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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

加茂町銭司のオニの竿立て

2024年07月30日 07時58分07秒 | もっと遠くへ(京都編)
数年前に聞いていた“オニ”の存在。

滋賀県の民俗を主に取材してきた写真家のKさんが、話していた“オニ”の存在である。

聞き取りされた銭司の人たちがいうには、竿に“オニ”がある。

その“オニ”を立てる。

そして翌日に“オニ”は竿ごと倒す。

実は、直近になってわかったことは、当日に立て、当日に倒すようだ。

銭司の子どもたちが描いた“オニ”。

描いて、立てて、倒すという“オニ”とは、一体なんであるのか。

興味を惹かれる銭司の民俗行事にようやく出会える。

“オニ”を描く日は、正月明けの休みの日。

描く子どもたちは小学生。

3学期がはじまる前の日曜日に、公民館に集まる。

この年の令和4年は1月4日の火曜日になった。

年末年始の冬休み期間中であれば、子どもたちも集まりやすい。

そういうことで決まった日である。

午前10時に参集する子たちは小学6年生以下、幼稚園児や保育園児も参加できる。

なんでも、令和4年は8人であるが、うち6年生は2人。

だから、翌年に参加できる子たちは6人で描くことになる。

“オニ”の絵描きに“オニ”の足つくり。

どうやら足は、タコのような足であるが、タンザクを繋げたような仕掛けらしい。

これらが揃ってから、“オニ”を木に貼り付けるらしい。

これらの話を聞いていても、見ていないだけに実感はわかない。

4日は、私の都合があり取材はいけないが、8日の土曜日が本番らしく、その日はなにがあっても訪れたい。

そしてやってきた午前9時。

この日も同行の写真家K氏。

年末に行われた京都府加茂町銭司(ぜず)宮小谷に鎮座する春日神社の砂撒き。

この年は、遷宮仮宮期の砂撒きの位置は、例年と変わりなくであるが、門松を立てる位置は、春日神社向かい側にある建物の前に設営された。

正月三日は、勧請縄かけ。

そして、本日は宮座行事にあたるオニの竿立て。

4日に子供たちが描いた赤オニ、裏面が青オニのようだ。

かつては、春日神社の東・西両座の年長男児家、でつくっていた。

それぞれの西座、東座の年長家に集まり、描いていたが、現在は銭司の公民館。

昭和60年ころには、既に両座ともが、公民館集まりだったそうだ。

また、“オニ”立ては、両座の2本であった。

平成29年まではそうしていたが、少子化などから考慮され、1本立ちに移した。

なお、ブログ「歴史探訪京都から~旧木津川の地名を歩く会~」によって詳細な「銭司の鬼立て」記事を公開していた。

その記事によれば、小正月行事のようだ。

さらには、子どもたちの減少により、一度は中断。

ところが、その年に村で火事が起こった。

そのことがあり、長老の判断で復活し、続けてきた“オニ”立て行事。

はじめて拝見した赤オニ。

怖いオニでなく、柔らかい笑顔の様相の赤オニの角は1本。



史料によれば、赤オニの角は2本。

青オニの角は1本、とあったが、この年は逆だった。

オニを描いた模造紙。

そのオニは、何年も使いまわしてきた木造枠。

表に赤オニ、裏面に青オニを描く際は、かつて使用していた木枠のオニを見本(※たぶんに平成29年のオニであろう)に描くのだが、その年、その年の年長者が描くので、その子の気持ちが表れているのだろう。

その見本のオニは、消防団倉庫にあった。



許可を得て撮った旧い様態のオニは、次の年も、その次の年も見本にしていくだろう。

つまり、後でわかるが、一年、一年に新しく描いたオニは、破り捨ててトンドで燃やすのだ。



木枠は例年使用。

オニの絵は、毎年が替わるわけである。

朝9時に集まった人たち。

4日に用意していたオニとか葉付きの竹も確認したら、そろそろ上げようか、と動き出した。

予め、公民館の駐車場に掘っていた竿竹を支える穴。

深く掘った穴に竹を突っ込む。

4人がかりで立てていくオニの竿立て。



竹の葉がある先に、両座の赤・青オニを取りつけた。

木枠のオニだけに、重量は相当な重さだ。

外れないようしっかり括っているオニ。

ロープは3本。

しっかり引っ張って立ち上げる。

3方に長いロープ。



固定する箇所は決まっているのだろう。

その間に、穴にはめた竹をしっかり固定させる。

太めの椎の才木(※一般的には割り木)を打ち込み。



何本も打ち付けて支柱が傾かない、いや倒れないようにガッシリ詰める。

ロープも解けないようにしっかり結ぶ。

時間にしておよそ20分の作業に、無事立ち上げたオニの竿立て。



現在は1本になったが、西座・東座それぞれが上げた2本時代の写真を拝見した。

カタチは今とまったく同じ。



ヒラヒラ、風に泳ぐ足の長さ、本数も同じ。

今日のように、木津川から吹く風があれば、なんとも気持ちいい景観。

見てわかるオニのカタチはまさに神社様式の千木(ちぎ)

銭司の神が大空に届くかのように立てた。

葉付きの竹はおそらくヒモロギであろう。



神が降り立つ場所。

つまりは神座。

とんどもその謂れがある


銭司の西座・東座それぞれの神。

だからこそ、銭司の宮座行事である。

このような形式を拝見するのは初めてだ。

神聖なオニの竿立てであるが、なぜにオニなのか。

さっぱりわからぬ銭司のオニの竿立て行事。

一旦は、ここで解散する。

この日の午後4時前に、再び集まってくる。

6時間ほど立っていたオニは、倒されるのである。

一日、数時間限りのお披露目を終えたオニは役目も終えるようだ。

撮影・取材していた私たちも解散。

午後までの時間を有効に使いたく、すぐ近くに立ち寄りたい同町の加茂町井平尾にこれより向かう。

ちなみに、消防団倉庫に木津川市消防団の消防車を停めていた。



出番はないと、思われるが市内でトンド焼き行事をする地区がある。

そこへの出動に待機しているようだ。

もちろん、ここ銭司のトンド焼きは10日である。

ここオニの竿立てをした駐車場で実施されるトンド焼き。

朝は早く、午前7時と聞いている。

(R4. 1. 8 SB805SH/EOS7D 撮影)

