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歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪勝負師の教え~張栩氏の場合≫

2024-07-28 18:00:41 | 囲碁の話
≪勝負師の教え~張栩氏の場合≫
(2024年7月28日投稿)

【はじめに】


 7月26日、パリ五輪は、市中心部のセーヌ川を舞台に、開会式が行われた。花の都であり芸術の都でもあるパリで、100年ぶり3度目となるスポーツの祭典が開催された。
 火事からの再建が進むノートルダム大聖堂など、歴史的建造物のそばを船で行進し、トロカデロ広場に集結して開会宣言が行なわれた後は、レジェンドたちが聖火をつなぐ。最後は、ルーヴル美術館近くのチュイルリー公園に設けられた聖火台に、柔道同国代表のテディ・リネールが着火した。
 約4時間の大活劇は、難病のセリーヌ・ディオンさん(フランス語を母語とするカナダ出身の歌手)がエッフェル塔から熱唱し、最高潮に達した。エディット・ピアフのシャンソンの名曲「愛の讃歌」を力強く歌い上げる姿に大歓声が起こったそうだ。
(パリ五輪をきっかけに、タイムリーに、パリの歴史とか、7月3日の渋沢栄一を肖像とする新1万円札の発行を記念して、渋沢栄一とフランスとの関係などをテーマに、ブログ記事を書いてみたい気もする。しかし、当分は囲碁関連の記事を投稿する予定である)

 さて、今回のブログでは、張栩氏の勝負師としての教えについて、次の著作を参考にして考えてみたい。
〇張栩『勝利は10%から積み上げる』朝日新聞出版、2010年
 碁を芸の表現と見るか、勝負第一と見るか、棋士の考え方はさまざまである。そして、国によっても大いに異なる。
 秀行先生は、本のタイトル『勝負と芸』にもあるように、碁とは、勝負である前に創造であり芸術であると考えていた。そして、芸の幅を広げるには、人間の幅を広げなくてはならないとする。人間を磨いてこそ、一流の碁打ちに成長するという信念を持っておられた(藤沢秀行『勝負と芸―わが囲碁の道』岩波新書、1990年、38頁、164頁、171頁)。
 井山裕太氏は、「勝負と芸術の二兎を追って」(128頁~131頁)の中で、「囲碁に求めるのは勝負か芸術か?」と問われたら、「二兎を追います」と答えている。勝利を懸命に追い求めるなかで、盤上に自分らしさを表現したいと言い、勝負と芸術の二兎を求めることが究極の目標であるとする(井山裕太『勝ちきる頭脳』幻冬舎文庫、2018年、128頁~129頁)。

 さて、この張栩氏の著作を読むと、どうか?
「囲碁の国風」(223頁~224頁)において、日本では囲碁を「文化」「芸術」と捉え、中国と韓国では「スポーツ」として捉えているとする。この点は、日本人には意外に感じられる人が多いのではないかと思う。
 中国では、棋士は「体育局」という組織の中に組み込まれており、これは、スポーツのオリンピック選手たちとまったく同列に位置づけられていることを意味するそうだ。
 これは、単なる編成上だけの問題ではなく、その育成方法から国際大会における代表選手の選抜方法まで、スポーツ選手と同じシステムを採用している。全国各地から優秀な子供を北京に連れてきて、徹底した競争原理のもと、さらに優秀な者だけを国家チームに組み入れて、英才教育を施す。そして、情け容赦のない淘汰に次ぐ淘汰で、エリート中のエリートだけしか残れないという仕組みであるそうだ。
そして、韓国も、基本的には中国に近い感覚で、「スポーツ」として囲碁を捉えているらしい。
(張栩『勝利は10%から積み上げる』朝日新聞出版、2010年、224頁)

パリ五輪というスポーツの祭典に因んで記すわけではないが、碁の捉え方が、国によっても大いに異なることを思い知らされた著作が張栩氏の著作であった。

【張栩氏のプロフィール】
・1980年台湾生まれ。囲碁棋士。日本棋院東京本院所属。
・2009年、囲碁史上初の五冠(名人・十段・王座・天元・棋聖)獲得を達成。
 さらに史上最速、最高勝率で700勝、30タイトル獲得を達成。
※読みの深さ、正確さに裏打ちされた柔軟な発想と決断力が持ち味の最強棋士。

<プロフィールの補足>
・妻の泉美さんは、小林光一先生の娘であり、囲碁界のスター棋士を育てた木谷實先生の孫である。
 泉美さんのコラム「詰碁と張栩と私」(本書、141頁~147頁に再掲)は、『張栩の詰碁』(毎日コミュニケーションズ刊)に寄稿したものであったが、好評だったようだ。お二人の結婚前の恋愛の様子がわかる貴重なコラムでもある。交際初日、張栩さんがまず語ったのは、「地合いの正しい計算方法」であったという。また、初めての喧嘩は、詰碁が原因であったというのも、プロ棋士同士の恋愛ならではであろう。
(張栩『勝利は10%から積み上げる』朝日新聞出版、2010年、143頁、147頁、173頁)



【張栩『勝利は10%から積み上げる』(朝日新聞出版)はこちらから】
張栩『勝利は10%から積み上げる』(朝日新聞出版)





〇張栩『勝利は10%から積み上げる』朝日新聞出版、2010年
【目次】
まえがき
長い序章
 名人戦
 七歳半の重圧
 野良犬のような
 「囲碁、やめてもいいよ」
 敗者復活

1章 読みと感覚
 相手の最善手を考えることを習慣に
 「読み」と「感覚」
 直感は経験によって磨かれる
 勝負の嗅覚
 いい加減な碁は打たないという矜持
 不利はすぐさま取り返すものではない
 
2章 勝利は10%から積み上げる
 勝利は10%から積み上げていくもの
 プロならば勝ちを目指すべきです
 勝ちを目指すなら徹底的に
 勝負と覚悟
 真の負けず嫌いとは
 適切な目標設定

3章 勝ちきる力
 あたりまえのことができるのが本当の力
 あたりまえの継続が未来の力になる
 負けにくい技術
 金星狙いでは本物になれない
 言い訳をしない
 負けには必ず理由がある
 相手を尊敬することが勝ちにつながる

4章 効率を考える
 目的と手段はシンプルに考える
 時間を味方につける その1
 時間を味方につける その2
 先人の知恵に学ぶ
 脳の体力を鍛える
 脳の柔軟性と集中力を鍛える
 効率がいいと「美しい」
 詰碁について
 
5章 勝利の流れをつかむ
 ミスと向き合う
 どんな形勢でも「慌てず、奢らず」
 勝負の流れ
 成長するとは「変わること」
 尖った部分があっていい
 ライバルを持つこと
 緻密な準備が勝利を呼ぶ
 心技体の準備法
 ほんとうの自信は結果に左右されない
 とことん楽しむ

6章 支えられてきた道
 父について
 囲碁との出会い
 父の指導法
 義父三人
 師・林海峰
 勝てなくなった日本
 何が日本に足りないのか
 日本復権の条件
 日本碁界の長所と希望
 囲碁の「国風」
 教育としての囲碁
 「才能」は環境が育てる
 棋士としての責任感

あとがき




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


1章 読みと感覚
 「読み」と「感覚」
 直感は経験によって磨かれる

4章 効率を考える
 時間を味方につける その1
 先人の知恵に学ぶ
 脳の柔軟性と集中力を鍛える
 効率がいいと「美しい」
 
5章 勝利の流れをつかむ
 成長するとは「変わること」
 尖った部分があっていい

6章 支えられてきた道
 父の指導法
 師・林海峰
 日本碁界の長所と希望
 囲碁の「国風」






1章 読みと感覚

「読み」と「感覚」


・「部分的な判断」と「大局的な判断」、いずれの場合にも着手の決定は、「読み」と「感覚」に頼って行う。
 例えていうなら、「読み」は勝ちへ続く真っ暗な道を照らす懐中電灯、「感覚」は懐中電灯なしでも自在に暗闇の中を動ける力、という感じだという。

※しかし、「読み」を磨いて懐中電灯をいくら強力にしても、すべてが真昼のように明るくなることはない。勝ちへの道を進むには、「読み」と「感覚」、両方を備えなければならない。

・その二つを具体的にいうと、
 「読み」は、論理計算と、論理的思考によって予想図を組み立てること
 「感覚」は、理屈や論理に裏打ちされた「ひらめき」と、「直感・感性」
となる。
※「直感」は、パッと見ての第一感といってもいい。
 「ひらめき」と「直感」の違いについては、脳研究者の池谷裕二先生が著書で明快に説明されていたので、それを紹介している。
・「ひらめき」とは、後でどうしてそう考えたか理由を聞かれた時に説明できる思いつきのこと。
・「直感」とは、理由を聞かれても、「ただ何となく」としか答えようがない思いつきのこと。
というものである。

※考えに考えてポンッ!と生まれるのが「ひらめき」、考えずに一瞬で思いつくのが「直感」である。「感性」はその人の性格やセンス、棋風などのことである。
 囲碁の場合、時には「気合い」という要素も加わるという。
(張栩『勝利は10%から積み上げる』朝日新聞出版、2010年、33頁~36頁)

直感は経験によって磨かれる


・囲碁は、脳の体力、脳の柔軟性、脳のキレを競う勝負であるから、普通に考えると、若く、瞬発力と体力を恃(たの)める二十代が一番強いとされる。
 一方で、ベテラン棋士がとてつもない力を発揮されることがある。
 実際に七大タイトル本戦のトップレベルでも、50歳を超えたベテラン棋士が多く、リーグ入りして活躍されている。その棋士を見ていると、読みを深めるというよりも、直感を頼りに打っているだけで、石が絶好点に行くことが多いように見えるそうだ。つまり、年齢を重ねれば重ねるほど、直感だけで、魔法のように石がいいところに行くように見える。

・日本囲碁界の第一人者で現在95歳(ママ)の呉清源先生に接するとその思いは新たになる。
 「昭和の棋聖」と謳われ、現役棋士にとっては神様みたいな存在である。
 実戦の棋譜(手順の記録)を見ての呉清源先生のご高察は、一線で活躍するプロ棋士たちにとって、大いなる参考になっているそうだ。
 ベテラン棋士や呉清源先生の力は、まさしく直感によるものだ、と著者は考えている。
 つまり、直感は経験によって磨かれるという。
 先生方が囲碁にかけた気が遠くなるような時間と、何十万局という実戦経験が類まれなる直感を育んでいる。
 膨大な対局をこなす中で、似たような局面を経験し、成功も失敗も積み重ねていくうちに「このような場面では、こう打つと良い結果につながり、こう打つと悪い結果となることが多かった」というデータが、自分の中にしっかり蓄積されてくる。すると、ある局面を見た瞬間、直感的に「この手はもう、その後をきちんと読まなくても、うまくいかないことが分かる」とか「きっとこの手が正解だ」といった予知能力が働く。これを囲碁界では「第一感」と呼んでいる。
(張栩『勝利は10%から積み上げる』朝日新聞出版、2010年、39頁~40頁)

4章 効率を考える

時間を味方につける その1


☆日本の囲碁界と、中国や韓国のそれとでは、時間の使い方に関して、相違が見られるという。

・日本の囲碁界には、「持ち時間を残して負けるのは恥ずかしい」と考える風潮がある。
 負けるにしても、時間をぎりぎりまで使い、最善の努力をした上で負けろ、ということである。

・しかし、中国や韓国の碁では、持ち時間3時間の碁なのに、両者とも1時間ずつしか使わずに終わってしまっている碁を見かけることがある。しかもこういうケースが結構多い。
(日本でこんなことをしたら、たちどころに「2時間も残して負けて、何をやっているんだ。勝つ気はあるのか」と非難されてしまう。最善の努力をしていない、とみなされる)

※著者は、こういうケースを見ても、違和感を覚えないそうだ。
 なぜなら、彼らは、時間の使い方を含めて勝負しているから。
 「後半で時間をたくさん使う場面が出てくるはずだ。仮に前半で時間を目いっぱい使い、それで優勢を築いても、後半で時間がなくなったら、その後を最善には打てない」と、彼らはよく理解している。
(その意味で、彼らは、勝つための最善の努力をしているといえる)

・こうした時間についての考え方は、中国・韓国の棋士は徹底している。
 一方で、日本の棋士を見ていると、過去の風潮がまだ残っているようだ。
 その良い面も多くあるが、こと勝負にこだわるならば、時間に関する考え方は甘いという。
(その証拠に、中国や韓国の棋士は、日本の棋士と対戦する時に、「少しくらい形勢が悪くても、日本の棋士は前半でたくさん時間を使うから、後半でいくらでも追い込める」と思っているという。そして実際、後半で秒読みになってから、ミスが出ての逆転負けがいかに多いことか。)
(張栩『勝利は10%から積み上げる』朝日新聞出版、2010年、113頁~117頁)

先人の知恵に学ぶ


・「定石」という囲碁用語がある。
 囲碁のみならず、一般用語にもなっている。「決まりきった手順」とか「マニュアル」という意味である。
(スポーツで言えば、「基本フォーム」のようなもの)

〇また「定石」は、先人たちが連綿と積み重ねてきた研究の結晶でもある。
➡この「定石」が今に受け継がれてきたことによって、石の筋や形、効率といったものを容易に学び取ることができる。
 定石を学ぶことは囲碁の上達において、最も有力な勉強法の一つと言える。

〇また、自分より強い人の棋譜を碁盤に並べることも、有力な勉強法である。
(スポーツで言えば、一流選手のプレーを録画して見直すようなもの)

※定石を学ぶことも、棋譜を並べることも、「先人たちの知恵をありがたくお借りすること」である。
 これを繰り返すことで、自分の中に「囲碁の良質な常識」を詰め込んでいくことができる。
 だから、弱いうちは定石を覚えることから始める。

※しかし、段々と上達していくにつれ、「覚えること」からは卒業しなければならない。
 なぜなら、定石は頼もしい存在ではあるが、川柳にも「定石を覚えて二目弱くなり」とあるように、定石の手順に固執すると碁盤全体が見えなくなり、結果として形勢を悪化させてしまうことになるから。
(「木を見て森を見ず」という状態)

※囲碁とは、記憶力や論理力だけではなく、全局的な戦略のもとに着手を決定していくゲームである。
 そして、定石とは、あくまで「部分における模範手順」でしかないことを認識しておかなければならない。
 その点さえ押さえておけば、定石の活用は、勉強の効率を飛躍的に上げてくれる、最も手っ取り早い上達法である。

〇では、ある程度強くなったら、どのような勉強をすればいいのか?
 著者の経験を例にして述べている。

・著者も子供の頃は定石を覚えたというし、プロになったばかりの頃までは棋譜並べも多くしたそうだ。
 定石の効能は上述の通りだが、棋譜並べでは自分より強い人の碁を並べて、「なるほど、こういう場面ではこう打つものなのか」と学んだようだ。

・でも、だんだん強くなっていくにつれ、定石や常識とされているものに対して、「本当にそうなのか?」という疑問が湧いてきたという。
 囲碁の勝負は一局ごとに場面が異なるわけであるから、普段は常識とされているものでも、周囲の状況が変われば非常識となる可能性があることに気づいたそうだ。
 
※こうした考えが実感できればしめたものである。
 こうした疑問が湧いてこないということは、マニュアルに依存してしまっているということであるから、新しい可能性が広がることはない。
 常識に対する疑問が湧いてきたら、そこに自分なりの考えや解釈をプラスしていく。この段階まで来て、初めて「先人の知恵を吸収できた」と言える。
 
※弱いうちは定石や棋譜並べから得た常識を活用することから始め、強くなってきて自分の考えを持てるようになったら、定石を参考にしながら「自分なりに考えた上で」一手一手を打たなければならない。
定石や常識といった先人の知恵は、その意味を理解することが重要である。
 なぜそうなるのか、なぜそうするのか、その成り立ちが心底理解できれば、周囲のどんな状況にも、臨機応変に対応することができるようになる。
(張栩『勝利は10%から積み上げる』朝日新聞出版、2010年、122頁~125頁)

脳の柔軟性と集中力を鍛える


・著者は脳というものを、例えているなら、筋肉のようなものだと考えている。
 スポーツ選手の筋肉が強さだけではなく柔軟さも必要としているように、棋士の脳にも体力だけではなく柔軟性が必要だという。
 脳はどんな高齢になっても、使っていれば脳は磨かれるようだ。
 例えば、一局の碁でも、盤上に現れた手順を記憶しているだけではなく、盤上に現れなかった水面下の変化をも記憶している。
 対局中は盤上のことだけを考えているが、勝負を終えたら「相手がこう打ってきたら自分はこう打つつもりだ」とか「こう打たれたら嫌だと思っていた」など、現実化しなかった手順・変化をどれだけ覚えていることができるかが大切だという。

※実戦に現れた手順は、対局中に考えていたことの氷山の一角に過ぎないらしい。
 勝ったからといって「よし、いい内容の碁が打てた」と盤上に現れた手を振り返っているのでは、ただ上っ面をなぞっているだけで、真の意味で一局の勝負を研究・反省しているとは言えないようだ。
 水面下に埋もれた変化こそが何より重要であり、そうでなければ密度の濃い反省はできない。

・脳の働きを衰えさせないために、筋力トレーニングと同じように、常日頃から脳を鍛えておかなければならない。
 具体的には、特別なトレーニングは何もしていないが、トランプや将棋、チェスのような室内遊戯をしたり、パズルやクイズなどの頭を使う問題を解いたりするくらいであるそうだ。
※囲碁以外のことに頭を使うことで脳が柔軟になり、それが結果として囲碁にもプラスとなる。
 著者は、子供の頃に父から受けた教育を思い出すという。
 囲碁を教える前に、トランプやチェス、中国将棋など、様々な頭脳ゲームを教えた。
 まだ三歳くらいだったので、いきなり囲碁を教えるのは無理だと考えたようだ。
 そこでまずはトランプなどの簡単なゲームに興味を持たせ、「考える力」を身につけさせようとした。そして六歳半になってそれなりの思考能力がついてきた時に、満を持して囲碁を教えたそうだ。
 つまり、トランプや中国将棋が、囲碁を始めるにあたっての最高の準備運動、助走期間になった。

・また日本語という母語以外の言葉を使っていることも、幸運の一つだという。
※東北大学の川島隆太教授の研究で、母語を音読するよりも、外国語を音読した方が脳を活性化するという結果が出ているそうだ。
 つまり、映画を観るだけでなく、マンガを読んでも、カラオケを歌っても母語以外の言葉を使うことが脳のトレーニングになっているという。
 また、川島先生は、子供の教育や脳のアンチエイジングに囲碁が大変有効なのではないかという研究も進められている。
(張栩『勝利は10%から積み上げる』朝日新聞出版、2010年、128頁~132頁)

効率がいいと「美しい」


・囲碁というゲームは、盤上に一手ずつ交互に着手し、相手より多くの陣地を囲うゲームである。より少ない石数で地(陣地)を囲うなど、効率を求めていくゲームともいえる。

・打った石が無駄なく配置されていく様には、とても美しいものがある。
 美的感覚も囲碁では大切である。
 石が同じ箇所に固まっていて、働きが少ない姿は悪い形である。
 (囲碁用語では「愚形」という)
 その反対の「美形」という言い方はしないが、効率の良い石の形は自然と美しく見える。

・また、「石」には強弱がある。
 強弱の判断には感覚的な要素に拠るところも大きいが、簡潔にいうと、眼形のある形(絶対に取られない石)は強い石、眼形のない石は弱い石となる。

・さらに、軽い石、重い石、という感覚もある。
 石がいくつも固まってしまうと自然と重い石となり、責任も重くなる。
 働きが悪いが、かといって捨てるにはダメージが大き過ぎて難しい。

 石数が少なければ、当然軽くなる。
 責任が小さくて捨てやすい状態だが、それではと打った石から順に捨ててしまっては、いつまで経っても実がない。

 その中でも、例えば相手の石を攻めるのに貢献したり、何か役目を終えたりした石は、(石の数や状況にもよるが)特に軽い石となる。
 これからの局面であまり働かないと判断すれば、いつでも「捨て石」にしてしまう。
 つまり、他に大きくなりそうな陣地、大事な場所があれば、そちらを優先して打ち、相手がその石を取りに来ても、あえて助けには行かない。

・「軽い」というのは決して悪いことではない。
 その軽さを武器に、相手を悩ます手を打ったり、相手の出方を見る「様子見」ができたりする。
(戦場で例えるなら、偵察兵のように、情報を集めるような働きができる)
※軽さは弱さにもつながるが、軽いからこそできる役割もある。
※世の中の変化と同じように、盤上は一刻一刻変化し続けるもので、先を予測することは困難だが、その時その時の状況をしっかり判断して、過去の目的だけにこだわり過ぎずに、臨機応変に変化していく必要もある。

・最後は石の「厚み」と「薄み」について。
 石が多いところは自然と石が厚くなってくる。
 石が厚いというのは眼形が厚いということだから、基本的には良いことが多くある。
 将来、この厚みを使って相手の石の攻めに利用したり、陣地を作ったりする。
 ただ、注意したいのは、働きのない厚い石は効率の悪い愚形にもなり得るということである。
 薄い形は、状態によっては相手にどこをつかまれても、ボロボロになってしまう時もあり、盤上に自分の陣地はない上に「薄い」場合などは絶体絶命と言ってよい。

