長崎町 (東京府)
日本の東京府北豊島郡にあった町
長崎町(ながさきまち)は、かつて東京府北豊島郡に存在した町の一つ。1926年(大正15年)の町制施行によって誕生した。現在の東京都豊島区西部に当たる地域。
ながさきまち 長崎町 | |
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廃止日 | 1932年10月1日 |
廃止理由 |
新設合併 長崎町、巣鴨町、西巣鴨町、高田町→東京市豊島区 |
現在の自治体 | 東京都豊島区 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 関東地方 |
都道府県 | 東京府 |
郡 | 北豊島郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 3.42 km2. |
総人口 |
29,266人 (国勢調査、1930年10月1日) |
隣接自治体 | 北豊島郡西巣鴨町、高田町、板橋町、上板橋村、豊多摩郡落合町、野方町 |
長崎町役場 | |
所在地 | 東京府北豊島郡長崎町字西向2890番地 |
座標 | 北緯35度43分41秒 東経139度41分26秒 / 北緯35.7281度 東経139.6906度座標: 北緯35度43分41秒 東経139度41分26秒 / 北緯35.7281度 東経139.6906度 |
ウィキプロジェクト |
1889年(明治22年)の市制町村制によって誕生した、前身である長崎村(ながさきむら)についても合わせて記述する。それ以前の武蔵国豊島郡長崎村についても本項で述べる。
地理
編集現在の地名では豊島区要町、千川、千早、長崎、南長崎のほぼ全域および、西池袋四丁目の西半分とその他の一部(旧・谷端川以西)、池袋の一部(旧・谷端川以西)、目白四丁目の西半分と五丁目のほぼ全域、高松の一部、板橋区南町、幸町のそれぞれ一部に相当する。
武蔵野台地の東端部にあたる。大きく谷端川に囲まれる北部と南部の二つの起伏に分かれる。
歴史
編集→「豊島区」も参照
伝承によれば鎌倉時代末期に長崎氏の長崎高重知行となったため、長崎と呼ばれるようになったという。しかし、長崎村は周辺の地域とは異なり文書を残さず口伝でのみ情報を残してきたため、確証となる文書は存在しない。
室町時代の『小田原衆所領役帳』には、「太田新六郎知行江戸長崎」とあり、すでにこの地名が存在し、江戸衆に組み込まれていたことがわかる。
古くから清戸道(現在の目白通りなど)から長橋道(現在の山手通りなど)が分岐するあたりに道の駅として椎名町という小名があった。
長らく農地であったが、昭和に入ってから徐々に住宅地に変貌した。
年表
編集- 1868年8月7日(慶応4年旧暦6月19日):長崎村は武蔵知県事山田政則管轄区域となる。
- 1869年
- 1870年
- 1871年
- 1872年
- 1873年(明治6年)3月:東京府は府内全域を十一大区に再編する区画改正を行い、長崎村は下板橋宿、金井窪村、中丸村、上板橋村と共に第九大区四小区(区事務取扱所は下板橋宿)となる。
- 1878年(明治11年)11月:大区小区制が廃され、郡区町村編制法により北豊島郡(郡役所は下板橋宿)が設置される。
- 1889年(明治22年)5月1日:市制町村制により、長崎村の大半に下落合村の飛地(字三軒家)を編入し、長崎村となる。一部は巣鴨村に編入される。
- 1899年(明治32年):村役場庁舎建築。
- 1926年(大正15年)6月30日:郡制廃止により北豊島郡役所が廃止され、東京府直轄となる。
- 1926年(大正15年)10月1日:長崎村が町制施行し長崎町となる。
- 1932年(昭和7年)10月1日:東京市編入により、長崎町は巣鴨町、西巣鴨町、高田町とともに豊島区となる。
行政
編集施設
編集- 長崎町役場
- もともとの長崎村役場は字西向2887番地にあったが、1915年(大正4年)4月に新設し移転。
経済
編集産業
編集地域
編集地名
編集- 字 - 高松、前高松、北荒井、地蔵堂、並木、荒井、大和田、西向、境窪、北原、西原、田原、五郎窪、水道向
教育
編集- 長崎町立長崎尋常高等小学校(旧・長崎尋常小学校、現・豊島区立長崎小学校)
- 長崎町立長崎第二尋常小学校(現・豊島区立要小学校)
- 長崎町立長崎第三尋常小学校(現・豊島区立椎名町小学校)
- 長崎町立長崎農業補習小学校(長崎尋常高等小学校に併設)
- 長崎町立長崎青年訓練所
交通
編集鉄道路線
編集道路
編集名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事
編集神社
編集宗教
編集遺跡・その他
編集- 長崎富士