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{{独自研究|date=2022年3月25日 (金) 11:34 (UTC)}}
[[File:Emperor qianlong blue banner.jpg|thumb|350px|乾隆帝の治世下の正藍旗]]
'''八旗'''(はっき・ジャクン
八旗は'''旗'''と呼ばれる社会・軍事集団からなり、すべての満洲人は8個の旗のいずれかに配属された。後には[[モンゴル|モンゴル人]]や[[漢人]]によって編成された八旗も創設される。八旗に所属する満洲人・モンゴル人・漢人は'''旗人'''(きじん、gūsa i niyalma)と総称され、清の支配階層を構成した。
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[[File:Qing hunting party.jpg|350px|thumb|皇帝の狩りに随行する兵士たち]]
[[File:A Manchu Soldier from the North of China Wellcome L0040986.jpg|250px|thumb|八旗の火縄銃兵<ref>『新世界史図説』 帝国書院、1986年、p.69</ref>(19世紀後期)]]
八旗は、清の始祖である太祖[[ヌルハチ]]が、満洲人の前身である[[女真]](jušen)を統一する過程で、[[女真]]固有の社会組織を「旗」と呼ばれる軍事集団として編成、掌握したことに始まる。
[[1601年]]にヌルハチがこの制度を創始した当初は
・黄(ᠰᡠᠸᠠᠶᠠᠨ, suwayan)
・白(ᡧᠠᠩᡤᡳᠶᠠᠨ, šanggiyan)
八旗に属する旗人たちは、平時は農耕・狩猟に従事しつつ要地の警備や兵役にあたった。要地の警備のために特定の場所に集団で移住させられた八旗を[[#駐防八旗|駐防八旗]]という。また、清が入関して[[万里の長城]]以南の全中国を支配するようになると、数多くの旗人が新たに首都となった[[北京市|北京]]へと移住させられ、北京の内城は旗人の街になった。こうした北京に住まう八旗を[[八旗#禁旅八旗|禁旅八旗]]という。▼
・紅(ᡶᡠᠯᡤᡳᠶᠠᠨ, fulgiyan)
・藍(ᠯᠠᠮᡠᠨ, lamun)
の4旗であったが、ヌルハチの統一事業の進展によって旗人の数が増えたため、各色に縁取り(「{{lang|zh|鑲}} (金+襄)」ショウ)のある4旗が加えられ、[[1615年]]に
・'''正黄'''(ᡤᡠᠯᡠ ᠰᡠᠸᠠᠶᠠᠨ, gulu suwayan)
・'''{{lang|zh|鑲}}黄'''(ᡴᡠᠪᡠᡥᡝ ᠰᡠᠸᠠᠶᠠᠨ, kubuhe suwayan)
・'''正白'''(ᡤᡠᠯᡠ ᡧᠠᠩᡤᡳᠶᠠᠨ/ᡤᡠᠯᡠ ᡧᠠᠨᠶᠠᠨ, gulu šanggiyan/gulu šanyan)
・'''{{lang|zh|鑲}}白'''(ᡴᡠᠪᡠᡥᡝ ᡧᠠᠩᡤᡳᠶᠠᠨ/ᡴᡠᠪᡠᡥᡝ ᡧᠠᠨᠶᠠᠨ, kubuhe šanggiyan/kubuhe šanyan)
・'''正紅'''(ᡤᡠᠯᡠ ᡶᡠᠯᡤᡳᠶᠠᠨ, gulu fulgiyan)
・'''{{lang|zh|鑲}}紅'''(ᡴᡠᠪᡠᡥᡝ ᡶᡠᠯᡤᡳᠶᠠᠨ, kubuhe fulgiyan)
・'''正藍'''(ᡤᡠᠯᡠ ᠯᠠᠮᡠᠨ, gulu lamun)
・'''鑲藍'''(ᡴᡠᠪᡠᡥᡝ ᠯᠠᠮᡠᠨ, kubuhe lamun)
の8旗が整備された。
八旗は、ヌルハチが支配する[[後金]](清の前身)に属するすべての構成員が編成された軍事・行政組織であった。このため、後金に服属したモンゴル人や投降した漢人将兵も、女真人同様に八旗に編入された。ホンタイジの時代、八旗内のモンゴル人集団と漢人集団をそれぞれ分離して独自の[[ニル (八旗制度)|ニル]]に組織し、かつこのニルをそれぞれグサ・ジャランに編成した結果、八旗各旗の内部は満・蒙・漢の三グサ編成となり、これが'''八旗満洲'''・'''八旗蒙古'''・'''八旗漢軍'''(「ujen cooha/烏真超哈」<ref>「重い兵」の意。漢人の中でも火器の扱いに長けたものを集めた専門の砲兵部隊として編成されたことによる。</ref>ともいう)となった<ref>杉山清彦「大清帝国の支配構造 【マンジュ(満洲)王朝としての】」134-137頁。(岡田英弘編2009所収)</ref> 。
