を設置[30]。
1935年(昭和10年)9月下旬、第四艦隊事件が発生し、最上と三隈は船体を損傷、性能改善工事の実施に迫られる[31]。10月10日附で、吉田艤装員長が艦長に補職される[32]。だが第四艦隊事件を受けて最終艤装工事を中断する[31]。
1936年(昭和11年)3月6日、吉田艦長は艤装員長に戻った[33]。鈴谷は横須賀工廠で性能改善にとりかかるが、搭載済みの上部構造物、兵器を外す大工事になった[31]。10月31日、鈴谷は竣工[18][34]。 なお本艦の就役にあたっては、今村武志樺太庁長官より樺太平野の風景画(油絵)寄贈申し入れがあった[35]。1937年(昭和12年)12月1日、最上型巡洋艦4隻(最上、三隈、鈴谷、熊野)で第七戦隊が編制された。
1938年(昭和13年)12月15日、鈴谷は主砲換装工事のため予備艦に指定された[34]。1939年(昭和14年)1月、横須賀海軍工廠で、15.5cm主砲を20cm砲に換装する工事がはじまった[36]。9月30日、主砲の工事完了[37]。11月15日、再び第七戦隊に編入した[34]。
1940年(昭和15年)10月11日、第七戦隊と第八戦隊の重巡5隻(熊野、鈴谷、最上、利根、筑摩)は紀元二千六百年特別観艦式に参加した[38]。第七戦隊は1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争の開戦を、司令官栗田健男少将、第一小隊に熊野、鈴谷、第二小隊に三隈、最上の編制で迎えた[39]。
太平洋戦争緒戦
編集開戦時、第七戦隊は南遣艦隊(司令長官小沢治三郎中将)の指揮下でマレー作戦に従事する[40][41]。蘭印作戦従事中の1942年(昭和17年)2月下旬、第七戦隊は西部ジャワ攻略部隊(輸送船56隻)と第三護衛隊(指揮官原顕三郎第五水雷戦隊司令官)を支援することになった[42]。2月27日、ABDA艦隊(連合軍艦隊)が出現したため、原司令官は南下攻撃を決意した[42]。しかし栗田司令官は原の指令を無視、第七戦隊と第五水雷戦隊は電文の応酬を繰り広げた[42]。みかねた連合艦隊司令部が仲裁に乗り出す始末であり、このあと栗田少将は鈴谷と熊野をひきいて戦闘海域を離れ適宜行動し、バタビア沖海戦(3月1日)には第2小隊三隈、最上が参加した[42]。前田一郎(当時鈴谷運用長)は第1小隊(熊野、鈴谷)も砲戦・魚雷戦に参加して重巡洋艦ヒューストン(USS Houston, CL/CA-30) を撃沈したと回想している[43]。一方で、三隈航海長は、第2小隊(三隈、最上)が第1小隊と合流した際に、鈴谷(木村艦長)より『ご健闘を祝す。われに敵の配給なく面白くなし』の祝辞があったと回想している[44]。
4月1日より、鈴谷はインド洋作戦の一環として通商破壊作戦に従事[45]。第七戦隊は栗田少将直率の北方部隊(熊野、鈴谷、白雲)、三隈艦長指揮の南方部隊(三隈、最上、天霧)に分割されてベンガル湾で活動し[46]、中央隊(鳥海、由良、龍驤、夕霧、朝霧)と共に商船多数を撃沈した[47][48]。4月下旬、第七戦隊は第19駆逐隊(綾波、敷波、磯波、浦波)と共に内地へ帰投した[49][34]。
6月上旬、第七戦隊と第8駆逐隊(朝潮、荒潮)、給油艦日栄丸でミッドウェー攻略部隊支援隊(司令官栗田少将)が編制され、ミッドウェー海戦に参加した[50][51]。 6月5日-6日、日本海軍は空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を喪失[52]。連合艦隊司令部はミッドウェー島のアメリカ軍基地(飛行場)を艦砲射撃で破壊することを企図し、攻略部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官は、攻略部隊に砲撃任務を与えた[53][50]。栗田は命令を受ける前に自発的に七戦隊の位置を報告したが、戦史叢書は『自隊(七戦隊)がこの任を命ぜられるだろうが、艦位が遅れているので不適当であると考え、(栗田は)あらかじめその状況を近藤長官に知らせたのである』と記述している[52]。だが砲撃命令は撤回されず、第七戦隊は35ノットを発揮、朝潮と荒潮を置き去りにしてミッドウェー島に向かった[52]。
6月6日未明、第七戦隊によるミッドウェー島砲撃に中止命令がだされ、4隻は反転退避にうつった[50]。この時、浮上中のアメリカ軍潜水艦タンバー(USS Tambor, SS-198)を回避しようとした単縦陣先頭艦(旗艦熊野)の航海信号が、後続艦(鈴谷、三隈、最上)に誤って伝達される[54][55]。結果、三番艦(三隈)と四番艦(最上)が衝突[56][57]。栗田司令官は損傷の大きい最上に3隻(三隈、荒潮、朝潮)の護衛をつけ、第七戦隊第1小隊(熊野、鈴谷)を率いて主力部隊との合流を急いだものの、そのまま行方不明となった[58][50]。6月6-7日、最上以下4隻はアメリカ軍機動部隊艦載機とミッドウェー基地航空隊の波状攻撃を受け三隈が沈没、3隻(最上、朝潮、荒潮)損傷の被害を出した[59][60]。 この間、栗田及び第1小隊(熊野、鈴谷)はミッドウェー基地空襲圏外にでるため西方に向けて航行しており、6月7日に近藤信竹攻略部隊指揮官より三隈・最上救援作戦に呼応するよう命じられて、やっと自隊の位置を報告した[58][61]。戦後、田中(当時熊野艦長)は「(栗田は主力艦隊と)合同すれば、第2小隊(三隈、最上)救援を命ぜられる事を懸念したからだ」と答えている[58][62]。 6月8日午前4時頃、攻略部隊は損傷艦(最上、朝潮、荒潮)を収容、すると行方不明の第1小隊(熊野、鈴谷)が『まったく思いがけなく反対側の西方』から出現し、攻略部隊に合同した[61][63]。鈴谷は第8駆逐隊(朝潮、荒潮)より三隈生存者を収容[64]。鈴谷艦長木村昌福大佐は栗田(熊野座乗)の行動について「ミッドウェー作戦ノ戦闘詳報閲読」というメモを書き、心情を顕わにしている[62]。
また当時の前田一郎少佐(当時鈴谷運用長)によれば、三隈・最上衝突事故後の第七戦隊司令官栗田健男中将(熊野座乗)は「我に続け」の信号旗を掲げ、衝突損傷した第2小隊(三隈、最上)をその場に残し西進離脱した[65][66]。しかし鈴谷の木村艦長は、「我機関故障」と旗艦(熊野)に伝達して意図的に速度を落とし、独断で第2小隊の救助に向かったとされる[65][66]。三隈生存者の救助後、鈴谷は三隈を魚雷により自沈処分としたという[65][注釈 1]。 大破した最上はトラック泊地で応急修理をおこなったあと内地へ回航され[67]、8月25日をもって第七戦隊から外れた[68]。
6月25日、第七戦隊司令官は西村祥治少将に代わった[69]。鈴谷と熊野はインド洋方面通商破壊作戦「B作戦」に備えて、瀬戸内海で作戦準備を行った[70]。
7月中旬、B作戦が発動された[71]。同作戦参加戦力は第七戦隊(熊野、鈴谷)、第三水雷戦隊(川内、第11駆逐隊、第19駆逐隊、第20駆逐隊)、第2駆逐隊、第15駆逐隊等によって構成されていた[71]。 7月17日[34]、第七戦隊(熊野、鈴谷)、第2駆逐隊(村雨、春雨、五月雨、夕立)、第15駆逐隊(親潮、早潮、黒潮)等と共に内地を出発、7月30日にマレー半島西岸メルギー(en:Myeik, Burma)へ進出した[72][73]。 同部隊はB作戦機動部隊指揮官原顕三郎少将指揮のもと、中央隊(司令官原少将兼務、十六戦隊、第11駆逐隊)、北方隊(第三水雷戦隊、第11駆逐隊)、南方隊に別れ、七戦隊・2駆・15駆は南方隊に所属していた[74][75]。 B作戦実施前の8月7日、アメリカ軍はガダルカナル島とフロリダ諸島(ツラギ島)に上陸を開始し、ガダルカナル島の戦いが始まる[76]。メルギー待機中のB作戦参加各隊は、通商破壊作戦を中止してトラック泊地やソロモン諸島へ向かう[77][71]。
ガダルカナル島の戦い
編集1942年(昭和17年)8月22日、第七戦隊は第三艦隊と合流した[78]。第七戦隊の役割は、第十一戦隊(戦艦《比叡、霧島》)や第八戦隊(利根、筑摩)と共に前衛部隊としてアメリカ軍の攻撃を通報・急襲する役目だった。8月24日の第二次ソロモン海戦における機動部隊前衛は、戦局に関与しなかった[79]。 9月、ソロモン諸島で適宜行動[80]。
10月11日、機動部隊前衛はトラック泊地を出撃[81]。 10月13日、熊野で機関故障が続出し、10月18日に第七戦隊旗艦を鈴谷に変更した[82][83]。20日、熊野は機動部隊前衛から機動部隊本隊に編入され[84]、熊野水偵3機(搭乗員含む)は前衛(第八戦隊《利根、筑摩》、霧島、鈴谷)に派遣された[85][86]。 10月26日の南太平洋海戦における鈴谷は、第十一戦隊司令官阿部弘毅少将(旗艦比叡)を指揮官とする機動部隊前衛(第十一戦隊《比叡、霧島》、第七戦隊《鈴谷》、第八戦隊《利根、筑摩》、第十戦隊《長良、秋雲、風雲、巻雲、夕雲、浦風、磯風、谷風》)を編成し、アメリカ軍機(空母エンタープライズ、ホーネット艦載機)と交戦した[87]。 前衛部隊に到来したアメリカ軍機の大半は重巡3隻(筑摩、利根、鈴谷)を集中して攻撃して筑摩が大破、駆逐艦2隻(谷風、浦風)に護衛されて避退した[88]。また鈴谷の左右から魚雷が迫ったため長益(鈴谷航海長、前職飛龍航海長)少佐が木村(鈴谷艦長)に判断をあおぐと、木村艦長は「まっすぐいけ」と命じ、これが好判断となって雷撃回避に成功したという[89]。10月30日、第七戦隊はトラック泊地に帰投[90]。