・ただ、「薄い」ということが必ずしも悪いわけではない。
 効率を追求し、より少ない石で最大限に働かせようとすると、自然と薄くなってしまうものである。

※著者も、自分の石が薄くなってしまう傾向があるという。
 将来働くかどうか分からない厚みに力を溜めるよりも、目の前の利益(陣地など)を得る方が魅力的に映りやすいからであるそうだ。
 著者の碁の棋風は、「スピード重視」の部分もあるようだ。
 序盤で打ちにくくしたり、中盤で形勢を損じたりする場合は大抵、この薄さが原因であるという。
 無理に一つの石を働かせようとして、相手に隙を突かれたり、相手の厚みを軽視して、巨大な陣地を作られたりする。

※だから、もっと「厚み」を意識して打たなくてはいけないと思ってはいるが、もともとの性格も影響するのか、将来を見越して力を溜める手というのは、なかなか打ちにくいという。
(「今、目的がはっきりしている手」の方が、確実に信頼できるような気がする)
➡そういう意味では、囲碁は「性格」が出るゲームである。

※囲碁においても、効率のいいものが美しい。
 美しさが強さになることは気持ちのいいことであるという。
 今あるものを生かしつつ、無駄をなくして効率を追求する囲碁というゲームには、人間が求める、美しさの芯棒のようなものが内包されているのかもしれないとする。
(張栩『勝利は10%から積み上げる』朝日新聞出版、2010年、132頁~137頁)

5章 勝利の流れをつかむ

成長するとは「変わること」


・囲碁とは、人がその一生を賭けて追究しても、決して究め尽くすことのできないゲーム。
 だからこそ、江戸時代から現在に至る400年以上も、棋士という職業が続いてきた。

・自信を持つと同時に、「自分はまだまだ未熟だ」という謙虚な姿勢を持つことが大切。
 「自分はもう充分に分かっている。だからこれ以上学ぶことはない」などと思ったら、その瞬間に成長は止まり、それどころかひたすら下降の道を辿ることになるだろう。

〇「自分にはいくらでも学ぶべきことがある」。こう考えることができれば、その人は今後も成長を続けることができるが、その際に重要なことが、「自分が変わることを恐れない」ことであるという。もし「さらに成長したい」と思っているなら、自分が変わることを恐れてはいけない。
 変化することはリスクを伴うが、自分を変えることによってしか、自分を成長させることはできない。
※リスクにあえて挑戦し、過去の自分に打ち勝つことのできた人だけが、さらなる成功をつかむことができる。 
 囲碁界でも歴史に名を残してきた名棋士たちは、常に進化を求めて自らの古い殻を打ち破り、自分の碁を創り上げてきた。

・著者の場合はどうか?
 王銘琬先生との第56期本因坊戦七番勝負が、大きな転機だったという。
 著者は3勝4敗で敗退したが、今の自分から見ると、技術的な面で未熟な部分があったと振り返る。
 早く強くなるために、「答えの出る中盤および終盤での能力を鍛えよう」とそちらに力を注いできたので、序盤構想の分野で劣っている面があったそうだ。

・七番勝負は2日制で持ち時間が8時間という、いちばんの長丁場。
 そして持ち時間が長くなれば長くなるほど、序盤が重要になってくる。
 著者はそういう碁に対する勉強をしてこなかったので、この面での弱さが出た。
 序盤、自分のパターンにはまらないとうまくいかないという偏りがあった。

・また、王銘琬先生の碁が、他に類を見ないほど独特で、厚みや模様を重視する、著者のいちばん足りない部分を得意とする碁であった。
(このシリーズから得たものは大きく、以降の著者は王銘琬ファンになった)

※著者は、それまで極端な勉強の仕方をしてきて、「ここはこう打つ一手」と決めつけてきたが、碁に対する考え方の幅が格段に広がったとする。
 決めつけもそれはそれで一つの強さなのだろうが、視野が狭かったことは間違いない。
「色々な考え方がある」ということが分かっただけでも、大変な「気づき」だったようだ。
 ただし、何の迷いもなく、自分の碁を変えられたわけではない。
 著者自身、変化を恐れる気持ちがなかったと言えば嘘になる。
 しかし、王銘琬先生に負かされたことで、自分の実力の足りなさを痛感した。
 このままでは自分の碁に成長はないと考え、変わることを選んだ。
(その結果、2年後には本因坊に再挑戦して、加藤正夫本因坊からのタイトル奪取も果たせた)
〇現状に満足することなく、絶えず成長のための新しい変化を求める姿勢を、著者はこれからも変えないという。
(張栩『勝利は10%から積み上げる』朝日新聞出版、2010年、164頁~167頁)

尖った部分があっていい


・今の世の中は、何か一つのことに秀でていることが評価される時代。
 色々なことを広く浅くという平均タイプではなかなか厳しく、そのマルチな才能を「一つのこと」として、まとめ上げる必要があるのかもしれない。

※囲碁においても、まったく同じことが言えるようだ。
 序盤・中盤・終盤のすべてが平均点であるよりは、例えば「序盤の構想力は今一つだけれど、中盤の戦闘力は誰にも負けない」という一点に秀でているタイプの方が、成績も良く、将来的にも可能性を秘めている。
 もちろん、全体的なバランスが取れているのがベストであることは確かだが、だからといって、必ずしも「丸くなる」必要はなく、「尖った部分」があっていい。

・例えば、若い頃の山下敬吾さん。
 プロ入り直後から大変な勝率を挙げていたから、すべての面で優れていたが、その中でもその戦闘力のすさまじさは群を抜いていた。
 そして、この最大の長所が、今も山下敬吾さんの強さの核となっている。

・また、高尾紳路さんの厚みに対する独特の感性も、若い頃から際立っていた。
 ともすれば、「甘い碁」になってしまいかねない危険性がある中で、自分の感性を信じて、誰にも真似のできない碁を創り上げた。そして、名人・本因坊にまで駆け上がった。

※丸くなることを目指し過ぎた結果、自分の能力をつぶしてしまってはもったいない。
 人真似は嫌だ、と言って、つっぱるような勘違いをしてもらっては周りが困ってしまうが、ここぞという自分の信じるところに矜持を持って、その能力を大切にすることは必要。
 物事には常に二面性がある。
 短所には長所が隠れている。それなのに、闇雲に短所を消そうとすると、せっかくの長所まで消してしまうことになりかねない。

・子供の頃の著者の囲碁は、「冒険をしない」、「堅実すぎる」と言われたようだ。
 それはいわば短所とされていたが、今は長所と呼ばれている能力につながっている。
 僅差であっても確実に勝ちきる力、「正解が存在する分野で、確実に正解を出すことができる能力」に磨きをかけることにつながったとする。
(張栩『勝利は10%から積み上げる』朝日新聞出版、2010年、167頁~169頁)

6章 支えられてきた道

父の指導法


・囲碁教室や碁会所に行く時には、父親が必ずつき添ってくれたそうだ。
 父親は碁も分かるので、帰り道の会話で頭の中での反省会が始まる。
 この頃から頭の中に仮想碁盤を描く訓練が始まっていたという。
 碁を本当に真剣に見ていて、中盤戦に弱いと見れば手筋や詰碁の本を、終盤が弱いと見ればヨセの本を買ってきて、「これを勉強してみたらどうだ」と提案してくれた。

・また父親は大変なアイデアマンであった。
 「ただ漠然と棋譜並べをするだけでは今一つ身につかないから、五十手ごとに形勢判断をするように」といって、手製の書き込み式ドリルのようなものを作ってくれた。
ある日「これから一カ月間は三連星だけを打つようにしろ」と言ってきた。
そして一カ月が経つと今度は「では今度は中国流だ」という具合である。
(三連星とか中国流とは、序盤における戦法の名前で、どちらも力戦志向という傾向がある)
※その頃の著者の碁は堅実志向だったそうで、その点を父親は気にして、戦いの碁も経験させようとしたようだ。
 この勉強法は効果があり、三連星や中国流の長所や短所を自分なりに理解することができたと回想している。
※父親には「コーチとしての才能」があったようだ。
 技術的には著者より弱くても、「何が足りないのか」を的確に見抜き、それを克服するために「何をさせたらいいのか」を導き出す能力があったという。

・もう一つ、囲碁とは直接の関係はないが、父親が姉や著者に繰り返しさせていた訓練がある。
 食事の時に父親が10分くらいの話をして、その後に「今の話を簡単にまとめてみろ」という。
 「たとえどんな分野であっても、人間が成長するための基本は、他人の話をきちんと聞き取り理解する能力である」という信念を父親は持っていた。その能力を身につけさせようとした。

※著者は子供の頃から内向的で、コミュニケーション能力が高くなかったらしく、最初は苦労したようだ。この訓練の効果は抜群で、やがて人の話がすぐに頭に入るようになり、要点を押さえることができるようになったという。
➡これが囲碁にもプラスの効果をもたらし、囲碁の先生に言われたこともきちんと理解できるようになり、同じミスを二度することはなくなったとのこと。
(張栩『勝利は10%から積み上げる』朝日新聞出版、2010年、193頁~197頁)

師・林海峰


・師の林海峰先生は、日本の囲碁界で数々のタイトルを獲得して、子供の頃の台湾囲碁界における英雄だった。
 先生が40年ほど前に名人や本因坊のタイトルを取った時には、台湾でも一大囲碁ブームが起こったそうだ。

・著者が囲碁を覚えて3年ほどが経ち、10歳になった頃、著者は台湾の囲碁界ではかなり注目される存在となった。二人の義父などの推薦で、林先生の内弟子となり、お宅に住み込むことになる。

・林先生は、本当に優しい先生だったという。
 自主性を重んじる指導法で、弟子のやりたいようにさせてくれていた。
 「勉強しろ」とも、ほとんど言われた記憶がない。
 囲碁についても、一緒に検討することはあっても、技術面で「こう打ちなさい」と考えを押しつけるようなことは一切なかった。
(ただ、それでも貫禄というか、無言の威圧感のようなものがあるから、弟子としては師匠の顔色を窺う。)

・囲碁界の頂点にいるにもかかわらず、弟子よりも、遥かに勉強されていたそうだ。
 家のあちこちに碁盤があって、ふと思い立った時にすぐ石を持てるようになっていた。家中のあらゆる所から碁石の音が聞こえてくる。
 先生が手合(囲碁の試合)を終えて家に帰ってくると、必ず碁盤に向かって反省をする。
 そのまま朝になっても続けていることが多々あった。弟子たちが朝起きても、まだ石音が響いている。子供心にも「日本一の先生が、こんなに勉強しているんだ」とびっくりしたそうだ。
➡こうした先生の生き方を、子供の時に間近で見ることができたというのは、著者にとって何物にも替え難い財産となっているという。

※子供の頃「なぜ先生は何も教えてくれないのだろう」と不満を覚えたことがあったそうだが、先生は自分の生き様を見せることで、弟子たちに何かを盗んでほしかったのだと、今になれば分かったとする。

・無口な先生だったが、だからこそ先生の言葉には千金の重みがある。
 今でも忘れられない言葉が二つあるという。
①最後と決めたプロ入り試験の時に、「人生が懸かっている勝負なのだから、死にもの狂いで打ちなさい」と言ってくださったこと
②「頭の中に碁盤を入れておけば、いつどんな所でも勉強できる」と、普段の勉強の大切さを教えてくれた。
(張栩『勝利は10%から積み上げる』朝日新聞出版、2010年、203頁~206頁)

日本碁界の長所と希望


・ここまで、「日本碁界の問題点」を指摘し続け「韓国・中国碁界の良い点」ばかりを取り上げてきた。
 しかし、日本碁界に良い点はないのか? そんなことはなく、捨てたものではない。

●まずは、韓国・中国について。
・次から次へと優秀な棋士を輩出する現在の勢いは、素晴らしく、日本も見習うべき点がある。
 しかし、その徹底した教育方針、確立された勉強方法によって、棋士の個性が失われている。
・あまりに研究が進んでしまっているためか、若手を中心に「定石中毒」のようになってしまっている。自分の考えではなく、「記憶力で碁を打っている」ように思える。

※でも、それが本当の強さなのかどうかは分からない。今は記憶力と瞬発力だけで結果を残せているが、将来はそれほど伸びないのではないかという気もする。
 記憶力だけで碁を打っていては、「容量」「幅」が出てこない。
 やはり「詰め込み過ぎ」は良くない。

〇その点で、日本碁界には、「自分で考え、自分で強くなる」という考え方が、昔から浸透している。
 日本の碁には「幅」がある。
 決して他人のコピーではない。日本の一流棋士の碁の多くは、「自分で創り上げた思索の結晶」である。

〇棋士寿命という点で考えると、日本の棋士の活躍年齢は、韓国・中国の棋士を遥かに凌駕している。
 韓国・中国の棋士は20代がピークで、30代に入るともう下り坂。
 日本では50代でも、なお第一線の舞台で戦えている。

※囲碁はやはり心技体を総合した勝負であるから、スポーツと同じで若い方が有利であるが、日本碁界のベテラン勢は、すごい層の厚さを誇っている。
 50代以上にしてなお第一線で活躍している棋士が多い。
 趙治勲、小林光一、大竹英雄、林海峰、武宮正樹、石田芳夫、王立誠、小林覚と、枚挙にいとまがない。
(もし日本、韓国、中国でシニアの団体戦を行なったら、おそらく日本が勝つだろうという)

・年齢によって衰える部分は当然あるが、その一方で、経験を積むことによって強くなる部分もある。
 その点を踏まえて、韓国・中国の碁を見ると、記憶力と瞬発力という「若さ」に頼った碁が全盛となっている。だから棋士としての活躍の寿命が短い。
(そのスタイルで若くて優秀な棋士を生み出し、世界戦を勝ちまくっているのだから、碁界全体としてはそれでいいのだろうが、棋士個人のことを考えると少々複雑)

・日本の棋士は、自らの鍛錬によって日本碁界を盛り上げ、大切にしていくべきことはもちろん、支えてくれるファンに心より感謝しなくてはならないという。
 そのことが、世界戦で戦える若い棋士の育成につながるとする。
(張栩『勝利は10%から積み上げる』朝日新聞出版、2010年、219頁~222頁)

囲碁の「国風」


・現在の世界囲碁勢力地図は、韓国と中国が二強で、日本は三番手、そこからやや離れて台湾が四番手。
 囲碁が最も普及しているのがこの4カ国だが、囲碁というゲームに対する捉え方という点では、それぞれの国で違いがあるという。

〇日本について
・プロ棋士制度が確立されてすでに400年という歴史があることからも分かるように、「文化」「芸術」として定着している。
・だから、日本の棋士は、ファンやスポンサーから社会的な敬意も払ってもらえるばかりではなく、タイトル戦ともなれば一流の旅館やホテルといった立派な対局場で、囲碁にだけ集中できる環境を用意してもらえる。
 棋士のことを「先生」と呼んでもらえるのも、その表れ。

●韓国・中国について
・一方、韓国・中国では、棋士のことを「ギャンブラーまがいの存在」と見る傾向もあるそうだ。
 中国や韓国における棋士の立場は、「スポーツ選手」という扱いである。
 
※中国では、棋士は「体育局」という組織の中に組み込まれている。
 これは、スポーツのオリンピック選手たちとまったく同列に位置づけられていることを意味する。
 これは、単なる編成上だけの問題ではない。
 その育成方法から国際大会における代表選手の選抜方法まで、スポーツ選手と同じシステムを採用している。
 全国各地から優秀な子供を北京に連れてきて、徹底した競争原理のもと、さらに優秀な者だけを国家チームに組み入れて、英才教育を施す。
(情け容赦のない淘汰に次ぐ淘汰で、エリート中のエリートだけしか残れないという仕組み)

・韓国も、基本的には中国に近い感覚で、「スポーツ」として囲碁を捉えているらしい。
 中国ほど国家的なシステムは整っていないものの、「世界戦で優勝するなどの結果を残したら兵役免除」といった、スポーツ選手と同様の優遇措置がある。
 このことからも「囲碁はスポーツの一種目」と位置付けられていることが分かる。

※このように、日本では囲碁を「文化」「芸術」と捉え、中国と韓国では「スポーツ」として捉えている。
 そして、近年、文化、スポーツに続く「第三の要素」が注目を集めるようになってきたという。それが「教育としての囲碁」である。発信源は著者の故郷・台湾である。
(張栩『勝利は10%から積み上げる』朝日新聞出版、2010年、223頁~224頁)



≪勝負師の教え~井山裕太氏の場合≫

2024-07-21 18:00:37 | 囲碁の話
≪勝負師の教え~井山裕太氏の場合≫
(2024年7月21日投稿)

【はじめに】


 今から、100年前はどんな年であったのか? 
 100年前といえば、1924年、大正13年である。
 ちょうど100周年になる記念の年であるものがある。
 1924年は、干支でいえば甲子(きのえね)の年であった。
 この干支の甲子といえば、直感的に甲子園球場が思い浮かぶ人がいることだろう。甲子園球場の名前の由来となる干支であることからもわかるように、甲子園球場が完成して100周年を迎える。
 そして、年を同じくして、日本棋院もこの年に設立されている。
 前年の1923年の関東大震災を機に、方円社と本因坊家などが集結して、翌年の大正13年に設立された。
 報道によれば、先日、7月17日に日本棋院100周年の記念式典、祝賀会が催された。
 日本棋院の理事長も、小林覚氏から、武宮陽光氏(宇宙流の正樹氏の息子さん)へ引き継がれた。また、祝賀会の来賓として、日本将棋連盟会長・羽生善治氏は、「『棋は対話なり』で、人工知能(AI)による技術が進んでも、人と人とのコミュニケーションは変わらない」と述べられた。また、棋士代表として、井山裕太氏があいさつされ、「受け継がれてきたものを大切にしつつ、変化に柔軟に対応していく姿勢が必要。少しでもいい方向にむかっていけたら」と、先を見据えられたという。
 さて、今回は、その井山裕太氏の勝負師としての教えについて、次の著作を参考にして考えてみたい。
〇井山裕太『勝ちきる頭脳』幻冬舎文庫、2018年

【井山裕太氏のプロフィール】
・1989年、大阪府生まれ。囲碁棋士。日本棋院関西総本部所属。
・2002年、12歳でプロ棋士となる。
・2009年、20歳4カ月で、七大タイトルの一つである名人を獲得。史上最年少名人となる。
・その後、数々の記録を塗り替えながら、タイトルを奪取し続け、2016年には囲碁界史上初の七冠同時制覇を達成。
・その後、名人位を失うも、2017年に前人未到の2度目の七冠同時制覇を成し遂げる。
・内閣総理大臣顕彰。国民栄誉賞受賞。



【井山裕太『勝ちきる頭脳』(幻冬舎文庫)はこちらから】
井山裕太『勝ちきる頭脳』(幻冬舎文庫)





〇井山裕太『勝ちきる頭脳』幻冬舎文庫、2018年

【目次】
序章
 七冠崩壊
 大不評だった最終局
 打ちたかった一手

第一章 なぜ打ちたい手を打つのか―リスクを受け入れる決断法
 涙を流した19歳での名人挑戦
 このままではこの人に勝てない
 打ちたい手しか打たない覚悟
 方向性を見出せた20歳での名人戴冠
 最善には、あえてリスクを
 リスクを背負って勝ちきる
 センサーを働かせる

第二章 僕の原風景―囲碁を始めてから初タイトルまで
 囲碁、そして恩師との出会い
 独創の芽生えは石井先生の教育方針
 12歳でプロ棋士に
 自主性を育てた家族の教え
 3年目までは暗中模索
 最年少記録を樹立も停滞

第三章 七冠全制覇までの歩み―諦めない気持ちが大仕事を生む
 逆転負けの連続
 最善手を求め過ぎての敗北
 「最善」と「正解」の違い
 一度は諦めた全冠制覇
 偉業への再挑戦
 七冠達成の瞬間

第四章 直感と読みの相互性―何が独創を育むのか

 直感は「経験と流れ」
 「読み」の思考方法
 プロは「読み」より「判断」で迷う
 時間の使い方
 直感とは個性である
 人の廃案に独創がある

第五章 囲碁は勝負か芸術か―盤上の真理を追い求めることの意味
 ミスを認める辛抱
 基本姿勢は平常心と自然体
 投了に美学はあるか?
 勝負と芸術の二兎を追って

第六章 棋士という職業―勝つために何をするのか
 棋士は恵まれた職業か
 コンディション作り
 対局中の極限状態
 尊敬する人
 復習なくして成長なし
 囲碁に記憶力は重要か
 羽生善治さんの応用力
 定石は覚えて忘れろ
 挫折を克服する
 「好き」という才能

第七章 世界戦に燃える―日本碁界への提言と世界一への想い
 9歳で世界を意識
 勝てなくなった日本
 裾野がケタ違い
 中韓棋士、強さの源
 中国・韓国から学ぶべきこと
 世界への挑戦で得た自信
 世界戦に出場したい!

