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向羽黒山城

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向羽黒山城(むかいはぐろやましろ)は、福島県大沼郡会津美里町にあった日本の城である。城跡は、国の史跡に指定されている。

概要

阿賀川対岸から望む向羽黒山城跡

白鳳三山最高峰岩崎山は向羽黒山とも称し、そこに蘆名盛氏が永禄11年(1568年)に山城を築いた。城の規模は、東西1.4キロメートルで南北1.5キロメートル、面積は50ヘクタール[1]。東を流れる阿賀川や東部分の崖などの天然の要害に加えて土塁や堀などの防御施設がいたるところに造営されている。

岩崎山山頂の本丸(実城)跡を中心に現在公園となっている二の丸跡、三の丸跡、伝盛氏屋敷跡などの郭をはじめ、竪堀や空堀、虎口、石塁の跡などの戦国山城の名残が城跡内各所に残されている。城の東側直下を阿賀川が流れており、さらには会津盆地一円を望むことができる。

歴史

1561年永禄4年)に蘆名盛氏によって築城が開始。

1568年(永禄11年)に完成し、隠居していた盛氏は死ぬまでここに住んで蘆名氏の政務をみた[2]

蘆名氏伊達政宗1589年天正17年)の摺上原の戦いで敗れ滅亡した後、会津領主となった政宗や蒲生氏郷上杉景勝も最後の砦としていた。上杉氏は慶長3年から4年にかけて籠城戦用に、韓国の熊川倭城を参考に改修[1][3]

1601年慶長6年)、関ヶ原の戦いでの上杉軍の敗戦に伴い、慶長6年に廃城となった[1]

2001年平成13年)、国の史跡に指定された。

2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(111番)に選定された。

脚注

  1. ^ a b c 石田明夫「神指城と幻の白河合戦」、花ヶ前盛明監修『直江兼続の新研究』宮帯出版社、2009年、68頁
  2. ^ 垣内、2017年、P182
  3. ^ ただし、上杉景勝改修説を唱える石田明夫に対して、蘆名氏末期(亀若丸義広期)改修を唱える市村高男垣内和孝蒲生氏郷改修説を唱える西ヶ谷恭弘広長弘典などもいる(垣内、2017年、P185・193-194)

参考文献

  • 垣内和孝「向羽黒山城と蘆名氏」『伊達政宗と南奥の戦国時代』(吉川弘文館、2017年) ISBN 978-4-642-02938-4 P182-201

関連項目

外部リンク

座標: 北緯37度26分43.4秒 東経139度54分0.0秒 / 北緯37.445389度 東経139.900000度 / 37.445389; 139.900000