11月2日、損傷した4隻(翔鶴、瑞鳳、筑摩、熊野)は駆逐艦部隊に護衛され、日本本土へ向った[91][92]。同時に兵力部署の変更が発令され、第七戦隊は外南洋部隊(指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)に編入される[93]。 あらたに編入された部隊・艦は11月5日にショートランド諸島(ショートランド泊地)に進出[94]。西村司令官は外南洋部隊支援隊(重巡2隻《鈴谷、摩耶》、軽巡《天龍》、駆逐艦4隻《夕雲、巻雲、風雲、満潮〔のち朝潮に変更〕》)の指揮官となった[95]。支援隊は泊地で飛行場砲撃準備をおこない[96]、重巡2隻(鈴谷、摩耶)は同2隻(鳥海、衣笠)から20cm主砲弾零式弾の補充を受けた[97]。
南太平洋海戦でアメリカ軍機動部隊を撃滅したと信じた日本軍は、ガダルカナル島に対する大規模な輸送作戦と、飛行場基地砲撃を同時に実施することにした[98][99]。11月12日夜、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場基地砲撃にむかった挺身攻撃隊(指揮官阿部弘毅第十一戦隊司令官)はアメリカ艦隊と交戦、夜戦および夜明け後の空襲により3隻(比叡、夕立、暁)を喪失して飛行場砲撃に失敗した(第三次ソロモン海戦第一夜戦)[100]。これを受けて山本五十六連合艦隊司令長官と三川第八艦隊長官は、支援隊にヘンダーソン飛行場砲撃を、増援部隊(指揮官田中頼三第二水雷戦隊司令官)には14日のガ島到達・物資揚陸命令を出した[97]。11月13日午前5時40分、支援隊(鈴谷、摩耶、天龍、夕雲、風雲、巻雲)および三川軍一長官直率の主隊(鳥海、衣笠、五十鈴、朝潮)はショートランド泊地を出撃した[97]。 同日深夜、重巡2隻(鈴谷、摩耶)はガ島海域に突入して飛行場砲撃を敢行(鈴谷504発、摩耶485発発射)、護衛部隊(天龍、夕雲、巻雲、風雲、朝潮)はアメリカ軍の魚雷艇から七戦隊を護衛した[101][102][97]。だが飛行場の機能を奪うことは出来ず(急降下爆撃機1、戦闘機17破壊、戦闘機32機以上損傷)[97]、14日昼間になり主隊と支援隊はニュージョージア島南方海面でエンタープライズ艦載機の空襲をうけた[103][104]。重巡衣笠が沈没、3隻(鳥海、摩耶、五十鈴)が損傷した[105][97][106][106]。主隊・支援隊は夕刻になりショートランド泊地から再出撃したが、第二夜戦に参加することはなかった[97][102]。
第三次ソロモン海戦に勝利した連合軍は、11月16日にパプアニューギニアのブナへ上陸作戦を敢行した(ブナとゴナの戦い)[107][108]。外南洋部隊各艦は急遽ラバウル・ニューギニア方面へ転用されることになり、支援隊(鈴谷、摩耶、天龍、涼風、早潮)はショートランド泊地からニューアイルランド島のカビエンへ移動した[109][107]。 11月22日、天龍、早潮は支援隊から除かれ、カビエンを去った[110]。
12月2日、支援隊(鈴谷、摩耶、有明、夕暮)はショートランド泊地へ進出し、ガ島へ向かう駆逐艦輸送作戦(第二次ドラム缶輸送作戦、3日〜4日に実施)を支援した[111][112]。12月4日、輸送任務に従事していた2隻(熊野、谷風)がラバウルに到着[113]。12月6日、支隊と行動を共にしていた2隻(摩耶、春雨)がトラック泊地へ帰投し、第七戦隊旗艦も鈴谷から熊野に変更された[114][112]。 その後、第七戦隊(熊野、鈴谷)は駆逐艦望月等と共にソロモン諸島での輸送任務や支援行動、ニューアイルランド島のカビエン周辺警戒任務に従事した[115][116][117]。また重巡3隻(鳥海、熊野、鈴谷)の水上偵察機がR方面航空部隊に編入され、駆逐艦部隊の上空警戒やガ島基地夜間爆撃に従事した[118]。27日には、2隻(鳥海、望月)がカビエンに到着、西村少将の指揮下に入った[117][119]。
1943年(昭和18年)1月4日、鈴谷は駆逐艦2隻(電、磯波)に護衛されてカビエンを出発、トラック泊地に向かった[120][121]。 1月7日、鈴谷は空母瑞鶴、戦艦陸奥、駆逐艦6隻(有明、夕暮、磯波、電、天霧、朝潮)と共にトラックを出発、内地へ向かう[122]。鈴谷と瑞鶴、鈴谷、天霧、有明、夕暮は呉へ向かい[123]、12日に到着した[124]。
2月4日、鈴谷は駆逐艦天津風を率いて呉を出発した[125]。2月10日、トラック泊地到着[126]。2月13日、西村司令官指揮下の4隻(熊野、鳥海、谷風、浦風)がカビエンよりトラック泊地に回航される[127]。 3月中はトラック泊地で待機[128]。3月22日、熊野機関に故障が発生、旗艦は鈴谷に変更された[129]。24日、天津風に警戒されつつ3隻(鈴谷、熊野、浦風)はトラック泊地を出発、豊後水道では駆逐艦萩風と合同し、29日呉に到着した[130][131]。 4月は呉で待機[132]。
ソロモン諸島の戦い
編集第七戦隊が呉で整備待機中の1943年(昭和18年)5月上旬、アメリカ軍は北方アリューシャン列島で反攻作戦を実施[133]。5月12日、アッツ島に上陸を開始した(アッツ島の戦い)[134][135]。 5月17日、第七戦隊に最上が復帰した[136][137]。アリューシャン方面の戦いに備えて作戦準備を行うが[138]、アッツ島守備隊が全滅し、第七戦隊は内海西部へ戻った[139]。
6月15日附で第七戦隊は前進部隊(司令官栗田健男中将)に編入し、第三戦隊(金剛、榛名)、空母3隻(龍鳳、大鷹、沖鷹)、軽巡五十鈴、駆逐艦部隊(第7駆逐隊《潮、曙、漣》、雪風、第17駆逐隊《浜風、谷風》、第27駆逐隊《時雨、有明、夕暮》)、涼風、新月、清波と共に横須賀を出港、21日トラック泊地に到着した[140][141]。 6月23日、鈴谷は熊野、新月、涼風、有明と共にラバウルへの輸送任務を実施、27日トラックへ戻った[142]。
6月30日、連合軍はニュージョージア諸島のレンドバ島に上陸を開始、南東方面の状勢は緊迫化した(ニュージョージア島の戦い)[143]。 7月9日、第七戦隊は南東方面部隊(司令長官草鹿任一中将)の指揮下に入り、外南洋部隊支援隊に編入される[144][145]。7月10日、鈴谷は熊野、有明、朝凪と共にラバウルに進出した[146]。7月15日、第七戦隊は外南洋部隊夜戦部隊に編入された[147][148]。7月16日の出撃(熊野、鈴谷、川内、雪風、浜風、夕暮、清波)は空振りに終わった[149]。
7月20日、鈴谷と熊野、鳥海、水雷戦隊(軽巡川内、雪風、浜風、夕暮、清波)は夜戦部隊を編制、輸送部隊(三日月、水無月、松風)と共にラバウルを出撃しコロンバンガラ島へ向かった[150][151]。 だがPBYカタリナ飛行艇に誘導されたアメリカ軍機の夜間空襲を受け[152]、夕暮と清波が沈没した[153][154]。熊野が被雷したため、7月21日、旗艦が鈴谷に変更された[155][156]。7月29日、熊野は修理のためトラックへ回航した[157]。鈴谷は10月上旬までラバウルにとどまったのち、トラック泊地へ戻った[158][159]。
11月1日、連合軍はラバウルに対する攻勢を強化するため、ブーゲンビル島に飛行場を建設するため上陸作戦を敢行した(ブーゲンビル島の戦い)[160]。この脅威に対処するため、連合艦隊はトラック泊地に待機している第二艦隊や第三艦隊(機動部隊)の艦艇をラバウル方面に派遣することになった[161][162]。 第七戦隊(鈴谷、最上)は遊撃部隊と共に南東方面部隊に編入[163]。ろ号作戦に協力する[164]。 11月3日朝、遊撃部隊(第四戦隊《愛宕、高雄、摩耶、鳥海》、第七戦隊《鈴谷、最上》、第八戦隊《筑摩》、第二水雷戦隊《能代、早波、玉波、藤波、涼波》)はトラック泊地を出撃[165][166]。 被弾したタンカー救援のため2隻(鳥海、涼波)を分離した遊撃部隊は、南下中の4日夜、輸送任務に従事する第十四戦隊(那珂、五十鈴)と遭遇する[167]。 11月5日午前6時30分前後、遊撃部隊はラバウルに到着した[168]。同地にはブーゲンビル島沖海戦に参加した連合襲撃隊の一部艦艇(阿賀野、長波、時雨、白露、五月雨、若月)等が待機していた[169]。
遊撃部隊がラバウルに到着してから間もなく、空母サラトガ (USS Saratoga, CV-3) と軽空母プリンストン (USS Princeton, CVL-23) から発進した米海軍艦載機約100機が空襲した(ラバウル空襲)[170][171]。草鹿任一南東方面艦隊長官は遊撃部隊をトラック泊地におくりかえす事を決定[172]。 摩耶以外の遊撃部隊は駆逐艦部隊(涼波、玉波、島風)等に護衛されて同日夕刻ラバウルを出発[173]、鈴谷は速度のでない最上を島風、玉波と共に援護し、8日昼過ぎトラック泊地に到着した[174]。