第八章 囲碁界の未来―人工知能という新たな強敵
 若手への想い
 衝撃のアフファ碁
 Zenとの戦いに燃える
 囲碁はどこへ行くのか?
 人工知能が拓く可能性

終章 
 孤独と付き合う
 僕にできる唯一のこと
 目指すところ

文庫特別書き下ろし 七冠再制覇と世界戦
 七冠再制覇は無理だと……
 再制覇の原動力は大舞台での惨敗
 夢の世界戦に立つ
 大きな収穫を得た敗戦
 
 あとがき
 文庫化によせてのあとがき
 解説 加藤正人





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


第一章 なぜ打ちたい手を打つのか―リスクを受け入れる決断法
・このままではこの人に勝てない
・打ちたい手しか打たない覚悟

第四章 直感と読みの相互性―何が独創を育むのか
・直感は「経験と流れ」
・直感とは個性である

第五章 囲碁は勝負か芸術か―盤上の真理を追い求めることの意味
・勝負と芸術の二兎を追って

第六章 棋士という職業―勝つために何をするのか
・復習なくして成長なし
・羽生善治さんの応用力
・定石は覚えて忘れろ

第七章 世界戦に燃える―日本碁界への提言と世界一への想い
・中韓棋士、強さの源
・中国・韓国から学ぶべきこと








第一章 なぜ打ちたい手を打つのか―リスクを受け入れる決断法
 

このままではこの人に勝てない


・名人戦の最終局に敗れて、痛切に思い知らされたことは、張栩さんと著者の間に歴然と存在する「大きな差」であったそうだ。
 「このままではこの人に勝てない」と思った。
 最も顕著に表れていたのが、著者が自分を信じきれなかったのに対して、張栩さんは絶対的に自分を信じきっていたという点であった。 
 張栩さんの打つ手が皆、良い手に見えてしまったという。
 「ここまで踏み込んできたのだから、きっとこれを咎める手はないのだろう」
 「相手が自信満々に打っている。ということは自分が劣勢なのか?」
 このように対局中に考えてしまった。
※つまり、自分を信じることができず、相手を信じてしまった。
 これでは勝てるはずもなく、特に最終局第7局で、そういう心理に陥ってしまったことが、悔やまれたようだ。
 なぜそう思わされてしまったのか?
 張栩さんの全身から噴出されている迫力、オーラであるらしい。
 そうした精神力に加えて、技術力でも大差があった。
 こちらの形勢が少しばかり良くなっても、楽をさせてくれない。少しでも緩めば徐々に差を詰められ、最後には抜き去られてしまう恐怖感があり、逆にリードを奪われてしまったら、そのまま逃げきられてしまうという焦燥感を抱いたという。
 特に格別だと痛感させられたのが、優勢な碁をスムーズに勝ちきる力である。
(特別に厳しい手を打っているわけでもなく、緩んでいるわけでもなく、勝利というものに向かって、まっしぐらに最短で突き進んでいく感じである。)

※碁においては本来、この「ちょっとだけ優勢」という状態が最も難しいはずである。
 張栩さんに関してだけは、この「少しだけ優勢の状況が最も難しい」が当てはまらない。
 わずかな優位をそのままゴールまでキープしてしきってしまう。これが「勝ちきる」ということで、真似のできない芸当だと思わされたとする。
 「自分の着手だけに集中しなければ」と思って碁盤に臨んでいるのに、いつの間にか「優勢にならなければ」「もし逆転されたら」ということを思わされてしまう。
 これが張栩さんの強さだという。
(井山裕太『勝ちきる頭脳』幻冬舎文庫、2018年、25頁~29頁)

打ちたい手しか打たない覚悟
・先の名人戦で最も不甲斐なく感じたのは、自分を信じきれなかったことであるという。
 そのためには、どうすればいいかを突き詰めて考えたようだ。

・囲碁というゲームは、200手を超えて終盤を迎えた場面でも、たった1手のミスで優勢をフイにしてしまうことがある。
 しかし人間である以上、ミスを100パーセント防ぐことはできない。
 どんな名手・高手でも、その確率を減らすことはできても、いつかどこかで必ずミスはしてしまう。

・名人戦での自分を信じきれなかったことによる敗戦を、根本的な大問題として、自問自答を繰り返した結果、「あとで後悔するような手だけは打たない。常に自分が納得できる手だけを打つ」という、自分に対する決め事を作ったそうだ。

・では、納得できる手というのは、具体的にどういう手を指すのか?
 あえてひと言で表現するなら、「今」という単語に集約できるそうだ。
 つまり、一手一手、目の前にある局面で最善を尽くすということ。
(覆水盆に返らずではないが、打ってしまった手は、もう打ち直すことができない。だから、結局また「今この局面でどうすればいいか?」の繰り返しになるわけである)

・そこで、犯してしまったミスを悔やみながら次の一手を考えるのと、やってしまったものは仕方がないと気持ちを切り替えて考えるのでは、当然ながらその後の進行に違いが出てくるだろう。
 そのためにも、着手をする際、「この後どんなことになっても、それを受け入れる」という覚悟を持つようになったという。
➡これが「納得した手を打つ」ということである。
(仮にその手が原因で形勢が暗転しても、その手を悔やむのではなく、訪れた局面でベストを尽くすことを心掛けるようにした)

※一局の碁は、とても長い道中で、簡単に結末は訪れない。
 過去ではなく、今、目の前で求められている一手一手に全力を尽くし、自分なりの最善を追い求めることが、一局の碁における勝利に最も近づけるのではないか、と思うようになった。

※囲碁には正解が存在しない局面も多々ある。
 そうした時でも、「この程度でいいか」ではなく、「自分はこれがベストと思うのだから、この後どんな結果になろうとも、それを受け入れる」という覚悟を持つ。
 この覚悟が「納得した手を打つ」ということの、定義付けだとする。

・ミスをした時と同じように、一局の碁に敗れた時も、「この一局に全力を尽くしたのだから後悔はない」と考えようと、自分に誓った。
 そして、負けてもそう思えるだけの勉強と準備を怠らないこと。
 名人戦で張栩さんに敗れたことで、このような考えに至ったようだ。
 
・著者は、現在に至るまでの囲碁人生のなかで、自分の棋風(囲碁のスタイル)を変えようとしたことはほとんどないらしい。ただ、名人戦に負けた後の1年間くらいだけは例外で、意図的に棋風を変えたという。
 自分の打つ手に納得して覚悟を持ち、自分を信じることが、張栩さんに追いつくための唯一の道だと、自分に言い聞かせたそうだ。
(井山裕太『勝ちきる頭脳』幻冬舎文庫、2018年、29頁~33頁)

第四章 直感と読みの相互性―何が独創を育むのか

直感は「経験と流れ」


〇ファンから受ける質問で、最も多いのが、「手を読むとよく言いますが、いったい何手くらい読めるものなのですか?」というものであるそうだ。
・かつて石田芳夫先生(二十四世本因坊)は、こうしたファンの質問に対し、「ひと目千手」と答え、周囲を驚かせたというエピソードがある。
 この答えは、リップサービスの感がなきにしもあらずだが、では荒唐無稽な数字なのかというと、そうでもないようだ。
 枝葉のように無数に分岐する膨大な読みを換算すれば、それくらいの数字にはなるかもしれないという。

〇では、プロは対局中、どういう思考回路で読み、着手を決定しているのか?
・これを説明するためには、まず「直感」について話していくのが、最もわかりやすいという。
 ひとまず「読み」は置いておき、「直感」についての話を著者はする。
・プロなら、相手が着手した瞬間に「ここで自分が打つべき手はここだろう」とか「ここに打ちたい!」という手が浮かぶ。
 その候補手が一つの場合もあれば、二つ、三つというケースもある。
 その手もしくはそれらの手が、実際に正解であることは極めて多いらしい。
 これが、囲碁における「直感」であるという。
 ともすると、この「直感」は「ヤマ勘」と同じイメージで捉えられるかもしれない。
 しかし、この両者には明らかな差異がある。
 つまり、「ヤマ勘」が、明らかな当てずっぽうで根拠がない選択である。
 それに対して、「直感」には、確実に根拠がある。

〇では、その根拠とは何か?
 著者は「経験と流れ」と答える。
 
〇まずは「経験」から説明している。
・それまで数えきれないほどの対局を積み重ねているので、似た局面や形には、過去に必ず出くわしている。
 そうした過去のデータが頭の中に残っているので、まったく同じ局面というのはないにしても、似た局面だと「ここが正解ではないか?」と直感が働く。
 
・これが石の生死を扱った部分的な形(いわゆる「詰碁」)だったら、話はよりはっきりする。
 プロは子供の頃から膨大な数の詰碁問題を解いてきているから、似た形が現れたら「ここが急所だ!」と直感で正解がわかる。
 過去に解いてきた無数の詰碁から導き出された「経験による直感」で、この思考法が、実戦における全局的着手の決定においても使われる。
 
〇もう一つの「流れ」について
・その局面に至るまでの手順には、必ず「流れ」がある。
 自分がこう打つと相手はこう打つという具合に、一手一手にストーリーがある。
 棋士は、この「流れ」に沿って着手を考える。
(「こういう流れでここまで来たのだから、次の手はここに行くのが自然だな」という具合である。)

※逆に言うと、流れに逆らった手は打ちにくいというか、浮かばないという。
 対局後に他の人から、「あの場面でこういう手はなかったですか?」と言われ、確かにその手もありえたというケースは多々あるそうだ。
 しかし対局中は、ストーリーがあり、その「流れ」の中で着手選択をしているので、のちに指摘された手がストーリーから外れていたら、その手は「直感」として浮かばないという。

※だから、自分が打っていない他人の碁の一部分をパッと見せられて、「ここでどう打ちますか?」と問われても、判断に困ることがあるそうだ。
 そのような時は、その局面に至るまでの手順を教えてもらい、ようやく「なるほど。こういう流れで来たなら、次はここに打ちたいかな」と意見が持てるようになるらしい。

〇このように、棋士にとっての「直感」とは、「経験と流れを下地に構成されている」という。

・なお、「直感」とよく似た「ひらめき」という言葉がある。
 ニュアンスの違いがある。
 「直感」によって浮かんだ手がいくつかあるものの、その後の進行を想定してみたところ、いずれも今一つと感じるケースがある。
 そうした際は「他の手がないか」と探すわけだが、あれこれ考えた末にふと浮かぶのが、「ひらめき」であるようだ。
 従って、「ひらめき」は、形勢がやや苦しい時に要するものと言っていいとする。
 形勢が順調なら、「直感」によって浮かんだ常識的な手で事足りているはずであるから。「直感」だけでは不利な形勢を打開できないので、もうひと絞りして「ひらめき」にたどり着く――こうした思考順序だという。
(井山裕太『勝ちきる頭脳』幻冬舎文庫、2018年、100頁~105頁)

直感とは個性である


・一局の碁において、「直感」が優先される比率は序盤が最も多く、中盤から終盤にかけて、終局に近づけば近づくほど、少なくなっていく。
 よく「あれも一局、これも一局」と言われるように、序盤では明確な正解がなくてわからないので、着手決定は「直感」の割合が高い。
 まだ土台を築き上げている段階なので、読みというよりは「どうしていきたいのか」という「好み」で着手を決められると言ってもいい。
(「序盤における直感は好みである」とも言える)

・それに対し、石が混み合ってくる中盤以降では、石の生死や地の計算といった要素が入ってくるので、はっきりとした正解手が存在する局面が増えてくる。
 それに伴って、「直感」の割合が減っていき、その代わりに「読みや計算」の割合が増えてくる。

・とはいえ、中盤だったり終盤入口の段階では、プロといえども最後の最後までを読みきれるわけではないともいう。「僅差で勝てそうだ」とか「このままでは大差負けだ」などと、それなりの見通しが立つところまでしか窺い知ることはできないそうだ。
 従って、そういう段階ではある程度のところで読みを打ち切って、自分がどの道を行きたいかで最終的な着手を決めることになる。
 結局のところ、「直感」の割合が少なくなっている局面でも、やっぱり「好み」の要素を完全に払拭できない。多かれ少なかれ「好み」ともいえる「直感」が入ってこざるをえないようだ。

・だから、碁が強くなるためには必然的に、そうした感覚的な部分を磨くことが重要になってくる。
 「直感」の基となっている経験と流れに反応するセンサーに、万人共通の答えはない。碁が強くなるために棋士ができることは、感性を磨いて「自分にしかない世界」を切り拓いていくしかないという。
(しかし、感性を磨くということがまた難しい。その方法もまた明確なものが確立されていない。そこがプロ棋士にとって最大のジレンマだという)
〇囲碁とは、こうした個性を競うゲームであるとも言える。
(井山裕太『勝ちきる頭脳』幻冬舎文庫、2018年、114頁~116頁)

第五章 囲碁は勝負か芸術か―盤上の真理を追い求めることの意味

勝負と芸術の二兎を追って


・棋士は、囲碁を勝負事として捉えるタイプと、「芸道」として捉えるタイプがあるといわれる。「芸道」の方は、形勢の悪い碁をいつまでも未練がましく打つのは恥であるとの意識が強く、「散り際を美しく」という気持ちが働くものらしい。

・著者はどちらのタイプかと自問し、ポキッと折れるタイプではないとする。
 可能性がある限りは粘って、逆転を追求するタイプであるらしい。
 勝利という目的に向かって全力を尽くす姿や、盤上の技をファンの皆さんに観ていただくのが、その役割だと考えているという。

※芸術家タイプの棋士の考え方を否定しているわけではない。
 そうした棋士の囲碁への澄みきった気持ちは尊敬するし、碁盤に対するそういう思いは忘れずにいたいという。棋譜が残る立場であるから、いいものを作りたいし、恥ずかしい作品を残すことはできない。
 だから、「囲碁に求めるのは勝負か芸術か?」と問われたら、著者は「二兎を追います」と答えている。
 というのも、勝負と芸術は、決して対立するものではないと考えている。
 「貪欲に勝利を追い求めながら、芸術性を発揮することもできる」。これが著者の考えであり、究極の理想である。

・個性の表現の積み重ねこそが「芸術」になるという。
 江戸時代や明治時代における名人たちの棋譜を並べていても、そこには弾けるほどの個性がある。
 「この人はこういうことを考えながら、この手を打ったんだな」ということから始まり、「こういう考え方をするということは、きっとこういう信念を持った人だったのだろう」ということまで感じ取れるのだから、棋譜はやっぱり、人を映す芸術作品であるという。

・羽生善治さんも著書の中で言っておられる。
「できるだけ一局の早い段階で、定跡や前例から離れたい」と。
 これははやり「他人の真似ではなく、自分の個性を出したい。自己表現をしたい」との意味だ、と著者は捉えている。

※自分を表現することに繋がるが、自分らしい手や自分にしか打てない手を打つことが、著者の大きなモチベーションとなっているそうだ。
 一局のなかで「この手は自分らしい、満足のいく手だった」と思うことができれば、その碁を打った意味や、幸せを感じるようになってきたそうだ。そう考えると、著者にも芸術家タイプの要素が芽生えてきたのかもしれないという。
 そこに「勝利」という結果を加えることができれば、言うことなし!
 勝利を懸命に追い求めるなかで、盤上に自分らしさを表現したい。
 勝負と芸術の二兎を求めることが、著者にとっての究極の目標であるという。
(井山裕太『勝ちきる頭脳』幻冬舎文庫、2018年、128頁~131頁)

第六章 棋士という職業―勝つために何をするのか

復習なくして成長なし


・何事も成長するためには反省と復習が欠かせない。これが囲碁にも例外なく当てはまる。
 囲碁では、対局を終えると対戦相手と「感想戦」と呼ばれる局後検討を行なうが、これも反省と復習をしている。
 この感想戦の主目的は、敗者が自分の敗因を突き止めることである。
 同時に、対局中に感じていた疑問を解決することも目的としている。
 ただし、この感想戦はやはり対局直後ということもあって、勝者が敗者を気遣う場でもあるらしい。だから、勉強になる一面、本当に突き詰めて一手一手を振り返ることができない一面もあるようだ。本当の意味で、厳密に自分の対局を検証したいなら、家に帰って自分一人で反省し直すか、後日に他の棋士を交えて共同検証することになるという。

・棋士ならば誰もが、自分の打った碁を並べ直し、反省を行なっている。
 勝った時と負けた時で、この並べ直しに対するスタンスが微妙に違ってくるそうだ。
 著者の場合、負けた場合は「負けの原因がどこにあったか」の検証が中心となる。
 敗因が判明するまで行ない、そこで一度、敗戦をリセットする。
 ただ稀に、どんなに検証しても自分の問題手が見つからないこともあるようだ。
 ということは、自分には発見できなかった好手を相手が打ったということで、そうした場合は「相手が上だった」と自分に言い聞かせているそうだ。
 勝った碁を並べ直す時は、勝負所の研究以外にも、一手一手について「他の可能性はなかったか」という視点で振り返る。勝利という結果に満足するのではなく、より向上できる可能性を探っていくらしい。

〇複数の棋士で一緒になって勉強する「研究会」がある。
 これを行なうかどうかについては、棋士のタイプによる。研究会が好きな人と、好まない人がいる。
・坂田栄男先生(二十三世本因坊)や趙治勲先生、山下敬吾さんは、一人で勉強するタイプの代表格。
 囲碁というものを「碁は自分一人で強くなるもの」と捉えている。

・一方で、藤沢秀行先生(棋聖六連覇をはじめ名人、王座、天元などのタイトルを獲得した、昭和期を代表する名棋士)や王銘琬(おうめいえん)先生(九段)、結城聡さん(九段)は、「皆で勉強して強くなっていけばいいじゃないか」と考えて、率先して研究会を主宰しておられる。
(もちろん根本には「自分」があるのだが、「自分一人では考え方が偏ってしまう。他人の意見を聞くことで視野が広がる」と考えている)

・著者がどちら派といえば、「どちらもあり派」という。
 というのも、どちらにも長所があり、短所があるからである。
 一人派の長所は、自分だけの世界を深く追求できる。誰が何と言おうとも自分はこの道を行くという、強烈な個性と棋風を持っている人が多いことも特長の一つである。
 その反面、自分の世界を追求し過ぎるあまり、視野が狭くなってしまいかねないマイナス面がある。
(坂田先生や治勲先生、山下さんほどのレベルになれば、このマイナス面を完全に払拭して大きなプラスへと作用している。中途半端なレベルで自分の世界だけにこもると、マイナス面のほうが大きくなってしまう可能性がある)

・一方で研究会派のプラス面は、「いろいろな人の意見が聞ける」ことである。
 自分一人では絶対に浮かばなかったであろう手や考え方を知ることができるので、知識や考えの幅が広がる。
 しかし、知識や情報に頼りきりになってしまうと、「自分で考えて碁を創り上げていく」という、棋士としての根幹をなす能力を養うことができないというマイナス面が頭をもたげてくる。

・中国や韓国の棋士が共同研究で生まれた結論を多用し、10代から早々に活躍する反面、30歳を超えると皆揃って衰退していくのは、この「情報に頼りきり」という一面があるからではないか、と著者はいう。
 著者は、一人派と研究会派のそれぞれの長所を「いいとこ取り」したいとする。
 「自分が打ちたい手を打つ」ことが、著者の絶対的テーマである。
 自分で自分の碁を創り上げていくことが根本ではあるが、それだけでは視野が狭くなってしまうので、「研究会で他の人の考えも、情報として聞いてみたい」というスタンスである。
 人からの意見や情報は大きなヒントになり、それを自分なりに考えて理解し、納得することが大きな財産となるというのである。
(まずは情報として仕入れ、それを自分なりに吟味して選択する作業が重要である)
(井山裕太『勝ちきる頭脳』幻冬舎文庫、2018年、145頁~150頁)

羽生善治さんの応用力


・陥りがちな誤解として、「囲碁は頭の良い人がやるもの」という思い込みがある。
 一般的に言われている「学業の成績」は、まったく囲碁と関係がない、と断言できるそうだ。
 著者自身、小学校時代、特に勉強ができたということはなく、ごくごく普通の成績だったらしい。そして中学校入学と同時にプロ棋士になったので、学校を休むことも多くなり、やがて勉強にはついていけなくなったという。
 だから、囲碁で必要なのは、学業的な能力ではないとする。
 求められているのは、ある局面を見て、「あ、以前に似た局面があったな」とか「こういう形の時は、ここが急所であることが多い」などと察知する能力(応用力とか適応力)である。
(刺激的な表現をすれば「嗅覚」と言ってもいい)

・この応用力について考える時、著者はいつも将棋の羽生善治さんを思い浮かべるそうだ。
 雑誌などの対談でよく一緒になるそうだが、話をすれば必ず勉強になることばかりで、学業的な頭の良さではなく、「真の意味で頭がいい」とは、こういう人のことを言うのだろうと思うらしい。
・まず羽生さんの根本として、知識の幅がものすごく広いということがある。
 そして、この豊富な知識を土台にして、将棋のことを説明する時などでも、じつに的確なたとえがすらすらと出てくる。
(なるほど、こういうふうに話せば将棋を知らない人でも理解しやすいと感じるそうだ)

・囲碁や将棋に必要なのは、こうした能力だ、と著者はいう。
 どちらも未知の世界にどんどん入っていくので、そういう時に自分の知識や過去の経験を基に適応し、自分の世界を切り拓いていく。
 以前に経験したことを同じ局面ではなくても活用し、自分が持っているものをヒントとして対処していく。これができる人は強い。これができないと、勝負の世界で勝ち続けていくことはできないという。
 その意味では記憶力も、自分の経験と知識のストックとして、ある程度は必要だろうが、それはあくまでも「あるに越したことはない」というレベル。本当に大事なのは、その経験や知識を「いかに活用するか」である。
 囲碁において、ただ暗記するだけでは何の役にも立たないという。
(井山裕太『勝ちきる頭脳』幻冬舎文庫、2018年、153頁~155頁)

