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{{複数の問題
{{出典の明記|date=2013年4月}}
|独自研究=2015年2月
'''本姓'''(ほんせい)は、{{要出典範囲|[[明治]]以前の[[日本]]において、「[[氏]](うじ)」のこと|date=2012年4月}}。[[名字]](苗字)とは異なる「もとの[[姓]]」という意味である。単純に'''姓'''とも言うが、「[[カバネ|姓(かばね)]]」のことではない。
|出典の明記=2013年4月}}<!--源(氏)は足利(名字)の本姓だが、土師(氏)は菅原(氏)の本姓であるし、佐々木(名字)は六角(名字)の本姓と表現されるはず。「氏 対 名字」のみの解説としたことに十分な根拠がない。-->
'''本姓'''(ほんせい)は、{{要出典範囲|[[明治]]以前の[[日本]]において、'''[[氏]]'''うじ同族血縁集団」のこと|date=2012年4月}}を示す氏族名を指す[[名字]](苗字)とは異なるもと本来[[姓]]」という意味である。単純に'''姓'''(せい)とも言うが、。古代の「[[カバネ|姓(かばね)]]」のことではない。
 
[[明治]]時代以降に家族集団名である「[[名字]](苗字)」や「[[家名]]」のことを「氏」と呼ぶことが広まったために、これと区別の目的で「本姓」が用いられるようになった。中世以降、一般には、[[姓]]が氏と同じ意味を指すように変化しているため、「本来の氏」のことを「本来の姓」つまり「本姓」と表現した。
 
== 概要 ==
[[ファイル:源平藤橘 源平名頭絵本武者部類 葛飾北斎 genpeitokitsu by Hokusai.jpg|thumb|260px|[[葛飾北斎]]『源平名頭 絵本武者部類』より源平藤橘の図([[貞純親王]]・[[葛原親王]]・[[天児屋命]]・[[橘諸兄]])]]
本姓は文字通り「本来の姓」を意味する。[[鎌倉時代]]前後より公卿や武士の間においても名字が普及し、それまでの氏を中心とした人名呼称に大きな変化が見られた。
「本姓」は文字通り「本来の[[姓]]」あるいは「本来の[[氏]]」を意味する。
 
例えば、平安時代までであれば[[藤原道長]]、[[菅原道真]]など、[[諱]]を中心とした人名が多く見受けられ、の間には「ふじわら-の-みちなが」「すがわら-の-みちざね」など「の」を入れた人名が主流であった。代表的な[[源氏]]・[[平氏]]・[[藤原氏]]・[[橘氏]]は「'''源平藤橘'''」(四姓)と総称されている<ref>『国史大辞典』([[吉川弘文館]])四姓項。</ref>
 
本姓は文字通り「本来の姓」を意味する。[[鎌倉時代]]前後より[[公卿]][[武士]]の間において名字(苗字)」や「家名」が普及し、それまでのを中心とした人名呼称に大きな変化が見られた。
しかし、藤原氏は[[藤原南家]]や[[藤原北家]]などに分かれ、[[清和源氏]]では[[源頼光]]の子孫が[[摂津源氏]]となり、そこから[[美濃源氏]]、[[河内源氏]]、さらに[[甲斐源氏]]などが分かれるといったように、共通の先祖を持つ同族のうちでも系統分化した支族それぞれに微妙な血族意識が生まれ、さらに平安時代末期に至ると[[知行]]や[[荘園 (日本)|荘園]]など所領する土地の[[地名]]を名字として新たな血族単位が生まれた。
=== 家名 ===
しかし、例えば藤原氏は[[藤原南家]]や[[藤原北家]]などに分かれ、「家」が意識されるようになる。また、[[清和源氏]]では[[源満仲]]の長男・[[源頼光]]の子孫がからは[[摂津源氏]]となりそこ次男・[[源頼親]]から[[美濃大和源氏]]、三男・[[源頼信]]からは[[河内源氏]]、さらに河内源氏から[[甲斐石川源氏]]などが分かれるといったように、共通の先祖を持つ同族のうちでも系統分化した支族それぞれに微妙な血族意識が生まれさらに平安時代末期に至ると[[知行]]や[[荘園 (日本)|荘園]]など所領する土地の[[地名]]を名字として新たな族単位が生まれた。
 
