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ホータン王国

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紀元前1世紀の西域諸国。

ホータン王国ガンダーラ語:コータンナ、: Kingdom of Khotan)はシルクロードの一つ西域南道沿いにあった仏教王国。タリム盆地タクラマカン砂漠の南に位置する。現在では中華人民共和国新疆ウイグル自治区にあたる。于窴于闐於闐コータン王国とも書かれる。

首都

ホータン王国の首都は現在のホータン市にあたる。代の中国では「于窴」として知られていた。オアシス沿いにあり、植えられていたクワによるおよび絹織物、その他軟玉硬玉(共にヒスイの一種)および陶磁器を輸出していた。

文化

ホータンで発掘されたマスク。7-8世紀。

伝説によると、インドの仏教徒皇帝アショーカの長男が、紀元前3世紀初めに国の基礎を建てたという。しかしながら、これより数世紀前から月氏による中国(現在の中国でなく西域を除く地域)との軟玉、硬玉の貿易があったことが知られている。ホータンで産出する玉は「禺氏の玉」と呼ばれ、貴重な上あまり産出しない中国では珍重された。これが和田玉である。この禺氏は月氏のことである。

その後、ホータン王国は仏教とりわけ大乗仏教の中心地のひとつとなった。(これに対して砂漠の反対側にある亀茲国縁覚系の仏教王国だった。)中国の僧法顕が、5世紀始めにホータン王国にある大小14の僧院を訪れている[1]。文化交流により、中国語サンスクリット語プラークリット語チベット語などが使われていた。

ホータンは、中国外でが生産された初めての場所だった。考古学者の発掘作業で発見された壁画には、ホータン王に嫁いで来た中国の王女が、髪の中にカイコの卵を隠していたと記されており、1世紀頃の出来事と見られる[2]

歴史

ホータン王Gurgamoyaの硬貨。1世紀。表面:カローシュティー文字で「偉大なる王、ホータンの王、Gurgamoya」。裏面:中国語で「重廿四銖銅銭」(24銖銅銭,写真下部の文字が「銅」)

1世紀に作られた『漢書』の漢前史には、ホータンには3千3百世帯、人口1万9300人、うち戦士2400人であると記されている[3][4]

中国がシルクロードで西洋と交流を始めたことにより、ホータンは急速に発展し、人口は4倍になった。『後漢書』西域伝[5]には次のように記されている。

ホータン王国の中心は西城であり、洛陽から1万1700里(4,865km)の場所にある。3万2千世帯、人口8万3千、兵士3万人以上を支配している。
建武(西暦25-56年)の終わりごろ、莎車(現ヤルカンド県)王の賢(Xian)がホータンを攻めた。莎車王はホータン王の兪林を驪歸王に更迭し、弟の位侍をホータン王とした。
後漢の明帝の時代、ホータンの将軍休莫霸が莎車王に反乱を起こし、60年、自分がホータン王になった。休莫霸の死後、兄の子の広徳が王位を継ぎ、61年に莎車王を破った。広徳はさらに精絶(en)西北から疏勒までの13王国を服従させた。一方、ロプノール湖西岸の鄯善も繁栄し始めていた。ホータンと鄯善は、天山南路にある数少ない国であった。
西暦131年、ホータン王放前は息子の一人を遣わして漢に朝貢した。
西暦151年、漢の長史である趙評がホータンで死に、趙評の子の趙雲が喪に服すため中国への帰国の途についた。その道中で拘彌国(現中国ケリヤ県)を訪れた。拘彌王成国はホータン王の建素と対立していたため、趙雲にこう言った。「お前の父が死んだのは、ホータン王が胡医に命じて傷口に毒を塗ったからだ。」趙雲はその話を信じ、漢国境の都市敦煌太守の馬達に報告した。
152年王敬がホータン長史に任命され、合わせて事件の解明を命じられた。拘彌王成国は王敬に対しても「ホータン国人は私が王になることを望んでいる。建の罪を明らかにすれば、ホータン国人はきっと服するだろう」と説いた。功名を求めていた王敬は成国の話を信じ、建を夕食に招いて殺そうとした。この謀計を建に密告するものがいたが、建は「私は無罪だ。だから王長史が私を殺すはずがない」と退けた。
翌日、建は家臣数十人を従えて王敬を訪ねた。建たちは着座し、王敬に酒を勧めにいった。その時、王敬は左右の家臣の無礼を叱り、それを合図に王敬の部下は皆逃げ出した。それに代わって成国の部下が刀を持って侵入し、「大事は既に定まった。疑いなし」と叫んで建を切り殺した。
それを聞いたホータン侯将の輸覚らが兵を集めて王敬に迫ったため、王敬は建の首を高く晒して「私は天子の使いである。建に罪があったため、これを誅しただけだ」と反論した。しかし輸覚らは建物を焼いて王敬の部下を焼き殺し、王敬を斬り殺してその首を市中に晒した。
ところが今度は輸覚が王位を狙ったため、国人は輸覚を殺し、建の子の安を王位につけた。敦煌太守の馬達はこれを聞き、桓帝に無断でホータンを攻めようとしたため、敦煌太守は宋亮に変えられた。宋亮はホータンに通知して輸覚に自殺するよう命じたが、輸覚は何ヶ月も前に死んでいたため、困ったホータン国人は輸覚の死体から首を切り取って敦煌に送った。宋亮は後日そのインチキを知ったが、すでに出兵は無理だった。ホータン国人はこれを知って漢を侮ったという。[6]
3世紀タリム盆地。Kashgar=疏勒,Kuqa=亀茲,Karaxahr=焉耆,Turfan=高昌,Hotan=於闐,Shanshan=鄯善