11月19日よりアメリカ軍はタラワ島とマキン島に対する空襲を強化し、21日に上陸を開始してマキンの戦いとタラワの戦いが生起する(ギルバート諸島の戦い)[175][176]。トラック泊地の連合艦隊も対応にせまられ、遊撃部隊(鳥海、鈴谷、熊野、筑摩、能代、早波、藤波、初月、野分、舞風)は南洋方面部隊に編入され、マーシャル諸島に進出した[177]。一種の陽動作戦だったが、圧倒的なアメリカ海軍の戦力と比較すると、遊撃部隊はあまりにも劣勢だった[178]。しばらく待機したが、陸軍部隊のヤルート環礁やミレ環礁への輸送が終わったこと、アメリカ軍が占領したマキンより空襲を受ける危険が高まったことでトラック退避を指示される[179]。 12月3日夜、栗田中将指揮下の重巡4隻(鳥海、筑摩、鈴谷、熊野)、水雷戦隊(能代、早波、藤波、涼月、初月、浜風)はロイ=ナムル島(ルオット島)を出発[180]。 トラック着後の12月7日、第七戦隊旗艦は鈴谷から熊野に移った[181]。12月25日までトラック泊地で待機した。
その後、カビエンへの輸送任務(戊三号輸送任務)に第一部隊(熊野、鈴谷、谷風、満潮)として参加する[182]。ちなみに、戊一号輸送任務は戦艦大和、駆逐艦2隻(谷風、山雲)による本土からトラック泊地への陸兵輸送任務、戊二号輸送任務は重巡洋艦3隻(妙高、羽黒、利根)・駆逐艦2隻(白露、藤波)によるトラック〜カビエン輸送任務、戊三号輸送任務第二部隊は、軽巡洋艦2隻(能代、大淀)・駆逐艦2隻(秋月、山雲)によるトラック〜カビエン輸送任務である[183]。12月26日、鈴谷は戦艦大和に横付けして陸兵・物資を積載すると、同日夜にトラックを出撃してカビエンに向かう[184]。第一部隊(熊野、鈴谷、谷風、満潮)はアメリカ軍大型爆撃機に発見された事で一旦トラックに避退したのち、再出撃[185]。29日にカビエンに到着し物資揚陸に成功すると、1944年(昭和19年)1月1日にトラック泊地に帰還した[186]。
昭和19年の戦い
編集1944年(昭和19年)1月1日、第七戦隊(熊野、鈴谷、最上)に重巡利根、筑摩が編入した[187][188]。 1月はトラック泊地に滞在。2月上旬、トラック泊地よりパラオへ移動[189]。17日パラオ発、21日にリンガ泊地着[190]。3月1日、第一機動艦隊の第二艦隊(司令長官栗田健男中将)に編入される[191]。23日、筑摩に将旗が移り、鈴谷は第二小隊3番艦となった[192][193]。 3月25日、第七戦隊司令官は白石萬隆少将に交代[194]。 5月18日以降、第七戦隊はタウイタウイ泊地に停泊して訓練に従事した[195]。
6月13日、鈴谷は同泊地を出撃し、6月19日のマリアナ沖海戦に参加する[196]。 最上を除く第七戦隊は前衛艦隊(司令長官栗田健男中将、第三航空戦隊・第二艦隊主力)に所属し、さらに第十一群(瑞鳳、大和、熊野、鈴谷、利根、早波、浜波、玉波)を編成して戦闘に臨んだ[197]。 6月19日、小沢機動部隊第一次攻撃隊を誤射[198][199]。海戦に敗北後、沖縄中城湾で補給したのち、鈴谷と熊野、利根、筑摩、浜風、早霜、秋霜、時雨、五月雨は本土へ回航[200]。6月25日、日本本土に戻る[201]。各艦は対空兵器などを増強した[202]。7月8日[203]、鈴谷は陸軍部隊のシンガポール輸送のため第一戦隊(大和、武蔵)等と共に呉を出撃[204]。16日、シンガポールに到着し、以後はリンガ泊地で訓練に従事した[205]。
レイテ沖海戦
編集10月18日、捷一号作戦が発令され、最上を除く第七戦隊は第一遊撃部隊(第二艦隊、司令長官栗田健男中将)第二部隊(司令官鈴木義尾中将)に所属した[206]。第一遊撃部隊はスマトラ島リンガ泊地からボルネオ島ブルネイへ移動する[207][208]。鈴谷は戦艦武蔵より燃料補給を受け、10月22日8時30分に出撃した[209]。 10月23日朝、パラワン島沖でアメリカ潜水艦「ダーター」、「デイス」に襲撃され、重巡洋艦「愛宕」、「摩耶」が沈没、重巡洋艦「高雄」が大破したが、「鈴谷」に被害はなかった[210]。
10月24日、午前10時25分、第七戦隊の水上偵察機は空襲前に発進、サンホセへ向かった[211]。直後、シブヤン海にて栗田艦隊はアメリカ軍機動部隊(第38任務部隊)艦載機の空襲を受け、第一遊撃部隊・第二部隊(第三戦隊《金剛、榛名》、第七戦隊《熊野、鈴谷、筑摩、利根》、第十戦隊《矢矧、浦風、浜風、磯風、雪風、野分、清霜》)は旗艦「金剛」を中心とする輪形陣を形成、鈴谷は金剛の右斜め後方2-3kmに配置された[212][213]。一連の戦闘により「武蔵」が沈没し、損傷を受けた「妙高」、「浜風」、「清霜」が艦隊から離脱した[214]。
10月25日朝、第一遊撃部隊はアメリカ軍護衛空母部隊と遭遇した(サマール島沖海戦)[215][216]。午前7時20分頃、熊野に魚雷1本が命中し、艦隊から落伍した[217][218]。白石司令官は筑摩と利根の指揮を一時的に筑摩艦長に預け、鈴谷への移乗を決定[219][220]。 同時刻に鈴谷も空襲を受け、左舷後部に至近弾を受ける[221][222]。推進器軸の屈曲と艦の震動により、最大発揮可能速力22ノット程度となった[223]。鈴谷水雷長によれば、当時鈴谷は28ノットで敵方向へ突撃していたが司令官移乗の命令により止む無く熊野の傍へ引き返したという[224]。 第七戦隊司令部は洋上に停止した熊野〜鈴谷間をカッターボートで移動し[225]、8時30分以降鈴谷に中将旗を掲げた[226]。熊野は単艦で戦場を離脱した[227][228]。
鈴谷は単艦でアメリカ艦隊の方向へ進撃を開始した[229]。約1時間後の9時30分に大型巡洋艦らしきものを発見[220]。主砲40発を発射した[230][231]。
米空母部隊追跡中止後の10時50分、鈴谷はアメリカ軍機約30機の攻撃を受け至近弾4発(左前方3発、右舷中央部1発)となった[232]。右舷中央部への至近弾により、鈴谷の魚雷発射管室で火災が発生した[233][234]。11時00-10分頃、一番発射管の魚雷が誘爆し艦中央部が大破、右舷への傾斜がはじまった[235]。機関部への浸水もはじまり、航行不能となった[236][237]。弾薬庫への注水を実施したものの、高角砲弾薬の誘爆もはじまり、手がつけられなくなる[237]。 誘爆から約5分後、白石司令官は寺岡(鈴谷艦長)に対して総員退去準備を命じた[238][234]。
この爆発は近くにいた3隻(羽黒、利根、矢矧)等にも目撃された[239][240][241][242]。 11時5分、第十戦隊司令官木村進少将は駆逐艦雪風に鈴谷救援を命じた[243][244]。 11時30分、駆逐艦沖波が警戒に加わった[245]。 白石司令官は利根に移乗した[246]。
司令官移乗中も鈴谷の火災はおさまらず、11時40分には左舷魚雷発射管と高角砲弾も誘爆した[247][248]。白石司令官は沖波、雪風に鈴谷生存者・利根短艇乗員の救助収容を命じたが[249]、雪風にはすでに十戦隊司令官より原隊復帰命令が出されており、浦風、磯風と合流して去っていた[250]。沖波は波浪に悩まされながら鈴谷乗組員救助をおこなう[251]。沈まない場合は雷撃処分も下令されていた[252]。 13時20分、鈴谷は横転して沈没した[251][253]。戦死90名、戦傷者69名、行方不明564名[254]。沖波は空襲に悩まされつつ[234]、六時間にわたり単艦で救助作業に従事[255]。退避中も空襲を受け、鈴谷・利根乗組員は対空戦闘に協力[256]。利根短艇乗員11名中4名が戦死した[257]。鈴谷水上偵察機は1機が行方不明となり、10月28日の時点で2機が稼働状態にあった[258]。鈴谷沈没時の戦闘詳報では、上空直衛のため「水上艦艇は水上戦闘機を搭載すべし」と提言している[259]。
レイテ沖海戦後、アメリカ艦隊はサマール島東方面海域でアメリカ軍の生存者を捜索するが発見できず、漂流する鈴谷の生存者6名を救助した[260]。
その後、鈴谷の生存者205名がマニラ防衛のため地上兵力に転用された[261]。12月20日、鈴谷は帝国軍艦籍から除籍された[262]。
歴代艦長
編集※『艦長たちの軍艦史』119-120頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。
艤装員長
編集- 吉田庸光 大佐:1934年11月20日[27] - 1935年10月10日[32]
- 吉田庸光 大佐:1936年3月6日[33] - 1936年12月1日[263]
- 水崎正次郎 大佐:1936年12月1日[263] - 1937年7月10日[264]
艦長
編集- 水崎正次郎 大佐:1937年7月10日[264] - 1937年12月1日[265]
- 柴田弥一郎 大佐:1937年12月1日[265] - 1938年11月15日[266]
- 久保九次 大佐:1938年11月15日[266] - 1939年11月15日[267]
- 高柳儀八 大佐:1939年11月15日[267] - 1940年10月15日[268]
- 木村昌福 大佐:1940年10月15日[268] - 1942年11月24日[269]