年中行事の一切を中断された木津川市吐師大宮神社

2024年06月30日 07時57分27秒 | もっと遠くへ(京都編)
この日も訪れた京都府木津川市吐師(はぜ)宮ノ前に鎮座する大宮神社

伺いたい行事は、その年の豊年を祈願する御田祭。

令和2年は、1月12日の日曜に行われたようだ。

その行事を知る手掛かりは、ネットにアップされたブログ記事である。

ブログ名は「京都のitベンチャーで働く女の写真日記」。

平成29年の1月11日にアップされた記事だから、当日取材に記録した記事そのものを、その日にアップされたそのレポート内容は、詳しい。

細かい手順なども記載されている内容の濃い取材。

神前に供えた玄米。

神に捧げる祭具をきちんと「三方(さんぽう)」と書かれていた。

存知しない方は、間違いなく「三宝(さんぽう)」の漢字を充てる。

であるから、ブログ執筆者は、その道を学んだ方であろう。

一度、お会いしたいくらいだ。

京都の年中行事の多くを取材され、写真もきっちり抑えており、相当なベテランであろう。

御田祭のポイントをかいつまんで整理しておく。

御田祭の行事には、神職はともなわない。

吐師の宮座十人衆によって斎行される行事である。

神遷しにお仮屋も存在する。

神社の門松飾りの松は、鋏で伐採する。

神饌は、三方にのせる籾付きの玄米。

御田祭の所作は、2人の宮守さんが行う。

その所作は、農具の鍬を用いる。

つまりは、田を耕す鍬起こし。

座中がおられる前でされる所作は3回。

田を耕すその所作を、吐師では「3回、田をかじる」という。

座中の前で行う籾落とし。手でつまんだ籾をぱらぱら落とす。

その籾は、大切なものだけに紅白の和紙を2枚重ねて、そこに籾を受ける。

それは、次に行う作業に関係する。

正月の門松は、この日に倒して、松の葉を採る。

門松の材は、左右に黒松の雄松(おんまつ)と赤松の雌松(めんまつ)。

柔らかい葉であればめんまつ。

硬い葉であればおんまつ。

長さも違う雄松と雌松である。

松は、枝部分を束ねて紅白の和紙で包む。

この松は、稲の苗に見立てた模擬苗。

ところによれば苗松と称する地域もあるが、だいたいが松苗。

三方にのせて神前に奉り、拝殿にて祓えの儀。

太鼓や、鉦打ち。

高齢巫女のソノイチが神楽を舞う。

ソノイチによる苗松植えの所作。

これら苗松は、氏子たち関係者がたまわり、苗代田をもつ農事者は、田の水口に立てる。

農事でない人は、たいがいは神棚に立てて祭る。

御田祭の一連は、氏子が苗松を作り、村神主の宮守さんによる苗代掻きが行われ、巫女のソノイチによる田植えの所作をし、祈祷された苗松をもって、苗代の育苗がすくすく育つよう祈願する正月初めの儀式である。