定石は覚えて忘れろ


・囲碁ファンの思い込みとして、「上達にするためには、定石を覚えないといけないでしょうね」というのがある。
 「定石」(じょうせき)とは、本来は囲碁用語である。
(将棋では“定跡”とも書く)
 それは、過去の先人たちの研究によって編み出され定着した「ある部分において双方最善と認められた着手の応酬」のことである。
(このとおりに打っていれば間違いがないというガイドラインのようなもの。囲碁におけるマニュアル)

・囲碁ファンは「定石を覚えなければいけない」と思うが、これに対し返答することは、難しいという。
 というのも、定石とは、あくまでもマニュアルであり、それ以上でも以下でもないから。
(使い方しだいで、薬にも毒にもなってしまう。そのとおりに打っていれば、少なくとも大失敗はないという安心感はある。)
 
※著者は、師匠の石井邦生先生から「定石を覚えなさい」と言われたことは、一度もないそうだ。
 その理由は、おそらく以下のようなことであろうという。
・定石をデータとして覚えておくのは良いことだが、それはあくまで「部分的な打ち方のマニュアル」に過ぎない。
 囲碁とは、常に全体・全面を視野に入れた上で着手を決定する必要があるゲームなので、いくら部分的には好手であっても、全局的には疑問手となってしまうケースがある。
➡だから、「定石どおりの手を打つ」ことよりも、「その定石が全局にマッチしているかどうか」という判断のほうが重要となってくる。
 その判断力こそが、その人の囲碁の力と言ってもいい。
 従って、定石をたくさん知っている人が強いわけではない。
 記憶力=棋力ではない。

〇定石とかマニュアルというものは、決して正解ではなく、「あくまで一つの考え方」だと認識し、位置づけるべきである。
 やはり大事なのは、その人が自分なりに考えることである。
 
・自分で考えるということで言えば、藤沢秀行先生もそうであったという。
 人真似をすごく嫌う先生で、定石だからとか、誰かがこう打っていたからという理由で、その手を打ったりすると、烈火のごとく怒られたそうだ。
(逆に、秀行先生の目にそれほど良い手だとは映らなくても、その人なりに考えて打った手であれば、特に怒られなかったらしい)

※ただ、著者は定石の価値を否定しているわけではない。
 定石を鵜呑みにして頼りきってしまうことが良くない。
 定石というもの自体は、素晴らしいもので、先人たちが研究に研究を重ねた上に築かれたもので、黒と白の双方にとっての最善手が凝縮されているから。
 定石にちりばめられた一手一手の意味を理解し、その応酬の素晴らしさを味わおうとするなら、これ以上の勉強方法はないと言ってもいい。
 だから、定石に関して、難しい定石を手順だけ覚えようとするのではなく、簡単な定石でいいので、その一手ごとの意味を考えるようにするとよい、と著者はアドバイスしている。

〇完全に理解できなくても構わないから、自分であれこれ考え、そうした試行錯誤の末に身につけたものなら、その定石は囲碁ファンの皆さんの財産になる。
ただ漠然と手順をなぞるのではなく、全局にマッチしているかどうかの判断も、誤ることはないであろう。
 昔から言われている「定石は覚えて忘れろ」という格言は、かなりの真理だという。
(井山裕太『勝ちきる頭脳』幻冬舎文庫、2018年、156頁~159頁)

第七章 世界戦に燃える―日本碁界への提言と世界一への想い
 

中韓棋士、強さの源


・では、中国・韓国棋士は、具体的にどこが強いのか?
 
〇世界で活躍するトップレベルになれば、序盤、中盤、終盤とすべての分野で、強い。
 そのなかでも、読みであったり、計算であったりといった「答えの出る分野」での正確さが際立っているそうだ。

※勝負という観点に立つと、「正解がある場面で正解を出せる」ことは、非常に重要。
 そこで正しく打てるかどうかが、勝敗を決めると言っても過言ではない。
 中韓は、その点を最重要視し、読みと計算の能力を上げることを最優先している。

 この能力アップのためには、幼少時からの鍛えが必要不可欠。
 中韓ともに、優秀な才能をさらに伸ばす体制・システムが確立されている。
 読みや計算という「正解が存在する分野」の鍛え方が、日本よりも一枚上を行っている。
 だから、中韓の棋士は、答えの出る場面で間違えることが少なく、全体的に精度が高い。

●一方で、日本の棋士は、そうした分野でわずかに甘さがある。
 正解の存在しない序盤でリードを奪っても、中盤の戦闘で読み負け、終盤の計算で損をしてしまうので、最後には負かされてしまう。
➡これが日本棋士の典型的な負けパターン

※今の中韓と日本の差は、「正解が存在する局面で、正しく打てるかどうか」の正確さにある。鍛えられる部分を徹底して鍛えていること、これが中韓の強さの源。

〇さらに、「正解が存在しない分野」である序盤の布石でも、中韓は、着実にそして急速に進歩を遂げている。
・以前、日本のナンバーワンが怪しくなってきた頃は、「読みや計算では中韓が上かもしれないが、布石では日本のほうが上」と言われていた。しかし、近年では、この布石分野でも、日本は中韓に後れをとっている。
 というのも、中韓特に中国は、世界レベルの強い打ち手が集まって、序盤の共同研究をしているから。

・従来、「好勝負か」「白が良いとしたものだろう」と感覚的な判断で済ませていたものを、「本当にそうなのか?」とさらに深く追究し、はっきりと最終的な結論が出るところまで、突き詰めていく
・さらには、30~40手にも及ぶ布石の型を編み出され、「これが双方最善の手順である」と結論づけるなど、序盤で石数が少なくて漠然としていることから、「正解がない」「どう打っても一局」とされていた布石の分野に、正解を持ち込むかのような研究結果が出されている。
(今や、序盤研究においても、中韓が日本を上回っている)

※日本では、昔から「碁は自分一人の力で精進していくもの」という伝統があり、タイトルを争っている相手と一緒に研究するという土壌がでてきていない。
(井山裕太『勝ちきる頭脳』幻冬舎文庫、2018年、182頁~186頁)


中国・韓国から学ぶべきこと


・前項では、中国と韓国がいかに強いか、日本はなぜ勝てなくなったのかという問題について、著者の思うところを述べていた。
 「これでは今後、ますます差を広げられる」。その可能性はかなり高いことも事実である。
・ただ、著者は次のように考えている。
 江戸時代に家元が作られてからたゆまぬ精進を続けてきた日本の囲碁は、そんなにヤワなものではないという思いもある。
 日本の囲碁には、独自の良さがあり、それを前面に押し出し精進していけば、再び中韓を抜き返すことも不可能ではないという。

〇では、その「日本の囲碁の良さ」とは何か?
 それは、「碁は自分一人の力で精進していくもの」という日本の伝統的な考え方であるとする。
・前項では、この点を、中韓の共同研究に対する日本の負の要素として挙げた。
 じつは表裏一体で、中韓に対して日本が誇るべき、最大のアドバンテージだともいう。

・その傍証として、中国や韓国では、それまで世界戦で活躍していた一流棋士であっても、30代になると急に勝てなくなり、40代になればほとんど名前も聞かなくなってしまうことを挙げている。

※中国・韓国棋士の最大の強みは、安定した中盤から終盤の力であった。
 この力は、卓越した読みと計算の能力によって支えられており、脳が素早く働く若さが原動力である。(瞬発力といってもよい)

 だからこそ、スポーツ選手と同様、瞬発力に陰りが見え始めてくる30代になると、衰えてしまう。40代では、その傾向が顕著になる。
 中終盤の瞬発力に頼れるのは、20代のうちだからこそ、中韓の棋士の活躍期は短いのではないかという。

※日本の棋士はと言えば、このたび40歳で名人に返り咲いた高尾紳路さんをはじめ、山下敬吾さん、張栩さん、羽根直樹さん、河野臨さんら、「四天王世代」と言われる方々は、今も日本のトップレベルで活躍している。
 また、還暦を迎えられてもなおタイトルを獲ろうと闘志を燃やしている趙治勲先生は、今や「日本碁界の至宝」と言える存在。

〇では、なぜ日本の棋士は、このように活躍の期間が長いのか?
 これは若い頃に「自分で自分の碁を創り上げてきた」からだと、著者はいう。
 決して人真似ではなく、誰にも真似のできない「自分だけの碁」を、10代から20代にかけて確立してきた強みであるとする。

・読みや計算には、脳の瞬発力を必要とするので、この分野に関しては若い人が有利。
 しかし、囲碁は、読みや計算だけではない。人間では正解を導き出すことができない「感覚」の分野が存在し、勝負における精神面や人間性を問われるゲームでもある。

・古来、日本の碁は、そうした「感性」の分野を大事にしてきた。
 そして、この部分こそ、日本が世界に誇るべき点だと、著者は確信している。
 
※中国や韓国のマニュアル化した序盤や中終盤に特化した戦い方は、若くてもすぐに結果を出しやすく、勝利は摑みやすいかもしれない。
(なので、誰もがある程度までは割と簡単に伸びる)
 それにプラスできる「自分ならではのもの」に欠けるきらいがある。
 その一方で、日本の碁は、自分一人で創り上げていくため、芽が出るのに時間がかかるが、ひとたび実を結べば、それを長く維持できる。
(著者は、こういう図式を考えている)

※ただ、中韓には日本とはケタ違いの裾野の広さがある。すぐに次の若い有望株を出現するので、いくらでも新陳代謝が可能である。
対して、日本は残念ながら裾野が狭いので、一人の棋士に長く活躍してもらう必要がある。大器晩成を好むお国柄でもあるし、今の棋士の育て方が間違っているとも思えない。
要は、お互いの長所を認め、自分の良いところを大事にしつつ、相手の優れているところを取り入れる、融合のバランスであろう。

※日本碁界は、自分たちの良さ=自分の碁を創り上げることができる強みを根本に抱きつつ、中韓の優れている部分=答えが存在する部分で正解を出せる能力の鍛錬を導入していくべきだという。
 江戸時代からの長い歴史がある日本の碁は、間違いなく世界に誇りうるもの。
 正しい方向で精進を重ねていけば、いつか再び世界のナンバーワンに返り咲く日が来る、と著者は信じている。
 そのための大前提の一つとして、まずは裾野を広げるべく、囲碁界が本気でこのゲームを子供たちの間に浸透させていく必要があるという。
(井山裕太『勝ちきる頭脳』幻冬舎文庫、2018年、186頁~191頁)


≪勝負師の教え~羽生善治氏の場合≫

2024-07-14 18:00:52 | 囲碁の話
≪勝負師の教え~羽生善治氏の場合≫
(2024年7月14日投稿)

【はじめに】


 前回のブログでは、勝負師として、藤沢秀行氏を取り上げた。
 先日、7月12日(金)、池上彰氏がナビゲーターをつとめる「時をかけるテレビ」という番組があった。NHKの過去番組から時代を超えたメッセージを読み解くというのが趣旨らしい。2005年に放送されたものである「かあちゃんは好敵手―棋士・藤沢秀行と妻モト」では、藤沢秀行氏の晩年の日々の様子が映し出されていた。「最後の無頼派」「天才囲碁棋士」と呼ばれた藤沢秀行氏と妻モトさんとが、がんの闘病生活をどのように送っておられたのかがわかり、また、闘病中にもかかわらず継続された「秀行塾」の様子が伝わるものであった。囲碁に対する秀行氏の厳しさと“異常感覚”を垣間見れたような気がした。例えば、京大医学部卒業後、プロ棋士となった坂井秀至氏(のちに医師に転身)の棋譜を「秀行塾」で添削した際に、小さく囲おうとする「トビ」の手に対して、中央に出るためにどうして「ノビ」なかったのかと評しておられた姿は印象的であった。最後まで失われなかった、囲碁に対する情熱と、最善手を追求する姿勢には、心に刺さるものがあった。

 さて、今回のブログでは、次の著作を参考にして、勝負師の教えについて考えてみたい。
〇羽生善治『直感力』PHP新書、2012年
 プロフィールにあるように、羽生善治氏は、輝かしい業績をもつ将棋のプロ棋士である。
 2018年に棋士として初めて国民栄誉賞を授与されたことは、記憶に新しいであろう。
 その羽生善治氏は、本のタイトルにあるように、勝負師として、「直感力」を重要視されている。
 直感とは、「一秒にも満たないような短い時間であっても自分の経験則と照らし合わせて使うもの」(17頁)、「論理的思考が瞬時に行われるようなもの」「羅針盤のようなもの」(22頁)であるという。
 そして、将棋は、ひとつの場面で約80通りの可能性があるそうだが、著者の場合、その中から最初に直感によって、2つないし3つの可能性に絞り込んでいくという(32頁)。
(こうした「直感」や手を選択する際の考え方として、将棋に限らず、囲碁にも参考になる教えだと思う)

 また、「日本の将棋」(199頁~202頁)では、将棋の発祥は古代インドといわれているが、日本輸入の経緯は、貿易ないし交易に伴ったものである点を指摘されている。金将、銀将、王将(玉将)は容易に推測できるが、桂馬と香車は香辛料だそうだ。貿易、交易で取り扱っているものがそのまま駒になっているというは面白い。
 そして「底流にあるもの」(203頁~205頁)では、簡略化という日本の伝統文化の共通項について言及されている点も興味深い見方だと思う。

【羽生善治氏のプロフィール】
・1970年、埼玉県生まれ。将棋棋士。
・小学6年生で二上達也九段に師事し、プロ棋士養成機関の奨励会に入会。奨励会の六級から三段までを3年間でスピード通過。中学3年生で四段。
・1989年、19歳で初タイトルの竜王位を獲得。
 その後、破竹の勢いでタイトル戦を勝ち抜き、1994年、九段に昇段する。
・1996年、王将位を獲得し、名人、竜王、棋聖、王位、王座、棋王と合わせて、「七大タイトル」すべてを独占。「将棋界始まって以来の七冠達成」として日本中の話題となる。
・2008年には名人通算5期により、永世名人(十九世名人)の資格を獲得し、執筆当時、永世棋聖、永世王位、名誉王座、永世棋王、永世王将の全7タイトル戦で6つの永世称号の資格を有した。
・2012年7月、タイトル獲得数が81期となり、大山康晴十五世名人の持っていた生涯獲得タイトル数80期を超えて、歴代一位となった。

<著書>
・『簡単に、単純に考える』(PHP文庫)
・『決断力』『大局観』(角川oneテーマ21)



【羽生善治『直感力』(PHP新書)はこちらから】
羽生善治『直感力』(PHP新書)






〇羽生善治『直感力』PHP新書、2012年
【目次】
はじめに―直感をどのように活かすか
第一章 直感は、磨くことができる
 一瞬にして回路をつなぐもの
 直感とは何か
 「見切る」ことができるか
 約80通りの可能性から、瞬時に急所を絞る
 直感を磨くには多様な価値観をもつこと

第二章 無理をしない
 無駄はない
 何も考えずに歩く 
 空白をつくる
 何も考えないこと、ひとつのことを考え続けること
 底を打つ
 完璧主義に陥らない

第三章 囚われない
 意欲と楽しさについて
 分からないことこそ、やってみる
 苦手なものを引き受けてみる
 先のことは分からないもの
 読書について

第四章 力を借りる
 「他力」を活かす
 同世代のライバルをもつ
 自発的でなくとも頑張れる環境をつくる
 若手にならう
 スランプのとき、いかに心を処するか
 不調を乗り越えるための「経験のものさし」

第五章 直感と情報
 相手を研究するより自分の型
 データを自分の手として昇華させる
 将棋の強さか、型についての知識か
 インプット以上にアウトプットを
 データ分析と勘を併用する
 忘れること、客観的に見ること
 独自性、個性は積み重ねて初めてあらわれる

第六章 あきらめること、あきらめないこと
 勝敗の分岐点を知る
 見極めの精度
 健全な粘り
 ミスの後にミスを重ねない
 反省は後でするもの

第七章 自然体の強さ
 マラソンのラップを刻むように
 道のりを振り返らない
 自己否定しない
 先達にならう―大山康晴十五世名人のこと
 キャンセル待ちをする
 想像力と創造力
 ツキを超越する強さ
 情熱をもち続ける

第八章 変えるもの、変えられないもの
 水面下を読む力
 鉱脈を見つける勘所
 大変革は必要ではない
 アイデアは付け足されていくもの
 基本的なこと
 日本の将棋
 底流にあるもの
 思い通りにならない自分を楽しむ

おわりに―直感を信じる力





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・はじめに
〇第一章 直感は、磨くことができる
・一瞬にして回路をつなぐもの
・直感とは何か
・約80通りの可能性から、瞬時に急所を絞る
・直感を磨くには多様な価値観をもつこと

〇第三章 囚われない
・読書について

〇第五章 直感と情報
・相手を研究するより自分の型
・データ分析と勘を併用する
・独自性、個性は積み重ねて初めてあらわれる

〇第八章 変えるもの、変えられないもの
・水面下を読む力
・鉱脈を見つける勘所
・基本的なこと
・日本の将棋
・底流にあるもの







はじめに


・「直感」と「読み」と「大局観」。棋士はこの三つを使いこなしながら対局に臨んでいるという。

・一般的に経験を積むにつれ、「直感」と「大局観」の比重が高くなる。
 これらはある程度の年齢を重ねることで成熟していく傾向がある。
 「習うより慣れろ」ということだろうか。
 「読み」は計算する力といっても過言ではない。したがって、十代や二十代前半は基本的に「読み」を中心にして考え、年齢とともに「たくさん読む」ことよりは、徐々に大雑把に判断する、感覚的に捉える方法にシフトしていくのだろうという。

・何を選択し、行動するかには外的要因とは関係のないプリンシプル(原理・原則)があるのではないか。それを見つけ出さなければならない。
 そのときにひとつの指針となるのが、直感であるという。
 なぜなら直感は、無駄な迷い、思い、考えの無い状態で浮かび上がっているのだから、次に何をするのか、何を望んでいるのかが如実にあらわれる。
 本書では、直感がどのように具体化するのかについても述べている。
(羽生善治『直感力』PHP新書、2012年、3頁~5頁)

第一章 直感は、磨くことができる
 一瞬にして回路をつなぐもの

一瞬にして回路をつなぐもの


・棋士は、若いときには計算する力、記憶力、反射神経のよさを前面に出して対局する。
 年齢を重ねるにつれ少しずつ直感、大局観にシフトしていくのが普通の流れである。
 直感や大局観は、一秒にも満たないような短い時間であっても、自分の経験則と照らし合わせて使うものである。ある程度の実地経験を積んでからでないと使えない。
(つまり、成功したり失敗したりした経験を消化して、栄養となったものが、大切な財産なのである)

・どのコースを行けばいいのか。
 それを見極めるためには、記憶を駆使し、データに基づいて、その局面での最善手を選んでいくことも必要である。しかし、ずっと同じ位置で、同じ視線で考え続けても、結局答えの見つからないことは多い。
 さらに、よけいな情報を増しても(たとえば相手の読みや棋風などにまで考えを巡らせると)、邪心が入ってしまう。
(策士策に溺れるがごとく、自滅してしまう)

・それよりも、その状況を理解する、「ツボを押さえる」といった感覚が自分の中に出現するのを待つことが大事だという。
 その感覚を得るためには、まずは地を這うような読みと同時に、その状況を一足飛びに天空から俯瞰して見るような大局観を備えなければならない。
 そうした多面的な視野で臨むうちに、自然と何かが湧き上がってくる瞬間がある。

 たとえば、この形はこういう方向でやればいい、こういう方針で、こういう道順で行けばいいと、瞬時のうちに腑に落ちるような感じである。考えを巡らせることなく一番いい手、最善手が見つけられる。その場から、突如ジャンプして最後の答えまで一気に行きつく道が見える。ある瞬間から突如、回路がつながるという。
➡この自然と湧き上がり、一瞬にして回路をつなげてしまうものを、著者は直感と称している。
(本当に見えているときは、答えが先に見えて、理論や確認は後からついてくるものらしい)
(羽生善治『直感力』PHP新書、2012年、17頁~20頁)

直感とは何か


第一章 直感は、磨くことができる
・直感の正体とは何か。
 直感とは、論理的思考が瞬時に行われるようなものだという。
 勝負の場面では、時間的な猶予があまりない。
 論理的な思考を構築していたのでは時間がかかりすぎる。
 そこで思考の過程を事細かく緻密に理論づけることなく、流れの中で「これしかない」という判断をする。そのためには、堆(うずたか)く積まれた思考の束から、最善手を導き出すことが必要となる。直感は、この導き出しを日常的に行うことによって、脳の回路が鍛えられ、修練されていった結果であろうという。
 
・将棋を通して、著者は、それが羅針盤のようなものだと考えるようになったとする。
 航海中に嵐に直面した。どのルート(指し手)をとればいいのか分からない。
 そのとき、突如として、二、三のルートがひらめくことがある。これが直感だという。
 その直感にしたがって海図を調べ(検証)、最終的に最善のルートを決断するのは思考の段階だ。その前の直感は、具体的に頭の中で考えるとか表現するというものではない。自然と湧き出た感覚、「感じ」なのである、という。