- 大野竹二 大佐:1942年11月24日[269] - 1943年9月4日[270]
- 高橋雄次 大佐:1943年9月4日[270] - 1944年8月29日[271]
- 寺岡正雄 大佐:1944年8月29日[271] - 1944年11月6日[272]
同型艦
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.34『一三二二|誘爆火災中ナリシ鈴谷遂ニ沈没ス(沖波確認推定位置北緯一一度四八分東経一二二度二六分)』
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鈴 谷 』 - ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ203『◎二等巡洋艦鈴谷命名ノ件 昭和八年八月一日(達七九)艦艇製造費ヲ以テ昭和八年度ニ於テ建造ニ着手ノ二等巡洋艦一隻ニ左ノ通命名セラル 横須賀海軍工廠ニ於テ建造 八千五百噸級巡洋艦
鈴 谷 』 - ^ a b c #艦艇類別等級表(昭和15年12月25日)p.2『艦艇類別等級表|軍艦|巡洋艦|二等|最上型|最上、三隈、鈴谷、熊野』
- ^ a b #幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ90『鈴谷(すずや)【初代】 艦種通報艦 一檣(信號用) 艦名考川名にして樺太「コルサコフ」に近接する川に採る。艦歴舊露國軍艦、原名「ノーヴヰック」、明治23年獨逸「シーショウ」造船所にて進水。排水量僅かに3,000噸にして場力20,000、速力25浬、謂近世軽巡洋艦の鼻祖と見るべきものなり。日露戦役中明治37年8月20日「コルサコフ」港に於て我が艦隊(千歳・對馬)の爲めに撃破せられ擱座しありしが、後ち之を収容、同39年7月13日引揚を了し、同39年8月20日帝國軍艦と定め「鈴谷」と命名、大正元年二等海防艦に編入、同2年4月1日除籍。(要目略)』
- ^ #ハンディ判艦艇写真集12p.70『艦名の由来』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.54『明治三十九年九月三日(達一一五)艦艇類別等級別表中通報艦ノ欄内「姉川」ノ次ニ「鈴谷」ヲ加フ』
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- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ199『◎戰利軍艦鈴谷命名ノ件 明治三十九年八月二十日(達一一一)戰利軍艦「ノーヴヰック」ヲ
鈴 谷 ト命名セラル』 - ^ #ポケット海軍年鑑(1937)p.42『二等巡洋艦"最上 もがみ" 全要目{排水量8,500噸 速力33.0節 備砲15.5糎砲15門 12.7糎高角砲8門 魚雷發射管12門 起工昭和6年10月 竣工昭和10年7月 建造所呉海軍工廠} 最上級15糎砲軽巡は、倫敦條約の産物であるといつてもよい。勿論條約などに關係なく英米は建造する豫定でゐたのであらうがはつきりと10,000噸15.5糎砲と極限を定めたのは條約である。米國の"ブルツクリン"英國の"マンチエスター"は各12門であるらしが、わが國では一足お先に最上、三隈の2隻を竣工させた。我國最初の三聯砲塔であると同時に、最も進化した装備と艦内諸設備は全く目を瞠るばかりである。明日の海軍を擔ふ氣鋭の新戰部隊に嘱望する所は大きい。後續の"三隈 みくま"は昭和10年8月竣工したが"鈴谷 すゞや"や"熊野 くまの"は最近進水を遂げ、次に"利根 とね" "筑摩 ちくま"と建造計畫はすゝんでゐる。』
- ^ #昭和9年度海軍予算査定資料p.15『昭和六年補充計畫被代艦調』
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- ^ a b c #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)97頁『機動部隊(3F)の進出』
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- ^ #S1704七戦隊日誌(3)pp.5-6『(2)七月十七日〇八〇〇第七戰隊(最上缺)第十五駆逐隊第二駆逐隊旭東丸日本丸ヲ率ヰB作戰部隊集合地ニ向ケ桂島泊地出撃二十五日昭南水道西口泊地着補給竝ニB作戰各部隊ト作戰ニ関スル諸打合セヲ實施シタル後第七戰隊(最上缺)第十五駆逐隊(黒潮缺)第二駆逐隊(夕立缺)ヲ率ヰ二十八日〇八四〇「メルギー」ニ向ケ昭南水道西口發二十九日午前ベラク島北西方(北緯五度三二分東経九八度四五分)ニ於テ敵潜水艦一隻ヲ撃沈(略)三十日一六四〇「メルギー」着南西方面艦隊ニ合同ス』、p.9『四.参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動』
- ^ #S1708十六戦隊日誌(2)p.3『「カルカッタ」「マドラス」間敵交通線破壊拿捕 船舶ノ回航 会敵部隊ノ撃滅』
- ^ #S1704七戦隊日誌(3)p.18『(イ)昭和十七年七月二十日B作戰部隊ヲ編成セラレ第七戰隊(最上缺)第十五駆逐隊(陽炎缺)第二駆逐隊ハB作戰部隊機動部隊南方隊トシテ本職之ヲ指揮シ上記南方隊(早潮陽炎夕立春雨缺)ハ七月二十八日昭南水道西口發「メルギー」ニ向ケ進出中ナリ』
- ^ #S1704七戦隊日誌(3)pp.29-30『(二)八月七日敵ノ有力ナル攻略部隊(巡洋艦駆逐艦二十数隻輸送船約四〇隻)ハ機動部隊支援ノ下ニ「ツラギ」及「ガダルカナル」方面ニ来襲シ之ヲ攻略セリ 我基地航空部隊、外南洋方面部隊ハ全力ヲ挙ゲテ之ヲ反撃シ敵ノ海上兵力ノ大部ヲ撃破シタルモ「ツラギ」及「ガダルカナル」ヲ奪回スルニ至ラズ 聯合艦隊ノ大部ヲ南洋群島方面ニ集中シ陸軍部隊ト協同「ガダルカナル」方面奪回作戰ヲ開始ス』
- ^ #S1704七戦隊日誌(3)p.29『(一)八月一日戰艦一、航空母艦二、巡洋艦又ハ駆逐艦九隻ヨリナル敵ノ機動部隊「ツリンコマリ」ノ北東方海面ニ出現セル等ノ爲B作戰ヲ一時延期セラレ「メルギー」ニ待機中ノ処外南洋方面ノ情勢急迫セシヲ以テB作戰ヲ取止メ同部隊ノ大部ヲ外南洋方面作戰ニ参加セシメラル』
- ^ #戦隊行動調書p.7『八.二二 機動部隊夜戦部隊(将旗7S) 7S(最上欠)10S 筑摩』
- ^ #重巡洋艦戦記13-14頁『▽第二次ソロモン海戦』
- ^ #S1704七戦隊日誌(4)p.3『(一)前月末第二次「ソロモン」海戰参加後九月五日「トラック」ニ帰投整備次期作戰準備ヲ完成シ「ガ」島奪還作戰支援ノ爲十日〇六〇〇「トラック」出撃「ガ」島北東海面ニ進出敵艦隊ヲ索メタルモ捕捉スルニ至ラズ 「ガ」島作戰ヲ十月ニ延期ノ爲令ニ依リ「トラック」ニ帰投二十三日一五一一入泊セリ 爾後「トラック」ニ於テ次期作戰ニ備ヘ整備ヲ実施ス』
- ^ #S1704七戦隊日誌(4)pp.12-13『(一)上旬「トラック」ニ於ケル作戰準備ヲ整ヘ機動部隊前衛トシテ十日一〇一五「トラック」出撃「ガ」島北東海面ニ進出陸軍部隊輸送ヲ支援スルト共ニ敵増援部隊ノ補足撃滅ニ任ズ 十五日一四〇〇味方攻撃隊ノ攻撃セル敵増援部隊ノ残敵ヲ夜戰ニ依リ撃滅セントシ「ソロモン」群島東方海面ヲ南下セシモ夜戰実施ノ見込ナキヲ以テ一九一八反転北上十七日一一〇〇主隊ニ合同補給ヲ実施ス』
- ^ #S1704七戦隊日誌(4)p.13『本作戰行動中熊野旗艦故障續出ノ爲爾後ノ作戰任務ヲ考慮シ十八日〇九〇八旗艦ヲ熊野ヨリ鈴谷ニ変更ス』
- ^ #叢書83ガ島戦232頁
- ^ #S1704七戦隊日誌(4)p.12『(三)本期間中ノ変化 十八日〇九〇八旗艦ヲ鈴谷ニ変更二十日一〇二九熊野ハ機動部隊本隊ニ編入』
- ^ #叢書83ガ島戦248頁
- ^ #S1704七戦隊日誌(4)p.33『二十|〇九五〇|熊野ヲ本隊ニ第十一戰隊ヲ前衛ニ編入 熊野一.二號機(搭乗員共)ヲ第八戰隊ニ、三號機ヲ霧島ニ移載、三號機搭乗員ハ之ヲ鈴谷ニ派遣セシメラル(機動部隊信令第一六〇號第一六四號)』
- ^ #叢書83ガ島戦273-274頁『支援部隊の編制』
- ^ #叢書83ガ島戦296-297頁『「筑摩」の損傷」』
- ^ #戦場の将器48-49頁
- ^ #S1704七戦隊日誌(4)p.13『爾後「ガ」島北東海面ヲ機宜行動二十六日南太平洋海戰ニ参加シタル後主隊ト共ニ三十日一四一九「トラック」ニ帰投ス』
- ^ #叢書83ガ島戦325-327頁『兵力の再編制』
- ^ #S1711七戦隊日誌(1)p.22『11月1日1717第三艦隊司令長官/一.左ノ各艦(隊)ハ左記ニ依リ内地ニ帰投修理整備作業ニ任ズベシ(1)回航地 艦名:横須賀 翔鶴第四駆逐隊(萩風欠)、秋月/呉:熊野筑摩、第十七駆逐隊第1小隊秋雲 佐世保:瑞鳳、第十七駆逐隊第2小隊 (2)行動(イ)11月2日1400以後「トラック」発各回航地毎ニ先任艦長指揮シ回航スルモノトス。但シ呉佐世保ニ回航スルモノハ途中迄同一行動ヲ執リ分離時迄瑞鳳艦長指揮スベシ(以下略)』