この日、9日に再び訪れた吐師(はぜ)の大宮神社

昨年末の晦日の日。

30日に訪れた吐師(はぜ)の大宮神社に見た正月迎えにかけた簾型しめ縄。

しかも、予期もせぬ丸形にかたどった砂撒きも


これには驚いたものだ。

本日は9日であるが、簾型しめ縄も、砂撒きもカタチを維持していた。

尤も、鳥居の真ん前辺りは、人や車が通る道だけに、うっすら状態になってはいるが・・・



おやぁ、ここで、気づいた社殿前。

正月期間に飾った門松がない。

早いところでは、3日まで。

少し遅れてでも、7日までの門松。

いつ、解体されたのだろうか。

まずは、参拝した。

その右手にあった阿吽の狛犬。



右手の狛犬に奉った葉付きみかんは、6日前に訪れた正月三日の大宮神社。

そのままの位置に変わらずにいたが、さすがに賽銭は姿を消していた


辺り一帯を見渡し、見つけた門松の解体状態。



御田祭に用いられる苗松の葉も、そのまま残っていた。

で、あれば、今日の日曜日にされると推定し、大宮神社に参ったが・・だれ一人も見ない。

見たのは、つい先ほどに参拝された女性だけだ。

神社付近にお住まいの方なら、と思って、らしきお家を訪ねてみる。



1軒は、神社域に建つ社務所らしき建物に・・・

呼び鈴、お声かけに、出てこられた高齢者夫妻に。

なんでもお二人は、社務所住まい。

で、あれば大宮神社の関係者。

神社の年中行事は詳しいだろう。

そう判断し、尋ねた結果は・・・

私たちは留守番の身。

年中行事についてはまったく知らない、という。

門松があったことすら、知らない、という。

この建物に住んではいるが、関心がないのか、知ろうとはしないのか、よくわからないお二人。

昨年の晦日に拝見した門松、簾型しめ縄に砂撒きは、一体どちらの人たちが、制作し、据えられたのだろうか。

ここに佇んだまま居るワケにはいかない。

神社周辺にお住まいしている方なら・・と探索する。

割り合いに近いご近所さんのお家の呼び鈴をおした。

屋外に出てこられた北座に属する方にお話を伺った。

氏が伝えてくれた北座・南座による神社行事は、2年前に一切合切を中断したそうだ。

まさかの回答に絶句した。

氏が伝える座が行ってきた年中行事の衰退ぶり。

どこの神社もコロナ禍中に入ってからは、ほとんどが行事を中止。

神事だけでもお勤めする地区もあるが、コロナがきっかけに、人が集まることは一切避ける人離れから、神社奉仕からも手を放す。

高齢化、少子化から、さらに拍車をかけたコロナ禍の時代に、明るい展望の火は灯しもできずに、解散した地区もある。

氏は、そのような判断にふれず、教えてくださった砂撒き。

当時の砂撒きの材は、裏山の山から採取した赤土だった。

市販されている砂を購入してきたが、財政難になった。

座中・氏子たちの意識は、昔と違って奉仕の心が消えた。

丸くカタチづくる砂撒きは、かつて集落の家々もしていた。

撒く場は、カド(ニワ)とか、門扉の外ぐらいな場まで。

そこに砂を撒き、丸く円を描いていたが、山土の砂が取れなくなった。

時代、文化の発展に、地道だった村の道はアスファルト舗装に移った。

ところが、アスファルト舗装に撒いた砂によって滑りが発生するようになった。

歩きの場合であっても、自転車で走っていく場合はなおさら危険状態に。

だから、しなくなった。

この点については、私が聞き取り調査した大和郡山市内における事例と同じだ。

地道の時代では、自転車でも滑らなかったが、アスファルトなどのような間平らな、つるつる道であれば、ずるっといってしまう。

だから、現在も大和郡山市に5地区が継承してきたが、町内に砂を撒くことなく、神社の境内にとどめている。

丸型の砂撒きは、心を丸くするものだと思っていたが一様に消えた。

実は、簾型のしめ縄は子供のころには見なかった、という。

住み着いた神社留守番の男性。

その人が、東北出身の文化を持ち込んだのだろう。

鳥居辺りは神域の馬場だったから、地元民は軽自動車なら通れる幅なので利用している。

なお、うちの息子も参加していた虫送りは10年~15年ほど前に消えた。

木津川市観光協会の歳時記・伝統行事に載っていた御田祭は、このようなことで地区から消えた、と話してくれた。

腑に落ちないのが、昨年末にはあった簾型しめ縄や砂撒きである。今日も痕跡があるのはなぜに・・

それらに対する回答はなく、だれかがしているのだろう、と・・・

氏がいう簾型のしめ縄は、住み着いた人は東北出身。

神社留守番の人が東北の文化を伝えた、というが・・・

奈良県内には、数多くみられる暖簾のように前だれ的系統の簾型しめ縄。

すべての地区ではないが、圧倒的に多く、集中する地域と、離れた地域に点在する地区もあるが、東北に共通すべき点が見つからない。

「しめかざり」研究者森須磨子氏の著書に簾のような「前垂れ系」と紹介された事例に、京都府や福井県、愛媛県がある。

が、その事例数がどれほどであるのか、調査されたご本人に尋ねるしかないが、多くはない、と判断する。

いずれにしても、古来の在り方を伝統行事として継承してきた吐師の御田祭は、中断された。

中断の期間が長ければ長くなるほど復活は難しくなる。

前述したように、平成29年に訪れ、吐師の御田祭を取材、記録された「京都のitベンチャーで働く女の写真日記」ブログが貴重な存在となった。

ところで、氏が語ってくれた、かつて行っていた地区行事の虫送り。



その場が、どのような地形にあったのか、神社から離れ、京都と奈良を結ぶJR奈良線の高架下をくぐった東の畑地が、虫送りのコースだった。

なるほどと思える広大な地は、未だ健在なり、ということだろう。



そのとき、北の京都から出発した列車が通過する。

通りすぎる列車は爽快。



もうすぐ奈良に入る列車を見送ってあげよう。

(R4. 1. 9 SB805SH 撮影)

木津川市吐師大宮神社・毎日参拝される女性の感謝

2024年06月27日 07時58分10秒 | もっと遠くへ(京都編)
様子伺いにでかけた木津川市吐師(はぜ)宮ノ前大宮神社。

尋ねたい神社関係者は不在。

前年の晦日に見ていた狛犬などの賽銭は少し増えている。



傍に小さな蜜柑を撮っていたころに、一人の中年女性が参拝されていた。

お声をかけたその女性は、大嵐でもない限り、毎日は山田川から15分かけて参拝している、という。

願掛けもあるが、むしろ日々の暮らしができることに感謝申し上げている、という。

ところで、ここの丸い形の砂はご存じでしたか、と尋ねたら、そういえば気づいてなかったそうだ。

年神さんを迎える吐師の砂の形。

他の地区では線であったり、四角い形もあるのです、と伝えたら、そうなの・・えーことを教えてくださったと喜んではった。

(R4. 1. 8 SB805SH 撮影)

加茂町井平尾の勧請縄

2024年06月26日 07時19分23秒 | もっと遠くへ(京都編)
午前中に立ち寄り、取材していた加茂町銭司(ぜず)のオニの竿立て。

同行の写真家のK氏とともに撮影に魅入っていた。

初めて見た銭司のオニ。

その鬼は、立てた竿の先。

ひらひら風に泳ぐ様は、まるで凧揚げの足のように見える。

火点けは、午後の時間帯なために、一旦は離れるが銭司により近い集落に、勧請縄がある。

その縄を拝見しに移動した行先は、同町の加茂町井平尾(いひらお)。

実は、令和2年の1月10日に拝見していた。

だから、その場所は、鮮明に覚えている


コロナ禍の時代に、勧請縄は架けられているのか。



それを確かめたくて、立ち寄った加茂町井平尾に勧請縄があった。

どなたか、おられたら話を伺いたいと思っていた。

が、通りがかりの人には遭遇しなかった。



上空は、透き通るような青空。

白い雲が浮かぶ天に向けた矢が今にも射られるようだ。

(R4. 1. 8 SB805SH 撮影)