・経験を積むことでも、直感を導き出す力は鍛えられる。
 直感は、本当に何もないところから湧き出てくるわけではない。
 考えて考えて、あれこそ模索した経験を前提として蓄積させておかねばならない。
 また、経験から直感を導き出す訓練を、日常生活の中でも行う必要がある。
 もがき、努力したすべての経験をいわば土壌として、そこからある瞬間、生み出されるものが直感であるという。
(羽生善治『直感力』PHP新書、2012年、21頁~24頁)

約80通りの可能性から、瞬時に急所を絞る


・たとえば将棋で、「何手ぐらい先まで読むか」といったとき、プロの棋士は、単純に「手を読む」ことだけをするわけではないそうだ。
 昭和の初期から20年代にかけて活躍した木村義雄14世名人は、「一睨み2000手だ」と言っている。これはかなり誇張もあるが、プロ棋士であれば、30分とか1時間とか、ある程度の時間を費やすことで、100手でも1000手でも「よく考える」ということだけであれば、できるようになるという。
(ただ、それをしたところで、その対局におけるあらゆる展開の可能性から見ると、全体のほんの1000分の1にも満たないようなことだけしか、分からない)

・いまの将棋は、情報収集と分析、研究が進み、それを記憶していること、それに基づいた読みを進めることが第一義のようにも、いわれる。
 たしかに読みは大切だが、それだけで結論が出せるほど、将棋は甘くないようだ。
 将棋は、ひとつの場面で約80通りの可能性があるといわれている。
 著者の場合、その中から最初に直感によって、2つないし3つの可能性に絞り込んでいく。
(残りの77とか78という可能性については、捨てる。たくさん選択肢があるにもかかわらず、9割以上、大部分の選択肢はもう考えていない。見た瞬間に捨てているということになる。)

・では、その80通りの中から直感によって、2つないし3つ選び出す作業とは、どのようなものか。
 それは、写真を撮るようなものだ、と著者は捉えている。
 カメラで写真を撮るときには、被写体に向かい、全体の絵柄(構図)を考えて、ピントを合わせる。このピントを合わせるような作業が、直感の働きではないか、という。

➡なんとなくここが中心、急所、要点ではないかといったことを、それまでの自分自身の経験則や体験、習得してきたことのひとつのあらわれとして、つかむことができたなら、そこには直感が働いている。

※直感は、目を瞑(つぶ)ってあてずっぽうにくじを引くような性格のものではない。
 またその瞬間に突如として湧いて出るようなものとも違う。
 今まで習得してきたこと、学んできたこと、知識、類似したケースなどを総合したプロセスであるようだ。
 直感は、ほんの一瞬、一秒にも満たないような短い時間の中での取捨選択だとしても、なぜそれを選んでいるのか、きちんと説明することができる。
 適当、やみくもに選んだものではなく、やはり自分自身が今まで築いてきたものの中から、生まれてくるものであるという。
(羽生善治『直感力』PHP新書、2012年、30頁~33頁)

直感を磨くには多様な価値観をもつこと


・直感は、だまっていても経験によって自然に醸成されていくものであるらしい。
 その醸成は、日々の生活の中でも、知らず知らずのうちに、行われている。
 そうした経験も大切だが、そこから何を吸収するかは、より重要である。
 それによって価値観も変わるから。

・だからこそ、時には立ち止まって、軌道修正が必要かどうかを確認しなければならない。
 直感のように感覚的なものは、とても繊細なものなので、少しのズレが大きな結果の違いを生むことも珍しくない。
 そして、目の前の現象に惑わされないことも大切。

※自分の思うところ、自分自身の考えによる判断、決断といったものを試すことを繰り返しながら、経験を重ねていく。そうすることで、自分の志向性や好みが明確になってくる。
(「好み」というと、単なる好き嫌いに聞こえるが、それはとりもなおさず自分自身の価値観をもつこと)
 つまり、直感を磨くということは、日々の生活のうちに、さまざまのことを経験しながら、多様な価値観をもち、幅広い選択を現実的に可能にすることである、と著者は考えている。
(羽生善治『直感力』PHP新書、2012年、34頁~35頁)

第三章 囚われない

読書について


・迷ったら本は買ったほうがいい。
・どんなかたちで役に立つかは分からないが、それが本のよさでもある。
 エンターテイメントであったり知的刺激であったり、さまざまなことを経験することができる。
 一人の人間が決められた時間の中で経験できることは限られている。古今東西の事象や考え方などを知るには他にはないものだと思うし、同様のものでは映像があるが、これはそのものの刺激がとても強いので、自分で考えたり吟味したりする余地は小さい。
 本を通じてたとえ他人から見たら意味のなさそうなことでも、自分なりに解釈してみることが、想像力や創造力を生み出す源泉になるという。
(羽生善治『直感力』PHP新書、2012年、76頁~78頁)

第五章 直感と情報

相手を研究するより自分の型


・十代の頃、対戦する相手の棋譜を1年分ぐらい、ずっと調べていたこともあったそうだ。
 しかし、すでに終わってしまった過去の対局の棋譜を調べたところで、必ずしも、次回同じになるわけではない。いたずらに心配の種を増やすだけだということに、途中で気がついてやめたらしい。
 つまり、相手のことを研究しても、あまり意味がないと。

・相手のことを研究するよりも、自分の作戦や型を充実させておいたほうがいい。
 自分のやり方を求めていくほうが、対応しやすいのではないか、と思い直す。
 相手がこう出てくるからこうしよう、というのではなく、自分はこうするのだということを、きっちり押さえておいたほうがいい。
 そうすれば、相手に誰がやってこようとも対応できる。
 だからそのほうがいいのではないかと、途中から考えるようになった。
 そして、そのための方法は、自分で自分に合ったやり方を研究するしかないという結論に至った。
(ただし、それは二十代に入ってからのこと)
(羽生善治『直感力』PHP新書、2012年、105頁~108頁)

データ分析と勘を併用する


・人間の能力は、若いときには記憶力とか、計算力とか、瞬発力といったところが強いものだが、年齢を重ねるにつれ、それはだんだんと変わってくる。
 棋士も、自分の能力のどこを一番の強みにするかは、時を経るにつれて変わっていく。

・たいていは、大局観のような漠然としたもの、答えの出ない場面や混沌とした状況の中で、どうしたらいいかということを、「正しく」ではなく「だいたい」でつかむ力が長けてくる。

・それは、コンピュータが「進化」していく過程とは、違う。
 コンピュータが進化していく、学習していく過程というのは、データを増やすこと。
 処理能力を高くして記憶容量を増やすとか、計算速度を上げるとかいったことである。
(いわば、ひたすら数を増やしていく作業)

・一方で、人間の進歩の過程は、たとえば同じ将棋が強くなるにしても、いかに悪手を見極められるようになるかが大事である。
 次第にたくさんの手を考えずに済むようになっていくことが、イコール強くなる、進歩していくことになる。つまり、減らしていく、捨てていくということである、と著者はいう。
(ただ、それで万全だと考えるのも早計だという。直感が合っているケースも少なくはないが、それと同時に一歩ずつ、着実に積み重ねる作業、まさに地べたを這うような泥臭い粘りも経験しなければならないそうだ。
 それは時には、コンピュータも行うようなデータの集積であったり、一縷の可能性を信じて砂場から砂金を探すような一つひとつの検証であったりもする)

※創造性と情報処理能力、感性とロジカルの両方を兼ね備えて、バランスをとることが必要である。
 加えて精神性。特に将棋のような長丁場の勝負の世界では、不安な時間に対してどれだけ耐性をもてるかが大事らしい。

※いま現在あらゆるジャンルで拡大を続けるデータとか情報といったものは、いわば人間の知識の集積である。だから、そこから打ち出される結論や道筋は重要である。
 また一方では、人間が本来もっている動物的な勘、野性の勘みたいなもの、そういうものも欠いてはいけない。
 それら双方を、自分の置かれた場面や状況に合わせて、上手に使いこなしていくということが、必要である。
 そして、そのいずれを選ぶのかという決断は、まぎれもなく自分自身の直感による。
(羽生善治『直感力』PHP新書、2012年、118頁~121頁)

独自性、個性は積み重ねて初めてあらわれる


・型や戦法をデータとして蓄積することは、いってしまえば暗記である。
 基本的な知識を押さえておく、この形になったらこうしてはいけないといったことを、全部覚えておけばいい。そうすれば、少なくとも最悪の局面にはしないように心がけることができる。
その局面にしてはいけないという形を何百通りか記憶しておけば、その前段階から回避するために、作戦を立てていくことができる。
(覚えた形を回避しさえすればいいのなら、それは単純に暗記とか記憶の問題である)

・こうした情報がどれだけ増えても変わらない大切さは、個性だという。
 さまざまな経験や知識、その集積からなる価値観に基づいて表出される独自性である。
 時には、今まで築いてきた経験則をゼロにして考えてみることによって、生まれるものもある。遠回りしながら熟考し導いたもののほうが、長期的視点に立てば、後々まで役立つことが多いといえる。深く考えて得られた自信、確信こそが、疑念や迷いが生じたときの支えになるらしい。
 独自性、個性は、一朝一夕にはつくれない。さらに、それを常に発揮するのは、もっと難しい。
 一手ずつの指し手に個性を出すことは難しい。ひとつの局面でどの選択肢を選んだところで、たいていそんなに違わない。そのとき可能性のある三つの選択肢の中からどの一手を選ぼうが、たいして大きな差が感じられるわけでもない。ただし、それを一局としてまとめ上げたときに、個性は自ずと生じてくる、という。

・常に戦型を研究し、覚えるといった基本は押さえた上で、プラスアルファのものを付け加えるということをしたい、と著者はいう。
 基本的な知識は踏まえた上でこそのオリジナル、個性である。
 将棋の世界では、データの重み、定跡や研究の成果といったものは、やはり軽視できないようだ。
・いかに自分の個性を出していくか。
 それは、今日意図したから出せるというものではない。
 基本を踏まえ、一手ごとの選択をし、時にはリスクを冒して決断するといった経験を重ね、道のりを歩いてのちに、自然とあらわれてくるものと著者は考えている。
(自分の意識や意図とは離れたところであらわれる、その個性こそが、総合的な「力」であるそうだ)
(羽生善治『直感力』PHP新書、2012年、125頁~128頁)

第八章 変えるもの、変えられないもの

水面下を読む力


・将棋の世界は、勝負によって結果がはっきりする自己責任の世界である。
 月並みなことをしていると、少しずつ状況が悪くなる。変化を恐れない前向きな姿勢が必要であるそうだ。

・元来、将棋の世界では師匠が弟子に何かを「教える」ことはなかった。
 それが最近は、師匠のほうから進んで弟子に手取り足取りしてしまうケースが多いという。それは弟子を思ってというよりも、師匠のほうが心配で仕方がないから、ついつい直接的に教えてしまっているようだ。
 だが実は、分からない、迷っている、悩んでいるとか空回りしているといった苦しい時間こそが、後々の財産になる、と著者は考えている。
(そこで自分の力を精一杯使ってもがいている人にいきなり、こうしろと教えてしまうのは、親切なように見えて、実際のところはその逆の作用をしてしまうとする)

・何事であれ、最終的には自力で考える覚悟がなければならない。
 何かのデータや誰かの意見に乗って、多数派だから安心だとか安全だとかいうことはない。
 自分で調べて自分で考え、自分で責任をもって判断する姿勢をもっていないと、自分の望んでいない場所へ流されていく可能性もある。
 その先を読む眼をもつためには、表面的な出来事を見るのではなく、水面下で起きているさまざまな事象を注視することが重要である、という。

・たくさんの情報が入手できるのであれば、それを活用するのもいいだろう。
 ただそこで、やみくもにその情報に従うのではなく、やはり自分なりの価値基準を決めて取捨選択することが必要になる。
 玉石混淆だと承知しながら、たとえば100なら100の情報をざっと見る。その後に、これはダメだとか、使える、使えないというような、取捨選択をするアプローチの仕方もあるだろう。
 そういうプロセスをとりながら、自分なりの決断方法を構築していく。
 ただ、取捨選択を繰り返すのではなく、そこで自分なりに判断したり、もがいたり、何か新しいアイデアを考えたりしながら、その先へと向かっていく。
 たとえば棋譜も、必要な情報が全部、そこに載っているわけではない。
 自分が本当に知りたいことは、棋譜にあらわれた内容を超えて、その水面下にあるという。表に出現しているところから一歩踏み込まないと、価値をもたないようだ。
(羽生善治『直感力』PHP新書、2012年、181頁~184頁)

鉱脈を見つける勘所


・表には出てこない水面下のもの、鉱脈を見つけるには、勘所(かんどころ)というものがある。
 棋譜の例でいうと、一手指す場面で30分考えるとする。
 すると、用紙には「30分」と書いて提示される。
 30分考えたということは、つまりそれだけ分岐が多い局面だったのである。
(いろんな可能性があるから30分も考えているのであって、基本的には、考える必要のないところに時間は使わない。つまり、この局面は盤上にあらわれた以外の有力な選択肢がいくつもあるのだということが想像できる)

・そのようにして、たとえば時間や盤上の形から、過去にその対局者が得てきたものを読みとって、そこに自分との共通項を見つけたり、常識といった前提条件みたいなものとも照らし合わせてみる。
 そして、そこから一歩先へと考えを巡らせていく。

※それは、ある種の勘といえば勘であるが、ひとつには「慣れ」の要素も大きいという。
 たとえば、どんな局面でもプロなら対応できるかというと、必ずしもそんなことはないらしい。
 やはり慣れている局面、よく知っている局面で羅針盤が利きやすくなるそうだ。
 したがって、まずはある程度の量を経験することも必要だろう。
 さらに、そうして押さえた量の蓄積を、いったんゼロにしたほうが何かが生まれやすい。

※量の蓄積、経験則が増えることによって、自分の中には「できる自信」のようなものが生じてくる。それは、自分自身を信じる力にも当然なり得るが、それを一回捨ててしまったほうが、新たに違うものが生まれやすくなるそうだ。
 だから、データでも資料でも、一度まったく見ないようにするとか、それらは別にして新たな研究を始めてみるといい。
 すると、既存のものに頼ることはできず、自分で考えるしかなくなる。
 それは心許なく、何も生み出せないリスクを伴うものであり、同じ地点まで辿り着くのに時間がかかることもあって、効率が悪いように思われるかもしれないが、長い目で見たときには、実はそうでもない。結局のところ、必死にもがいて身につけたものこそが、自分自身の力になる、と著者は主張している。
(羽生善治『直感力』PHP新書、2012年、185頁~187頁)


第八章 変えるもの、変えられないもの

基本的なこと


・将棋の世界では、基本的に師匠が弟子にああしろ、こうしろとは言わない。
 直すべきところがあっても、基本的には弟子が自分で気づくまでそっとしておく。
 これは自分で苦労して、自分なりの方法を見つけなさいという無言の教えである。
 その人の個性、本当のオリジナリティをつくるためにはそういった道筋が必要だからだ。
 ただ、よい部分を伸ばしてあげようという風潮はあるそうだ。
 環境としてそれを見守る姿勢でいながら、教えてもらう前に自分で考える習慣をつけさせるという。
(羽生善治『直感力』PHP新書、2012年、197頁~198頁)


日本の将棋


・将棋の発祥は、古代インドといわれている。
 言い伝えによれば、戦争好きの王がいて、明けても暮れても戦争ばかり。当然、家臣たちは困っていた。
 そこでアイデアをめぐらせ、盤上で戦争を疑似体験するゲームをつくった。王に実際の戦争をやめさせようというところから始まったといわれている。
 これが「チャトランガ」と呼ばれる、将棋の原型だという。

・最初は二人で遊ぶ双六(すごろく)のようなものから始まったようだが、西方へ渡ってチェスになり、アジアではそれぞれの国で発達し、その国ごとの将棋が発達した。
 インドにはインドの将棋があり、タイにはマックルックという、やはり将棋のようなものがある。中国の将棋はシャンチー、朝鮮半島ではチャンギという。
 日本に入ってきたのが、およそ千年前から千五百年前だそうだ。
 ただし、奈良の興福寺から出土した駒が、およそ千年前のものだとして、現在最古の駒といわれている。
 
・日本輸入の経緯はほぼ間違いなく、貿易ないし交易に伴ったものだという。
 これは、駒を見れば簡単に分かる。
 たとえば、金将、銀将は、見ての通り金銀財宝。王将も、王様ではなく、宝のことだ。
 『王将』という歌もあるが、本当のところをいえば、最初は王将という駒は実はなかった。「玉(ぎょく)」将しかなかった。玉、すなわち宝石を表す駒だ。主に翡翠(ひすい)を指すという。

・そして、桂馬と香車。
 これは、香辛料。
 アメリカ大陸発見の例を出すまでもなく、昔は香辛料がたいへん貴重なものだった。
 そうした金銀財宝と香辛料が駒になっているのだから、どう考えても、貿易、交易で取り扱っているものがそのまま駒になっていると考えるのが自然だろう、とする。

・そうした駒の取り合いを基調にした遊び、ゲームには、それぞれの国や地域の歴史や文化、伝統、思想といったものが色濃く反映されていく。
(これまでの歴史の中では何百という種類のルールが存在していたのではないかと思われる。その大部分は廃れてなくなってしまった。これが「歴史の淘汰」だろう。)

〇日本の将棋についていえば、二つの特徴がある。
①ひとつは、取った相手の駒を自分の手駒として使う、持ち駒再利用のルール。
 これは、世界中の将棋に類似したゲームの中でも唯一日本だけのもの。 
 駒の色を見れば分かるが、相対する双方が同じ色の駒で戦うのは、日本の将棋だけ。
 たとえば、中国将棋は赤と黒か緑、朝鮮の将棋であれば赤と青または緑というように、自分と相手とでは駒の色が違うのが、世界の将棋の中では一般的。

②さらに、日本ならではの文化が将棋にも反映されたといえる特徴もある。
 通常は、ルール改変の場合、盤を広くするか、駒の力を強くするかによって、面白さを維持するケースが多い。たとえば、囲碁なら、19×19という361のマス目。これだけ広いマス目があれば、動きや戦型の可能性も大きくなるので、それで面白さを維持するわけである。
 チェスの場合は、クイーンという非常に強力な駒をつくり、多様な動きを実現させることで、その可能性を増やしていった。
 このとき、日本の将棋はどうしていったか。
 それらとはまったく正反対の道をたどった。
 以前のルールと比べて、駒の数を少なくし、盤のマス目を小さくし、どんどん小さくしていって、最終的に81のマス目に40枚の駒で戦う形になったのが、約400年前ということになる。
(羽生善治『直感力』PHP新書、2012年、199~202頁)


底流にあるもの


・何事につけ、小さいコンパクトに、簡略化していくのは、将棋だけの話ではなく、日本の伝統文化の共通項ではないか、と著者はいう。
 江戸時代、将棋界には家元制度が布かれていた。
 茶道や華道と同様、世襲で代々継いでいく。
 そのため、伝統やしきたりに重きを置くという一面はあるが、それ以上に、この小さく、コンパクトにというのは、日本もしくは日本人のDNAに根付くものではないかという。

・たとえば、俳句や和歌。
 これは17文字ないし31文字という、極めて限られた字数の中に世界観を築き、感情を表現する。
 『万葉集』にしても、ただその言葉だけ字面だけ追っても、何をいいたいのかは分からないが、文字や言葉のあいだに垣間見られるより奥深いものを推察し、そこから展開される世界を追体験するからこそ、面白い。
 能もしかり。能面をつけることで、演じ手本人の顔の表情は見えなくなる。しかしその表情をまったく見えなくすることによって、その役柄のより深い情感のようなものを表す。
 さらに茶道では、千利休は本当に狭く小さな四畳半の空間の中に、森羅万象を表そうとした。

※その伝統的な世界の考え方、底流には、極めて簡潔に、簡素にするというところがあるという。

・そして、これは歴史や伝統の中だけの話ではなく、現代にも通じることではないか。
 と同時に職人芸ということでいえば、たとえばアニメーションは、1秒間に24コマとか30コマという絵コンテを描き、それを動かして成り立たせている。つまり、非常にきめ細かい職人技を必要とする。

・とにかく、簡素化していく。簡略化し、短くして小さくコンパクトにする。
 最近の流行でいえば、ツイッターなどもそうだろう。144文字。ほんの少ししか書けない媒体だが、それをたくさんの人が嬉々としてやっている。

・こうして見ると、表現され、想像される世界というものは、昔から基本的に変わらない。
 その現れ方こそジャンルや形式、時代によって異なるかもしれないが、根本的なものとして、底流にある考え方、発想というのは、いまの時代も、千年前の時代も、さして大きな違いはないのではないか、と著者は述べている。
(羽生善治『直感力』PHP新書、2012年、203頁~205頁)


≪勝負師の教え~藤沢秀行氏の場合≫

2024-07-07 18:00:01 | 囲碁の話
≪勝負師の教え~藤沢秀行氏の場合≫
(2024年7月7日投稿)

【はじめに】


 先日6月30日(日)、第72回NHK杯テレビ囲碁トーナメント1回戦では、藤沢里菜女流本因坊と小山空也六段との対局が行なわれた。解説の平田智也八段と司会の安田明夏さんが話されていたように、二人の対局者は三代続くプロ棋士だという。言うまでもなく、藤沢里菜さんの祖父は、藤沢秀行・名誉棋聖(1925~2009)である。

