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日記帖

飛ぶ鳥のように、渡る風のように、流れる水のように、野に咲く花のように、煌めく星のように。

~日本における 文鳥 白文鳥 の歴史 (まとめ)~

2023-05-25 18:31:07 | 小鳥

日本における文鳥 白文鳥の歴史をまとめてみました。
このページは新しい情報がありしだい改訂します。

元禄年中(1688年‐1704年)? 日本へ船で来る 久永章武「ぶんてうの歴史」

元禄10年(1697年) 『江戸鳥類大図鑑』(113207526)P688~689によると、『本朝食艦』に文鳥の記載がある
           https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000330583
           文鳥の繁殖成功 明治前動物渡来年表 https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN10079809-20070331-0035.pdf?file_id=13101

享保10年(1725年) 蘭船により文鳥7羽持ち渡る (通航一覧245)明治前動物渡来年表      

享保19年(1734年) 蘭船により文鳥持ち渡る 明治前動物渡来年表

宝暦6年 (1756年) 輸入価格 カナリア37匁5分 紅雀15匁 文鳥7匁8分 明治前動物渡来年表

享和年間(1801年‐1804年) 茶山翁筆のすさび 巻之四 享和のころ備中備前に文鳥を畜(か)ふことはやり、これも一羽数十金にあたる、岡山藩よりいたく禁じられてつひにやみぬ。
              http://chazan.click/kanchazankenshoukai/9hokanko/hodeno-susabi/fudeno-genpon.html#mokuji-4

文化5年 (1808年)   『飼籠鳥』備前~岡山県~児島郡林村 佐藤九郎治という人が繁殖した文鳥を数百羽ずつ大阪や江戸に出荷している
           http://rara-avis.sblo.jp/article/52826680.html

天保年間(注:1831年 – 1845年)名古屋の東部に白文鳥が産出される 
               東京にては弓削田氏も大に文鳥を愛養し白文鳥をも専ら蕃殖
               久永章武「ぶんてうの歴史」

天保13年 (1842年)        「鳩小禽等図」では、白文鳥が絵に残されている。
                                      https://www.britishmuseum.org/collection/object/A_1881-1210-0-2520

嘉永年間(注:1848年ー1854年)神田小川町に住める蒔田氏
           白文鳥のなきは欠点なりとて鳥商に注文せしに此頃愛養者多き故雪白とも申すへき品甚だ稀なり
           久永章武「ぶんてうの歴史」

久永章武「ぶんてうの歴史」(『東京家禽雑誌』(40)p.7~, 1893(明治26)年) https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000210065-00
和名ブンチウは然るに世俗文鳥と書けり鳥名便覧に漢名は洋蝋嘴清人とあり即ち瑞紅鳥にして(中略)此の鳥の日本へ船齎せしは何れの年なるや今ま正に時代を證記するは頗る難きなれども二三の旧記に據り推考せしは今を距る二百年前即ち元禄年中(注:1688年‐1704年)かと思わるる当時繁殖容易ならざるも後には人々理を極め春期のみに繁殖したり降りて文化年中(注:1804年‐1818年)には春秋二期に繁殖し巣引法は人の能く知る処故記さず云々と或る鳥史にも見ゆされは此の頃は籠裡営巣雛を育成せしめ専ら羽色の美麗を愛玩せしものと見えたり然れども今日の如きの白羽のものはなく今云う並文鳥のみ然るに天保年間(注:1831年 – 1845年)名古屋にて東部に白毛を交ゆるもの産出し換羽毎に背胸部にも白羽を生し漸々全体純白にも変する微證を顕す此に於いて同地方は好鳥家多き土地なれは此の変種を買ひ入れんとて熱望するもの一時に四方に起り甲は拾両または二拾両丙は三拾両と争いて譲受を求め終に五拾両の高価にて某氏買求め秘術を尽くし頻りに繁殖し東都は申すに及はす京坂地方へも輸出し大に利潤を得たり是れ我邦白文鳥の始めなりと同地人の大原楽氏(文鳥蕃殖専門家)の談話を聞きしとあり亦東京にては弓削田氏も大に文鳥を愛養し白文鳥をも専ら蕃殖せしめしとは飼育商富五郎(小石川掃除町に住居)に親しく見且つ数十羽を買ひ受け諸所へ売り込みたりと語れり、また弘化年中(注:1845年ー1848年)は愛玩者多く故に顔より飛び外けしや間々市街を飛行するとあり是れ諸家に飼養者の多き一班を伺い知るに足るべしまた嘉永年中(注:1848年ー1854年)に一奇談あり神田小川町に住める蒔田氏は珍鳥を愛し数多を飼養し大鳥には孔雀丹頂鶴を始め水禽をも蒐集し恰も鳥屋の如し然るに白文鳥のなきは欠点なりとて鳥商に注文せしに此頃愛養者多き故雪白とも申すへき品甚だ稀なりし故に購買の望みを達すると能わず大いに失望せしに或る日大久保某氏の邸に到(以降2ページ欠のため不明)
 →江戸時代に白文鳥が産出され、明治26年の時点で売買されて飼われていたことがわかる