▲八旗に属する旗人たちは、平時は農耕・狩猟に従事しつつ要地の警備や兵役にあたった。要地の警備のために特定の場所に集団で移住させられた八旗を[[#駐防八旗(seremšeme tehe jakūn gūsa)|駐防八旗]]という。また、清が入関して[[万里の長城]]以南の全中国を支配するようになると、数多くの旗人が新たに首都となった[[北京市|北京]]へと移住させられ、北京の内城は旗人の街になった。こうした北京に住まう八旗を[[八旗#禁旅八旗|禁旅八旗]]という。
旗人には'''旗地'''と呼ばれる農地が支給されるなど、さまざまに優遇された。また旗人は、清の官制の特色である満漢偶数官制によって被支配民族である漢人とは別枠で同数のポストに就くことができ、相対的に人口が少ない旗人は清朝一代を通じて官僚の地位を世襲した。
しかし、旗人の人口が増大するとともに、支給される土地の窮乏や貧困が慢性化した。特に旗人の中核を占める満洲人は[[満
== 八旗の編成 ==
八旗制による基本的な編成形体は、有事の際に兵士となる成年男子300人を供出しえる集団を'''[[ニル (八旗制度)|ニル]]'''(niru、「矢」の意)とし、5ニルを'''ジャラン'''(jalan、1500人)とし、5ジャランを'''グサ'''(gūsa、25ニル、7500人)とするものである。各グサは、
各ニルにはニル・イ
▲新たに「満洲」という民族名で呼ばれるようになった女直人は、みな8個のグサ(旗)のうちいずれかの旗に所属させられたので、八旗は軍事組織であると同時に社会組織・行政組織であった。
各旗の内部は満洲・蒙古・漢軍グサと、奴僕で家政を担う下級旗人のボーイ(
▲各ニルにはニルイ・ジャンギン(nirui janggin、佐領)、各ジャランにはジャラニ・ジャンギン(jalani janggin、参領)、そして各グサにはグサイ・エジェン(gūsai ejen、都統)が司令官として任じられ、グサイ・エジェンの下には副司令官として2人のメイレン・ジャンギン(meiren janggin、副都統)が任命され統括された(それらは八旗官と呼ばれる)。各グサにはさらにその上に、清朝の皇族である[[愛新覚羅氏]]の旗王が置かれ、'''グサイ・ベイレ'''(gūsai beile)、省略して'''ベイレ'''(beile、貝勒)と呼ばれた。皇帝自身は正黄旗・{{lang|zh|鑲}}黄旗・正白旗3旗の王で、八旗による社会組織は、皇帝の領する3旗(dergi ilan gūsa、'''上三旗''')と諸王の領するその他の5旗(fejergi sunja gūsa、'''下五旗''')による部族連合国家という側面もある。下五旗の各旗の旗王は1人ではなく複数人おり、その中では爵位を元に序列が存在し、最も爵位の高い旗王が旗全体を代表していた。
▲各旗の内部は満洲・蒙古・漢軍グサと、奴僕で家政を担う下級旗人のボーイ({{lang-mnc|ᠪᠣᠣᠢ}} 転写:booi、漢語:包衣)に分かれる。各旗王にはそれぞれの隷下に満洲・蒙古・漢軍ニルとボーイニルが与えられた。編成上は満洲・蒙古・漢軍は同旗の同種グサが集まって八旗満洲・八旗蒙古・八旗漢軍を構成する。これに対しボーイは各旗王に直属し、上三旗の場合は皇帝の内務府、下五旗の場合は各旗王の王府を構成した。
八旗の構造は元々満洲人に存在した部族(氏族)における族長と構成員の主従関係である主(ベイレ)と大臣(アンバン)と民(ジュシェン)、家(ボー)における主僕の関係である主(エジェン)と奴僕(アハ)の関係をそのまま発展させたものである。
八旗官はかつては家臣・領民を従えて割拠していた大小の領主(アンバンやベイレ)であり、それが八旗制の元に所領はニルという形に、領主という地位はジャンギン職という形に置き換えられて再編成されたものであり、領主の連合という側面も有していた。
