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'''小崎 千代'''(こさき ちよ、[[1863年]][[8月8日]]([[文久]]3年[[6月24日 (旧暦)|6月24日]]) - [[1939年]]([[昭和]]14年)[[5月14日]])は、[[日本基督教婦人矯風会]]会頭。[[小崎弘道]]の妻で[[小崎道雄 (牧師)|小崎道雄]]の母親である。
'''小崎 千代'''(こさき ちよ、[[1863年]][[8月8日]]([[文久]]3年[[6月24日 (旧暦)|6月24日]]) - [[1939年]]([[昭和]]14年)[[5月14日]])は、[[日本基督教婦人矯風会]]会頭。[[小崎弘道]]の妻で[[小崎道雄 (牧師)|小崎道雄]]の母親である。


[[江戸]][[小石川村]]にあった[[徳川幕府]]の[[直参]]の岩村家の長女として生まれる。[[明治維新]]後、幕臣たちと[[静岡市|静岡]]に移住する。[[1871年]]([[明治]]4年)に上京する。[[1876年]](明治9年)に[[メソジスト]]派の[[宣教師]][[ジュリアス・ソーパー]]より[[洗礼]]を受ける。[[1883年]](明治26年)[[海岸女学校]](後の[[青山女学院]])を卒業し、小崎弘道と結婚する。道雄、安子([[岩村信二]]の母)が生まれる。[[1886年]](明治19年)[[矢嶋楫子]]の運動に賛同し婦人矯風会の設立に尽力し、役員になる。
[[江戸]][[小石川村]]にあった[[徳川幕府]]の直参の岩村家の長女として生まれる。[[明治維新]]後、幕臣たちと[[静岡市|静岡]]に移住する。[[1871年]][[明治]]4年に上京する。[[1876年]](明治9年)に[[メソジスト]]派の[[宣教師]][[ジュリアス・ソーパー]]より[[洗礼]]を受ける。[[1883年]](明治26年)[[海岸女学校]](後の[[青山女学院]])を卒業し、小崎弘道と結婚する。道雄、安子([[岩村信二]]の母)が生まれる。[[1886年]](明治19年)[[矢嶋楫子]]の運動に賛同し婦人矯風会の設立に尽力し、役員になる。


[[1902年]](明治35年)より小崎弘道が[[日本組合基督教会]][[霊南坂教会]][[牧師]]になると、[[牧師夫人]]として[[牧会]]に協力する。音楽と英語の教師も務めた。また、霊南坂教会附属幼稚園の開設と共に園長になる。
[[1902年]](明治35年)より小崎弘道が[[日本組合基督教会]][[霊南坂教会]][[牧師]]になると、牧師夫人として[[牧会]]に協力する。音楽と英語の教師も務めた。また、霊南坂教会附属幼稚園の開設と共に園長になる。


[[1921年]]([[大正]]10年)には矢嶋の後を受け継いで日本基督婦人矯風会の会頭に就任する。
[[1921年]]([[大正]]10年)には矢嶋の後を受け継いで日本基督婦人矯風会の会頭に就任する。

2015年6月19日 (金) 11:23時点における版

小崎 千代(こさき ちよ、1863年8月8日文久3年6月24日) - 1939年昭和14年)5月14日)は、日本基督教婦人矯風会会頭。小崎弘道の妻で小崎道雄の母親である。

江戸小石川村にあった徳川幕府の直参の岩村家の長女として生まれる。明治維新後、幕臣たちと静岡に移住する。1871年明治4年)に上京する。1876年(明治9年)にメソジスト派の宣教師ジュリアス・ソーパーより洗礼を受ける。1883年(明治26年)、海岸女学校(後の青山女学院)を卒業し、小崎弘道と結婚する。道雄、安子(岩村信二の母)が生まれる。1886年(明治19年)、矢嶋楫子の運動に賛同して婦人矯風会の設立に尽力し、役員になる。

1902年(明治35年)より小崎弘道が日本組合基督教会霊南坂教会牧師になると、牧師夫人として牧会に協力する。音楽と英語の教師も務めた。また、霊南坂教会附属幼稚園の開設と共に園長になる。

1921年大正10年)には矢嶋の後を受け継いで日本基督婦人矯風会の会頭に就任する。

参考文献