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{{Redirect|于闐|県|ケリヤ県}}
{{Infobox country
[[ファイル:Xiyu City-States of Tarim basin (BC1C).jpg|thumb|400px|[[紀元前1世紀]]の西域諸国。]]▼
|name = ホータン王国
'''ホータン王国'''([[ガンダーラ語]]:コータンナ、{{lang-en-short|Kingdom of Khotan}})は[[シルクロード]]の一つ[[シルクロード#シルクロードの起点と終点|西域南道]]沿いにあった仏教王国。[[タリム盆地]]の[[タクラマカン砂漠]]の南に位置する。現在では[[中華人民共和国]][[新疆ウイグル自治区]]にあたる。漢語では'''于闐'''(うてん)、'''于寘'''(うてん)、'''於闐'''。'''コータン王国'''とも書かれる。▼
|native_name = 于闐
|conventional_long_name = Kingdom of Khotan
|common_name = Kingdom of Khotan
|status = 王国
|government_type = 君主制
|year_start = 56
|year_end = 1006
|event1 = ヤルカンドの侵攻により併合
|date_event1 = 56
|event2 = チベットからの侵攻により征服
|date_event2 = 670
|event3 = イスラム化
|date_event3 = 1006
|event_pre = 成立
|date_pre = 紀元前3世紀
|event_post = [[イスラム化]]され消滅
|date_post =
|image_map = Kingdom of Khotan.png
|image_map_caption = 西暦1001年ごろの領土
|capital = [[ホータン市]]
|national_motto =
|national_anthem =
|common_languages = 3-4世紀: [[ガンダーラ語]]<ref >{{cite web |url = http://www.silk-road.com/newsletter/vol2num2/oasis.html |title = Archaeological GIS and Oasis Geography in the Tarim Basin |publisher = The Silk Road Foundation Newsletter |access-date = 2007-07-21 |archive-url = https://web.archive.org/web/20070927032739/http://www.silk-road.com/newsletter/vol2num2/oasis.html |archive-date = 27 September 2007 |url-status = dead}}</ref>, [[コータン語]] <ref >{{cite web |url=http://linguistlist.org/forms/langs/LLDescription.cfm?code=xsk |title=The Sakan Language |publisher=The Linguist |access-date=2007-08-02 }}</ref>
|religion = [[仏教]]
|
|leader1 = Yulin: Jianwu period (25–56 AD)
|leader2 = Nanzongchang (last)
|year_leader1 = c. 56
|year_leader2 = 969
|title_leader =
|today = [[中国]]<br>[[新疆ウイグル自治区]]
}}
▲'''ホータン王国'''([[ガンダーラ語]]:コータンナ、{{lang-en-short|Kingdom of Khotan}})は[[シルクロード]]の一つ[[
ホータン王国の首都は現在の[[ホータン市]]にあたる。[[漢]]
▲ホータン王国の首都は現在の[[ホータン市]]にあたる。[[漢]]、[[唐]]代の中国では「<span lang=zh-cn>于窴</span>」として知られていた。[[オアシス]]沿いにあり、植えられていた[[クワ]]による[[絹]]および[[絹織物]]、その他[[ヒスイ|軟玉]]、[[硬玉]](共にヒスイの一種)および[[陶磁器]]を輸出していた。