弘化3年 (1846年)  『小鳥の飼ひ方叢書』 第3編 文化生活研究会, 大正15(1926年) P16
然らば此の白文鳥は、どうして出来たかと申しますと、これは白変(Albinism)に依るものでありますが、全身一時に白化した所謂白子ではありません、人為淘汰の結果でありまして、体の一部に白い差毛のある鳥から種を引きまして、代を重ねてだんだんと、白色多い鳥を選抜して、遂に今日見る様な全身白色で覆われた白文鳥をこしらえ上げたということです。(注:現在は突然変異説が主流である)年代はよく分かりませんが、名古屋で出来たということで、その拵えた人というのは、名古屋の住人でありまして海阜某とかいう人だと、私幼少の頃から名古屋で大の仲良しだった鳥屋のお爺さんから聞きました。年代はいつの頃か知りませんし、このお爺さんのいうところもあっているかどうかも判断がつきません。しかし最近これも名古屋の人ですが、青木という古老から聞きましたところによりますと、80年前(注:1846年?)には既に白文鳥がいたということです。(以下略)

慶応4年-明治元年 (1868年)ロンドンのクリスタル・パレスの展覧会でホーキンス氏によって、一つがいの文鳥が展示される。一羽は白文鳥
Dyson, C.E. (1878). Bird-Keeping. A Practical Guide for the Management of Singing and Cage Birds.London 
白文鳥はいつ誕生したのか?(2)http://rara-avis.sblo.jp/article/53091598.htmlに記載あり。

大正15年(1926年) 『洋鳥巣引の鍵 後編』 大塚公道 著 蘆沢日新堂, 大正15 P40
この鳥の作出された所の某氏の談によれば、名古屋から少し田舎へ入った八新田という片田舎で出来たものであってその作出者は誰であるか一向記録にもなく伝説もないという事である。現在でも八新田というところは村の90%は白文鳥を飼養しており(以下略)

元治2年(1865年)尾張藩の武家屋敷に働きに出ていた「八重女」という人が,弥富の又八地区の大島新四郎方に嫁入りしたとき,日ごろ世話をしていた桜文鳥を土産にもらって持参したのが,弥富で文鳥飼育を始めた由来である。以来,又八地区を中心に文鳥飼育が農家の副業として盛んになり,明治9年(1876年)初めに突然変異により,「白文鳥」が誕生し,これを飼育改良した結果現在に至っている
https://apec.aichi-c.ed.jp/kyouka/shakai/kyouzai/2018/syakai/owari/owa220.htm

図書館より回答:
>弥富市歴史民俗資料館に確認しましたが、『弥富文鳥盛衰記』中に、伝承についていつ、誰から等の出典はないとのことでした。


白文鳥発祥地の碑文を転載する。愛知県弥富市又八2丁目115−3
白文鳥は文鳥村として古くから知られた又八部落が日本唯一の白文鳥発祥地である由来は尾張藩の某武家屋敷に女中奉公して居た(八重女)が元治元年大島新四郎方に嫁入りした時櫻文鳥を持参した。 其の後又八部落を中心に近郷の人々が文鳥飼育を広め、明治初年頃になって遺伝の突然変異により純白の文鳥が生まれたものを、苦心改良を重ねて現今の純白な白文鳥の定型化に成功した。 弥富町の誇りは此の先覚者たちの努力に深甚の経緯を表すと共に長年にわたる伝統の成果である白文鳥を弥富町の特産物として発展させる事を誓って此の碑を建之する。 発起人 文鳥組合長 青木準一 ほか 

→→櫻文鳥を持参した?
  桜文鳥は、並文鳥と白文鳥を掛け合わせた品種です。ということは、白文鳥は元治元年(1864年)以前に存在し、桜文鳥に含まれていた、白文鳥の遺伝子から白文鳥が出たのでしょうか?

