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リチャード2世 (イングランド王)

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リチャード2世2世Richard II, 1367年1月6日 - 1400年2月14日)はイングランド王(在位、1377年 - 1399年9月28日)。

リチャード2世はボルドーで、エドワード3世の子エドワード黒太子とその妃ジョアンの間に次男として誕生した。兄エドワードが7歳で、続いて、1376年に父エドワード黒太子が死去したため、コーンウォール公に叙されエドワード3世の皇太子に指名された。1377年6月21日にエドワード3世が死去すると10歳で王位を継承し、父の末弟ケンブリッジ伯エドマンド・オブ・ラングリーが摂政に立った。

1380年に新政権は百年戦争による膨大な戦費調達のために人頭税の導入を図るが、これは上層に軽く下層に重い税制であった。1381年6月、増税に反対する下層階級の農民と労働者が、エセックスの煉瓦工ワット・タイラーに率いられて反乱を起すと、リチャード2世はワット・タイラーとの面会に応じた。リチャード2世はワット・タイラーの要求事項に回答を約束したが、翌日、ロンドン市長が面会に現れたワット・タイラーを刺殺し指導者を失った反乱は鎮圧された(ワット・タイラーの乱)。

幼いリチャード2世の宮廷では、エドワード3世時代から政権を切り盛りしてきた伯父ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの発言権が強く、彼自身も密かにイングランド王位への野望を抱いていた。1383年に親政を開始したリチャード2世は側近のマイケル・ド・ラ・ポールロバート・ド・ヴィアらを重用した。さらにジョン・オブ・ゴーントに対抗するため、この時点で後継男子を得ていなかったリチャード2世は父の次弟の孫であるマーチ伯ロジャー・モーティマーを王位継承者に指名する。

1386年に宮廷闘争が発生してノッティンガム伯トマス・モヴレーや叔父グロスター公トマス・オブ・ウッドストックらが側近の追放を要求するとこれに応じたが、その後事態が沈静化するのを見て1397年にグロスター公トマスらを逮捕し、その一貫性のない裁定が人心を失わせた。

ジョン・オブ・ゴーントが1399年に死去したのを機会に、その子ボリンブロクに対して広大なランスカスター公領の没収とその追放を命じた。その年の7月ボリンブロクが兵を挙げると、リチャード2世に失望していた諸侯や有力者の多くがこれに合流した。翌8月にアイルランド遠征から帰途にあったリチャード2世は、ウェールズとの境界付近で優勢なボリンブロク軍に呆気なく降伏して捕らわれ ロンドン塔に幽閉されて9月28日に開かれた議会で正式に廃位された。

ボリンブロクがヘンリー4世としてイングランド王に即位し、その後、退位したリチャードは身柄を各地に移され,1400年2月14日ヨーク南西のポンティフラクト城で死去した。リチャードは前王の尊厳を奪われ過酷な処遇を受けて餓死させられたと伝えられている。


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