[[清和源氏]]では[[源義国]]を祖とする[[新田氏]]、[[足利氏]]、[[源義光]]を祖とする[[佐竹氏]]、[[武田氏]]が著名である。[[桓武平氏]]などでも[[北条氏]]をはじめ、[[大庭氏]]、[[三浦氏]]、[[土肥氏]]、[[長崎氏]]などさまざまな名字が派生し、その「名字」が子孫に引き継がれることにより、氏に代わる血族呼称として広まった。
 
名字は[[嫡男]]にのみ受け継がれ、庶子は別の名字を称して[[庶家]]として派生することも多く、例えば源氏一門の足利氏からは、[[斯波氏]]や[[吉良氏]]などの庶家が派生し、平氏の流れを汲む[[豊島氏]]から[[葛西氏]]が派生した。それによって名字は無数に広まっていったのである。この名字の出現は、氏族人口の拡大で、必ずしもだけでは個人の判別が難しい中、同氏族間の一族構成を区別する新たな単位として機能するとともに、名字をもって所領の支配権の正当性を称する大きな意味を持った。
 
とはいえ名字の出現は、古代から引き継がれたという氏族名称に取って代わったわけではない。朝廷より[[公的な文書においては官位]]を受ける際ととも[[諱]]を名乗らなけ」が記載さばならず、何より出身氏族を重んずる当時の名誉意識からして、は家柄の由緒を示す誇りであり続けた<ref group="注釈">しかし、とりわけ[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]と時代が下るにつれ、古代氏族の系譜に属さず氏素性の明らかでない[[武将]]が[[大名]]として台頭し、官位を望むに際して特定の氏族を詐称することも増え、ときには政治的意図をもって氏族名の変更を朝廷へ願い出ることもあり、氏族の由緒を示す呼称としての信用性を低下させた面もある。</ref>
 
[[明治]]3年(1870([[1870]])の平民苗字許可令、明治8年([[1875年]])の[[平民苗字必称義務令]]により、日本国民はみな公的に「名字(字)を持つことになった。その後に法令上、これによって姓(本姓)を「氏」名字・苗字の区別は失われ呼称した。
しかし、とりわけ[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]と時代が下るにつれ、古代氏族の系譜に属さず氏素性の明らかでない[[武将]]が[[大名]]として台頭し、官位を望むに際して特定の氏族を詐称することも増え、ときには政治的意図をもって本姓の変更を願い出ることもあり、本姓は氏族の由緒を示す呼称としての信用性を低下させた部分もある。
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* 本姓=苗字の代表的な家系
*本姓=苗字の代表的な家系 : {{要出典範囲|[[源義忠]]流源氏([[源義高 (左兵衛権佐)|源義高]]・[[源義清 (左京権大夫)|源義清]]及び[[源義雄]]の子孫)は現在も、源を苗字としており、[[江戸時代]]の資料等にも苗字が源であり、姓も源とある。|date=2009年9月}}
* 本姓→苗字の代表的な家系
*本姓→苗字の代表的な家系 : [[甲斐庄氏]]([[楠木正季]]の子孫)の一部は、[[明治維新]]または幕末に苗字を楠木へ戻し、その後、[[明治時代]]初期に橘を苗字とした。
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== 脚注 ==
[[明治]]3年(1870年)の平民苗字許可令、明治8年([[1875年]])の[[平民苗字必称義務令]]により、日本国民はみな公的に苗字(名字)を持つことになり、これによって姓(本姓)と名字・苗字の区別は失われた。
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
 
=== 出典 ===
*本姓=苗字の代表的な家系 {{要出典範囲|[[源義忠]]流源氏([[源義高 (左兵衛権佐)|源義高]]・[[源義清 (左京権大夫)|源義清]]及び[[源義雄]]の子孫)は現在も、源を苗字としており、[[江戸時代]]の資料等にも苗字が源であり、姓も源とある。|date=2009年9月}}
{{Reflist}}
*本姓→苗字の代表的な家系 [[甲斐庄氏]]([[楠木正季]]の子孫)の一部は、[[明治維新]]または幕末に苗字を楠木へ戻し、その後、[[明治時代]]初期に橘を苗字とした。
 
== 関連項目 ==
* [[本貫]]
* [[百姓]]
 
{{人名}}
 
{{DEFAULTSORT:ほんせい}}
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[[Category:日本の氏族|*ほんせい]]
[[Category:武士]]
[[Category:氏|*ほんせい]]