[go: nahoru, domu]

コンテンツにスキップ

利用者:京都東/sandbox

これはこのページの過去の版です。京都東 (会話 | 投稿記録) による 2024年7月2日 (火) 09:51個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎関連項目)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

京都東/sandbox
中華民国の旗
用途及び属性 標準旗 市民・政府・軍隊陸上、市民・政府・軍隊海上?
縦横比 2:3
制定日 1928年12月17日95年 + 264日)
使用色
  •   
  •   
  •   
根拠法令 中華民国国徽国旗法
テンプレートを表示
海軍旗章の掲揚方法

中華民国国旗(ちゅうかみんこくのこっき)は、青地の中心に白い太陽がある意匠(青天白日旗)がカントンに配された赤地の旗であり、青天白日満地紅旗(せいてんはくじつまんちこうき、: 青天白日滿地紅旗)と呼ばれる。

関連項目

外部リンク

台湾総督
臺灣總督
台湾総督府章
台湾総督之印
所属機関台湾総督府
庁舎台湾総督府庁舎
所在地大日本帝国の旗 日本統治下台湾
官舎台湾総督官邸
任命天皇
前身福建台湾巡撫
創設1895年5月10日
初代樺山資紀
最後安藤利吉
廃止1945年10月25日
継承台湾省行政長官

台湾総督(たいわんそうとく、旧字体臺灣總督)は、台湾日本の統治下にあった1895年明治28年)から1945年昭和20年)までの間設置されていた親任官である。

50年の間で19人の武官文官が台湾総督に任命された。在任の最長は第5代総督佐久間左馬太の9年1ヶ月、最短は第15代総督南弘の2ヶ月である。歴代台湾総督はその出身母体から、一般的に前期武官総督・文官総督・後期武官総督の3種類に分類されている。

沿革

前期武官総督時代

初代総督に任命された樺山資紀は、任命翌日の5月11日に総督府条例を起草し上申したが裁可に至らなかった[1][2]。そのため、5月21日に台湾総督府仮条例を制定し、占領に対する軍事的鎮圧のため軍政が施行された。8月6日には陸軍大臣の通達として、改めて台湾総督府条例(陸達第70号)を制定[3][4]、第1条で「台湾全島鎮定ニ至ル迄台湾総督ノ下ニ軍事官衙ヲ組織スル」と規定した。これが通常の官制となるのは、1896年(明治29年)3月30日制定の台湾総督府条例(勅令第88号)の施行(4月1日)以降である[注 1]。なお台湾総督府条例は、後に台湾総督府官制(明治30年10月21日勅令第362号)となった。

軍政から民政に移行した1896年4月以降においても、初期の台湾統治は、現地居住民の抵抗運動を抑圧する必要性から、軍事力を前面に打ち出した強硬な姿勢で行われた。この頃の総督には行政権と司法権、そして台湾駐屯の陸海軍の指揮権はもとより、台湾ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律(明治29年3月31日法律第63号)(通称:六三法)によって特別立法権も付与されており、この統治四権を一手に握る総督の権限は絶大なものであった。

こうした事情から、この時代の総督に任命された樺山資紀桂太郎乃木希典児玉源太郎佐久間左馬太安東貞美明石元二郎の7名はいずれも現役の大将または中将で、初代総督の樺山を除いてそのすべてが陸軍出身者で占められている。しかも、その樺山の時代には台湾副総督という、彼の在任中の一時期のみに置かれた職があり、陸軍中将の高島鞆之助がこれに任じられていた。

そうした中で、第4代総督の児玉の頃から変化があらわれはじめる。長期にわたり総督として腰を据え、体系的な政策を必要に応じて展開、いわゆる「飴と鞭」の硬軟を使い分ける方針で台湾を包括的に支配することに成果を上げ、統治に安定がもたらされたのである。第6代総督の安東と第7代総督の明石は特に現地居住民の権益を保護する政策を実施したことで知られる。総督在任のまま死去した明石は、その任期こそ1年5か月にも満たない短いものであったが、遺言により台湾に墓地が築かれた唯一の総督でもある。