- ^ #S1704七戦隊日誌(5)p.5『十一月三日第七戰隊(熊野欠)ヲ外南洋部隊ニ編入/軍隊区分 外南洋部隊支援隊/任務 「ガ」島飛行場制圧射撃「ソロモン」方面作戰支援、敵艦隊撃滅』
- ^ #S1704七戦隊日誌(5)p.5『(一)「トラック」ニ於テ作戰諸準備ヲ整ヘ十一月三日一二五〇第七戰隊(熊野欠)摩耶第二水雷戦隊第十駆逐隊ヲ率ヰ「トラック」出撃五日一二〇〇「ショートランド」ニ進出外南洋部隊指揮官ノ麾下ニ入リ外南洋部隊支援隊トナル〔兵力、第七戰隊(熊野欠)摩耶天龍第十駆逐隊朝潮〕』
- ^ #叢書83ガ島戦350-351頁『七日の輸送』
- ^ #S1704七戦隊日誌(5)p.5『(二)「ショートランド」ニ於テ燃料弾薬ノ補給作戰諸打合セ、飛行場射撃訓練等「ガ」島飛行場制圧射撃ノ諸準備ヲ完成ス』
- ^ a b c d e f g #叢書83ガ島戦376-378頁『「鈴谷、摩耶」のガ島飛行場砲撃と「衣笠」の喪失』
- ^ #戦場の将器51頁
- ^ #佐藤 艦長続編(文庫)80-81頁
- ^ #ニミッツの太平洋海戦史137頁
- ^ #S1709十八戦隊日誌(6)p.15『13日1100(将旗7S)|當隊(鈴谷摩耶天龍及駆逐艦4)「サボ」島南方ヨリ「ルンガ」沖ニ進入2330「ガ」島飛行場砲撃開始ノ予定』
- ^ a b #S1704七戦隊日誌(5)pp.5-6『(三)十三日〇五四〇外南洋部隊主隊ト共ニ「ショートランド」出撃二二一〇「サボ」島北西方ニ於テ主隊ト分離支援隊ヲ率ヰ「ガ」島海面ニ突入飛行場制圧射撃ヲ実施十四日〇〇〇四終了 〇五五〇「ニュージョージァ」島南方ニ於テ主隊ト合同〇六三〇ヨリ約三時間ニ亘リ敵艦上機群ト交戰シツツ退避一三〇〇「ショートランド」ニ帰着燃料補給ノ上一七四九主隊ト共ニ再ビ「ショートランド」出撃「ソロモン」群島北方海面ヲ機宜行動輸送船隊ヲ支援シタル後十五日一四二七「ショートランド」ニ帰投セリ』
- ^ #叢書83ガ島戦381-382頁『米航空部隊の戦闘』
- ^ #ニミッツの太平洋海戦史138頁
- ^ #戦場の将器52-53頁
- ^ a b #S1704七戦隊日誌(5)p.31『〇七二六|摩耶敵艦爆一機ノ攻撃ヲ受ケ其ノ自爆ニ依リ火災ヲ生ジ〇八一〇頃鎮火スルヲ認ム』
- ^ a b #叢書83ガ島戦413-415頁『連合軍のブナ上陸と南東方面部隊の対策』
- ^ #ニミッツの太平洋海戦史146-147頁『東部ニューギニアを確保す』
- ^ #S1704七戦隊日誌(5)p.6『(四)十七日〇六〇〇支援隊〔第七戰隊(熊野欠)摩耶天龍涼風及早潮〕ヲ率ヰ「ショートランド」出撃十八日一二四二「カビエン」着「ソロモン」方面作戰支援竝ニ「カビエン」方面警戒ニ任ズ』
- ^ #S1704七戦隊日誌(5)p.6『(七)二十二日天龍早潮ハ支援隊ヨリ除カレ「カビエン」ヲ出港ス』
- ^ #叢書83ガ島戦440頁『十二月三日』
- ^ a b #S1704七戦隊日誌(5)p.38『(一)「ガ」島増援作戰支援ノ為支援隊〔第七戰隊《熊野欠》摩耶〕有明夕暮ヲ率ヰ十二月二日〇七〇〇「カビエン」出撃三日〇九〇〇「ショートランド」ニ進出主隊ニ合同同日一四〇〇主隊ト共ニ「ショートランド」出撃「ソロモン群島」北方海面ヲ機宜行動シ「ガ」島増援輸送部隊ノ支援ニ任ジタル後四日一五一七「ショートランド」ニ皈投一八〇〇主隊ト共ニ「ショートランド」發五日〇九五五「ラボール」着熊野ヲ合同、二一〇〇第七戰隊摩耶春雨望月ヲ率ヰ「ラボール」発六日〇六三七「カビエン」着同日摩耶春雨ヲ分離「トラック」ニ回航セシム同日一〇〇〇旗艦ヲ熊野ニ復皈ス』
- ^ #叢書83ガ島戦409頁『二 陸軍兵力の南東方面集中輸送』
- ^ #戦隊行動調書p.7『一二.六 将旗ヲ熊野ニ変更、摩耶ヲ除ク』
- ^ #S1704七戦隊日誌(5)p.38『(二)七日〇六〇〇第七戰隊望月ヲ率ヰ「カビエン」北方海面ニ出動諸訓練ニ従事シタル後八日「カビエン」ニ皈投「ソロモン」方面作戰支援竝ニ「カビエン」方面警戒ニ任ズ』
- ^ #S1704七戦隊日誌(5)p.39『(三)十二月十二日〇五一二支援隊(第七戰隊)風雲夕雲ヲ率ヰ「カビエン」出撃一六一二「ロレンガウ」ニ進出東部「ニューギネア」方面増援部隊ノ補給竝ニ支援ニ任ジタル後十三日一三〇〇支援隊ヲ率ヰ「ロレンガウ」発十四日〇七五〇「カビエン」着尓後「カビエン」方面ニ在リテ「ソロモン」群島方面作戰支援竝ニ「カビエン」方面警戒ニ任ズ』
- ^ a b #S1704七戦隊日誌(5)p.41『四.参考 麾下艦船部隊ノ行動』
- ^ #叢書83ガ島戦511頁
- ^ #S1704七戦隊日誌(5)p.47『二七|「カビエン」第三泊地|(天候略)|〇七〇〇鳥海望月入港』
- ^ #S1801七戦隊日誌(1)p.5『(ハ)作戰指導 (一)全月ヲ通ジ「カビエン」方面ニ在リテ「ソロモン」群島方面作戰支援竝ニ「カビエン」方面警戒ニ任ズ (二)一月四日鈴谷ヲ分離内地ニ回航修理整備ニ従事セシム』-p.14『二日1138第七戰隊司令官(宛略)第七戰隊機密第02113832番電 鈴谷七日「トラック」発呉ニ回航修理セシメラルル処左記工事ハ是非共実施ノコトニ取計ハレ度』
- ^ #S1801七戦隊日誌(1)p.18『六日0700鈴谷艦長(宛略)鈴谷磯波電「トラック」着〇七〇〇』
- ^ #S1801七戦隊日誌(1)p.18『7日0800第三艦隊司令長官/瑞鶴陸奥鈴谷有明夕暮磯波(天霧電6日)「トラック」発』
- ^ #S1801佐伯防備隊日誌(2)pp.11-12『1月11日0900呉防備司令官→瑞鶴鈴谷天霧夕暮有明迅鯨伊良湖|一.瑞鶴鈴谷天霧有明夕暮12日0900沖ノ島通過北上ノ豫定沖ノ島迄ノ針路335度/二.迅鯨12日0800沖ノ島通過、伊良湖同日0700深島通過北上ノ予定』
- ^ #S1801七戦隊日誌(1)pp.7-8『四.参考 麾下艦船部隊ノ行動』
- ^ #S1801七戦隊日誌(1)p.41『四日1100鈴谷艦長(宛略)鈴谷機密第〇四一一〇〇九一番電 一一〇〇呉発夕刻天津風ト合同鈴谷機密第二八一六一〇番電ノ通行動ス』
- ^ #S1801七戦隊日誌(1)p.47『十日1130鈴谷艦長(宛略)鈴谷機密第一〇一一三〇番電 鈴谷天津風「トラック」着』
- ^ #S1801七戦隊日誌(1)p.31『(二)二月九日機動部隊ニ復皈ヲ命ゼラレ二月十一日一七〇〇第七戰隊(鈴谷缺)鳥海第十戦隊(谷風浦風)ヲ率ヰ「カビエン」発十三日〇八三〇「トラック」着鈴谷ヲ合同機動部隊本隊ニ復皈尓後月末マデ「トラック」ニ在リテ「カ」號作戰支援ニ任ズルト共ニ訓練整備ニ従事ス』
- ^ #S1801七戦隊日誌(2)p.4『(一)三月二十四日迄「トラック」ニ在リテ諸訓練竝ニ整備ニ従事ス』
- ^ #S1801七戦隊日誌(2)p.4『(二)三月二十日熊野中圧「タルビン」不具合ニ付旗艦ヲ鈴谷ニ変更ス』
- ^ #S1801七戦隊日誌(2)p.4『(三)三月二十四日呉ニ回航修理ノ命アリ同日〇八〇〇第七戰隊浦風天津風ヲ率ヰ「トラック」発同日一五二〇出撃ノ警戒ニ協力セシ天津風ヲ分離シ諸訓練ヲ實施シツツ北上二十八日一〇〇〇豊後水道入口近ク湾口附近警戒ニ協力ノ萩風ヲ合同一四三〇豊後水道沖ノ島着浦風次イデ萩風ヲ分離同日二三一〇宮島沖ニ假泊二十九日〇七五〇呉着整備ニ従事ス』
- ^ #S1801七戦隊日誌(2)pp.6-8『四.参考 麾下艦船部隊ノ行動』
- ^ #S1801七戦隊日誌(2)p.35『(一)全月ヲ通ジ呉ニ在泊整備竝ニ訓練ニ従事ス』
- ^ #ニミッツの太平洋海戦史157-158頁
- ^ #S1704七戦隊日誌(6)p.42『(二)五月十一日整備ヲ完了シ諸訓練ノ爲内海西部ニ回航シタルモ十二日北方方面情勢ノ急変ニ應ズル爲整備後ノ諸訓練終了後呉ニ於テ急速北方々面作戰準備ヲ整ヘ十三日内海西部ニ回航諸訓練ニ従事シツツ待機ス』
- ^ #ニミッツの太平洋海戦史157-159頁
- ^ #戦隊行動調書p.8『五.一七 最上7Sニ編入(七.二迄内地ニテ調整)』
- ^ #S1704七戦隊日誌(6)p.41『備考 五月十七日機動部隊軍隊区分ニ依リ最上ヲ第七戰隊ニ編入』
- ^ #S1704七戦隊日誌(6)p.42『(四)五月二十日機動部隊ハ豊後水道ニ於テ集結二十一日横須賀ニ回航北方作戰準備ヲ完成シ二十五日木更津沖ニ回航待機ス (五)二十九日待機ヲ解カレ横須賀ニ回航三十日第七戰隊(最上欠)ヲ率ヰ第三戰隊第十戰隊ト共ニ諸訓練ニ従事シツツ内海西部ニ回航ス』
- ^ #S1704七戦隊日誌(6)pp.45-46『麾下艦船部隊ノ行動』
- ^ #S1805四水戦日誌(2)p.9『15日27dg(時雨)GF電令作第590号AdB電令作第218号ニ依リAdBニ復帰、16日27dg(白露欠)ハGF電令作第593号ニ依リ将旗3Sノ指揮下ノ下ニ3S、7S(最上欠)2sf(龍鳳)五十鈴雲鷹冲鷹7dg16dg(雪風)浜風谷風凉風清波新月等ト共ニ横須賀発、21日「トラック」着(将旗)2sfノ指揮ヲ解カル爾後27dg(時雨)ハ前記「ナウル」輸送任務ニ従事』
- ^ #S1704七戦隊日誌(7)p.5『(五)六月十五日前進部隊ニ編入セラレ六月十六日第三戰隊司令官指揮ノ下ニ第三戰隊第七戰隊(最上欠)第二航空戰隊(龍鳳)五十鈴雲鷹沖鷹第七駆逐隊第十六駆逐隊(雪風)第二十七駆逐隊(白露欠)浜風谷風涼風新月清波ト横須賀發二十一日「トラック」着』
