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ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄 3510

2021-06-18 18:15:12 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

3000 窮屈な「貧弱な思想家」

3500 日本近代知識人のエゴイズム

3510 いけない「イゴイスト」

3511 つるしあげ

 

Sは「イゴイスト」なのか。

 

<近代知識人のエゴイズムの問題を追究した作品。

(『日本国語大辞典』「こころ」)>

 

「近代」と「知識人」と「エゴイズム」の関係が不明。「エゴイズムの問題」は意味不明。こういう「問題」の使い方は「問題」だ。「追究した」結果、どんな答えが出たのか。

「エゴイズム」は〈利己主義〉と同じ意味か。

 

  • <自己の利害だけを行為の基準とし、社会一般の利害を念頭に置かない考え方。主我主義。自己主義⇔利他主義。
  • 人間の利己心から出発して道徳の原理や観念を説明しよとする倫理学の立場。必ずしも①の意味での利己主義を主張するものではない。

(『広辞苑』「利己主義」)>

 

さらにわからなくなった。

 

<近代知識人のエゴイズムが自己否定に向かう過程を描いた作品。

(『近現代文学事典』「こころ」)>

 

「近代知識人のエゴイズム」は意味不明。〈「エゴイズムが」~「に向う」〉は意味不明。「自己否定」は「自己自身のあり方を否定すること。⇒否定の否定」(『広辞苑』「自己否定」)とされ、『近現代文学事典』は誤用のようだ。ただし、『広辞苑』の説明も意味不明。

 

<形式論理では「Pでないことはない」のように肯定に戻る。二重否定。

(『広辞苑』「否定の否定」)>

 

日本近代文学研究者は、「自己否定」を〈自己批判〉と混同しているのだろうか。

 

<個人および政党などが自己の行為、方針、思想をみずから誤謬として反省すること。これが政治的意味をもつのはマルクス=レーニン主義の場合である。

(『ブリタニカ国際大百科事典』「自己批判」)>

 

「自白や過誤の告白が強制される場合は、自己批判の本来的な意味が失われ、「つるしあげ」に近くなる」(『ブリタニカ国際大百科事典』「自己批判」)という。

自己批判が済んだら、正しい生き方を始めることができるはずだ。「貧弱な思想家」は自己自身の「つるしあげ」を「自己否定」と呼ぶのかもしれない。

 

 

3000 窮屈な「貧弱な思想家」

3500 日本近代知識人のエゴイズム

3510 いけない「イゴイスト」

3512 エリート

 

本文に「エゴイズム」という言葉は出ていない。

 

<「イゴイストは不可(いけな)いね。何もしないで生きていようというのは横着な了簡(りょうけん)だからね。人は自分の有っている才能を出来るだけ働ら(ママ)かせなくちゃ嘘(うそ)だ」

私は兄に向って、自分の使っているイゴイストという言葉の意味が能(よ)く解るかと聞き返して遣(ママ)りたかった。

(夏目漱石『こころ』「中 両親と私」十五)>

 

「兄」が「イゴイスト」と疑っているのは、〈「何もしないで生きていよう」としているS〉だ。Pは、〈Sには「才能」がある〉と示唆したらしい。Pの空想するSは「すぐれた資質や技能をもち、社会や組織の指導的立場にある階層・人々」(『広辞苑』「エリート」)だろう。だから、「兄」はSの批判を始めたのだ。「兄」の発言は常識的なものだ。「才能」のあるエリートは社会貢献をすべきだ。なぜなら、ある人がエリートになれたのは、誰かによって「才能」や知識や技術を与えられたからだ。したがって、エリートは、その誰かに恩返しをしなくてはならない。その誰かは親だったり神だったりする。近代では、教育機関を創設した「国家社会」だろう。ただし、Sは「現代」の社会を嫌悪しているらしい。