精華町菱田・春日神社の七草粥

2024年06月24日 07時49分51秒 | もっと遠くへ(京都編)
朝早くに、献供される七草粥の調えに支度される二人の宮守さん。

正月三日に続いて、この日の行事である七草粥にも伺った京都府・精華町菱田宮川原に鎮座する春日神社。

都合、午前9時過ぎに到着した、そのときは既に七草粥は献供を終えていた。

献供の様相をとらえたく撮影許可をいただき、数多く供えた七草粥の所在を確認した。

本社殿に、七草粥を供えた器は黒塗りの椀。

末社の小宮は四社。多賀神社・西宮神社に龍田神社と祈雨神社(※)の四社。

小宮は菱田に勧請した神さん。



ただ、祈雨神社は元々菱田にあった、と伝わっているらしく、かつて菱田に干ばつがあり、雨乞い満願した神さんでは、と推測した。



それぞれに七草粥を盛る器は白のカワラケ。

一杯ずつ供えた。

また、割拝殿のうち、御供などを調整する部屋、つまりは御供所があり、窓枠の空間の数か所にも供えていた。



特徴のある供え方に、初めて拝見したあり方に地域の暮らしを垣間見たような気がした。

菱田は宮座があり、現在は、本座に真座の両座が年交替にハリマトの道具を作る、という。

弓を射るのは二人の宮守さんらしい。

一年間のお勤めをする宮守さん。

とんど行事にハリマト行事を終えて、次の宮守さんに引継ぎするようだ。

もうすぐ一年になる宮守さん。

一人は、昭和26年生まれの本座のNさん。

もう一人が、昭和32年生まれの真座のIさん。

ハリマトについては、常に座の代表。

つまり、上位者である社寺総代の許可を得ないと・・・

宮守さん二人が勝手な判断で、取材許可はできない。伺いをたて、許可、承諾を受けるには、社寺総代に・・・

丁度、そのころに、神社に来られた代表寺社総代の昭和23年生まれのYさんに伺った、弓始式の件。

今度の1月10日に行う行事名は「ハリマト」。

えっ、「ハリマト」ってなんですのん。

思わず関西弁で、質問した「ハリマト」。

充てる漢字は、「張的」。

かつては「貼的」時代もあった、という。

的は、弓始式に行われる弓打ち。

的は、ハリボテ・・ではなく、的様式の三重丸の黒マトを書いた紙を貼り、綺麗に張って糊付けするから「ハリマト」。

これこそ民俗語彙例のひとつ。

矢を射る的つくりを、そう呼んできたのであろう。



その後に来られた方は、本座の一老を担っているAさん。

元消防署長のAさんは79歳。

詳しく話してくれた菱田の春日神社や年中行事のこと。

ハリマト行事を終えてから配っていた「トウビョウ」は、稲藁でつくる。

太さは8cmほどになる。

3段に括り、一番上を三つ割にする。

ハリマトの黒的は、オヒネリにして洗米を収めたものが「トウビョウ」だ、という。

その「トウビョウ」は、春の時季につくる苗代に立てる、と話してくれた。

そう、話してくれた一老のAさん。

なんと育苗のはじめに、手動式機械でモミオトシもしている、というだけに、是非とも10日の取材よろしくお願いします、と伝えたら承諾してくださった。

稲作は、神社行事に関連するしめ縄用途のモチ米も栽培している。

8月31日は、春日神社のしめ縄かけ。

10日ほど前に、青田刈り。

刈ったモチ米の稲藁は、小屋に収めて陰干し。

そのモチ藁を結って、綯うしめ縄つくり。

機会を設けて、一連の作業、特に苗代に立てる「トウビョウ」、しめ縄つくりにしめ縄かけを拝見したいものだ。

そろそろ御供下げをしますので、と伝えてくれた宮守さんのNさんとIさん。



御供下げの様相も、とお願いして撮っていた七草粥下げ。

およそ数時間を経て、神さんが食を摂った七草粥も下げる。

まずは、本社殿から。

代表寺社総代のYさんが、見てくださいと提示してくださった資料、平成30年2月発行の『精華町文化財宝典』によれば・・・



その本社殿は、社伝によれば、平安時代の前期・大同二年(807)。

奈良大和の春日大社から神を遷し祀ったことがはじまりとされ、天明元年(1781)、文政七年(1824)の棟札が見つかっている国指定重要文化財。

入母屋造りに、重厚に層を重ねた檜皮葺。

春日大社から神を遷し祀ったならば、社殿は若宮社伝を拝領した春日造りのはずが、屋根の上方が切妻で、下方が四方に勾配をもつ切妻造り。

軒を支える蟇股、正面階段にある昇り高欄(※てすり)の宝珠柱、階段下に透垣(すいがいなどの細部の意匠が優れている構造形式から室町時代の前期に建之(※再建であろう)されたものと判断したようだ。

社殿から下げた黒塗り椀に収めた七草粥。



膳もまた黒塗り。

大切な祭具に御供を下げまつる。



そして四社に供えた七草粥も御供下げ。

さらに、下げた窓枠の間に供えた七草粥も。



10日に行われる弓始式のことや、本日の行事、七草粥も拝見し、退出したそこに見た砂盛り。



なんと、いつの間にか、二人の宮守さんは正月を飾ったしめ縄も、門松も撤去していた。

面白いことに、門松を立てた砂盛りは、少し移動し新たな砂山に移っていた。

(R4. 1. 7 SB805SH/EOS7D 撮影)