8世紀チベットの仏教史『ホータン国授記』(: The Prophecy of the Li Country,: 于闐國授記)には、クシャーナ朝カニシカ1世がインド中部の都市アヨーディヤーを攻めたとき、ホータン王が助力したと書かれている。これが本当であれば、西暦127年の出来事なので、中国人班超の息子班勇がホータンを屈服させたとされる年と同じになる。

「Li(ホータン)の統治者Vijaya Krīti王がアーリア文殊(Ārya Mañjuśrī)の像を建てた後、伝道者Spyi-priと呼ばれたホータンの住民Arhatが、信心深い友人のためにSru-ñoの精舎(vihāra)を建てた。Vijaya Krīti王はカニシカ1世に助力して、亀茲王らと共にインドに侵攻し、So-ked(Saketa)を占領した。Vijaya Krīti王は多くの奴隷を得て、Sru-ñoの卒塔婆(stūpa)に置いた[7] 。」

11世紀の始めに、イスラムの侵攻を受けてその支配下に入った。1271年から1275年の間にホータンを訪れたマルコ・ポーロは、ホータンの人々は、皆マホメットの信奉者であると報告している。

11世紀のトルコの学者、ムハマド・カシュガリ(en)は、著書Diwanu Lughat at-Turkの中で、ホータンへのイスラム教伝道について次のように述べている。

”川が物を押し流すように、
我々は都市に押し寄せた。
我々は仏僧院を破壊した。
葉の上に立っているブッダの彫像も。”[8]