- ^ #S1704七戦隊日誌(7)p.5『(六)六月二十三日輸送任務ノ為第七戰隊(最上欠)新月涼風有明ヲ率ヰ「トラック」発二十五日「ラボール」着同日第七戰隊(最上欠)有明涼風ヲ率ヰ「ラボール」発二十七日「トラック」到着尓後「トラック」ニ在リテ警戒待機竝ニ諸訓練ニ従事ス』
- ^ #ニミッツの太平洋海戦史167頁『中部ソロモン諸島作戦』
- ^ #S1709第八艦隊日誌(8)p.7『七.九|7Sヲ支援部隊ニ編入シ支援部隊指揮官ヲ7S司令官ニ改ム 筑紫ヲR方面防備部隊ニ編入』
- ^ #S1704七戦隊日誌(7)p.12『一.九日7S(最上欠)ハ作戰ニ関シ南東方面部隊指揮官ノ指揮下ニ入リ外南洋部隊支援部隊ニ編入セラル』
- ^ #S1704七戦隊日誌(7)pp.12-13『(二)九日南東方面情勢急変ニ依リ作戰ニ関シ南東方面部隊指揮官ノ指揮ヲ受クルコトトナリ第七戰隊(最上欠)有明朝凪ヲ率ヰ〇四〇〇「トラック」出撃、十日〇六〇二「ラボール」ニ進出尓後外南洋部隊支援部隊ニ編入サレ同隊ヲ指揮シ「ラボール」ニ於テ作戰準備ヲ整ヘ待機ス』
- ^ #戦隊行動調書p.8『七.一五 外南洋部隊夜戦部隊(将旗7S) 7S(最上欠)鳥海川内雪風浜風清波三日月水無月松風』
- ^ #S1704七戦隊日誌(7)p.17『機密外南洋部隊電令作第三七九号作戰ノタメ3sd(川内)16dg(雪風)浜風夕暮清波ヲ合セ夜戰部隊ヲ編成之ヲ指揮ス』
- ^ #S1704七戦隊日誌(7)p.13『(三)十六日外南洋部隊電令作第三七九号ニ依リ外南洋部隊海上主力ヲ以テ「クラ」湾方面ニ敵艦隊ヲ索メテ之ヲ強襲撃滅スルト共ニ一部ヲ以テ「コロンバンガラ」作戰輸送ヲ實施スルニ決シ夜戰部隊〔7S(最上欠)3sd(川内)16dg(雪風)浜風夕暮清波〕ヲ率ヰ二二〇〇「ラボール」ヲ出撃セシモ外南洋部隊電令作第三八三號ニ依リ夜戰ヲ中止「ブカ」島北東海面ヨリ反転十七日一九二五「ラボール」ニ入港セリ』
- ^ #S1704七戦隊日誌(7)pp.13-14『(四)十八日外南洋部隊電令作第三七九號ノ作戰(夜戰)ヲ再興サレ十九日夜ヲ期シテ夜戰ヲ決行スルコトトナリ十八日2200夜戰部隊(前項ノ兵力ニ鳥海ヲ加フ)ヲ率ヰ「ラボール」ヲ出撃「ボーゲンビル」海峡北口ニ於テ輸送隊〔30dg(三日月)水無月松風〕ヲ合同後「ソロモン」諸島中水道ニ進入2100輸送隊ヲ分離「コロンバンガラ」ニ人員物件ノ揚搭ヲ實施セシメ夜戰部隊ハ「ビスビス」角北西方ニ進出セシモ敵水上兵力ニ會敵セズ2300反転、帰途敵航空機ト交戰夕暮清波ヲ失ヒタルモ尓余ノ部隊ハ二〇日1730頃「ラボール」ニ帰投セリ』
- ^ #S1704七戦隊日誌(7)p.17『十九日附7S(最上欠)外南洋部隊ニ編入 外南洋部隊電令作第三七九号作戰ノ為、鳥海3sd(川内)16dg(雪風)浜風夕暮清波ヲ以テ夜戰部隊ヲ編成30dg(三日月)水無月松風ヨリ成ル輸送隊ト併セ指揮ス』
- ^ #ニミッツの太平洋海戦史172頁
- ^ #S1709第八艦隊日誌(8)pp.35-36『(1)主隊水雷戰隊 「クラ」海湾北方海面ニ進出セシモ敵ヲ見ザルヲ以テ2300反転帰途ニ就ク之ヨリ先1900頃ヨリ敵機ノ執拗ナル触接ヲ受ケツツアリシニ20日0035ヨリ0045ニ亘リ「ベララベラ」島北方海面ニ於テ敵SBD雷撃機五機ト交戰爾後0403迄間歇的ニ来襲セル敵飛行機ト交戰シツツ「ショートランド」島南方ヲ経テ「ラボール」ニ向フ 此ノ間敵飛行機ノ雷撃ニ依リ20日0035夕暮沈没0045熊野中破(右舷200番「ビーム」附近大破口舵機故障二十四節航行可能)又夕暮ノ救援ニ向ヒタル清波0230以後消息ナク沈没セルモノト認メザルヲ得ザルニ至レリ(以下略)』
- ^ #S1704七戦隊日誌(7)p.35『(イ)夕暮 轟沈 (ロ)清波 夕暮ノ救助ニ向ヒタル儘消息不明(註)夕暮清波共乗員ノ状況不明手掛リナシ』
- ^ #戦隊行動調書p.8『七.二一 将旗ヲ鈴谷ヘ』
- ^ #S1704七戦隊日誌(7)p.14『(五)七月二十一日旗艦ヲ鈴谷ニ変更尓後月末迄「ラボール」ニ在リテ待機シツツ訓練整備ニ従事ス』
- ^ #S1704七戦隊日誌(7)p.14『(六)熊野ハ十九日夜戰ニ於テ損傷シ修理ノ為機動部隊ニ復帰ヲ命ゼラレタルヲ以テ「ラボール」ニ於テ應急修理ノ上二十九日一三〇〇「ラボール」發駆逐艦皐月望月ノ護衛ヲ附シ「トラック」ニ回航セシム』
- ^ #S1704七戦隊日誌(7)p.50『(イ)外南洋部隊支援部隊トシテ敵情ノ変化ニ即應スル為四時間以内ニ出撃シ得ル状態ニテ「ラボール」ニ待機シツツ諸訓練ニ従事ス』
- ^ #戦隊行動調書p.8『七.二一 一〇.七)「ラバウル」ニテ待機「ソロモン」方面作戰支援』
- ^ #ニミッツの太平洋海戦史176-177頁『ブーガンヴィル作戦』
- ^ #第八戦隊日誌(7)p.39『(ロ)我ガ軍ノ情況(部隊ノ移動並軍隊區分ノ變更) (一)十月下旬ヨリ十一月中旬迄3F(1sf)航空兵力ノ大部ヲ南東方面ニ派遣南東方面ノ作戰ニ協力セシメラル』
- ^ #第八戦隊日誌(7)p.40『(一)十一月一日敵ハ「ボーゲンビル」島「タロキナ」方面ニ上陸作戰ヲ開始シ「ブカ」方面ニ之ガ波及ノ徴アリ、遊撃部隊〔4S 2sd(能代32dg島風)7S(鈴谷最上)8S(筑摩)〕ハ聯合艦隊電令作第七八四號ニ基キ直ニ出撃ノ準備ヲ完了ス』
- ^ #第八戦隊日誌(7)pp.39-40『(二)十一月初旬遊撃部隊〔4S 2sd(能代32dg)7S(鈴谷最上)8S(筑摩)〕ハ「ラバウル」ニ進出南東方面部隊ニ編入セラル』
- ^ #第八戦隊日誌(8)p.4『(イ)我ガ軍ノ企圖 遊撃部隊〔4S.2sd(能代32dg島風)7S(鈴谷最上)8S(筑摩)ヲ速ニ「ラボール」方面ニ進出セシメ南東方面部隊ニ編入シ(ろ)號作戰ニ従事セシメラル』
- ^ #第八戦隊日誌(7)pp.40-41『(二)遊撃部隊ハ三日〇七三〇「トラック」出撃「ラバウル」ニ進出南東方面部隊作戦ニ従事シ七日一三〇〇「トラック」ニ帰投ス』
- ^ #S1806二水戦日誌(5)p.10『(3)32驅(早波藤波)「トラツク」在泊中一、二日不要物件陸揚出撃準備實施三日32驅(早波玉波藤波涼波)「トラツク」出撃同日NTBニ編入セラル四日涼波分離五日「ラバウル」着敵機十機以上ト交戰…』
- ^ #第八戦隊日誌(8)p.6『十一.四(略)二一五九|14S(五十鈴那珂)ヲ左三度八粁ニ認ム』
- ^ #第八戦隊日誌(8)p.7『十一.五曇 〇六二三|「ラバウル」入港』-p.16『別圖第一 第八戦隊(旗艦筑摩)行動圖 自十一月二日至十一月五日 自トラツク至ラバウル』
- ^ #S1712五戦隊日誌(3)pp.22-23『…二日〇〇四五「ガゼレ」湾外ニ敵艦隊ヲ捕捉此處ニ「ボーゲンビル」島沖海戰ヲ展開多大ノ戰果ヲ収メ二日「ラバウル」ニ歸投セリ(略)歸投直後「ラバウル」大空襲アリ急遽出港之ヲ港外ニ回避シツツ對空戰斗實施聯合襲撃部隊ハ敵機計五十一機ヲ撃墜スルノ戰果ヲ収メタリ 十一月四日損傷箇所修理ノ爲「ラバウル」發同六日「トラツク」着』
- ^ #重巡洋艦戦記19頁『▽ラバウル第一次空襲』
- ^ #ニミッツの太平洋海戦史185頁
- ^ #S1806二水戦日誌(6)p.40『一.形勢 遊撃部隊(4S 8S《利根缺》 7S《熊野缺》 2sd《24dg 27dg缺》)ノ南東方面部隊ニ編入セラレ昭和十八年十一月五日「ラボウル」ニ入港セルヲ察知セル敵ハ同日午前母艦航空兵力百數十機ヲ以テ来襲シ来レリ。同夜巡洋艦戰隊(摩耶缺)ハ不敢取「トラツク」ニ回航セルモ…』
- ^ #S1806二水戦日誌(5)p.31『五日1955(長官)YB(宛略)4S(摩耶鳥海欠)7S(鈴谷)8S(筑摩)島風ヲ率ヒ「トラツク」ニ向ケ「ラバウル」発』
- ^ #S1806二水戦日誌(5)p.45『八日1325(司令官)7SYB(宛略)7S機密第081325番電 7S(熊野欠)島風玉波ヲ率ヰ「トラツク」着』
- ^ #第八戦隊日誌(7)pp.41-42『(六)十九日敵機動部隊及攻略部隊「ギルバート」方面ニ來襲二十一日「タラワ」島及「マキン」島ニ上陸ヲ開始ス 聯合艦隊長官ヨリ十九日一四三二丙作戰第三法警戒二一三二同用意二十一日〇五四〇同發動ノ令アリ』
- ^ #ニミッツの太平洋海戦史217-221頁『ギルバート諸島の奪回』
- ^ #第八戦隊日誌(7)p.40『(四)十一月下旬ヨリ十二月上旬迄遊撃部隊〔4S(鳥海) 7S(鈴谷熊野)8S(筑摩)2sd(能代32dg(玉波欠))初月4dg(野分舞風)〕ハ「マーシャル」ニ進出、内南洋方面部隊ニ編入セラル』
- ^ #重巡洋艦戦記19-20頁『▽ギルバート攻略』
- ^ #第八戦隊日誌(8)pp.24-25『(一)内南洋部隊遊撃部隊ハ十一月三十日ヨリ「ルオット」ニ在リテ輸送隊ノ陸軍部隊「ミレ」「ヤルート」輸送ノ支援ニ任ジツツアリシガ同作戰三日ヲ以テ終了シ同日聯合艦隊電令作第八四二號ニ依リ内南洋方面部隊指揮官ノ指揮ヲ解カレ「トラック」ニ回航スルコトトナリ遊撃部隊信令第九三號ニ依リ四日早朝「ルオット」出撃豫定ノ所三日「マロエラップ」ニ敵小型機ノ出現アリ又「マキン」ハ既ニ大型機ノ發着可能ノ情報等アリタルヲ以テ豫定ヲ變更サレ三日一九三〇「ルオット」ヲ出撃ス』