「金魚の町」として有名な愛知県弥富市ですが、実は「文鳥の町」でもあります。江戸時代に始まった弥富の文鳥の生産は、ピーク時には約200軒の農家が行っていましたが、現在は1軒だけに。
https://www.tokai-tv.com/tokainews/feature/article_20220313_16675

佐屋高校文鳥プロジェクト
https://pando.life/bun_puro


参考URL
https://web.archive.org/web/20110101095232/http://www18.ocn.ne.jp/~bell103/bunchurekishi.html
https://plaza.rakuten.co.jp/innko/diary/200705190000/

令和5年5月25日付、追加

>以下。図書館より回答 

『着色図編飼鳥集成』 鷹司信輔/著 養賢堂 1930年  p54 ぶんてう(白色)
     …「我国に於いては、徳川時代より庭籠にて巣引きせられ、其の末期には純白色の鳥さへ作出せらるる」

  『農家の副業』笹沢三善 東京宝文館 1926年
   p194-195「白文鳥は、野生の文鳥から進化したもので、起元はよく分からぬが、今より約百年位前であらうといはれてゐる」
 
  『飼鳥之将来』山口天洋 天洋堂 1927年  p39「白文鳥の如きは、既に徳川時代より輸出され」

  『鳥類写生図譜 [第1期]第6輯』小泉勝爾、土岡泉 鳥類写生図譜刊行会 1928年
   「ぶんてう」の項目(ページ付けなし)  …「今から百年以前文鳥飼養の盛なる名古屋附近にて作成せられ」

  「金魚と文鳥のふるさと 海部郡弥富町」(「教育愛知 36巻10号 No.428」) p3「明治初年、遺伝における突然変異によって、純白の白文鳥が誕生したという」

1 文鳥の輸入について
 資料を確認しましたが、文鳥の輸入について明確な記載がある資料は見つけられませんでした。
 複数の資料で、『本朝食鑑』が初めに記載された書物であることと書かれています。

(1)『日本博物誌総合年表 総合年表編』 磯野直秀/著 平凡社 2012.4
   p.177 1697年の『本朝食鑑』の項目の説明の中で、
      「文鳥(中略)が、すでに渡来していたことがわかる。」とあります。
      これ以前に文鳥の記述がある資料は紹介されていません。

(2)『文鳥 スタジオムック』 〔長坂拓也〕/〔総監修〕 スタジオ・エス 2006.1
   p.158 「偉人がもたらした異国の鳥」
       「「文鳥が初めて日本に渡来した年」は不明です」という記載があります。
   p.159 「文鳥年表」
       「1717年「諸禽万益集」(飼鳥本)文鳥の項あり」という記載があります。

(3)『資料日本動物史』 梶島孝雄/著 八坂書房 2002.05
   p.466「ブンチョウ」
      「史料では享保10年(1725)に舶載の記事が見られるのが最初である(通航一覧)。」
      「ただし元禄10年(1697)に出版された『本朝食鑑』に「近時外国より来る」とあるので、
       元禄初期にはすでに我が国に舶載されていたものと思われる。」

→文鳥の飼育について
  日本中への広がり方についてまとめられた資料は見つかりませんでした。
  文鳥の飼育について、記載のある資料を参考までにご紹介します。

(1)『資料日本動物史』 梶島孝雄/著 八坂書房 2002.05
   ※1(3)と同資料
   p.466「ブンチョウ」
      1756年頃の輸入価格が比較的安いことに対して、(3)の『百千鳥』を根拠に、
      「江戸中期以降、庭篭で雛を生ずる事に成功したためであろう」と記載があります。