 今回のブログでは、その祖父の藤沢秀行・名誉棋聖が著された次の著作を参考にして、勝負師の教えについて紹介してみたい。
〇藤沢秀行『勝負と芸―わが囲碁の道』岩波新書、1990年

 著者の棋風は豪放磊落で、厚みの働きをよく知る棋士といわれる。ポカで好局を落とすことも多かったらしいが、「華麗・秀行」とも呼ばれた。酒、ギャンブルなど破天荒な生活で、「最後の無頼派」とでも称すべき人柄であったようだ。
 書の大家でもあり、安芸の宮島・厳島神社の鎮座1400年に際し、「磊磊」の文字を奉納したことでも知られる。

 さて、「あとがき」(198頁)にもあるように、「ガン闘病記を出しませんか」と岩波書店の担当者から言われたのが、この書物のはじまりだったそうだ。自身の生き様や考え方を、碁を知らない人たちにも読んでもらいたいと著者は思ったという。
 「ガンに打ち克つ」(93頁~97頁)、「秀行軍団」(102頁~109頁)を読むと、著者の人柄や闘病中の活動(勉強会・研究会、訪中)の様子が伝わってくる。

 ここでは、定石や厚みと実利など、囲碁に対する考え方などについて、要約してみたい。
なかでも興味深かったのは、「昔の名人と勝負すれば」(151頁~158頁)と題して、ご自分の好きな棋士について述べているくだりであった。
 秀策はなぜかなじめず、秀策のライバルの太田雄蔵に親しみをおぼえ、堅実な秀策よりも雄蔵の華やかな打ち回しに引かれたそうだ。明治初期の秀甫や水谷縫次の打碁約800局を、繰り返し並べたという。好みの棋士はやはり棋風によって変わるものらしい。
 また、藤沢秀行先生自身は、ご自分について、勝った負けたと騒ぐ前に相手を思いやってしまい、勝負師としては甘いかもしれない(180頁)、と述べておられる点が興味深い。
 
 ガン闘病中にもかかわらず、研究会を続けられたが、井山裕太氏も、その著書『勝ちきる頭脳』(幻冬舎文庫、2018年)においても、藤沢秀行先生について、次のように評しておられる。
「棋聖六連覇をはじめ名人、王座、天元などのタイトルを獲得した、昭和期を代表する名棋士」(148頁)

【藤沢秀行氏のプロフィール】
・1925年横浜市に生まれる。
・1934年日本棋院院生になる。1940年入段。
・1948年、青年選手権大会で優勝。その後、首相杯、日本棋院第一位、最高位、名人、プロ十傑戦、囲碁選手権戦、王座、天元などのタイトルを獲得。
・1977年から囲碁界最高のタイトル「棋聖」を六連覇、名誉棋聖の称号を受ける。
・執筆当時、日本棋院棋士・九段、名誉棋聖

<著書>
・「芸の詩」(日本棋院)
・「碁を始めたい人の本」(ごま書房)
・「秀行飛天の譜」(上・下、日本棋院)
・「囲碁発陽論」(解説、平凡社)
・「聶衛平 私の囲碁の道」(監修、岩波書店)



【藤沢秀行『勝負と芸』(岩波新書)はこちらから】
藤沢秀行『勝負と芸』(岩波新書)





〇藤沢秀行『勝負と芸―わが囲碁の道』岩波新書、1990年
【目次】
一 碁打ちをこころざす
 父・重五郎
 兄弟は十九人
 五歳で碁をおぼえる
 院生となり、福田先生に入門
 昭和初期の碁界
 皇軍慰問団
 入段のころ

二 青年秀行
 満州に一年
 木谷道場のこと
 棋士と戦争
 囲碁新社事件
 囲碁新聞を発行
 三好達治先生のこと
 昭和二十年代と呉清源

三 名人から棋聖へ
 “我々の時代がきた”
 名人戦創設に奔走
 第一期名人に
 ライバルについて
 酒と借金
 初ものに強い
 怪物にされる
 ガンに打ち克つ
 忘れ得ぬ人たち

四 次代を育てる
 秀行軍団
 中国はなぜ強くなったのか
 曺薫鉉と韓国碁界
 国際化の時代
 二十一世紀に向けて

五 秀行の盤上談義
 定石について
 秀行流の感覚とは
 私とポカ
 何手まで読めるか
 コンピュータは人間に勝てるか
 昔の名人と勝負すれば
 名局とは
 指導碁について

六 勝負か芸か
 なぜ芸にこだわるのか
 碁に強くなるには
 個性を伸ばす
 日常がすべて
 持ち時間について
 厚みと実利
 マナーが第一
 碁と年齢
 碁は難しい?
 九路盤で入門を
 プロの世界
 これからの碁界
あとがき





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


一 碁打ちをこころざす
 昭和初期の碁界

五 秀行の盤上談義
 定石について
 昔の名人と勝負すれば
 名局とは

六 勝負か芸か
 なぜ芸にこだわるのか
 碁に強くなるには
 日常がすべて
 厚みと実利







昭和初期の碁界


昭和初期の碁界
・木谷実と呉清源が新布石を打ちだしたのは、昭和8年の秋である。
 その夏、木谷は奥さんの実家である信州地獄谷温泉に滞在し、呉清源とともに構想を練ったという。
・本場所ともいうべき大手合で、二人そろって新布石を打ち、しかも好成績をあげたので、碁界はもとより世間もびっくりした。
 新布石は、わが国500年の囲碁史の中で、確かに一大革命といっていい。
 それまでの布石が小目を中心とする三線の組み立てであったのに対して、新布石は星を中心とする勢力とスピードをめざした新戦法である。

・星打ち自体は明治の秀栄名人が数多く試みているけれど、二連星、三連星となると、新布石のオリジナルだろう。
 新布石はさらに三々や天元、五の五なども加えて、盤上に幾何学模様を描き出した。

・新布石の熱病は昭和8年の秀哉名人と呉清源九段の記念碁で頂点に達する。
 <参考譜>に見るように、伝統的な小目の布石の名人に対し、呉五段は三々、星、天元と奇抜な陣を布いてファンの度胆を抜いた。
 この碁は終盤で名人に妙手が出て、呉五段の二目負けに終わったが、新布石の明快さは一般の共感を呼んだようである。

<参考譜>
名人勝負碁
 昭和8年10月14日~9年1月29日
        本因坊秀哉名人
 二先二・先番 呉清源五段

(注)
・黒1が三々(さんさん)~盤端から三線目の交点にある。
・白2と4を小目(こもく)という。
・黒3は星。
・黒5は特別に天元という。
・ほかに左下で説明すると、隅を先に占める場合、
 AとDが高目(たかもく)
 BとEが大高目
 Cが五の五である。


 長き夜や 三々の陣 星の陣

 こんな川柳がもてはやされたという。

・昭和9年には、平凡社から木谷、呉、安永一(はじめ)の共著である『囲碁革命・新布石法』という本が出た。
 安永は当時の日本棋院編集長だった。
 この本は碁の出版物としては空前の10万部を売りつくし、左前だった平凡社が立ち直ったと聞いている。
・一方、坊門の村島誼紀(よしのり)五段と高橋重行四段による『打倒新布石法』も出て、新布石の熱病はいよいよ高まった。

・私たちカスリ組は、そんな中で碁を学んだわけだが、著者自身はまったく新布石の影響を受けなかったそうだ。院生時代の棋譜が百局近く手元に残っているが、三連星は一局もないという。
 著者が三連星を時折試みるようになったのは、つい最近である。
 知らず知らずのうちに影響を受けていたのかもしれないという。

・木谷実や呉清源の活躍についても、すごい人がいるものだな、というくらいにしか感じていなかった。

・著者の勉強法はちょっと変わっていた。
 定石の勉強は、野沢竹朝(ちくちょう)の『大斜百変(たいしゃひゃっぺん)』を読んだだけで、ほとんどしない。
 何をしたかというと、故人の打碁並べである。
 愛読したのは本因坊秀甫(しゅうほ)先生の講評が添えられてある『囲碁新報』である。
 明治初期の秀甫や水谷縫次(ぬいじ)の打碁約800局を、繰り返し並べた。
 無意味に並べるのではなく、一手一手の意味を追求し、自分ならこう打つと考えるのだ。
 入段前の1年間は、1日10時間以上は並べたと思う。
 昭和37年、第一期の名人に就いたとき、瀬越先生から「きみの碁は秀甫に似ている」といわれたのも、このときの猛勉強が身についていたからだろう。

・秀甫に次いで並べたのが秀栄。
 秀策はなぜかなじめず、秀策のライバルの太田雄蔵に親しみをおぼえた。
 堅実な秀策よりも雄蔵の華やかな打ち回しに引かれたのかもしれない。

(藤沢秀行『勝負と芸』岩波新書、1990年、16頁~20頁)

<ポイント>
明治初期の秀甫や水谷縫次の打碁約800局を、繰り返し並べた
秀策はなぜかなじめず、秀策のライバルの太田雄蔵に親しみをおぼえた。
 堅実な秀策よりも雄蔵の華やかな打ち回しに引かれた



定石について


「5秀行の盤上談義」の「定石について」で、次のように述べている。
・碁のことばが一般的に使われるようになった例はずいぶん多い。
 「布石」とか「局面」などは常に使われている。
 「ダメ(駄目)を押す」などというのもある。
 「序盤」、「中盤」、「終盤」なども碁から出たことばと思う。
 それらの中でチャンピオン格は「定石」ということばだろう。
 
・定石とは何か。
 実のところ、著者にもよく分からないという。
 だから「定石はいくつありますか」とか、「どのくらい定石をおぼえればいいか」などというアマチュアの質問には、頭をかかえてしまう。
 部分において最善とされる一定の打ち方、それが定石の解釈だが、本当に最善かどうか、われわれにも分からないことがあまりにも多い。

・多くのアマチュアは定石について誤った考えを持っていると思う。
 定石は絶対だと信じ、定石をたくさんおぼえればそれだけ強くなるという錯覚である。
 だいぶ前のこと、一念発起して、『囲碁大辞典』を丸暗記したアマチュアの話を聞いたことがある。
 『囲碁大辞典』とは、古今の数万にわたる定石を記した鈴木為次郎先生の労作で、現在も多くの棋士が監修して改訂版が出されている。
 そのすべてを暗記しようとする努力には頭が下がるけれど、まったく上達しなかったそうである。当然だろう。
 定石はだいたい隅に限られている。
 四つの隅はかなり離れているから、アマチュアの方は部分部分で独立したものと考えがちである。
 しかしこれが大変な間違いで、各隅は程度の差はあれ、みな微妙に影響し合っている。
 したがって一つの隅だけで定石をきちんと打っても、あまり意味がない。
 部分といえども、盤全体との関連で一手一手が違ってくる。
 おぼえたての定石を使ったところで、どうしようもないのである。

・「定石の本を読むのは非常に参考になる。ただくわしくおぼえる必要はない」と、著者はいってきた。
 著者自身も定石の本を何冊も書いたが、決しておぼえよとはいってない。
 40年以上も前に書いた定石書の序文の一部を紹介しよう。

  元来定石といわれるのは、一局の最も初めに打たれたるものであって、隅から打ち出された定石はその定石から発展して布石を形成し、布石は中盤を、中盤は終局へと発展する。又、隅の定石は他との関連によって、ある場合にはある定石を打つことがより適切であるなど、隅の定石といわれているものは隅のみにおいて解決できると考えられているのは誤りである。(中略)読者はおぼえた定石を対局の際、応用することによって自然に良い知識を得て行く。実際に応用して初めて良き形と優れた技を自然におぼえるのである。つまり読者は良い定石の本を見るのは名画を鑑賞する気持ちで見てほしいと思うものである。」
(『置碁の一間締りの定石』)

・しゃちほこ張った文章だが、いわんとしていることは、お分かりいただけると思う。
 誰だって定石をおぼえるのは苦痛である。
 そうしておぼえた定石を後生大事に守ると、新しい発想が生まれず、上達にとってもさまたげになる。
 定石や形にとらわれては、進歩も何もない。
 ごく基本的な定石や常識的な形は、しっかり理解しておかねばならないとしても、あとは絵を鑑賞する気持ちで見れば十分と思う。見ているうちに分かるようになるものである。

・定石はずれ、大いに結構。
 私たちが悪いといっても、あなたがいいと思えば、どんどん打ってよろしい。
 好きなように打つところに碁の面白味があるのだ。
 そしてだんだん悪いことに気がついてくる。
 私たちの意見はあくまでも参考程度にとどめておくのがいいかと思う。

(藤沢秀行『勝負と芸』岩波新書、1990年、132頁~134頁)


<ポイント>名言
・読者は良い定石の本を見るのは名画を鑑賞する気持ちで見てほしい
・ごく基本的な定石や常識的な形は、しっかり理解しておかねばならないとしても、あとは絵を鑑賞する気持ちで見れば十分と思う

<ナダレ定石について>
・定石はプロの専売特許ではない。
 アマチュアが作った定石だってある。
 例えばナダレ定石。
 相手の石にぶつかっていくのだから決して筋はよくない。
 昭和の初め、『棋道』誌上で読者の質問があり、長谷川章先生が「そんなバカな手はありません」と答えたのだが、改めて調べたところ、変化があまりにも多く、立派に成立することが分かったという。
 こうしてできたのがナダレ定石である。
 ナダレは現代定石の花形といっていい。
 決定版とされるものが完成したと思っても、それをくつがえす新手が次々に現われる。
 私たちだって分からない部分が多いのに、それをおぼえろといっても、ほとんど意味がない、という。
(藤沢秀行『勝負と芸』岩波新書、1990年、134頁~135頁)

昔の名人と勝負すれば


・昔の名人と現代の一流プロとどちらが強いか。
 プロ棋士の間でも話題になることがあるようだ。
(雷電と双葉山、大鵬、千代の富士がいっぺんに戦えば誰が一番強いか、と考えるようなものであるという)

・昔の名人上手は数多い。
 名をあげるとすれば、江戸元禄期の本因坊道策、文化文政から天保にかけての本因坊丈和、丈和の弟子の本因坊秀和、その弟子の本因坊秀策、明治に入っての本因坊秀甫、明治中期から後期にかけての本因坊秀栄あたりが、万人の納得できる歴代の第一人者だろう。
 このほかにも、初代の本因坊算砂をはじめとして、名人碁所(実力的にも政治的にも碁界のナンバーワン。江戸時代の各家元は名人碁所に就くために実力を磨き、裏で熾烈な争いを繰り広げた)に就いた安井算知、井上道節、本因坊道知、さらに共に名人の力を持ちながら譲り合ったという本因坊元丈と安井仙知(知得)、丈和に激しいライバル意識を燃やした井上因碩(幻庵)ら、忘れてはならない古人ばかりである。

・この中で誰が最強だったのか。目移りするが、候補をあげている。
〇まず本因坊道策
・道策の碁については、断定的なことはいえないが、近代的な考え方は、道策から発しているといっていいとする。
 レベルが低く、部分部分の戦いに偏していた当時の碁界にあって、道策一人だけが、「石の軽重」とか「手割り」などの理屈が分かっていたようだ。
・だから、全盛期に先で勝負できる相手はなく、二子でも道策に苦戦している。
 実力十三段といわれ、棋聖と称される。
 梶原武雄氏はじめ古今の第一に道策を推す棋士は多いという。

〇本因坊丈和
・著者の好きな名人の一人であるという。
 力は古今無双を謳われる。
 確かに力戦の雄である。
 石が接触したときの強腕ぶりは「丈和は碁の鬼神か」と、同時代人が嘆じたという。
 しかし接近戦が強いばかりではない。全局的な構想力はすごいし、ヨセも巧みだった。

※丈和の打碁集を出すとき、集中的に調べたそうだが、四宮米蔵との二子局が強く印象に残っているという。
 米蔵は賭け碁打ちともいわれ、在野の棋士。二子置かせた丈和は、家元の権威を守るためにも負けられない立場にあったのだが、アマチュア特有の力碁を見事封じている。
 この丈和―米蔵戦には、名局が何局もあり、若い人に並べることを勧めている。

※丈和から本因坊秀和、秀策と続いて、幕末の黄金時代を迎える。
 秀和は歴史的にも重要で、秀策と秀甫を育て、秀栄は実子。
 明治の碁界は秀和から生まれたといっていいようだ。
 ただ、好みからいえば、とにかく強いと思うが、秀和の碁はあまり好きでないという。
(聡明で、優勢を確かめると、さっと逃げて細かく勝ってしまうところがあると評している。)

〇本因坊秀策
・33歳で夭逝し、上手(じょうず、七段)止まりながら、道策と並んで棋聖を称されている。御城碁(おしろご:江戸城黒書院で年一回打たれる将軍上覧碁)19連勝が高く評価されたのだろう。
(御城碁は江戸時代唯一の公式戦。これに負けなかったのだから、なるほど大記録である)

※ただし、好き嫌いでいうと、秀策の堅実さよりも、好敵手だった太田雄蔵の華麗さの方が、著者の棋風に合っているという。
 太田雄蔵には、剃髪するのを嫌って、御城碁出場を辞退したとか、面白い話が残っている。人間的にも魅力のあった碁打ちだったようだ。

〇本因坊秀甫
・幕府の保護がなくなり、衰退した明治初の碁界を立て直した。
・まず人間が立派だったという。
 日本棋院のはるか前身ともいえる「方円社」を起こして、囲碁雑誌を発行したり、外人に碁を教えたりで、とかく閉鎖的な碁界では珍しくスケールの大きな人物だったと評している。
・碁も超一流である。
※著者は、少年時代に一日10時間も秀甫を並べては、積極的でスケールの大きな取り口に感動したそうだ。

〇本因坊秀栄
・著者は、秀栄も影響を受けた一人であるという。
・碁の明るさは当時群を抜いていた。
 相手がやってくれば乱戦も辞さないが、ふだんは明るさだけでサラサラと勝ってしまう。
 戦う場と戦わない場をしっていたのが秀栄だという。
・秀栄は晩年の白を持っての打ち回しが特にすばらしいそうだ。
 次の棋譜はその一例。

【本因坊秀栄と田村保寿との棋譜】(1~120)
明治31年10月16日
 本因坊秀栄と田村保寿(先)、黒は田村保寿(のちの本因坊秀哉名人)
1~120手、以下略(ジゴ)



・黒39の鋭い攻めを白40からあっさりと捨ててかわし、62さらに78と中央から上辺をまとめて優位に立っている。
※名人芸とはどんなものか、この碁が教えてくれるような気がするという。


〇さて、以上の名人の中で誰が一番強いか。
・かつて囲碁雑誌でアンケートをとったところ、
 道策、秀策、秀栄の3人がほとんど差がなく、ベスト3にランクされたそうだ。
 美人コンテストみたいであまり意味はないが、プロの好みは、道策派、秀策派、秀栄派に分かれるようだ。
 道策派:梶原武雄、小林光一
 秀策派:加藤正夫、石田芳夫
 秀栄派:高川秀格、藤沢秀行
(著者である藤沢秀行は秀栄に一票を投じておいたという)
(藤沢秀行『勝負と芸』岩波新書、1990年、151頁~158頁)



名局とは


・名局はこれまで数多く打たれている。
 ただし、昔と今とでは名局の考え方が変化しているそうだ。
・先番必勝をテーマにした時代は、黒は堅実に、白は趣向をめぐらすのが当たり前とされ、悪手のない碁が名局とされた。
 現代は悪手のないことよりも、気迫や内容の面白さが重視される。
 悪手や見損じ、打ちすぎがあっても、それ以上に内容が面白く、見る者を感動させればいいのではないかという。
 悪手がまったくなく、一手一手が気迫にあふれ、なおかつ感動を呼べば、文句はない。

・著者の考える名局の第一条件は、その場面場面でいい手を盤上に表現したものである。
 いい手とは最善手である。
 何が最善手か、これが難しい。
 一局の中で、一つでも自分自身が納得でき、多くの人の魂を揺り動かせるような会心の一手を心がけたいが、そんな例はあまりにも少ない。
【藤沢秀行VS馬暁春の棋譜】
・応氏杯世界プロ選手権一回戦
 昭和63年8月21日
 先 藤沢秀行VS馬暁春
 
 棋譜の黒3の肩つきは数少ない例であるという。




・また、いい手が連続して一つの流れとなり、名画を鑑賞するように、見る者を感動させることも名局の条件であるという。
 現代の棋士で絵になる碁を時々打っているのは、武宮正樹ではないかという。
 位(くらい)が高くて味があり、気がつかない、いい手を見せてくれる。
 碁を絵とすれば、過去500年の歴史で、武宮正樹のような絵を見せてくれた者はいないといっても、ほめ過ぎではあるまい、とする。
(しかし出来不出来の激しいのが欠点で、名画を見せてくれたかと思うと、とんでもない駄作をものにするとも付言している)

・いい手――好手、妙手、名手は、碁の強弱とは関係ないともいう。
 「三歳の童子たりとも導師である」と、著者は若い棋士によくいうそうだ。
 その気になれば、アマチュアからも学べる。
 だから指導碁といえども軽く見てはいけない。
 木谷実先生はどんな指導碁でも手を抜かず、ふだんの手合と同じように時間をかけて打たれたそうだ。アマチュアに教えるというより、アマチュアからも学ぶという姿勢があったようだ。
(藤沢秀行『勝負と芸』岩波新書、1990年、120頁、158頁~160頁)