==
=== 前漢の時代 ===
[[Image:Hotan bm.jpg|thumb|right|150px|ホータンで発掘されたマスク。7-8世紀。]]▼
伝説によると、インドの仏教徒皇帝[[アショーカ]]の長男が、[[紀元前3世紀]]初めに国の基礎を建てたという。しかしながら、これより数世紀前から[[月氏]]による中国(現在の中国でなく[[西域]]を除く地域)との軟玉、硬玉の[[貿易]]があったことが知られている。ホータンで産出する玉は「禺氏の玉」と呼ばれ、貴重な上あまり産出しない中国では珍重された。これが[[和田玉]]である。この禺氏は月氏のことである。▼
中国の漢代にホータンを含む西域諸都市は、時には漢に服属し、時には匈奴に貢納し、時には独立して互いに攻伐したが、直接外国に統治されたことはなかった。[[1世紀]]に作られた『[[漢書]]』によれば、于
その後、ホータン王国は仏教とりわけ[[大乗仏教]]の中心地のひとつとなった。(これに対して砂漠の反対側にある[[亀茲国]]は[[縁覚]]系の仏教王国だった。)中国の僧[[法顕]]が、[[5世紀]]始めにホータン王国にある大小14の僧院を訪れている<ref>Silkroads foundation [http://www.silk-road.com/artl/fahsien.shtml Travels of Fa-Hsien - Buddhist Pilgrim of Fifth Century By Irma Marx], 2007-08-02 access</ref>。文化交流により、[[中国語]]、[[サンスクリット語]]、[[プラークリット語]]、[[チベット語]]などが使われていた。▼
[[太初 (漢)|太初]]3年([[紀元前102年]])に前漢の[[李広利]]が[[大宛]]に遠征してから、西域諸国は漢に服属していたが、[[王莽]]が[[新]]([[8年]]-[[23年]])を立てると離反して[[匈奴]]に属した<ref>『後漢書』西域伝第78、冒頭部。吉川忠夫訓注『後漢書』第10冊193頁。李広利については注1。</ref>。諸国が匈奴に属する中、タリム盆地の西部に位置する莎車国(現在の[[ヤルカンド県]])だけが漢に通じ、近隣諸国を破って服属させた<ref>『後漢書』西域伝第78、莎車国条。吉川忠夫訓注『後漢書』第10冊227-229頁。</ref>。▼
[[Image:British_Museum_silk_princess_painting.jpg|thumb|450px|right|カイコの伝来を伝える絵画、[[ダンダン・ウィリク]]出土]]▼
ホータンは、中国外で[[絹]]が生産された初めての場所だった。[[考古学]]者の発掘作業で発見された壁画には、ホータン王に嫁いで来た中国の王女が、髪の中に[[カイコ]]の卵を隠していたと記されており、[[1世紀]]頃の出来事と見られる<ref>Hill, John E. 2003. "Annotated Translation of the Chapter on the Western Regions according to the ''Hou Hanshu''." 2nd Edition. Appendix A. [http://depts.washington.edu/silkroad/texts/hhshu/hou_han_shu.html#a]</ref> 。▼
=== 後漢の時代 ===
[[File:1世紀のタリム盆地.png|400px|thumb|1世紀のタリム盆地]]
莎車国王の賢は[[建武 (漢)|建武]]
[[永建 (漢)|永建]]2年([[127年]])、[[班勇]]の勇戦によって于寘を含めた西域諸国は漢に従った。永建6年([[131年]])、于寘王の[[放前]]は息子の一人を遣わして漢に朝貢した。[[元嘉 (漢)|元嘉]]2年([[152年]])、放前は、漢から派遣された官吏の[[王建 (後漢)|王建]]と拘弥王
[[Image:KingGurgamoyaKhotan1stCenturyCE.jpg|thumb|right|250px|ホータン王Gurgamoyaの硬貨。1世紀。表面:[[カローシュティー文字]]で「偉大なる王、ホータンの王、Gurgamoya」。裏面:中国語で「重廿四銖銅銭」(24銖銅銭,写真下部の文字が「銅」)]]▼