年表

  • 西暦56年:莎車王の賢(Xian)がホータンを攻めた。莎車王はホータン王の兪林を驪歸王に更迭し、その弟の位侍をホータン王とした。
  • 60年:ホータンの将軍休莫霸が莎車王に反乱を起こし、自分がホータン王になった。
  • 61年:王位を継いだ休莫霸の兄の子広徳が、莎車王を破った。広徳はさらに精絶(en)西北から疏勒までの13王国を服従させた。
  • 78年:中国の将軍班超がホータンを攻めた。
  • 105年:西域が征服され、ホータンも独立を失った。
  • 127年: ホータン王Vijaya Krītiが、クシャーナ朝カニシカ1世のインドアヨーディヤー攻略を助けた。
  • 127年: 中国の将軍班勇が焉耆、庫車、喀什、ホータン、疏勒など17カ国を征服し、中国の版図となった。
  • 129年: ホータン王放前が拘彌王興を殺す。放前は息子を拘彌王にする。
  • 131年: 放前、漢に朝貢する。中国皇帝は拘彌を放棄する代わりに罪を許すと提案するが、放前は拒絶する。
  • 132年: 中国はカシュガル王に命じて、2万の兵でホータンを攻める。カシュガル王は数百の人を殺し、兵に略奪を許した。カシュガル王は前王興の親族成国を拘彌王にして帰還する。
  • 175年: ホータン王安国が突然、拘彌を攻める。安国は拘彌王を始めとする多数を殺害する[9]
  • 399年 中国の巡礼僧法顕(Faxian)が周辺の仏教国を訪問する[10]
  • 632年: ホータン、唐の威光に服して属国になる。
  • 644年: 唐の巡礼僧玄奘三蔵が7-8ヶ月ホータンに滞在し、王国の詳細を記録する。
  • 670年: チベット系の吐蕃が侵入し、ホータンを含む唐の安西四鎮を征服する。
  • 670年-673年: ホータンは吐蕃の属国となる。
  • 674年: ホータン王伏闍雄(Vijaya Sangrāma IV)と一族がチベットに反旗を翻すが失敗、中国に亡命する。そのまま帰国できず。
  • 680年 - 692年: 'Amacha Khemegがホータン領主として統治する。
  • 692年: 中国皇帝武則天が吐蕃からホータンを奪還し、中国の保護領とする。
  • 725年: 尉遅璥(Vijaya Dharma III)が、トルコ人と共謀した罪で中国に打ち首にされる。中国は尉遅伏師戦(Vijaya Sambhava II)を王位につける。
  • 728年: 尉遅伏師戦、玄宗から正式にホータン王の称号を受ける。
  • 736年: 伏闍達(Vijaya Vāhana the Great)が尉遅伏師戦に代わって王位につき、玄宗は彼の妻の執失を妃に冊立した。
  • 740年: 尉遅珪(Btsan-bzang Btsan-la Brtan)が伏闍達に代わって王位につき、仏教の迫害を始める。ホータンの仏教僧は、チベット王Mes-ag-tshomsの中国人妃を頼ってチベットに逃亡する。しかし間もなく王妃が天然痘で死んだため、僧達はさらにガンダーラまで逃げる。
  • 740年: 中国皇帝は、尉遅珪の妻に称号を授ける。
  • 746年: Prophecy of the Li Countryが完成し、後にテンギュルに加えられる。
  • 756年: 尉遅勝は政権を弟の尉遅曜に譲る。
  • 786年 から 788年:尉遅曜が統治する時代、中国の仏教巡礼者悟空がホータンを訪問した[11]
  • 912年 - 966年: 尉遅烏僧波が王となる。年号を同慶とする。
  • 961年: 中国()に使節が来る。使節は「毎年秋に国人が川で撈玉と呼ばれる玉を取る。土地には葡萄を植えており、それを醸して美酒とする。民間では俗信が流行っている」と語っている。[12]
  • 965年: ホータン僧善名らが来訪し、ホータン宰相からの通商を求める手紙を中国に渡す。[12]
  • 967年 - 977年: 尉遅蘇拉が王となる。年号を天尊とする。
  • 969年: 王の男総嘗が中国(宋)に朝貢する。[12]
  • 971年: 仏教僧吉祥がホータン王からの中国皇帝への手紙を運ぶ。そこには、彼がカシュガルから手に入れたダンスする象(舞象)を送ると書いてあった。[12]
  • 978年? - 985年?: 尉遅達磨が王となる。年号を中興とする。
  • 986年? - 999年?: 尉遅僧伽羅摩が王となる。年号を天興とする。
  • 983年? - 1006年?: 異説。尉遅僧伽羅摩が王となる。年号を天寿とする。
  • 1006年: ホータン、イスラムのYūsuf Qadr Khānに征服される。Yūsuf Qadr KhānはKāshgarとBalāsāghūnのイスラム君主の兄弟あるいは従兄弟と言われる。[13]
  • 1271年 から 1275年の間:マルコポーロがホータンを訪れる。[14]