6勝負か芸か

なぜ芸にこだわるのか


・碁を芸の表現と見るか、勝負第一と見るか。
 棋士の考え方はさまざまである。
 圧倒的多数は勝負重視派だろう。
 例えば、坂田栄男さんは「勝つことがすべて。私は勝つことによって強くなった」と語っておられる。趙治勲さんも同じようなことをいう。

・しかし、著者には勝ち負けよりも、大切にしたいものがあるという。
 それを芸といってもいい。
 同世代の梶原武雄さんや山部俊郎さんは、著者の考え方に似ている。
 梶原さんはひたすら最善手を追い求め、勝つことなんかまったく念頭にないようである。
 勝つための妥協は考えず、最強手で相手を倒そうとするから、しばしば逆転負けを喫する。
 梶原さんにいわせると、勝負にこだわるのは不純であり、冠(かんむり、タイトル)を取ったといって喜ぶ連中はアホということになる。
(梶原さんほど徹底はできないけれど、著者は共感できる点が少なくないという)

・「勝つにこしたことはない。しかし碁は無限だから、強くなれば、勝ちは自然に転がり込んでくる。勝った負けたと騒ぐ前に、芸を高め、腕を磨くことを考えろ」と、著者は口を酸っぱくして、若い人にいっていたそうだ。
(ニワトリとタマゴの話ではないが、勝つから強くなるのではなく、強くなるから勝つのである。腕を磨いておけば、いつかどんどん勝てるようになるという)

※現在の碁界は、勝負があまりにも重視されて、大切なものが忘れられているような気がするらしい。
 どんな碁を打っても、最終的に勝てばいいんだという風潮が強い。
 果たしてそれでいいのだろうか。
 もちろん第一手から始まって最後の一手まで、すべてが芸である、と著者は強調している。
 (藤沢秀行『勝負と芸』岩波新書、1990年、164頁~165頁)

6勝負か芸か

碁に強くなるには


・腕を磨き、芸を高めるにはどうしたらいいか。
 アマチュアのみなさんは、打ちたいように打ち、楽しむことが第一だと思う。
 強くなるにしたがって、プロのまねをしたがる方がふえるが、これはあまり意味がないらしい。 
 プロの碁を並べるのはいい勉強になるけれど、ものまねに終わっては上達もたかが知れている。
 楽しんで打ち、壁にぶつかったら、別の打ち方を自分なりに試すのがアマチュアの最上の上達法であるとしている。

・碁にお金をかけなさい(「賭けろ」ではない)という。
 もう一つ、詰め碁を見るのもお勧めしたい勉強法であるという。
 “解く”のではなく、文字通り“見る”のだ。
  やさしい問題を見て、多少は頭をひねって考える。
 分からなければ、すぐ解答を見たってかまわない。
 難しい問題なら、解答を見ながら考える。
 だまされたと思って試してみるとよいらしい。
 いい勉強になることは、著者が保証している。

・頭の中で詰め碁を解くのはプロの勉強である。
 著者が若い時に、井上道節が著した難解な詰め碁集の『囲碁発陽論』を研究して解説書を出版された。
 その改訂版を出したところ、アマチュアよりもプロやプロ志望の子供たちが愛読したそうだ。
(依田紀基氏などは、どこに出掛けるにも『囲碁発陽論』を離さなかったという。)

・プロとは、かつぎきれない荷物を背負って曠野をとことこ行く人種であるという。
 努力を持続させる才能が要求されるし、倒れるまで勉強しなくてはならない。
 苦しいものであるらしい。
 超一流はみな、その苦しみを味わっている。これは碁の道に限ったことではないが。

・プロの勉強法だが、ふだんの対局が大切なことはいうまでもない。
 しかしそれ以上に日常が勝負という。
 自分の打った碁を反省するのもいい。
 一流棋士の対局や古碁を並べるのもいい。
 一局の碁には勝負どころがいくつかある。
 それを的確にとらえるよう訓練し、自分ならどう局面を動かすか、必死になって工夫する。
 (著者は、この方法で強くなったという)
・1日10時間も並べると、右手の人さし指のつめがぺらぺらに薄くなったり、変形したりする。
 武宮正樹氏から同じ話を聞かれたそうだし、最近では依田紀基氏がそうらしい。
 かつて小林光一氏は脛(すね)に毛がまったくなかったという。坐り続けて勉強したからだそうだ。
 これがプロの勉強だという。
 ぶっ倒れるまで勉強しろといったら、そのまま実行し、碁盤に頭をぶつけたのも気がつかずに眠り込んでしまった子もいたそうだ。
(藤沢秀行『勝負と芸』岩波新書、1990年、166頁~168頁)

六 勝負か芸か

日常がすべて


・腕を磨いて強くなる。
 この努力はプロなら当然だし、誰でもやっている。
 そこからさらに進み、人間を磨いてこそ、一流の碁打ちに成長するのだという。
・碁は人間と人間の勝負。
 最終的には人間の質が碁の優劣を決定するのかもしれない。
 そこまで突き詰めて考えなくともいい。人間の幅を広げ、人生観、世界観を豊かにすれば、盤上の見方も広がるのではないかという。
 人間が悪い方が勝負に適しているという狭い見方には反対であると強調している。

・昔の剣客は、禅を組み、書や絵を書いて、己れを鍛えた。
 著者は子供のころから盤上の勉強だけでは不安だから、いろいろなことに手を出したそうだ。
 老師の話を聞いたり、禅をやったり、漢詩を読んだり、自分で詩を作ったり。
 哲学書や歴史書まで読みあさったのも、人間の幅を広げようと思ったからであるらしい。
(藤沢秀行『勝負と芸』岩波新書、1990年、170頁~172頁)

六 勝負か芸か

厚みと実利


・勝つことによって強くなるのか、強くなることによって勝てるようになるのか―この問題とよく似ているのが、厚みと実利である。

・厚みと実利というのは碁の基本的な考え方である。
 「厚み」というのは、弱点のない、しっかりした石の形(姿)のことである。
 これを形容して「厚い」とか「手厚い」といっている。
(この反対語が「薄い」、「手薄い」である)
 また、実利というのは、対局者いずれかの領分(地)として確定した領域のことである。
 一般的にいえば、厚みを重んずれば実利を失うし、実利を重視すれば厚みを失うことになる。

・実利や地は現金に、厚みは信用にたとえられる。
 現金はそれ自体ではせいぜい利子がつくくらいだが、信用は一文にもならないおそれがある代わりに、将来2倍3倍になって返ってくる。

※ただ、実利と厚みはまったく相反するものではない。
 例えば木谷実先生は、実利を重視した打ち方をされたが、同時に厚いといわれた。
 あとくされのない実利を確保し、そこから力強く一歩一歩前進する。
 スピード感には欠けるものの、重戦車で各個撃破するような迫力がった。
 対照的なのが、呉清源先生である。
 超スピードで大場に先行し、部分の戦いにはこだわらない。
 木谷-呉戦が人気を集めたのは、棋風が相反していたからだろう。

・著者と坂田栄男さんも対照的といっていい。
 著者が手厚く構えるのに、坂田さんは足早に地を稼ぐ。だから中盤戦は著者の攻め、坂田さんのしのぎになることが多かったという。

 著者の場合は、知らず知らずのうちに、地の手より厚みの手に行ってしまう場合が多いようだ。例えば、次のような棋譜をあげている。
<譜13>
 第三期棋聖戦第一局
 昭和54年1月12・13日
 先番 石田芳夫九段
    藤沢秀行棋聖



・白1のカケは誰でも打てる。
・黒2の一手に白3、5と止め、黒6まではこうなるところだろう。
・次の白7に注目してほしい。
※評判は散々で、これに賛成する棋士は一人もいなかったらしい。
 「いくら秀行さんでも厚がりすぎだよ」という。
 なるほど白7では、Aとでも地につけば普通か。
 しかし、著者には白7と厚く備えて打てるという信念のようなものがあったという。
 地の手はまったく考えなかったそうだ。同じ局面がまた現れても、白7と打つかもしれない。これは棋風としかいいようがないそうだ。

※このような場合は善悪よりも好き嫌いになってしまうが、厚みか地かと考えるよりも、どこに打つのが最善かと考える方が正しい姿勢だろうとする。
 その場面場面で最善手は必ずある。常に最善手を追求するのが、棋士の務めである。
 
※現代碁では、いささか実利に偏しているように見えるとする。
 時代の風潮かもしれないが、必要以上に地を重視する。
 布石の段階から地の計算ばかりするようなことになる。もちろん地を第一に考える人があってもいいが、そればかりでは面白くない。
 戦い抜く碁、厚みで寄り切る碁など、いろいろな個性がもっと出てきてほしいという。
(藤沢秀行『勝負と芸』岩波新書、1990年、174頁~177頁)

≪勝負師の教え~中山典之氏の場合≫

2024-06-30 18:00:22 | 囲碁の話
≪勝負師の教え~中山典之氏の場合≫
(2024年6月30日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、次の著作を参考にして、先の疑問に答えるとともに、囲碁の歴史的なことについても述べてみたい。
〇中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]
 中山典之氏は、プロフィールにもあるように、本書の執筆当時、日本棋院棋士六段であった。
ところで、実際に、「どうしたら碁が強くなれますか」という質問は、最も度々質問されることの一つであるという。
 それに対する答えはいつも決まっているそうで、次の三個条だとする。
一、よい師匠を見つけなさい。
一、よい書物を探しなさい。
一、よい碁がたきを作りなさい。
(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、37頁)

 中山典之氏は、知る人ぞ知る、「囲碁界の講談師」という異名があり、囲碁史にも詳しく、また話が面白い。その一端を、中国や日本の歴史上の人物に関しても紹介できたらと思う。

【中山典之氏のプロフィール】
・1932年長野県に生まれる。1951年上田高校卒業。
・1953年鈴木五良八段に入門、1962年入段。執筆当時、日本棋院棋士六段。
<著書>
・「実録囲碁講談」(日本経済新聞社)
・「碁狂ものがたり」(日本棋院)
・「初段の戦略」(日本棋院)
・「囲碁の魅力」(三一書房)など




【中山典之『囲碁の世界』(岩波新書)はこちらから】
中山典之『囲碁の世界』(岩波新書)






〇中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]
【目次】
第一章 碁を愛した先人たち
 碁の起源
 勝負ごと
 賭碁は賭けにならない
 聖武天皇遺愛の碁盤
 宮中で囲碁の行事
 強手、醍醐天皇
 皇室でも囲碁を

第二章 二千年の昔、既にプロ級?
 三国時代の囲碁
 関羽の大手術
 斧の柄が朽ちる
 名手・王積薪、老女に学ぶ

第三章 囲碁で決った関ヶ原の戦い
 石田三成、碁を知らず
 家康は国手(名人)なり
 秀忠の大失着

第四章 囲碁史を飾った名手たち
 家元制度の確立
 碁聖、本因坊道策
 ヨセの名局のヨセに異議あり―梶原武雄九段の炯眼―
 文政・天保の場外乱闘
 松平家の血戦
 林元美、決死の弾劾
 此棊は手見を禁ず(この碁は待ったなしですよ)

第五章 プロ棋士生活白書
 きびしい職業
 トーナメントでは生活できない
 棋士とマスコミ
 盤上に夢を求めて

第六章 西洋囲碁事情
 西洋囲碁の歴史
 ヨーロッパ・ゴ・コングレス
 囲碁人口と実力
 チェスにとって替るもの
 大失敗も楽し
 海外普及について一言
 心の交流
 
第七章 コンピューターは人間より強くなれるか
 思考するコンピューターの出現
 十九路の盤上は変化無限
 そのときの驚き

第八章 ホンの少々、囲碁入門
 碁は簡単に覚えられる
 技術の第一歩、シチョウ

第九章 碁のある人生
 碁を知らなかった人
 碁を覚えるのが遅かった人
 碁をたっぷりと楽しんでいる人
あとがき




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇第一章 碁を愛した先人たち
・碁の起源
〇第二章 二千年の昔、既にプロ級?
・三国時代の囲碁
・関羽の大手術
・斧の柄が朽ちる
・名手・王積薪、老女に学ぶ

〇第四章 囲碁史を飾った名手たち
・碁聖、本因坊道策

〇第八章 ホンの少々、囲碁入門
・シチョウ




碁の起源

 
第一章 碁を愛した先人たち

・碁は、いつごろ、誰によって打ち始められたものか、いまとなっては誰にも分らない。
 歴史上の人物で碁を打った例をあげている。

・まずは明治の元勲は、たいてい碁を打ったそうだ。
 伊藤博文、大久保利通、西郷隆盛。
 下級武士の出身であるこれらの人々でさえ、大の碁好きであったのだから、大名や公卿は申すまでもない。
 最後の将軍となった徳川慶喜も、瀬越憲作名誉九段に五子(もく)置いて打ったというから、現在の標準で言えば、立派なアマチュア五段である。

・戦国時代の武将も実によく碁を打った。
 わけても、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人は、いずれも大の碁好きである。
 ときの名人クラスの碁打ちを集めて家元制度をこしらえた。
 国家の保護があったので、日本の碁の技術は大いに進歩し、現代碁界隆盛の一因につながっている。

・日蓮上人や菅原道真も、碁を好んだ。
 日蓮の書き残した書物には、碁を引用した話がある。本当かどうかは分らないが、わが国最古の棋譜(ゲームレコード)は、日蓮と弟子の日朗が建長5年(1253年)の正月に、鎌倉の松葉谷草庵で打たれたものと伝えられている。

・菅原道真は、いうところの天神さま。
 学問の神様とされているが、天神さまの作った漢詩の中には、碁を詠じたものがたくさんある。
 一つだけ、示す(『菅家文草』所収)
    囲碁
  手談幽静処 手談(しゅだん)、幽静の処
  用意興如何 意を用いること興如何(いかん)ぞ
  下子声偏小 子を下すこと声偏(ひと)えに小さく
  成都勢幾多 都を成すこと勢い幾ばくか多き
  偸閑猶気味 閑を偸(ぬす)みてなお気味あり
  送老不蹉跎 老を送りて蹉跎(さだ)ならず
  若得逢仙客 若し仙客に逢うを得ば
  樵夫定爛柯 樵夫定(さだ)めて柯(おののえ)を爛(ただら)さん

※詩の中にある手談と爛柯(らんか)は、囲碁の別称である。
 詩の題も、そのままズバリ囲碁となっている。
 当節、受験生が藁にもすがる思いで天神様に絵馬などを奉納するが、碁石の一粒でも奉納して、私は碁が大好きです、天神様、一番打ちましょう、とでも語りかける方が道真公の御意に叶うかも知れない、と著者はいう。

・平安時代になると、『源氏物語』の紫式部、『枕草子』の清少納言が、いずれもかなりの打ち手であったろうと思われる。
 両才媛の囲碁の記述は、囲碁の専門用語を使いこなし、情景描写も碁を知っていなければ、書けぬくだりがあって、まことに面白い。
※有名な国文学者でも、碁の用語が分らぬために、『源氏物語』の解釈が間違っているケースも少なくないという。

・もっと古い時代になると、『万葉集』に「碁師の歌」が見られるし、『古事記』の記述文にも「碁」の文字が使われているということである。

※さて、こうした次第で、大昔から多勢の人によって打ちつがれてきた碁だが、その起源については誰も明らかにしてくれない。
 ただ、碁は大昔に中国の聖天子、堯、舜が作ったと伝承されてきただけである。
(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、2頁~5頁)

三国時代の囲碁


第二章 二千年の昔、既にプロ級?

・中国の古書を見ると、碁に関する記述は2600年ほども昔の歴史書に出てきて以来、まさに山ほども見られるが、面白いからといっていちいち引用していては、とても紙幅が足りない。
 この際は西暦200年ごろ、中国が魏、呉、蜀の三国に分立していたころから始めることとしよう。
・当時の中国には、もちろん碁が存在し、しかも大いに盛んだった。
 魏の曹操は有名な兵法家であり、詩人であり、書家でありというすごい大人物であるが、囲碁の腕前も一流だったということだ。
・『三国志・魏書一』という書物の武帝紀注に、
「馮翊(ヒョウヨク)ノ山子道・王九真・郭凱等、囲棊ヲ善クス。太祖(曹操)皆與(トモ)ニ能ヲ埒(ヒト)シクス……(後略)」
 (※馮翊=郡の名。今の陝西省大茘縣)
とあるが、山子道、王九真、郭凱らと肩を並べる高手であったとは驚きである。

≪棋譜≫43手まで
 先 呂範(白)
   孫策(黒)


※古代中国では、貴人または技倆の上の者が黒石を持ったという。
(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、31頁)

・どちらが先であるかは分らないが、古書に書かれていることが確かなら、本局は呂範の先番と推定されるらしい。
・なお、中国では、近代まで四隅に置石を置きあってから、一局が始まった。

・呉の英主、孫策もかなりの打ち手であったらしく、その謀臣、呂範との一局が、中国最古の棋譜として今に伝えられているほどだ。
 中国最古の棋譜は、すなわち世界最古の棋譜ということになるが、この棋譜が、はたして孫策が実際に打ったものかどうかは誰にも分らない。
 ただ、その後、ずっと時代を降って、唐代に現れた王積薪、滑能などという「名手」の棋譜が一枚も残されていないことから見ると、『忘憂清楽集』(北宋の時代、11世紀ごろの棋譜が載っている書物)に突然現れたこの孫策・呂範局は、後世の何者かがこしらえたものだろうという説が多い。

・ただし、著者が面白いと思うのは、日本でも歴史に残る棋聖といえば、元禄時代の道策と幕末の秀策だが、孫策とはいかにも碁の強そうな名前であり、願わくばこの棋譜が本ものであってくれたらと祈りたい心境になるから、妙なものだという。
 事実、この碁に見せた孫策・呂範両雄の腕前はなかなかのもので、たぶん現代のプロ低段者に近い実力はあるようだ。
 鬼才、梶原武雄九段に並べて見せたところ、なかなかのものだと感心しておられたから、これは技術上では折紙付きだが、いよいよもって後人の仮託という気配が濃厚であると記す。
(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、30頁~32頁)

関羽の大手術


第二章 二千年の昔、既にプロ級?
・三国志といえば、前半の主役はもちろん魏の曹操であり、対抗するのは劉備、関羽、張飛の三義兄弟である。
 この話は、武術の神様として中国で祭られている関羽将軍の話である。
 今を去ることおよそ1800年の昔、智勇兼備の名将関羽は、魏将曹仁を樊(はん)城に追いつめていた。勝ちいくさの関羽は、大将みずから北門の前に馬を進め、雷のような大音声で降伏を呼びかけた瞬間、500人の射手の集中射の的になり、その中の1本が右腕に突き立って、落馬してしまった。
 息子の関平以下、諸将が必死に慰留したため、関羽はひとまず退いて治療するかということになった。
 早速、部下に命じ、八方に手分けして、然るべき名医を探し求めていたところ、当時、天下に聞えた外科の名医、華陀(かだ)というドクターが突然、先方からやってきたという。
 かなりの重症で、矢じりに烏頭(うず)という毒薬が塗ってあり、その毒は既に骨髄にまで達しており、早く手を加えないとひじが動かなくなるという。
 医者の荒療治で、骨髄中に達した毒素を刀で削りとり、その上に薬を塗り込み、傷口を縫合すれば、大丈夫だそうだ。
 『三国志演義』は、次のように語る。
「陀、乃チ刀ヲ下シテ皮肉ヲ割開シ、直ニ骨ニ至ル。骨上已ニ青シ。陀刀ヲ用テ刮(けず)ル。悉悉声アリ(ぎしぎしと骨をけずる音がした)。帳上・帳下見ル者皆面ヲ掩(おお)ヒ、色ヲ失フ。公、酒ヲ飲ミ、肉ヲ食イ、談笑シ、弈棋ス。全ク痛苦ノ色無シ。

※この話には、著者はいろいろと教えられるところがあるという。
 当時は、手術のときに用いる麻酔薬などは当然なかったろう。すると、関羽が手術前に飲んだ数杯の酒も、手術中に手にした酒杯も、談笑も、ある意味では麻酔の一種と取れなくもない。
 そして、碁を打つということ自体が、もしも碁をザル碁程度以上に打てる者にとっては、まさしく麻酔の作用があると著者は記す。
 関羽将軍も、また良き打ち手であったろうとする。

※ところで、著者はプロ棋士として最も度々質問されることの一つに、「どうしたら碁が強くなれますか」というのがあるという。
 それに対する答えはいつも決まっているそうで、次の三個条だとする。
一、よい師匠を見つけなさい。
一、よい書物を探しなさい。
一、よい碁がたきを作りなさい。
(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、32頁~39頁)