- ^ #S1812熊野日誌(1)p.34『三日一九三〇第二艦隊司令長官(宛略)第二艦隊機密第031930番電 第四戰隊(鳥海)第八戰隊(筑摩)第七戰隊(鈴谷熊野)第二水雷戰隊〔能代三二駆逐隊(早波藤波)〕第六一駆逐隊(凉月初月)第十七駆逐隊(浜風)ヲ率ヒ「トラック」ニ向ケ「ルオット」發』
- ^ #S1812熊野日誌(1)pp.5,35『七日〇九〇〇第七戰隊司令官(宛略)旗艦ヲ熊野ニ復帰ス』
- ^ #戦隊行動調書p.8『一二.二五 戊三号輸送部隊(将旗7S) 第一部隊(7S(最上欠)満潮谷風) 第二部隊(2sd(能代)大淀山雲)』
- ^ #S1812熊野日誌(1)pp.38-39
- ^ #S1812熊野日誌(1)p.10『26日0540大和左舷ニ横付ス 0600物資移載始ム 1255横付ヲ離ス 1318大和艦尾ニ假泊 2000假泊地発(「カビエン」ニ向フ)』
- ^ #S1812熊野日誌(1)p.12『29日1315出港(「カビエン」ニ向フ)』
- ^ #S1812熊野日誌(2)p.3
- ^ #戦隊行動調書p.8『昭和19 一.一 利根筑摩 7Sニ編入』
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- ^ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.4『第七戦隊(《将旗》熊野鈴谷筑摩利根)ハ第一遊撃部隊ノ第二部隊(3S、7S、10S(《将旗矢矧、17dg、野分》及清霜)ニ属シ第一部隊ト共ニ1YBノ主力トシテ「シビアン」海経由「サンベルナルヂノ」海峡突破「レイテ」泊地突入ヲ企図ス』
- ^ #捷号日誌(3)第七戦隊p.4『(2)十八日「ブルネー」ニ向ケ「ギャラン」泊地出撃仝日「捷一号作戰発動」発令セラル二十日「ブルネー」着給油船到着ヲ待チテ急速補給ノ上二十二日「ブルネー」ヲ出撃ス』
- ^ #重巡十八隻275頁『修羅場と化したミンドロ冲の決闘場』
- ^ #S1910鈴谷詳報p.2『(一)任務企圖 第一遊撃部隊第二部隊タル第七戰隊二番艦トシテ十月十八日「ギヤラン」泊地出撃十月二十日一一二〇「ブルネー」ニ入泊武藏ニ横付燃料ヲ満載セリ十月二十二日〇八三〇「ブルネー」出撃「レイテ」灣ノ敵撃滅ニ向フ』
- ^ #捷号日誌(3)第七戦隊p.13『二十三(天候略)0635愛宕高雄摩耶敵潜ノ雷撃ヲ受ク/0638愛宕沈没/0647摩耶沈没(略)1640(旗艦)2Fヲ大和ニ移ス』
- ^ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.6『対空戦斗前発進「サンホセ」基地ニ避退。』
- ^ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.12『第B3警戒航行序列(輪形陣)』
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- ^ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)pp.20-21,33『0724/熊野ノ右艦首雷跡三本発見(敵駆逐艦ノ発射セルモノト認ム)一本艦首ニ命中10番「フレーム」ヨリ前方切断 波切不良ノ為出シ得ル速力14節 其ノ他被害軽微機関異常ナシ』
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- ^ #S1910鈴谷詳報p.6『〇七三五|敵艦上機約一〇機ト交戰舟左舟尾ニ至近弾ヲ受ケ舟左内軸故障三軸運轉トナス艦震極メテ大トナル戦傷者十名戰果ナシ』
- ^ #重巡十八隻278-280頁
- ^ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)pp.49-50『鈴谷|左舷後部至近爆弾(二五日〇七二四)|一.船体 後甲板及仝左右外板ニ歪ヲ生ズ後部重油「タンク」浸水使用不能/二.機関 左舷前機軸系屈曲(推定)使用不能』-『右舷中部至近爆弾(二五日一一〇四)|右舷発射管室火災一一一〇右舷魚雷爆発船体中部大破機関使用不能火災ハ左舷発射管室ニ及ビ一一四〇左舷魚雷爆発一三二二沈没』
- ^ #S士官の手記続編p.5『(ト)追撃ニ關シ(略)若松大尉述 7Sハ突撃下令後(旗艦)熊野ハ敵dノ雷撃ヲ受ケ舟首ニ被害 鈴谷ハ28ktニテ急進中ナリシモ(旗艦)變更ノ爲引返セノ命ニ依リ引返シ一時停止(司令官)移乗セルモ此ノ時敵fbノ攻撃酣ニシテ(司令官)移乗ニ相等ノ時間ヲ費消セリ之ガ爲鈴谷ハ遂ニ魚雷發射ノ機ヲ得ズ斯ル突撃最中ニ於ル(司令官)ノ移乗ハ絶對ニ賛意ヲ表シ得ズ』
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- ^ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.23『0800頃/熊野(漂泊)鈴谷熊野附近ニ漂泊ス。熊野ヨリ「カッター」ヲ降シ司令官及司令部職員ノ一部(参謀四名司令部附士官二名下士官二名)鈴谷ニ移乗ス』
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- ^ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.49『鈴谷|〇七一三(〇七三〇)空母1隻駆逐艦1隻|不詳|主砲弾約三〇発/〇九三〇頃|落伍セル敵防空巡洋艦(各駆逐艦)一隻|至近弾ニヨリ撃破傾斜大|主砲弾約四〇発』
- ^ #S1910鈴谷詳報p.6『一〇〇〇|敵損傷大型巡洋艦ニ對シ砲撃ス』
- ^ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.31『一一〇〇|敵艦爆数機(旗艦)鈴谷ニ来襲(弾着概況) 右舷至近弾ニ依リ鈴谷右発射管室小火災忽チ拡大(魚雷頭部ニモ点火燃焼セルモノヽ如シ)』
- ^ #S1910鈴谷詳報pp.6-7『一〇五〇|敵艦上機約三十機ト交戰右舷中部ニ至近弾ヲ受ク至近弾火焔ニ依リ一番聯管装填魚雷頭部燃焼破壊火災トナル』
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- ^ #S1910鈴谷詳報p.7『一一〇〇|一番聯管装填魚雷誘爆艦中央部大破航行不能 右ニ約六度傾斜シ各部誘爆ト共ニ漸次傾斜ヲ増ス』
- ^ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)pp.31-32『一一一〇|鈴谷右発射管室魚雷大誘爆左舷発射管室大火災航行不能(艦橋運轉指揮所間連絡絶ユ)七.八缶室浸水傾斜右七度漂泊四番砲塔弾薬庫危険撤注水開始発射管室火災ハ益〃拡大ス自力航行ノ見込ミナラズ』
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- ^ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.32『一一一五|(司令官)→鈴谷艦長(口頭)「総員ヲ上ゲ退去ノ準備ヲナセ」「御寫眞ヲ利根ニ奉遷セヨ」(司令官)鈴谷→利根「旗艦ヲ変更ス短艇ヲ送レ」』
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- ^ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.32『一一四〇|鈴谷左舷魚雷誘爆大火災沖波救助ニ當ル (司令官)7S→鈴谷「速ニ総員退去セヨ」』
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- ^ #S士官の手記p.18『…尚、此ノ時炎上中ノdヲ更ニ砲撃セントシアリシ鈴谷ハ敵fb三機ノ攻撃ヲ受ケ發射管附近至近弾ノ為火災、魚雷誘爆シ航行不能沖波ハ鈴谷警戒ヲ命ゼラレシ竝ニ艦隊ト分離單艦行動トナル(艦隊ハ燃料不足、敵KDBノ南北ヨリ協議、「レイテ」突入時機失等ノ理由及GF長官ヨリノ命ニ依リ反轉「パラワン」経由昭南ニ向フ)鈴谷沈没後約六時間ニ亘ル救助作業ヲナス』
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- 不死身の最上ミッドウェー沖の雄叫び 元重巡最上の航海長・海軍中佐山内正規
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著者は日映カメラマン。ミッドウェー海戦後乗艦、南太平洋海戦まで「熊野」に乗艦。 - 「丸」編集部『丸スペシャルNo122 重巡最上型/利根型』(潮書房、1987年)
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- 『軍艦鈴谷命名式に関し内協議事項の件(3)』。Ref.C05023430200。
- 『軍艦鈴谷命名式に関し内協議事項の件(4)』。Ref.C05023430300。
- 『軍艦鈴谷命名式に関し内協議事項の件(5)』。Ref.C05023430400。