関連項目

注釈

  1. ^ Silkroads foundation Travels of Fa-Hsien - Buddhist Pilgrim of Fifth Century By Irma Marx, 2007-08-02 access
  2. ^ Hill, John E. 2003. "Annotated Translation of the Chapter on the Western Regions according to the Hou Hanshu." 2nd Edition. Appendix A. [1]
  3. ^ 呼嚕嚕収録『漢書 西域伝』に「于闐国,王治西城,去長安九千六百七十裏。戸三千三百,口万九千三百,勝兵二千四百人」とある。
  4. ^ Hulsewé, A. F. P. and Loewe, M. A. N. 1979. China in Central Asia: The Early Stage 125 BC – AD 23: an annotated translation of chapters 61 and 96 of the History of the Former Han Dynasty, p. 97. E. J. Brill, Leiden.
  5. ^ 呼嚕嚕収録『後漢書 西域伝』の「于窴國」の箇所。
  6. ^ 英語版は Hill, John E. 2003. "Annotated Translation of the Chapter on the Western Regions according to the Hou Hanshu." 2nd Edition. [2]によっているが、日本語版では前述の呼嚕嚕のページから訳した。
  7. ^ Emmerick, R. E. 1967. Tibetan Texts Concerning Khotan. Oxford University Press, London, p. 47.
  8. ^ Shuyun, Sun. Ten Thousand Miles Without a Cloud, HarperPerennial, 2004
  9. ^ Hill, John E. 2003. "Annotated Translation of the Chapter on the Western Regions according to the Hou Hanshu." 2nd Edition. [3]
  10. ^ Legge, James. Trans. and ed. 1886. A Record of Buddhistic Kingdoms: being an account by the Chinese monk Fâ-hsien of his travels in India and Ceylon (A.D. 399-414) in search of the Buddhist Books of Discipline. Reprint: Dover Publications, New York. 1965, pp. 16-20.
  11. ^ Hill, John E. July, 1988. "Notes on the Dating of Khotanese History." Indo-Iranian Journal, Vol. 31, No. 3, p. 185.
  12. ^ a b c d 呼嚕嚕宋史・外国伝6の于闐の条より
  13. ^ Stein, Aurel M. 1907. Ancient Khotan: Detailed report of archaeological explorations in Chinese Turkestan, 2 vols., p. 180. Clarendon Press. Oxford. [4]
  14. ^ Stein, Aurel M. 1907. Ancient Khotan: Detailed report of archaeological explorations in Chinese Turkestan, 2 vols., p. 183. Clarendon Press. Oxford. [5]

参考文献

  • Beal, Samuel. 1884. Si-Yu-Ki: Buddhist Records of the Western World, by Hiuen Tsiang. 2 vols. Trans. by Samuel Beal. London. Reprint: Delhi. Oriental Books Reprint Corporation. 1969.
  • Beal, Samuel. 1911. The Life of Hiuen-Tsiang by the Shaman Hwui Li, with an Introduction containing an account of the Works of I-Tsing. Trans. by Samuel Beal. London. 1911. Reprint: Munshiram Manoharlal, New Delhi. 1973.
  • Emmerick, R. E. 1967. Tibetan Texts Concerning Khotan. Oxford University Press, London.
  • Hill, John E. 2004. The Peoples of the West from the Weilüe 魏略 by Yu Huan 魚豢: A Third Century Chinese Account Composed between 239 and 265 CE. Draft annotated English translation. [6]
  • Legge, James. Trans. and ed. 1886. A Record of Buddhistic Kingdoms: being an account by the Chinese monk Fâ-hsien of his travels in India and Ceylon (A.D. 399-414) in search of the Buddhist Books of Discipline. Reprint: Dover Publications, New York. 1965.
  • Watters, Thomas (1904-1905). On Yuan Chwang's Travels in India. London. Royal Asiatic Society. Reprint: 1973.

関連文献

  • Hill, John E. (2003). "The Western Regions according to the Hou Hanshu. 2nd Edition." "Appendix A: The Introduction of Silk Cultivation to Khotan in the 1st Century CE." [7]

外部リンク