斧の柄が朽ちる


・むかしむかし、晋(春秋時代、西暦紀元前500年ころ)の国の信安郡は石室山の麓に、王質という樵夫(きこり)が住んでいたという。
 ある日、木を伐るために石室山の奥深く分け入って行ったところが、小さな広場があって、木のかげの涼しそうなところで四人の童子が碁を打っていた。
 碁好きの王質、たまらず傍に寄って碁を眺めた。
 そのうちに、童子の一人が、
 「これ、食べる」
と、なつめの実のようなものをくれた。
 王質、ごちそうさまと礼を言い、それを口にふくんだが、不思議なことに、いつまで経ってものどが渇かずお腹も空かない。
 王質は必然的に時間の経つのを忘れ、いつまでもいつまでも碁を眺めていた。
 夕方近くになって、童子たちは碁をやめた。
 童子たちは、まだ傍に王質がいるのを見て大いに驚いた。
 我に返った王質、手にした斧を杖にして立ち上がろうとしたが、思わずよろめいた。
 どうしたことだろうと斧を見ると、斧の柄はすっかり朽ちはて、斧の本体そのものも錆びついてしまっている。
 これでは木を伐るわけにも行かぬから、家に帰るしか打つ手がない。王質は山を下り、村に入った。
 さて、村に帰ったが、どうやら村の様子がおかしい。道を行き交う人は誰も彼も顔を知らない人ばかりである。漸くにして、わが家とおぼしきところまでたどりついたが、その家は朽ちはてて荒れはてていた。王質は呆然自失。
 傍を通りかかった人に尋ねると、
「王質という人は、その昔、たしかにこの村に住んでいたそうですが、あるとき、一人で山へ入り、そのまま行方不明になっちゃったそうです。その王質さんの、確か七代目の王さんがこの近くに住んでいる筈だから誰かに聞いて訪ねてごらんなさい」と答えた。
 
※筋としては、日本の浦島太郎の話とよく似ている。
 ところで、この斧の柄が朽ちるという語を、漢字で書くと、爛柯の二字となる。
 爛はただれる、朽ちるという意味である。
 柯は柄であるから、この「らんか」という語は、転じて囲碁の別名となった。
 大正13年(1924)に発足した日本棋院(プロ棋士の団体)が最初に発行した雑誌に、『爛柯』というのがある。これは現在も続いている雑誌『囲碁クラブ』の前身であるそうだ。
 前に菅原道真公の漢詩を紹介したが、あの中にあった爛柯は、まさしくこの故事に基づいている。
(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、39頁~42頁)

名手・王積薪、老女に学ぶ


「第2章 二千年の昔、既にプロ級?」の「名手・王積薪、老女に学ぶ」(43頁~51頁)
に面白い話が載っている。

・唐の時代、玄宗皇帝の天宝14年(755)、安禄山の乱が起り、玄宗が都から追い落としをくらい、文武百官をひきいて、はるか西南の蜀の国、今の成都に都落ちを余儀なくされた。
 白楽天の詩、長恨歌にもあるが、けわしい山々の奥深く逃げこむこの軍旅は、さんたんたるものであったに違いない。

・唐代の囲碁の名手、王積薪も、翰林院(名儒、学者などが、皇帝の詔勅などを文章にする役所)の役人であったから、この一行の中にあった。
 碁は強くても武術で鍛えていたとも思えない文部省か宮内庁といったあたりの下っ端役人には、下役もつき添っているわけがないし、乗馬などはもちろんなかったろう。
・蜀の山道はいよいよけわしく、道中にある宿場や民宿(?)は政府高官の占有するところとあって、王積薪は泊るべきところもなかった。

・王先生、痛む足を引きずり引きずり、渓谷を深く分け入って行くと、オンボロの小屋があって、老婆と嫁が二人で暮しているところに出くわした。
 もう、一歩も歩けそうもないので、深々と頭を下げて一夜の宿を頼むと、飲料水と燈火を持ってきてくれたが、折しも夕暮れであり、二人の婦人は錠を下して寝てしまった。
 王先生の方は、やむなく軒下で横になったが、体のふしぶしが痛んで、夜が更けても眠れなかった。

・突然、姑が嫁に言う声が聞こえてきた。
 「良い晩ですね。でも、何の楽しみもなくて残念ですわね。碁でも一局打ちましょうか」
「はい、教えていただきましょう」
と嫁の声。
 しかし、不思議なことではある。
 家の中には燈火がないし、第一、二人は別々の部屋に寝ている筈である。
 おかしなことがあるものだと思って、王先生はオンボロ小屋の壁のすき間に耳を当てた。
 「東の五・南の九に打ちました」
 嫁の声が聞こえてきた。嫁の先手番とみえる。
 「東の五・南の十二に打ちましたよ」
 声に応じて姑が答える。 
 「西の八・南の十にいたしました」
少考した後の嫁の声。
 「では西の九・南の十にしましょう」
とおだやかに響く姑の声。

・さてさて、これはどうした棋譜になるであろうか。
 東だの南だのと麻雀みたいなことを言ってサッパリ分らないが、当時の中国の碁は四隅の星(第四線と第四線の交叉点)にお互いに置石を配置して打ったとされ、現代と違って、白が先手だったというから、仮に東西南北と盤端に書き込み、「東の五」は盤端から数えて第五線、「南の九」は盤端から数えて第九線とした棋譜をこしらえてみれば、図示したような布石となるという。
 もちろん、これは仮定の棋譜であり、本ものがどうだったかは分る筈がないけれど、中国の人はもっともらしく話を仕立てるものではある。


≪棋譜≫
西暦755年
 弈於蜀山中
  九目勝 姑(黒)
    先 嫁(白)
 立会人 唐 王積薪
 記録員 和 中山典之

※対局者が横になり、天を仰いで打ったので、左辺が東になり、右辺が西となった。
※【梶原武雄九段感想】
・白3、黒4はともに感度がすばらしく、特に黒は強い。
 ことによると碁の神様かも知れんな。


(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、46頁)

・ところで、この棋譜だが、白1、黒2は、かつての本因坊武宮正樹九段の宇宙流の傾向があって、なかなかの手であると著者は記す。
・また、白3と嫁が中央に打って出たのに対し、黒4とツケた姑の手は白1に対して分断攻撃の気配を示した一着。
 これまたなかなかの味わいがあり、あるいは名人の打った手かも知れない。
 著者としては、この棋譜の続きをもう少し見たい気分であるという。
 これだけでは、決して弱いとは思えぬが、どれくらい強いか測りようがない。

・さて、この深夜の一局、双方とも一子(し)を下すごとに少考を重ね、ほどよい間合いで進行して行く。
 腕時計、いや腹時計を見たら、もう夜中の二時を回っている。
 36手目、姑が言った。
 「もう、あなたの負けよ。わたしの九枰(へい、九目[もく]のことか)勝ちでしょう」
 嫁もこれに同意し、この一局は終了。
 しばらくすると、スヤスヤと安らかな寝息が聞こえてくるばかりだった。

・王積薪、この35手(ママ)を、しっかりと頭に刻みこんだ。
 夜が明けると、王積薪は衣冠を整え、老婆を拝して、指南を仰ぎたいと申し入れたのである。
 すると老婆は、
 「あなたの思い通りに一局を並べてごらんなさい」
という。王積薪、いつも肌身離さず持っている袋の中から碁盤を取り出すと、考えられる限りの秘術をつくして打ち進めて行く。
 打ち進めること十数手。老婆は嫁をかえり見て、
 「この人には常勢(定石、原則的な模範的進行例)を教えてあげれば充分ですね」
という。
 そこで嫁は、攻、守、殺、奪、救、急、防、拒の手法を教えてくれたが、それは何とも簡単、あっけないほどのものであった。
 よって王積薪、更に教えを乞うと、老婆は笑いながら答える。
 「いやいや、これだけ知れば、人間界では天下無敵でありましょうよ」
 王積薪、恭々しく礼拝して感謝の意をあらわし、では、と別れを告げる。
 十数歩も歩いたろうか。もう一度礼拝しようと振り返ってみると、さきほどまで確かにあった、あのオンボロ小屋は影も形もなくなっていた。

・王積薪は、その後、老婆の予言の如く、誰にも負けぬほどの腕前になったという、めでたしめでたしの怪奇物語である。

・さて、この伝説だが、プロ的に考察すれば、これは何とも難しい物語ではある、という。
 だいたいにおいて、碁盤なしで碁を最後まで完全に打てるのは、現在のプロ棋士の中には一人もいないと断言してよいそうだ。
 まあ、二子(もく)くらい弱くなってもよければ、時間さえかければ何とかなるだろうとも。
・然るに、蜀の山中の老婆たるや、僅か35手で一方の九目勝を読み切った。
 もしこれが事実なら、この老婆はまさしく棋神。
 著者よりも聖目(せいもく)くらい(想像を絶するくらい)強いのは間違いないという。
(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、43頁~48頁)


碁聖、本因坊道策


「第四章 囲碁史を飾った名手たち」の「碁聖、本因坊道策」(71頁~80頁)には、本因坊道策について述べている。

・江戸時代三百年の囲碁史は、ひと口に言ってしまえば、四家元による名人碁所(ごどころ)を賭けての血みどろな闘争だったといえるようだ。
 当時の考え方では、上手(じょうず、七段)の地位に達するのは、人間わざでは最高級のものとされ、その上の準名人(八段)、名人(九段)は神技の持主でなければうかがうことができぬ聖域とされていた。
そして、名人の芸に達すれば、幕府から碁所の地位を与えられ、家元四家の上に立って号令することができた。

※この点、現代の新聞棋戦による「名人」や「棋聖」が、たった(?)2、3千万円ほどの賞金を得て、しかも1年かぎりのタイトルを名乗るのとはケタが違うといえなくもないとする。
・ただし、昔の名人は一時代にたった一人しか許されていないから、もし、同時代に2人以上の名人級の打ち手が現れたら、事件がややこしくなる。
 名人の実力がありながら、こうした事情もあって名人になれなかった棋士に、本因坊元丈、安井仙知(知得)、井上因碩(幻庵)、本因坊秀和の四名手がいる。
(後世はこの4人を囲碁四哲と呼び敬っている)

・しかしながら、多少、実力がぬきんでていたところで、他家から名人碁所が出るのは自家の不都合。先祖に対して申し訳が立たぬという感情もあり、名人碁所がすんなりと決定した例はほとんどない。
 第四世本因坊の道策名人の場合は、珍しい例外だった。
 道策は、後世から「実力十三段」といわれたほどの怪物である。
 他の家元三家がタバになってかかっても敵わなかった。
 先(せん)はおろか、二子(もく)置いても勝てるかどうか保証の限りでないとあってはしかたがない。加えて道策は人物も立派、人望もあるとあっては、異議の申し立てようがなかった。

〇ところで、道策と現代のトップクラスの棋士とでは、どちらがどのくらい強いだろうか。

 この問いを著者もしている。
 これはなかなかの大問題であるという。
 プロ棋士にとっては、道策先生は神様みたいなものであったから、これとせいくらべをしようなどという元気のよい人は、昔からいなかったし、現代でも見当たらないという。
 ただし、いずれの時代でも、時の第一人者と道策先生の実力差は興味がある問題と見え、いくつかの話が書き残されている。

・道策の直接の弟子で、その死後に名人碁所となった井上因碩(道節)は、
「私が黒を持って道策師に向ったとすれば、不肖なりといえども道節、盤上の理はほとんど知りつくしているので、恐らくは百戦百勝であろう。
 しかしながら、これは十九道三百六十一路という限られた盤上だから言えることであり、もし、この小碁盤を四つ合わせて、千四百余路の大碁盤で勝負を決しようとすれば、道策師は多々ますます弁ず、であろうが、私は茫洋自失、どうしたものか分らなくなってしまうであろう。よって、私の真の力は、道策師に及ばざること三子であると自信している」

・また、道策没後130年、天保時代に名人となった本因坊丈和は、弟子の問に答えて、
「道策師と私が十番碁を打ったとすれば、最初の十番碁は五勝五敗の打分けとなるであろう。しかし、次にもう一度十番碁を打てば果して打分けにこぎつけられるものかどうか」
 語尾をにごしたようなことが伝えられている。

※この丈和先生もたいへんな大名人であり、幕末の棋聖、本因坊秀策が出現するまで、つまり明治以前までは、前聖道策、後聖丈和といわれたほどの人だった。
 明治になってから、秀策の株が上り、棋聖といえば道策、秀策の二人というのが現代での通り相場となっているのは、丈和先生としては少々ご不満かもしれないという。

・ところで、現代の棋士たちの道策観だが、半数以上の人は道策に無関心であろうとする。
 若い棋士たちの関心は、もっぱら現在打たれている趙治勲、小林光一、武宮正樹ら諸先生の打碁であるのは当然である。少し時代をさかのぼって、呉清源、坂田栄男、藤沢秀行。
 もう少し頑張って、本因坊秀策、村瀬秀甫、本因坊秀栄らの諸名手まで研究する時間的余裕がある人は、よほどの勉強家であろうという。

・だから、大半の棋士の答えは、次のようなものになるそうだ。
「道策先生と言っても、なにぶんにも大昔のことだから比較にならないでしょう。
 三百年の間に定石や布石も大いに進歩したのだから、当然、現代の方に分があるべきでしょう」

・これに対し、道策の碁が大好きだという人たち、例えば小林光一、梶原武雄、酒井猛、福井正明らの諸先生は、そんなことはありませんと首を振る。
 余人は知らず、道策先生だけは別格、比較するのも恐れ多いというムードであった。これらの道策党の気持を代弁すれば、次のようになる。
「なるほど、道策先生の時代の碁は、定石や布石が発達不充分で、今の目から見るとたいしたことがなさそうに見える。しかし、それも二十手か三十手までのことであり、未知の世界に入る中盤以降の芸は、とてつもなく高いものである。現代が道策を超えているなどとは、とんでもないことである」

そして、
「仮に、いま道策先生が出てきて、現代の碁を見たとしよう。
 最初の二日くらいはホホウと目を丸くされるかも知れんが、一週間もすれば、たかが三百年間の進歩など全部吸収してしまうだろう。棋聖も名人も本因坊も、全タイトルを持って行かれてしまうだろう」
※著者はこう想定している。

・著者は、小林光一・八段(当時)の『小林流必勝置碁』という本を書いたことがある。
 その中に「盤側余話」と題して、明治以前の歴史上の名手たちのランキングをこしらえて、発表したことがあるそうだ。
 それによると、次のようになっている。
 第一位 本因坊道策
 第二位 本因坊秀策
 第三位 本因坊丈和
 第四位 本因坊秀栄
 第五位 本因坊秀甫

※ところで、現代碁界が、このベスト5に割って入ることができるのだろうかという。
 呉清源、坂田栄男の両雄は実績から見て有望のようにも思うけれど、著者にはとても分るわけがないとする。

・著者も、道策先生の碁が大好きであるという。
 手元に130局ほどを集めて楽しんでいるそうだ。
 なにぶんにも神様の碁であるから、一手一手の意味はよく判らないが、アレヨ、アレヨという大騒動が終ってみると、相手が吹っ飛んでいるありさまが、ワクワクするほど面白いそうだ。
 よって、碁を打てる人のために、一局だけ、五子局の稽古碁をあげている。
➡これほど面白い碁も少ないから、碁を知っている人は是非並べて欲しいそうだ。

【本因坊道策と雛屋立甫の五子局】
 本因坊道策 中押勝
 白89手まで、以下略



・対局者の立甫は本姓を野々口と言い、京都に住んでいた高名の俳人である。
 この碁について、80年ほど経って名人になった本因坊察元が立甫は(プロの)三段くらいの力があるが、正式に勉強していないので、その力を利用されて逆に投げ飛ばされた(学ばざる碁故如是[ゆえかくのごとし])と評したという。

・事実、この碁の立甫宗匠の打ちっぷりは、闘志満々でまことにすばらしい。
 黒52では78と堅く連絡しておけば道策先生も閉口したのではなかろうか、と著者はいう。
・黒72と切ったあたり、並べていた著者は道策先生大苦戦とみている。
 それがどうしたことか、十数手進んだ白89では、黒の種石二子(もく)がボインと打ち上げられる始末である。
 (これはまさに道策の神技である)

※ところで、この野々口立甫、いろいろと逸話があるようだ。
 あるお百姓さんが畑に瓜を作っていたところ、夜な夜な狐に食われる。いろいろと防禦策を講じたが、相手はよほどの古狐(ふるぎつね)と見えてうまく行かない。
 そこで立甫宗匠の登場となる。
「鬼神をも感動せしむる、わが言の葉を以つてするに、妖魅の眷族(けんぞく)、野狐、なにほどの事かあらん」
と、気合するどく即吟一句、
  己(おの)が字の つくりを喰(くら)ふ狐かな
 サラサラサラと紙片に書き、これを竹に挟んで瓜畑のど真ん中に立てさせたところ、アーラ不思議や、その夜から狐がコンようになったということである。
 なお、立甫宗匠の句に、
  声なくて 花や梢の高笑ひ
というのもある。

※道策先生は、はるか梢の上の方、いちばんてっぺんに咲く大輪の花である。
 下の方で後世のヘボどもが、道策の芸がどうのこうのとガヤガヤ騒いでおるが、そんなことかも知れんし、そうでないかも知れん、ワッハッハと声なき声が梢の方から聞こえてくるような気がする、と立甫宗匠が詠んでいるように思えなくもない、と著者は評している。
 ともあれ、俳句の世界では、さしずめ松尾芭蕉が道策という役どころであろうが、そのひと時代前にも立甫のような日本語の達人がいたという。
(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、71頁~80頁)

シチョウ

シチョウ


第八章 ホンの少々、囲碁入門

【技術の第一歩、シチョウ】
【5図】シチョウ
・黒1と逃亡を計ったとき、白2と打つのは非常によい手である。
・以下、右、左と交互に黒を追いかけ、結局は黒を全滅させてしまうことができる。
・この技術はシチョウと呼ばれ、碁の手筋としては最初に覚える重要なものである。
・四つずつ並んで前進して行くから、「四丁」なのだということである。

(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、211頁)

【6図】シチョウ崩れ
・相手をシチョウにかけて、大きくいただいてしまおうというのは初心者の夢だが、前方不注意でえらい事故を起すこともある。
・図はその一例だが、三角印の黒があったりしたら一大事で、白11までと追いかけたところが、逆に白7の一子がアタリ(次に取られる)の状態となって、白11のとき黒12と逆に取られてしまった。
・「取ろう取ろうは取られのもと」とは、よく聞く話である。

・こんな結果になったりしたら、白としてはまことに不都合なことになる。
 将来、黒a, b, cなどと打たれることにより、両アタリ(二つの石が同時にアタリになって次にどちらかが取られる形)が山ほども生じ、白がボロボロに取られてしまうだろう。
・白は大急ぎでa, b, cに補強する必要があるが、とうてい間に合わない。
 つまるところ、国家の大方針が悪かったということになろうか。

(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、212頁~213頁)


【7図】ハテな?
・シチョウの行く手に、黒石や白石がゴチャゴチャしていたりしたら、話がややこしくなる。
・こうしたときは、皆さんは勉強のためにトコトンまでやってみることをおすすめする。
 失敗したってタカが盤上の石なのだから。
・ところで本図。白1のシチョウは成立するだろうか。

(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、213頁)

【8図】方向変換!
・白1以下、アタリ、アタリと必然の手順で、白11、13と妙なことになった。
・何と、奇妙な方向変換で新しいシチョウみたいなことになるではないか。
 光が鏡に当って屈折したように、ちょうど90度に折れ曲ったのである。
 シチョウの結果は、もちろん前方の状態によって決まるのである。

(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、214頁)

【9図】ちょいと一問 白1のシチョウの結果は?
・ここで、ちょっと面白い問題をさしあげよう。
・本図、白1と打ち、黒の二子をシチョウに取ることができるだろうか。
 ごくやさしい問題だから、たったいま碁を覚えたばかりのあなたでも、その気になれば解決可能である。
・白1に続いて、黒がaと逃げ出し、白がbとシチョウに追いかける。
 そして、その結果はどうなるだろうか。
・実はこの解答は本章の扉(205ページ)に掲げておいたので、チョイとご覧願いたい。
 白1のアタリから白77まで、完全なハート型ができあがるのをご覧いただけよう。

※著者は外国へ行って碁の講演をするとき、最初にこの図を大碁盤に並べることが多いそうだ。
 聴衆の中には初心者もいるし有段者もいる。
 中にはこれから碁を習おうという人もいるが、この問題はこれらすべての人々に大歓迎されるという利点があるようだ。
 もし、あなたがアマ高段者なら、9図の問題を見ただけで、頭の中で77手の先まで読みきれるであろう。
 また、もしあなたがアマ初段前後の棋力なら、実際に碁盤の上に石を並べて正解を得るだろう。
 
さらに、あなたが仮に初心者であったとしても、盤上に石を置いてみれば、試行錯誤の末に、この77手の正解にたどりつくだろう。
 なにしろ、正解手順はこの一つだけしかないのだから……。

※余談になるが、外国人はこうしたユーモアの世界にことのほか熱心で、本図は、英語、ドイツ語、フランス語などなど、各国の言語によってそれぞれの国に紹介されたそうだ。
 その種本になった中山典之『実録囲碁講談』の英語版で、翻訳者のジョン・パワーさん(日大講師、アマ五段)は、
 It’s a pity our games aren’t always this beautiful.
と書き添えてくれたという。

・なお、碁には、この他に同形反復を禁止するコウのルールがあるが、これについては、どうか、入門書なり、あたなの友人で碁を知っている人に聞いていただきたいという。
・結局、碁のルールは、
①地の多い方が勝である。
②周囲を取り囲まれた石は生存できない。
③コウのルール
の三つしかない。
(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、214頁~217頁)