精華町菱田・春日神社の正月三日

2024年06月19日 07時54分24秒 | もっと遠くへ(京都編)
正月三日のこの日に訪れた京都府・精華町菱田宮川原に鎮座する春日神社

昨年の令和3年の大晦日。

12月31日にも訪れていた菱田の春日神社


1月10日辺りにされている弓始式の日程確認もあって訪れた。

コロナ禍中だけに、年中行事も中止せざるを得ない状況になる可能性も考えられる。

その確認に立ち寄った正月三日も、二人の宮守さんが斎行される年中行事。

そう、大晦日から、今日まではずっと毎日が神社のお勤めをされる宮守さん。

初詣参拝に来られる氏子たち。

家族とともにやってくる。

この日に掲げられたのか、存知しないが、高札に別途掲示してあった内容は・・・

予定していたとんどは、急遽中止の判断。

大晦日までは実施の運びとしていたが、このコロナ禍に新型「コロナウイルス感染拡大防止のため、1月10日(月)のとんどは中止します! 社寺総代会」であった。

コロナ禍の状況に、精華町住民が罹患者がでたそうだ。

罹患者が一人でも発症となれば、リスクがある。

とんど焼き行事に多数の人が集まるのは、まん延防止に繋がらない、と元日に役員協議し、とんど焼きは中止とした。

断腸の思いに、この年のとんど行事は、やむなく中止の決断をとられた菱田の社寺総代会。

と、すれば同一日の10日辺りに行われる予定の弓始式も中止であるのか。

その確認にも、あらためて正月初詣を兼ねて立ち寄った。



初詣参拝に受付する宮守さん。

大晦日に見たコロナ対策の指示に従い、手指消毒に右側通行で参拝する。



本社殿に奉っていた二段積みの鏡餅。

階段右中段に数本の献酒。

そして手を合わせてコロナ退散を願うとともに家族の健康祈願。

本社殿参拝に合わせて、参拝した数々の末社。



正面の本社殿右に並列小社が二社。



正面右手は、すべてを覆った簾。

あげるわけにはいかない簾。

日差しがきつい西日を避けて簾を設けたのだろう。



そう思ったが、違った。

宮守さんの話によれば、ここは祭具などを所蔵している場。

いわば、それらを隠す扉の役目にそうしているようだ。

社殿左も同様の設え。

末社は四社だった。

10日辺りに行われる予定の弓始式の実施有無は、そのころにまた判断するが、その日より前に行われる7日の七草粥をしている、と・・

4日後の七草粥行事は、午前8時に参集され、なにかと準備を経て、七草粥炊き。

準備を調えてから、本日同様、本殿ならびに末社の四社に供える、と話してくれた。

ありがたいことに取材を受けてくださった二人の宮守さん。

当菱田には、かつて数座があった、という。

だが、現在は本座と真座の二座で斎行している、と・・

(R4. 1. 3 SB805SH//EOS7D 撮影)

かつて鳥居、社殿に勧請縄をしていた精華町下狛本庄・春日神社に参拝

2024年06月18日 07時46分07秒 | もっと遠くへ(京都編)
京都府・精華町菱田宮川原の地に鎮座する春日神社の年中行事をネット調査。

その際に、出現したすぐ近くの神社。

所在地は、旧地名が「舟」。

近くの川に浮かべた船を動かす人たちが住む地区。

たぶんに、そう思えた地名考。

近くの川でいえば、煤谷川。

その川名は耳にしたことがある。

数年前の令和2年の1月10日。

春日神社の行事である弓始式について伺った日


春日神社前に流る川が、煤谷川(すすたにかわ)だった。

その煤谷川の東南辺りに該当しそうな精華町下狛本庄の地。

ネット調べであるが、その地の旧地名が「舟」。

舟集会所近くに鎮座する春日神社を訪問された方が、ブログに取り上げていた鳥居にかける勧請縄。

見事な造りの勧請縄。

鳥居にかけているから、しめ縄の判断もあるが、形態からして勧請縄に見える。

しめ縄そのものは、太く結った縄に、太めのわら束を据えていく形。

その数、多く13房。

まさに、旧暦閏年・大の月数にあたる一年間(※旧暦であっても、閏年でなければ12本)の月数である。

閏年の月数を示す時代は、近代でなく江戸時代以前。

明治時代のはじめに旧暦を廃し、新暦に移ったから、閏年13カ月の考え方が消えただけに、明確にわかる旧暦時代(※江戸時代のどこまで遡るのかはわかっていないが)の民俗。

特異な様式も見られた「愛しきものたち」ブログ

ずいぶん前になる2012年2月22日にとらえた民俗行事。

撮られた映像に身震いを覚えたくらい、特異な様式。

朱塗りの鳥居支柱に、からませようとしていそうなかけ方。

左右に一対かけ。

太く結った縄に組み込んでいる、と思われる葉っぱ。

植物はなんだろうか。

葉付きの枝を差し込み形成した勧請縄に歴史を感じる精華町下狛本庄・春日神社の行事。

「愛しきものたち」ブログによれば、同様の様式が本社殿にもかけられた状態をとらえていた。

なお、旧「舟」地名の認識は、精華町が挙げている「精華町域の木津川の渡し」が詳しい。

かつてそれぞれの地域に対岸まで往来する渡船業が成り立ち、つまり「渡し舟」があった
のである。

今日は、正月三日。

三ケ日の正月期間中であれば、勧請縄は、拝見できるかも、と思って訪問した。

ところがである。

「愛しきものたち」ブログが、アップしていた勧請縄が、見当たらない。

これは何事ぞ。

もしか、とすればだが、まず考えられるのがコロナ感染症対策である。

村の人たちの集まりに危惧。

コロナ渦中ではやむを得ない措置とみるか、それとも勧請縄つくりに材が集まらなかったのか。

つくっていた人たちが高齢化。

人の手も少なくなり、負担が大きい、と判断されての行事の中断。

この日、この時間に滞在していたが、ひとっこひとりも現れず、誰一人として遭遇しなかった。

正月期間中に、呼び出しするのも避けたい目出度い正月三ケ日に遠慮したが、参拝はしておきたい。

鳥居をくぐった正面に春日神社。



正月三日も白い神前幕を張っている祝い日。

神紋は、奈良大和の春日大社と同じく、下がり藤紋。

奉納者記銘の神前幕の寄進は、昭和四十七年拾月吉日。

秋のマツリに合わせて寄進されたのだろう。

拝殿前の柱に括り付けた門松。



割り拝殿に備えていたコロナ禍対策用途の消毒液。

そして、用意されていた撤饌。



たぶんに元日に催行された元旦祭に用意された撤饌であろう。

現在時間は午前10時過ぎ。

そのうち、家族そろって初詣をされよう。



元旦祭に奉った神饌。

二段の鏡餅などが見える社殿。



細めのしめ縄をかけていた。

参拝してから、じっくり拝見した下狛本庄・春日神社の狛犬。



特徴ある阿・吽の像。



どこかで見たような、ないような。

FB知人のMさんが、ときおりアップされる特徴ある阿・吽の像に見た顔。

にやっと笑う阿吽の二体に、思わずシャッターを切った。

奈良市のならまちにある鎮宅霊符神社に笑う阿吽像があるが、比較するとまったく異なる。

印象というものは、不確かなものだと再認識した次第だ。

(R4. 1. 3 SB805SH/EOS7D 撮影)