▲中国の漢代にホータンを含む西域諸都市は、時には漢に服属し、時には匈奴に貢納し、時には独立して互いに攻伐したが、直接外国に統治されたことはなかった。[[1世紀]]に作られた『[[漢書]]』によれば、于闐の王は西城におり、3千3百戸、人口1万9300人、兵士2400人がいた。また輔国侯、左右の将、左右の騎君、東西の城長、訳長がいた<ref>『漢書』西域伝第66上。ちくま学芸文庫版『漢書』8、60頁</ref>『[[後漢書]]』によれば、于寘国は西城に居り、3万2千戸、人口8万3千、兵士3万人余を支配していた<ref>『後漢書』西域伝第78、于寘国条。吉川忠夫訓注『後漢書』第10冊207-208頁。</ref>。
[[8世紀]][[チベット]]の仏教史『ホータン国授記』({{lang-en-short|''The Prophecy of the Li Country''}},{{lang-zh-short|于闐國授記}})には、[[クシャーナ朝]]の[[カニシカ1世]]がインド中部の都市の[[アヨーディヤー]]を攻めたとき、ホータン王が助力したと書かれている。これが本当であれば、西暦[[127年]]の出来事なので、
▲[[太初 (漢)]]3年([[紀元前102年]])に前漢の[[李広利]]が[[大宛]]に遠征してから、西域諸国は漢に服属していたが、[[王莽]]が[[新]]([[8年]]-[[23年]])を立てると離反して[[匈奴]]に属した<ref>『後漢書』西域伝第78、冒頭部。吉川忠夫訓注『後漢書』第10冊193頁。李広利については注1。</ref>。諸国が匈奴に属する中、タリム盆地の西部に位置する莎車国(現[[ヤルカンド県]])だけが漢に通じ、近隣諸国を破って服属させた<ref>『後漢書』西域伝第78、莎車国条。吉川忠夫訓注『後漢書』第10冊227-229頁。</ref>。
▲莎車国王の賢は[[建武 (漢)|建武]](西暦25-[[56年]])の終わりごろ、于寘王の兪林を<span lang=zh-cn>驪歸王</span>に更迭し、弟の位侍を于寘王とした。しかし賢は諸国の反乱を疑い、一年余り後に[[拘弥]]、[[姑墨]]、[[子合]]の王とともに[[位侍]]を呼び寄せてみな殺した。王を失った于寘には将を派遣した<ref>『後漢書』西域伝第78、莎車国条。吉川忠夫訓注『後漢書』第10冊233頁。</ref>。永平3年([[70年]])に将の[[君得]]が大人(有力者)の[[都末]]とその兄弟に殺された。大人の[[休莫覇]]が漢人の[[韓融]]ともに都末兄弟を殺し、自ら于寘王になった。休莫覇は莎車との戦いで死んだが、翌年その甥[[広徳 (于闐王)|広徳]]が賢を殺した<ref>『後漢書』西域伝第78、莎車国条。吉川忠夫訓注『後漢書』第10冊234-235頁。</ref>。広徳は子を匈奴に人質として送り<ref>『後漢書』西域伝第78、莎車国条。吉川忠夫訓注『後漢書』第10冊235頁。</ref>、漢にも子を送って仕えさせつつ<ref>『後漢書』西域伝第78、冒頭部。吉川忠夫訓注『後漢書』第10冊194頁。</ref>、盆地の中南部にある[[精絶]]から、西端の[[疏勒]]まで、13国を従えた<ref>『後漢書』西域伝第78、于寘国条。吉川忠夫訓注『後漢書』第10冊208頁。</ref>。結局西域は漢の[[班超]]が服属させるところとなったが、于寘はタリム盆地の南の諸都市の中で大国とされた。
}}
<!--ホータンから天山南路を西に進むと、[[グマ県|グマ]]、[[
=== イスラム化 ===
▲永建2年([[127年]])、[[班勇]]の勇戦によって于寘を含めた西域諸国は漢に従った。永建6年([[131年]])、于寘王[[放前]]は息子の一人を遣わして漢に朝貢した。[[元嘉]]2年([[152年]])、放前は、漢から派遣された官吏の[[王建]]と拘弥王[[成国]]の臣下に謀殺された。于寘の侯・将の[[輸ホン|輸僰]]が兵を集めて王建らを殺した。輸僰は自ら王になろうとしたため殺され、放前の子[[安国]]が王位を継いだ。漢の[[桓帝 (漢)|桓帝]]は于寘への攻撃を許さなかった<ref>『後漢書』西域伝第78、冒頭部。吉川忠夫訓注『後漢書』第10冊209-211頁。</ref>。
[[11世紀]]の
11世紀のトルコの学者
[[Image:Tarimbecken 3. Jahrhundert.png|thumb|right|300px|[[3世紀]]の[[タリム盆地]]。Kashgar=[[疏勒]],Kuqa=[[亀茲]],Karaxahr=[[焉耆]],Turfan=[[高昌]],Hotan='''於闐''',Shanshan=[[鄯善]]]]▼