(2)『百品考』 山本亡羊/著 科学書院 1983.8
   嘉永6年(1853年)の発行の資料を復刻した資料です。
   p.283~284「ブンテウハ原舶来ニシテ珍奇ノ鳥ナリシガ近年世人好ンデ
         此鳥ヲ畜ヒ巣ヲヒカセ鷇(ヒナ)を育成ス故ニ市中ヲ飛行スルモノアルニ至ル」
         という記述があり、飼育がされていること、野生化していることがわかります。
         この資料は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧することもできます。
   
   『百品考』(国立国会図書館デジタル)
    https://dl.ndl.go.jp/pid/2555277/1/12

(3)『諸鳥飼法百千鳥 全』 泉花堂三蝶/述 泉花堂三蝶 1799
   「唐鳥庭籠に入て雛を生ずる部」の項目に、文鳥の記載があります。
  
(4)『大江戸飼い鳥草紙 歴史文化ライブラリー』 細川博昭/著 吉川弘文館 2006.2
   文鳥に限りませんが、江戸の飼い鳥についてまとめられています。
   p.56「鳥の入手方法と飼われていた鳥たち」
   p.79「飼われていた鳥の分類」 
     「ブンチョウやカナリアが江戸時代の日本ですでに繁殖に成功していたことは、
       世に知られるとおりである。」
   p.92「小鳥の飼育文化」

 

→又八新田について

(1)『角川日本地名大辞典 23 愛知県』 「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編纂 角川書店 1989.3
 p.1245 又八新田<弥富町>
 「〔近世〕又八新田村 江戸期〜明治22年の村名。
  〔近代〕又八新田  明治22年〜現在の大字名。(中略)副業として大正初年頃から文鳥の飼育が盛んとなり、
  近隣にも飼育する農家が増加している。」

(2)「街道を行く(620) 白文鳥の電話ボックス」(『中日新聞』2019年9月11日 朝刊 朝刊県内総合 17頁) 
 「弥富での文鳥飼育は、江戸末期の一八六五年ごろ、尾張藩の武家屋敷に奉公していた「八重女」という女性が、
 又八新田(現弥富市又八)の大島家に嫁いだ際、桜文鳥のつがいを持参したのが始まりという。」とあります。

(3)『日本歴史地名大系 第23巻 愛知県の地名』 平凡社 1981.11
 p.454 十四山村
 「明治二二(一八八九)佐古木新田・又八新田・(中略)が合併されて十四山村となる。
 同三九年佐古木新田・又八新田を市江村(現弥富町)へ分離した。」とあります。

4 その他確認した資料
 『愛知県史 通史編 10 年表・索引』 愛知県史編さん委員会/編 愛知県 2020.3
 『郷土資料事典愛知県・観光と旅 県別シリーズ』 人文社観光と旅編集部/編 人文社 1991
 『愛知百科事典』 中日新聞社開発局/編 中日新聞本社 1976.10
 『人づくり風土記 23 ふるさとの人と知恵愛知』 石川松太郎/〔ほか〕編纂 農山漁村文化協会 1995.11

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~白文鳥の歴史 続々編 最終決着?~

2023-05-13 09:45:45 | 小鳥

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000272341
・久永章武「ぶんてうの歴史」(『東京家禽雑誌』(40)p.7~, 1893(明治26)年) https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000210065-00
p.8に「天保年間名古屋にて東部に白毛を交ゆるもの産出し……漸々全体純白にも変する……同地方は好鳥家多き土地なれは此の変種を買ひ入れんとて熱望するもの一時に四方に起り……東都は申すに及はす京坂地方へも輸出し大に利潤を得たり是れ我邦白文鳥の始めなりと同地人の大原楽氏(文鳥蕃殖専門家)の談話を聞きしとあり亦東京にては弓削田氏も大に文鳥を愛養し白文鳥をも専ら蕃殖せしめしとは飼育商富五郎(小石川掃除町に住居)に親しく見且つ数十羽を買ひ受け諸所へ売り込みたりと語れり……」といった記述あり。
→江戸時代に白文鳥が産出され、明治26年の時点で売買されて飼われていたことがわかる