北稲八間・中垣内のおしょうらいさん迎えの線香立ては花挿し飾りの砂造り

2024年06月10日 07時48分01秒 | もっと遠くへ(京都編)
滋賀県の伝統行事を主に取材してきた写真家のKさんが、奈良・大淀町大岩の地に写真展をされた。

会場は、平日だけが営業の喫茶きまぐれや。

大岩の神社行事撮影に応援してくれた写真家のKさん。

当時、身体がどうにもこうにもの状態に、大いに助けてもらった。

そのことがあって、Kさんも私同様、平日だけが営業の喫茶きまぐれや会場をお借りして写真展をされた。

そのときの作品展示を拝見し、いくつかの行事を拝見したくなった。

その一つが、12月8日の「熟柿祭」と呼ばれる地域行事

祭事の場は、三重県名張市大屋戸(おやど)に鎮座する杉谷神社である。

是非とも拝見したい、もうひとつの行事は、地域行事。

お盆迎えの行事だから、暑い夏の8月13日。

場所は、京都南部の相楽郡精華町・北稲八間(きたいなやづま)の地区に住まう家々によって行われる習俗。

各家の門口に砂の台を設え、ご先祖さんを迎える形式。

きまぐれや写真展に見た映像。

ほぼ同じような形式を他の地区で見たことがある。

そこは、忘れもしない京都南部。

木津川市の鹿背山(かせやま)。

取材日は、先祖送りであるが、砂盛り
の考え方は同じであろう。

東に鹿背山。

西が北稲八間。

両地区は、まま近い位置にある。

しかも、どちらとも背後に山。

その麓に住む人の動きが、暮らしの文化、民俗をもたらし、相似的な関係性を生んだ、とも考えられる。

さて、生憎の精華町・北稲八間の8月13日である。

令和3年8月13日に発令された洪水警報発令地域は、京都市内、宇治市、城陽市、京田辺市、井手町、宇治田原町。
大雨警報発令地域は、京都市内、亀岡市、南丹市、宇治市、城陽市、八幡市、京田辺市、久御山町、井手町、宇治田原町、木津川市、笠置町、和束町、精華町、南山城村まで。