{{Quote|
▲[[8世紀]][[チベット]]の仏教史『ホータン国授記』({{lang-en-short|''The Prophecy of the Li Country''}},{{lang-zh-short|于闐國授記}})には、[[クシャーナ朝]]の[[カニシカ1世]]がインド中部の都市[[アヨーディヤー]]を攻めたとき、ホータン王が助力したと書かれている。これが本当であれば、西暦[[127年]]の出来事なので、中国人[[班超]]の息子[[班勇]]がホータンを屈服させたとされる年と同じになる。
==文化==
▲:「Li(ホータン)の統治者Vijaya Krīti王がアーリア文殊(Ārya Mañjuśrī)の像を建てた後、伝道者Spyi-priと呼ばれたホータンの住民Arhatが、信心深い友人のためにSru-ñoの[[精舎]](vihāra)を建てた。Vijaya Krīti王はカニシカ1世に助力して、亀茲王らと共にインドに侵攻し、So-ked(Saketa)を占領した。Vijaya Krīti王は多くの奴隷を得て、Sru-ñoの[[卒塔婆]](stūpa)に置いた<ref>Emmerick, R. E. 1967. ''Tibetan Texts Concerning Khotan''. Oxford University Press, London, p. 47.</ref> 。」
▲[[Image:KingGurgamoyaKhotan1stCenturyCE.jpg|thumb|right|250px|ホータン王Gurgamoyaの硬貨。1世紀。表面:[[カローシュティー文字]]で「偉大なる王、ホータンの王、Gurgamoya」。裏面:中国語で「重廿四銖銅銭」(24銖銅銭,写真下部の文字が「銅」)]]
▲<!--ホータンから天山南路を西に進むと、[[グマ県|グマ]]、[[家城]]([[:en:Karghalik|en]])、[[:en:Shahidulla|en]]を経由して、Dereに到着する。<ref>Hill, John E. 2003. "Annotated Translation of the Chapter on the Western Regions according to the ''Hou Hanshu''." 2nd Edition. [http://depts.washington.edu/silkroad/texts/hhshu/hou_han_shu.html]</ref>-->
▲[[Image:Hotan bm.jpg|thumb|right|150px|ホータンで発掘されたマスク。7-8世紀。]]
▲[[11世紀]]の始めに、イスラムの侵攻を受けてその支配下に入った。[[1271年]]から[[1275年]]の間にホータンを訪れた[[マルコ・ポーロ]]は、ホータンの人々は、皆マホメットの信奉者であると報告している。
▲伝説によると、インドの仏教徒皇帝[[アショーカ]]の長男が、[[紀元前3世紀]]初めに国の基礎を建てたという。しかしながら、これより数世紀前から[[月氏]]による中国(現在の中国でなく[[西域]]を除く地域)との軟玉、硬玉の[[貿易]]があったことが知られている。ホータンで産出する玉は「禺氏の玉」と呼ばれ、貴重な上あまり産出しない中国では珍重された。これが[[和田玉]]である。この禺氏は月氏のことである。
▲
▲11世紀のトルコの学者、ムハマド・カシュガリ([[:en:Mahmud al-Kashgari|en]])は、著書''Diwanu Lughat at-Turk''の中で、ホータンへのイスラム教伝道について次のように述べている。
▲ホータンは、中国外で[[絹]]が生産された初めての場所だった。[[考古学]]者の発掘作業で発見された壁画には、ホータン王に嫁いで来た中国の王女が、髪の中に[[カイコ]]の卵を隠していたと記されており、[[1世紀]]頃の出来事と見られる<ref>Hill, John E. 2003. "Annotated Translation of the Chapter on the Western Regions according to the ''Hou Hanshu''." 2nd Edition. Appendix A. [http://depts.washington.edu/silkroad/texts/hhshu/hou_han_shu.html#a]</ref>
▲:”川が物を押し流すように、