文官総督時代

その明石が総督のとき、1919年(大正8年)8月20日の台湾総督府官制中改正ノ件(大正8年勅令第393号)による台湾総督府官制の改正により、以後台湾では文官でも総督になることが可能になるとともに、台湾軍の指揮権が廃止され、台湾軍の指揮権は台湾軍司令官に移譲された。

文官総督時代には、田健治郎内田嘉吉伊沢多喜男上山満之進川村竹治石塚英蔵太田政弘南弘中川健蔵の9名が総督に任命されている。いずれも内務省逓信省農商務省などの高級官僚や外地の民政担当官を経て貴族院議員に勅任された勅選議員(中川健蔵は、台湾総督退任後に、勅選議員)で、その時々に政権を担当していた政党の推薦を受けて任命された。

台湾の統治方式が抗日運動の鎮圧から経済の構築による社会の安定に転換したのがこの時期にあたる。

後期武官総督時代

二・二六事件は陸軍の青年将校が起したものであったが、事件後の綱紀粛正の名のもとに海軍からも大将2名を予備役に編入することになった。この貧乏くじを引かされることになったのが連合艦隊司令長官を退任したばかりの小林躋造海軍大将で、その処遇のために彼を台湾総督にしたのは、当時の新聞が「異例中の異例人事」と評するほどの驚愕人事であった。

台湾省行政長官陳儀(右)と降伏文書を交わす第10方面軍参謀長諫山春樹(左)(1945年10月25日)

小林は在任4年半の間に現地人の皇民化政策を推進したが、ちょうどこの頃に海軍の南進策が国策として固まったことから、次の台湾総督も海軍出身者をということになり、長谷川清海軍大将がこれに決まった。この長谷川もそろそろ予備役に編入されておかしくない年齢であったが、台湾の軍事拠点化を推進するという建前もあって現役のまま総督に就任、ここに武官総督が復活することになった。ただし、台湾軍の指揮権は依然として台湾軍司令官のもとに、後にはこれを改編した第10方面軍司令官のもとにあり、長谷川は武官総督といってもその性格は前期のそれとは大きく様相を異にするものであった。

ところが、太平洋戦争で日本の敗色が濃くなった1944年暮、人材の不足や台湾決戦を想定して指揮系統を一本化するという名目のもと、第10方面軍司令官の安藤利吉陸軍大将が台湾総督を「兼任」すると、前期総督と同等の強大な権限を持つに至った。一方で台湾人にも帝国議会の選挙権や被選挙権が与えられるなど、日本人との台湾人の関係対等化も進んだものの、翌年の終戦によって台湾総督府も降伏し、解体されることになり、1945年10月25日、台北公会堂で安藤は陳儀中華民国台湾省行政長官との間に降伏文書を交わし、半世紀にわたった台湾総督府の歴史に幕を引いた。

歴代台湾総督一覧

氏名 写真 出身地 就任 退任 在任期間 爵位 階級 政党
初期武官総督時代
1 樺山資紀 鹿児島県 1895年5月10日 1896年6月2日 1年 + 23日 子爵 海軍大将 無所属
2 桂太郎 山口県 1896年6月2日 1896年10月14日 134日 子爵 陸軍中将
3 乃木希典 山口県 1896年10月14日 1898年2月26日 1年 + 135日 男爵 陸軍中将
4 児玉源太郎 山口県 1898年2月26日 1906年4月11日 8年 + 44日 男爵 陸軍中将
5 佐久間左馬太 山口県 1906年4月11日 1915年5月1日 9年 + 20日 子爵 陸軍大将
6 安東貞美 長野県 1915年5月1日 1918年6月6日 3年 + 36日 子爵 陸軍大将
7 明石元二郎 福岡県 1918年6月6日 1919年10月24日 1年 + 140日 なし 陸軍大将
文官総督時代
8 田健治郎 兵庫県 1919年10月29日 1923年9月2日 3年 + 308日 男爵 なし 立憲政友会
9 内田嘉吉 東京府 1923年9月6日 1924年9月1日 361日 なし
10 伊沢多喜男 長野県 1924年9月1日 1926年7月16日 1年 + 318日 憲政会
11 上山満之進 山口県 1926年7月16日 1928年6月16日 1年 + 336日
12 川村竹治 秋田県 1928年6月16日 1929年7月30日 1年 + 44日 立憲政友会
13 石塚英蔵 福島県 1929年7月30日 1931年1月16日 1年 + 170日 立憲民政党
14 太田政弘 山形県 1931年1月16日 1932年3月2日 1年 + 46日
15 南弘 富山県 1932年3月2日 1932年5月26日 85日 立憲政友会
16 中川健蔵 新潟県 1932年5月26日 1936年9月2日 4年 + 99日 立憲民政党
後期武官総督時代
17 小林躋造 広島県 1936年9月2日 1940年11月27日 4年 + 86日 なし 海軍大将 無所属
18 長谷川清 福井県 1940年11月27日 1944年12月30日 4年 + 33日 海軍大将
19 安藤利吉 宮城県 1944年12月30日 1945年10月25日 299日 陸軍大将