一部略されていたところを入れて書いておきます。
然るに天保年間(注:1831年1月23日 – 1845年1月9日)名古屋にて東部に白毛を交ゆるもの産出し換羽毎に背胸部にも白羽を生し漸々全体純白にも変する微證を顕す此に於いて同地方は好鳥家多き土地なれは此の変種を買ひ入れんとて熱望するもの一時に四方に起り甲は拾両または二拾両丙は三拾両と争いて譲受を求め終に五拾両の高価にて某氏買求め秘術を尽くし頻りに繁殖し東都は申すに及はす京坂地方へも輸出し大に利潤を得たり是れ我邦白文鳥の始めなりと同地人の大原楽氏(文鳥蕃殖専門家)の談話を聞きしとあり亦東京にては弓削田氏も大に文鳥を愛養し白文鳥をも専ら蕃殖せしめしとは飼育商富五郎(小石川掃除町に住居)に親しく見且つ数十羽を買ひ受け諸所へ売り込みたりと語れり……

上記レファレンス回答文のなかに
歴史民俗資料館では、
弥富文鳥の明治時代の資料については伝承や口伝のみとの記載がありました。

これで、最終決着と思われます。
読んでくださった方、文鳥ファンの方、鳥が好きな方、ありがとうございました。

香川県の通称:白文鳥村(産地)については、不明でした。

追記: 愛知県立佐屋高等学校 生物生産科アニマルコースさんの記事を読みました。
https://www.kyobun.co.jp/feature1/pf20221006_01/

本当に、素晴らしいです。頑張ってください。

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~白文鳥の歴史 続編~

2023-05-13 09:45:45 | 小鳥

洋鳥巣引の鍵 後編 大塚公道 著 蘆沢日新堂, 大正15 P40
この鳥の作出された所の某氏の談によれば、名古屋から少し田舎へ入った八新田という片田舎で出来たものであってその作出者は誰であるか一向記録にもなく伝説もないという事である。現在でも八新田というところは村の90%は白文鳥を飼養しており(以下略)

飼鳥之将来 山口天洋 著 天洋堂, 昭和2 P39
十姉妹に次いで我が国産の一たる白文鳥如きは、既に徳川時代より輸出され、特に北米及び南米に於いて珍重されて居るのであります。そして愛知県下及び香川県下の一村如きは、白文鳥村と称して宣伝され、全村民ほとんど副業としてこれを飼養し、引き続き輸出しているのであります。(以下略)

小鳥の飼ひ方叢書 第3編 文化生活研究会, 大正15(1926年) P16
然らば此の白文鳥は、どうして出来たかと申しますと、これは白変(Albinism)に依るものでありますが、全身一時に白化した所謂白子ではありません、人為淘汰の結果でありまして、体の一部に白い差毛のある鳥から種を引きまして、代を重ねてだんだんと、白色多い鳥を選抜して、遂に今日見る様な全身白色で覆われた白文鳥をこしらえ上げたということです。(注:現在は突然変異説が主流である)年代はよく分かりませんが、名古屋で出来たということで、その拵えた人というのは、名古屋の住人でありまして海阜某とかいう人だと、私幼少の頃から名古屋で大の仲良しだった鳥屋のお爺さんから聞きました。年代はいつの頃か知りませんし、このお爺さんのいうところもあっているかどうかも判断がつきません。しかし最近これも名古屋の人ですが、青木という古老から聞きましたところによりますと、80年前(注:1846年?)には既に白文鳥がいたということです。(以下略)

白文鳥には、日本のものと台湾のものがあり、遺伝子が異なることが知られています。
文鳥の羽色で学ぶゆる遺伝学 (6) http://kaede-t.com/2019/06/19/buncho-heredity6/
文鳥飼育の一例 http://rara-avis.sakura.ne.jp/
台湾産ブンチョウの羽色の表現型とその活用法 https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2030642109.pdf

さて、私個人の意見としてですが、
資料探しは、海外も含め行うべきです。
詳しくお話しできないのですが、ある事で調べまくっていたら、過去の考察、資料などに誤りを見つけて、一から資料探しを行ったことがありました。

大英博物館に1842年の白文鳥の日本の絵があるのでは、これはもう…。
やはり、江戸後期にはいたと考えるのが自然かと。

この根拠はどこなのか、いつからこういう話しが出てきたのか をハッキリしなければなりません。
>1865年(元治2)尾張藩の武家屋敷に働きに出ていた「八重女」という人が,弥富の又八地区の大島新四郎方に嫁入りしたとき,日ごろ世話をしていた桜文鳥を土産にもらって持参したのが,弥富で文鳥飼育を始めた由来

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