- 『10.1.22 満洲国民政部大臣に軍艦鈴谷模型1個(箱入)贈呈の件』。Ref.C05034133900。
- 『第4775号 10.11.12寄贈物品受納に関する件』。Ref.C05034319100。
- 『昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書』。Ref.C08051772000。
- 『昭和16年12月13日~昭和17年3月26日 第7戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030046200。
- 『昭和16年12月13日~昭和17年3月26日 第7戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030046300。
- 『昭和16年12月13日~昭和17年3月26日 第7戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030046400。
- 『昭和16年12月13日~昭和17年3月26日 第7戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030046500。
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- 『昭和18年9月1日~昭和18年9月30日 佐伯防備隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030408700。
- 『昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌(7)』。Ref.C08030048800。
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- 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030101400。
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- 『昭和17年12月11日~昭和18年11月2日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030044900。
- 『昭和18年12月1日~昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030101800。
- 『昭和18年12月1日~昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030102000。
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- 『昭和18年12月1日~昭和19年4月30日 軍艦熊野戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030571800。
- 『昭和18年12月1日~昭和19年4月30日 軍艦熊野戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030571900。
- 『昭和18年12月1日~昭和19年4月30日 軍艦熊野戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030572000。
- 『昭和19年6月1日~昭和19年6月30日 軍艦熊野戦時日誌』。Ref.C08030746500。
- 『昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030039900。
- 『昭和19年5月1日~昭和19年11月25日 軍艦熊野戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030572300。
- 『昭和19年5月1日~昭和19年11月25日 軍艦熊野戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030572400。
- 『昭和19年5月1日~昭和19年11月25日 軍艦熊野戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030572500。
- 『昭和19年5月1日~昭和19年11月25日 軍艦熊野戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030572600。
- 『昭和19年10月1日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦時日誌(1)第1戦隊』。Ref.C08030039100。
- 『昭和19年10月1日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦時日誌(2)第5戦隊』。Ref.C08030039200。
- 『昭和19年10月1日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦時日誌(3)第7戦隊』。Ref.C08030039300。
- 『昭和19年10月1日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦時日誌(4)第10戦隊』。Ref.C08030039400。
- 『昭和19年10月1日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦時日誌(4)軍艦大淀・軍艦鈴谷』。Ref.C08030039300。
- 『昭和19年10月18日~昭和19年10月25日 軍艦鈴谷戦闘詳報』。Ref.C08030568900。
- 『昭和19年10月23日~昭和19年10月26日 軍艦羽黒戦闘詳報(1)』。Ref.C08030568000。
- 『昭和19年10月22日~昭和19年10月28日 軍艦矢矧捷1號作戦戦闘詳報(3)』。Ref.C08030577800。
- 『昭和19年10月22日~昭和19年10月28日 第17駆逐隊戦闘詳報』。Ref.C08030589300。
- 『昭和19年10月1日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(1)第十戦隊』。Ref.C08030037400。
- 『昭和19年10月1日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(2)第十戦隊』。Ref.C08030037500。
- 『昭和19年10月1日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(3)第十戦隊/第十六戦隊』。Ref.C08030037600。
- 『昭和19年10月20日~昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)/自昭和十九年十月二十三日至同年十月二十六日 第七戦隊戦斗詳報(菲島沖海戦ヲ含ム)第七戦隊司令部』。Ref.C08030037100。
- 『昭和19年10月18日~昭和19年11月5日 軍艦利根戦闘詳報(1)』。Ref.C08030568500。
- 『昭和19年10月18日~昭和19年11月5日 軍艦利根戦闘詳報(2)』。Ref.C08030568600。
- 『昭和19年10月18日~昭和19年11月5日 軍艦利根戦闘詳報(3)』。Ref.C08030568700。
- 『昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 横須賀鎮守府戦時日誌(3)』。Ref.C08030318900。
- 『昭和15年12月25日現在10版内令提要追録第8号原稿/ 巻3追録/第13類艦船(1)』。Ref.C13071993800。
- 『昭和15年12月25日現在10版内令提要追録第8号原稿/ 巻1/第6類機密保護』。Ref.C13071993000。
- 『昭和16年6月30日現在10版内令提要追録第9号(上)原稿:巻1追録/第6類機密保護』。Ref.C13071997700。
- 『昭和17年6月30日現在10版内令提要追録第11号(中)原稿/第6類機密保護』。Ref.C13072007500。
- 『昭和8年 達 完/達昭和8年8月(1)』。Ref.C12070097100。
- 『昭和17年8月10日.昭和20年7月13日 内令及び海軍公報(軍極秘)/内令昭和19年10月~12月(4)』。Ref.C12070203800。
- 『S士官の手記 史実調査部/沖波戦闘行動関係』。Ref.C14061106300。
- 『S士官の手記続篇史実調査部』。Ref.C14061106400。
- 『第1表/2.1944年10月18日以降増援兵力』。Ref.C14061098700。