「自分の使っている」は不要。「能(よ)く解るか」の「能(よ)く」は嫌味。「聞き返して」は〈言い返して〉の誤りか。そうではなくて、Pは「兄」の発言を質問と誤解したか。つまり、「不可(いけな)いね」が〈「不可(いけな)い」よ「ね」?〉と聞こえたか。結局、Pは聞き返さなかったようだが、その理由は不明。実際にPが聞き返した場合、当然、「兄」は〈一応「解る」よ〉などと答えたろう。その後、「兄」は〈じゃあ、御前こそ「自分の使っているイゴイストの意味が能(よ)く解るか」〉と「聞き返して」きたかもしれない。そのとき、Pはどのように対応したろう。語られるPは〈「聞き返して遣(や)り」たいよ〉と、頭の中にいるDに訴えたらしい。Dは〈わかるよ、その気持ち〉と応じたろう。このDを聞き手Qとして設定したのがP文書だ。

Pの考えでは、Sは「兄」の考える「イゴイスト」に該当しない。このことは確かだろう。では、P的意味ではどうなのか。

 

Ⅰ Pの考えでは、SはP的意味の「イゴイスト」だ。

Ⅱ Pの考えでは、SはP的意味の「イゴイスト」でもない。

 

語り手Pは、どちらを暗示しているのだろう。つまり、語り手Pにとって都合のいい聞き手Qは、どちらを選ぶのだろう。大雑把に考えると、Ⅱだろう。だったら、なぜ、語り手Pは、〈Sは「イゴイスト」ではない〉と明言しないのか。いや、語られるPは、なぜ、「兄に向って」このことを明言しなかったのか。「兄」に抗弁することが不道徳だからか。不明。

「イゴイスト」のP的意味を『私の個人主義』のN式個人主義と関連付けて説明する人がいる。その場合、〈P式イゴイスト=N式個人主義者〉ということになる。

『私の個人主義』そのものが意味不明だから、話がややこしくなるばかりだ。

 

 

3000 窮屈な「貧弱な思想家」

3500 日本近代知識人のエゴイズム

3510 いけない「イゴイスト」

3513 エゴチスト

 

〈エゴイズム〉の訳語らしい「自我主義」について確認する。

 

<実践的には自己とその目的の価値を強調する立場で、自己保存本能の自然の発露であり、人格性の発展にとって必須の態度である。積極的意味でいわれるときはegotismの語が用いられることがある。

(『ブリタニカ国際大百科事典』「自我主義(egoism)」)>

 

P的「イゴイスト」の意味は〈エゴチスト〉だろうか。

 

<フランスの作家スタンダールの用語。自我主義と訳され、倫理上、理論上の利己主義egoismではなく、作家が自己の肉体的、精神的個性を精密に研究し分析する態度をさす。

(『哲学事典』「エゴティスム」)>

 

中年Sに「綿密に研究し分析する態度」が認められるか。

 

<しかし、少く(ママ)ともスタンダールが『エゴチスムの回想』を書いているころには、前記のような用法は存在しなかったし、スタンダール自身も世間並に「自己についてのみ語る悪癖」、「悪しき自己中心癖」の意で用いていたはずである。

(冨永明夫「スタンダール『エゴチスムの回想』解題」)>

 

「遺書」は「自己についてのみ語る悪癖」の産物だろう。

 

<誰(だれ)にも解(と)けない謎(なぞ)を作りだすのが、わたしの大きな夢(ゆめ)だった。

しかし、どんな芸術家(げいじゅつか)も、芸術(げいじゅつ)それだけでは満足(まんぞく)できないのに、わたしは気づいた。とうぜん、ほかの人に認(みと)めてほしいと思うものではないか。

自分の頭のよさを、ほかの人にわからせたいという、いかにも人間らしいあさはかな願(ねが)い。正直に言えば、その願(ねが)いがわたしにもあったということだ。

(アガサ・クリスティー『そして誰(だれ)もいなくなった』)>

 

Kの死の「謎(なぞ)」は解けていない。『話虫干』(小路幸也)参照。

 

<深い考えでなされたことも、軽はずみな馬鹿げたことも、反省の時間にはおあつらえむきである。これらの主人公たちは、刺激的な生活には足を踏み入れず、ただ陰でごまかしをやるだけだ。

(エルンスト・ブロッホ『この時代の遺産』「第一部 塵埃」「ものを書くキッチュ」)>

 

Sは「キッチュ」か? 「キッチュ」に対する好悪などは別問題。

 

(3510終)


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