広範囲に亘る警報発令地域。

各家が、それぞれに行われるその日の習俗に警報が発令された地域。

酷くなれば避難をともなうかもしれない先祖迎えの8月13日。

もしかとすれば、中止?の決断も想定される警報発令。

コロナ禍による不適応判断でなく、大雨などによる注意報。

警報発令が気になる秋雨前線の動き。

警報を発令されていても、雨、風が荒れていない場合もある。

悶々と待っているよりも、車を動かせば、屋外の状態が肌で感じる。

どうされるのか、雨量も心配であるが、とにかく行ってみよう。

到着した時間は午後2時。

風は吹き荒れる、とまではいっていない。

草木が揺れることもない、弱い風だが、雨はやまない。

実は、北稲八間の集落地図を予め見ていた。

写真家のKさんが、事前に送ってくれた資料地図。

地区北に八幡社。

後に取材することになった北稲八間の鎮守社の武内神社もある。

寺院は繁昌寺に福林寺、観音寺(※)、十王堂などがある。

その地図に①から⑧までの印を入れている箇所がある。

そこが、おしょうらいさんを迎えの場であろう。

自宅を出発、午後2時過ぎに到着した北稲八間。

雨はまだまだ降るだろう。

車から降り、歩いて探すその場めぐりは、ちと難しい。

仕方なく、取り敢えず、であるが、この筋であろう、と思った集落道。

時間に余裕があるこの時間に、集落西外れに落ちつく。

雨やみ待ちの時間を設けたが、気もそぞろ。

他の地区も見ておきたい集落巡り。

念のために確認しておきたい南の集落は、まったく動きがなかった。

再び、北上し集落を南北に貫く村の道。



数分後に見つかった場に、これがそうだろ、と判断した砂を盛った状態。

まだ、花のない午後2時半の様相。

降り続く雨に濡れた砂盛りを撮った一瞬の数秒間。

身体が冷たく感じた雨降り。

再び、車を動かした。

近距離に見つかったここも砂盛り状態。



玄関前に据えられたそれ以上は見当たらなかった。

集落道の四ツ辻。



見ての通りの土砂降りである。

降りることもできないこの場は、精華町の谷区。

左折れした狭い道の集落をぐるぐる。

時速5kmのとろとろ巡りに神社や寺の所在地を確認してきた。

結局は、ぐるっと一周して戻ってきた。

すぐ近くに広地がある。

ここは、北稲八間集会所の駐車場。



停めた位置からでも見える石標に「延宝四年(1676)建之 観音寺遺址」。

観音寺は、明治四年北稲八間村小学校を建築するため、この地にあった観音寺の本尊の行先。

明治初年に廃寺となった岡本寺に、安置していたご本尊並びに諸仏像・什器を移した




詳しくは、平成30年7月に立てた「観音寺跡」解説を参照のうえ、北稲八間の案内図に沿って寺院・怱墓巡りをされるのも、佳かろう。



なお、この地図は、右行きが北の方角。

観音寺跡へは西南の方角になるので、注意されたし。

この場に滞在していた午後2時50分。



四ツ辻の角地に建つ民家に人の動きを目撃した。

建物の真ん前に流れる水路。

おそらく山の方にある農業池からの水流であろう。

ごうごう流れる水路と建物の間に据えた野菜などを苗ポットを並べる用途のトレーに・・・砂。。

そこに盛った砂山。

山は綺麗に平坦状態にしていた農業・園芸用途の育苗トレー。

これが、おしょうらいさんを迎える場であろう。

土に被せるように真砂土で覆う。



その作業をされている動きを見て、慌てて開けた車のドア。

カメラを手に、小走り。

傘をひらく動作がもどかしい。

門屋を出たすぐそこに砂モチされるご婦人に緊急取材をお願いした。

主旨を伝えて了承してくださった婦人。

昭和8年生まれの「88歳の姑さん、とこれからしますので・・」、に、千載一遇のご縁に感謝する。

「うちは遅い方ですが・・」、といいつつトレーに真砂土を入れていた。

これから準備しますので、と伝えられて、十数分待ち。



老人車を押してきたおばあさんが「お嫁さんです」と、いった婦人の手には2枚のかまぼこ板。

なるほど、である。

真砂土を均す道具はかまぼこ板。

十分に役立つ。

おばあさんは、家で栽培したお花をバケツに入れてきたが・・

家屋・軒下での作業では、雨に打たれる。

雨がかからない門屋に移動し、砂盛りを成型されるお嫁さん。



ここなら雨にも濡れることなく、安心して作業ができる。



慣れた手つきで、二人仲良く、おしょうらいさんに花生け。

四方に階段をつくり、摘んできた自家栽培のお花を綺麗に並べる。

摘んできた花の枝切りは、長さをとって鋏を入れるおばあさん。



お嫁さんは、綺麗に並べる花挿し。



「赤や、黄色ばかりの百日花では、見かけもねー・・」、と、いいつつ、白花のトルコギキョウも、追加した。

グッドデザインの花挿し。

この日に迎えるおしょうらいさんも喜んでくれはる迎えの花挿し。



えー感じでできあがった。

「いつもなら、道向かい側にある消防団倉庫前の地に、直接作るのですが、こんなけ降る雨には、場所替えするしかない・・」、と緊急対応したおしょうらいさん迎えの場。

今年は滅多にない大雨。

たぶんに初めてだ、と・・・

「夕方になれば、線香3本に火を点けて、おしょうらいさん迎え。3本のうち、火の点いた線香、1本だけ持ち帰って仏壇に火移し。縁側に無縁さん。ササゲ入りのおかいさんを供えています」、と話してくれた88歳のTさん。

突然の訪問取材に、これ以上迷惑をかけては、と判断し、失礼した。



後日に訪れたときに話してくれたお嫁さん。

先日来の猛暑に身体をくずしていたようだ。

短時間の取材にご協力いただき、この場を借りて、厚く御礼申し上げる次第だ。

砂モチに花挿しをされている時間帯なら、他所にも見られる可能性が高い。

再び、通りに入って見つかった階段もある砂盛り。



花も挿して、飾っている。

土砂降りの雨に、傘をさしていても背中から腰にボトボト落ちる雨。

ズックもボトボト状態に体力は、ますます消耗するばかり・・・

当初に巡ったときには、なかった位置に砂盛りが見つかった。



時間経過に、強い雨降り。

砂盛りは角がとれ、緩やかな形状になっていた。



周回して、また見つかった花挿したおしょうらいさん迎え。

再び駐車場へ。

車を近づけて窓越しに見たT家の砂盛り線香台に赤い火。

そういえば、お嫁さんのTさんが云っていた件。

「うちは食事前に線香立てますが、ご近所の皆さんは頃合いを見計らって線香をするようです」、と・・

えーーーっ、まさかここだ、とは・・・

大急ぎで車を停めて、線香灯しを拝見した午後4時。

どなたかわからないが、線香はもう立てていたのだ。



時間経過に灯した線香は5cmもないほどに短くなっていた。

なんとか火は撮ったものの、煙がたたなくて・・。

そこに、門屋から顔をだしていたご近所の男性に、名刺を渡して挨拶した。

「Tさんとこでしているの、なぜわかったんや・・」と、おっしゃる男性。

1時間ほど前に、初めてお会いし、取材許可をもらって・・・、と状況説明。



その男性曰く、大雨だからか「今日は、もうやらんとこか、思ってきたが、これならなんとか、線香の火点けはできそうやな」、といいつつ持ってきた線香に火を点けて、花飾りの線香台に立てた。