[[ファイル:Албазинцы на литургии.jpg|thumb|オロス・ニルでの[[正教会]]の[[奉神礼]]。編入された各民族はその言語や宗教などアイデンティティを維持することが求められ、出身地への案内役や交渉でも通訳や仲介役などの役割を求められた。]]
八旗は実際には満・蒙・漢人に限っていたわけではなく、ニルに編成されいずれかの旗に属するという基準さえ満たせばあらゆる帰順者が編入された。八旗満洲にも[[エヴェンキ]]、[[オロチョン]]、[[ダウール]]等の満洲人以外の北方民族(新満洲人)が編入された他、
ボーイは戦争捕虜や拉致、困窮による身売りにより満洲人の元に連れてこられ仕えた漢人、高麗・朝鮮人が元になっており、主人が狩猟、交易、戦争を担うのに対し、家政、農業、牧畜を担い、どちらが欠けても生活が成立しえない関係であったため、上下関係は身分の差は厳格であるが親密な物であった。
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清初期に部隊ごと投降した明の武将[[孔有徳]]・[[耿仲明]]・[[尚可喜]]の集団も、八旗と同形式の組織に再編された上で天祐兵・天助兵という独立した軍団として従属し、彼らは三順王と呼ばれ旗王と同格に扱われた。後に[[呉三桂]]が加わって孔有徳が戦死して脱藩し、三藩となったが、[[三藩の乱]]後はこれらの漢人軍団は解体され八旗漢軍に編入された。
{{wide image|The Grand Review - No.3 - Reviewing Battle Formation cropped center.jpg|3000px|乾隆帝の観覧閲兵のために編成された八旗軍。左翼は閲覧者の右側、右翼は右側に描かれている。}}
=== 各八旗の概要 ===
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前鋒、護軍、驍騎、親軍、歩兵は、八旗佐領の下から選抜され、人数は、時代によって変化している。乾隆帝時代、驍騎3万4000、護軍1万5000、前鋒1700、歩軍2万1000、親軍1700、健鋭兵2000、火器営兵6000、虎槍営兵600、及び藤牌兵(kalkangga cooha)等、計約9万人がいた。
こ
[[紫禁城]]外の周囲は、下五旗護軍が守衛した。紫禁城外から皇城以内は、満洲八旗歩軍が守衛し、皇城外から大城以内は、満洲、蒙古、[[漢軍八旗]]歩軍が守衛した。大城外は、五城巡捕営からの1万の[[緑営]]兵が守衛、巡邏した。
== 駐防八旗(seremšeme tehe jakūn gūsa)<ref>https://qingarchives.npm.edu.tw/index.php?act=Display/image/31747C02jSRs#7bC</ref> ==
[[File:China; Manchu soldiers, 1869, by John Thomson Wellcome L0056535.jpg|300px|thumb|広州の駐防旗兵(1869年)]]
駐防八旗は、清の入関後、各地の反清運動を鎮圧し、統制を強化するために派遣された八旗である。駐防八旗は、畿輔駐防、東三省駐防、各省駐防、新疆駐防の4系統に分けることができる。
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'''新疆駐防'''は、西域兵とも称され、[[ジュンガル]]部、[[ウイグル]]部の征服後に設置された。兵数は1万5000人で、[[イリ将軍]]が統括した。
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== 参考文献 ==
*岡田英弘編『清朝とは何か』藤原書店、2009年
== 関連項目 ==
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* [[旗本]]
* [[国民皆兵]]
* [[屯田兵]]
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