脚注

注釈

  1. ^ 1896年3月30日には勅令として同条例のほか、台湾総督府評議会章程・台湾総督府民政局官制・台湾総督府地方官官制・台湾総督府税関官制・台湾総督府撫墾署官制・台湾総督府直轄諸学校官制・台湾総督府郵便及電信局官制・台湾総督府燈台所官制・台湾総督府測候所官制・台湾総督府製薬所官制・台湾総督府職員加俸支給規則・台湾総督府巡査及看守手当支給規則・嘱託員及雇員使用竝技師技手俸給支出ノ件・台湾総督府文官特別任用令が制定された(官報1896年3月31日)。

出典

関連項目

第1回立法委員選挙
第1屆立法委員選舉
中華民国
1934年 ←
1948年1月21日 (1948-01-21) - 1月23日
→ 1969

立法院全759議席
  第1党 第2党 第3党
 
党首 蔣介石 張君勱 曽琦
政党 中国国民党 中国民主社会党 中国青年党
獲得議席 716議席 17議席 6議席

   中国国民党 (716)
  無所属 (20)

選挙前立法院長

孫科
中国国民党

選出立法院長

孫科
中国国民党

1948年中華民国立法委員選挙(1948ねんちゅうかみんこくりっぽういいんせんきょ、: 1948年中華民國立法委員選舉、正式名称: 第1屆立法委員選舉[1])は、1948年民国37年)1月21日から23日にかけてに行われた、中華民国国会である立法院を構成する立法委員を選出する選挙である。

中国国民党率いる国民政府は当初、この選挙を1947年(民国36年)10月の国民大会代表選挙中国語版と同時に実施する予定であった。しかし第二次国共内戦下での交通の不便を理由に、最終的には予定より遅れて翌年に実施された[2]。中国国民党、中国民主社会党中国青年党が選挙に参加し、中国共産党中国民主同盟などは参加を拒否した[3]

当時の中華民国の人口は約4億6100万人[4]、立法院の総議席数は759席であり、約60万人につき1人の立法委員が選出されたことになる。

背景

脚注

注釈

出典

  1. ^ 立法委員選舉” (中国語). 中央選挙委員会. 2024年6月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月15日閲覧。
  2. ^ 朱宗震等 (2000) (中国語). 中华民国史第三编,第六卷. 中華書局. ISBN 7101020186 
  3. ^ 李維周等 (1998). 周恩来传. 中央文献出版社 
  4. ^ “China's Population Reaches 461,000,000”. ワシントン・ポスト. (1947年11月22日). p. 2 
中華民国第一回国民大会代表選挙
中華民國第一屆國民大會代表選舉
中華民国
1947年11月21日 - 11月23日
→ 1969

国民大会全3045議席
  第1党 第2党 第3党
 
党首 蔣介石 曽琦 徐傅霖
政党 中国国民党 中国青年党 中国民主社会党
党首選挙区 浙江奉化 四川隆昌 広東和平
獲得議席 2901議席 76議席 68議席

   中国国民党 (2901)
   中国青年党 (76)


脚注

注釈

出典

Die vier Sektoren Berlins nach Beschluss der Konferenz von Jalta
Nach der 1958 in der Berlin-Krise von Nikita Chruschtschow

ベルリン問題(ベルリンもんだい、ドイツ語: Berlin-Frage)とは、1945年から1990年の間分断されていたドイツにおける、ベルリンの特殊な地位に関する問題である。

脚注

注釈

出典

脚注

注釈

出典

脚注

注釈

出典