さっと抜いた1本を手にして、すぐさま戻って行かれた男性。



その時間帯、その様子を見ていたか、どうかわからないが、乗用車に乗ったまま、様子伺いの車が2台。

通過していた。

たぶんに、様子をみて、お家に戻られてから線香を取りにいったかもしれない。

この通りのご近所さんは、T家が設えた花挿し線香台を公認利用されているのだろう。

時間帯は午後4時15分。

見納めに、と思って、数十メートル西にある西山浄土宗寺院の太陽山阿弥陀寺

花挿しの際に話してくれたお嫁さんのTさん。

「お寺さんもしてはるし、ご近所の人も線香立てに来ると・・」、聞いていた太陽山阿弥陀寺。

このときの雨降りが、いちばんえげつない状況の土砂降。

水路の水は、あっという間に増水状態。

流れは早く・・・“ここに落ちたら、あっという間に流されてしまうやろな”、と・・・ひやひやしながらの駐車。

阿弥陀寺さんは、自転車もおける屋根付き駐車場下に設えていた。

傘はもたなくても、雨がかからない丈夫な屋根付きの花挿し線香台。

ただ、冷たい風が吹けば、心底、身体は冷たく・・・



気力で撮らせてもらったおしょうらいさんがやってくる印の煙に・・・ほっ。

帰りに、念のためと思って、最後の通り抜け。



砂盛り状態だった2カ所にも花挿しが見られた。



お寺さんを入れて5カ所にされていた花挿し線香台。

午後4時半に、撤退した北稲八間・中垣内のおしょうらいさん迎え。

これほどの大雨であっても、また未だコロナ渦中でもあるが、先祖さんを迎えるお盆の習俗は、とめるワケにはいかない。

北稲八間を離れてからだろうか。

夕方のニュースに京田辺、井手、に洪水警報を発令していたようだ。

昨日、今日の雨降りに広島や九州長崎、佐賀、福岡が記録的な大雨に見舞われている。

西日本どころか東海地方の各県も避難指示。

奈良も雨だが、住まいする地元、大和郡山辺りは落ち着いていた。

昭和8年生まれのTさんが嫁入りした北稲八間辺りの地区。

昭和28年8月は大災害を受けた、と話していた。

「亡くなった叔父の新盆のころやっただけに、はっきり覚えている」と、話していた。

記憶に残る大洪水。

木津川が氾濫し、ここら辺りの一面すべてが、海のようだった、という水ツキ。

Tさんが育った地は、ここ北稲八間より北になる高台地域。

「狛田、宮脇から見ていた木津川の大洪水に、恐ろしさしかなかった」。

後年に公表された「南山城水害」は昭和28年8月14日から16日にかけての災害

その後の9月25日。伊勢の志摩半島に上陸した台風13号がもたらした大災害は、さらに追い打ち。

Tさんが67年前に体験した記憶力が凄いと思った。

なお、さらに詳しい研究ノート『災害記録史料』があったので、ここにリンクしておくが、ロードに多少の時間を要する。

(R3. 8.13 SB805SH/EOS7D 撮影)

コロナ渦中であっても、円形の砂撒きを継承していた精華町祝園の民家

2024年06月04日 07時44分56秒 | もっと遠くへ(京都編)
京都府相楽郡精華町菱田。

コロナ対策中の春日神社で行われる年越し大祓。

宮守さんの御供あげを見届けて
、ハンドルをにぎった。

行先は、隣接する村落。

1月に行われる神事ごと。

「いごもり祭」行事をされている地域。

精華町の祝園(ほうその)。

年中行事に子どもたちが囃し立て中地区を巡る「二月節句の年越しおんごろどん」も取材した。

また、「いごもり祭」の際に受け取った稲籾を添える苗代の水口まつりも。

しかも、中秋の名月に子どもたちが集落を巡り、かつては月見団子、現在はお菓子を盗ってくる村公認の行事。

まさか、祝園にお月見どろぼうの行事が行われていたとは・・・

さらに、取材させていただいた大晦日にカドニワに砂を撒く習俗も記録した。

その砂撒きは、西北地区に限られ、今なお継承している民家は、ごくわずか。

平成30年に訪れ、数軒のお家がされている、とわかった。

あれから3年。その後も継承されているのか。

その確認に立ち寄った祝園の西北地区。

お家はどのあたりか、記憶に新しい。

確認がとれたお家は2軒。



馬場脇に住まわれるNT家。

また、同じく駐車場に大きな円を描いていたNM家。

午後3時過ぎの時間帯に表敬訪問したいが、久しぶりの対面に会話が長くなるかも・・

そう判断してお声をかけずに失礼するが、まだ見ておきたい大晦日の民俗。

地元、奈良県に戻り、次の行先に向かった。

(R3.12.31 SB805SH/EOS7D 撮影)

精華町菱田・コロナ感染症対策中、春日神社の年越し大祓

2024年06月03日 07時42分15秒 | もっと遠くへ(京都編)
時間が丁度合えばいいのだが・・・

正月行事を調べていた京都南部地域。

御田祭や、ケイチン行事ともいわれる弓打ち行事。

さらにはお寺行事のオコナイなども調べたい。

奈良にいちばん近い位置にある京都南部。

奈良の行事、習俗からみて京都南部の類似例を探していた。

ネットに見つかった京都府相楽郡精華町菱田・春日神社。

弓打ち行事がある、と・・・

1月10日あたりにされるのでは、と推測して出かけたが、終わっていた
ようだ。

今日は大晦日の31日。

どなたか、氏子らがおられたら尋ねてみよう。

それぐらいのつもりでやってきた精華町菱田・春日神社。

到着時間は、午後2時過ぎ。

所定の駐車場に停めて、参拝兼ねる行事調査。

ここ菱田・春日神社には、砂もちとか砂撒きは見られなかった。



注連縄は、門松飾りに固定した葉付きの竹に、藁で包んだ竹に取り付けた形式。

これまで、私が調べた範囲内であるが、珍しい形態である。



さて、この藁を束ねたしめ縄。

昨年の令和2年の1月10日に訪れたときに見た祭具の残欠

なるほど、このような形態でしめ縄をかけていたのだ。

理解できるしめ縄であるが、ほんに珍しい。



振り返り、見た手水鉢。

コロナ感染症対策に使用を禁ズ。

どこともでもないが、あるところにはきちんと抑えている手水の停止。

大勢の買い物客がやってくるスーパーやコンビニエンスストアなどの施設もまた、手洗い場は使えるが、洗った手を乾かすハンドドライヤーも使用禁ズ。

これでないといけない、ということではなく、それぞれ施設の判断。

その、手水鉢に刻印あり。



「文化十二年(1815)九月」は、奉られた日付け。

今から207年前。

寄進された人たちは、当時の若者。



今でいえば青年団或いは若者組だと想定される菱田の「若中(※他所では若連中表記もある)」。

「手指の消毒」は、神社備え付けの手指消毒剤。

そして、参拝は右側通行。



必要最小限のコロナ感染症対策に手を打っていた。

午後2時半、白衣を着用していた二人の宮守さんが動いた。

午後3時から行われる神事の前にしておく御供あげ。



これよりはじまる祭典は、年越しの大祓えのようだ。

御供あげされた宮守さんに、挨拶申し上げ、尋ねた弓始式の日程。

「基本、1月10日の実施であるが、村行事のとんど焼きの火番に消防士が待機せなあかん。その日が出初式に重なると、消防士は出初式に参加しないといけない。だから、菱田春日神社としてのとんど焼きができない。その対応に、令和4年は1月9日が出初式、と決まった。弓始式は、1月10日の成人の日になると思うが、確定的なことは本日、資料を持ち合わせていないからわからない」、と伝えられた。

ちなみに、本日の午後3時ころに来られる女性の宮司。

年越しの大祓えに御湯立神事をされるのだろうか。

夕刻時間が迫ってくる午後3時前。

見届ける時間の余裕もなく、ぎりぎり時間。

京都南部地域の調査はもう1カ所ある

そちらを優先したく車を出した。

(R3.12.31 SB805SH/EOS7D 撮影)