▲[[Image:British_Museum_silk_princess_painting.jpg|thumb|450px|
▲:我々は都市に押し寄せた。
{{clearleft}}
▲:我々は仏僧院を破壊した。
▲:葉の上に立っているブッダの彫像も。”<ref>Shuyun, Sun. ''Ten Thousand Miles Without a Cloud'', HarperPerennial, 2004</ref>
==年表==
▲[[Image:Tarimbecken 3. Jahrhundert.png|thumb|right|300px|[[3世紀]]の[[タリム盆地]]。Kashgar=[[疏勒]],Kuqa=[[亀茲]],Karaxahr=[[焉耆]],Turfan=[[高昌]],Hotan='''
*
*[[60年]]
*[[61年]]: 王位を継いだ休莫
*[[78年]]:
*[[105年]]: 西域が征服され、ホータンも独立を失った。
*[[127年]]: ホータン王の放前(Vijaya Krīti)が
*[[127年]]:
*[[129年]]:
*[[131年]]: 放前
*[[132年]]:
*[[175年]]: ホータン王の安国が突然、拘
*[[399年]]:
*[[632年]]: ホータン、唐の威光に服して属国になる。
*[[644年]]: 唐の巡礼僧の[[玄奘三蔵]]が7
*[[670年]]: [[チベット]]系の[[吐蕃]]が侵入し、ホータンを含む唐の安西四鎮を征服する。
*[[670年]] - [[673年]]: ホータンは吐蕃の属国となる。
*[[674年]]: ホータン王の伏闍雄(Vijaya Sangrāma IV)と一族がチベットに反旗を翻すが失敗、
*[[
*[[692年]]:
*[[725年]]:
*[[728年]]:
*[[736年]]: 伏闍達(Vijaya Vāhana the Great)が
*[[740年]]: 尉遅珪(Btsan-bzang Btsan-la Brtan)が伏闍達に代わって王位につき、仏教の迫害を始める。ホータンの仏教僧は、
*[[740年]]:
*[[746年]]:
*[[756年]]: [[尉遅勝]]は政権を弟の尉遅曜(Viśa Vāhaṃ)に譲る。
*[[786年]]
*[[912年]] - [[966年]]: [[尉遅
*[[961年]]:
*[[965年]]: ホータン僧の[[善名]]らが来訪し、ホータンの宰相からの通商を求める手紙を
*[[967年]] - [[977年]]: [[尉遅
*[[969年]]: 王の
*[[971年]]: 仏教僧
*[[978年]]? - [[985年]]?: [[尉遅達磨]]が王となる。年号を[[中興 (于闐)|中興]]とする。
*[[986年]]? - [[999年]]?: [[尉遅僧伽羅摩]]が王となる。年号を[[天興 (于闐)|天興]]とする。
*[[983年]]? - [[1006年]]?: 異説。[[尉遅僧伽羅摩]]が王となる。年号を[[天寿 (于闐)|天寿]]とする。
*[[1006年]]: ホータン、イスラムのYūsuf Qadr Khānに征服される。Yūsuf Qadr KhānはKāshgarとBalāsāghūnのイスラム君主の兄弟あるいは従兄弟と言われる
*[[1271年]]
== 関連項目 ==
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*[http://vajaratnayana.sulekha.com/blog/post/2004/09/end-of-the-indic-kingdom-of-khotan.htm Discussion on Sulekha.com]
*[http://www.buddhistchannel.tv/index.php?id=4,1888,0,0,1,0 Smallest ancient temple discovered]
*Read More on [https://skylerkitchens.com/ skylerkitchen.com]
{{DEFAULTSORT:ほたんおうこく}}
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[[Category:中央ユーラシアの歴史的地域]]
[[Category:新疆ウイグル自治区の歴史]]
[[Category:ホータン地区]]
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