岩城隆喜
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 寛政3年11月2日(1791年11月27日) |
死没 | 嘉永6年12月9日(1854年1月7日) |
別名 | 亀次郎→亀五郎、采女[1] |
墓所 | 由利本荘市の龍門寺 |
官位 | 従五位下・伊予守[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉→家慶→家定 |
藩 | 出羽亀田藩主 |
氏族 | 岩城氏 |
父母 | 父:岩城隆恕 |
兄弟 |
隆喜、前田長粲、山本茂高、隆謨、 恵照院ら5男12女 |
妻 |
正室:板倉勝政娘 継室:津軽寧親娘 千勢、菊瀬 |
子 |
隆興、直子、倉子、隆永、隆信、寿、隆政、隆邦、 堀田正養、立花種温正室、 銀子、緑操院ら8男18女 |
岩城 隆喜(いわき たかひろ、寛政6年11月2日〈1791年11月27日〉 - 嘉永6年12月9日〈1854年1月7日〉)は、江戸時代後期の大名。出羽国亀田藩8代藩主。
生涯
[編集]寛政3年(1791年)11月2日、7代藩主・岩城隆恕の長男として生まれる。
寛政12年(1800年)5月13日、父・隆恕の嫡子となる。文化4年(1807年)2月22日、江戸幕府11代将軍・徳川家斉に御目見をする。文化14年(1817年)7月13日、隆恕の死去により家督を継いだ[1]。同年12月16日、従五位下・伊予守に叙任する[1]。天保元年(1831年)5月21日、オランダ人に地図を提供した咎で捕縛された長崎大通詞・馬場為八郎、小通詞・稲部市五郎、吉雄忠次郎の身柄を、幕府の命を受け佐竹義純・前田利和と共に預かる[2]。
弘化元年(1844年)、駿府加番を命じられる。嘉永5年(1852年)12月27日、大和国柳本藩主・織田信陽と共に家格を城主格に上げられる[1][3]。
嘉永6年12月9日(1854年)死去。享年63。隆喜の死後、四男・隆永から隆信・隆政・隆邦と4兄弟が相次いで家督を継ぐことになる。
系譜
[編集]子女は8男18女
父母
- 岩城隆恕(父)
正室、継室
側室
- 千勢、恵鏡院
- 菊瀬、松雲院
子女
- 岩城隆興(三男)
- 直子(三女) - 浅野長祚正室
- 倉子、浄真院(五女) - 佐竹義祚正室
- 岩城隆永(四男) 生母は恵鏡院
- 岩城隆信(五男) 生母は松雲院
- 寿
- 岩城隆政(六男) 生母は松雲院
- 岩城隆邦(七男) 生母は松雲院 - 真田秀八郎(岩城隆謨)の養子
- 堀田正養(九男) - 堀田正誠の養子
- 銀子(八女) - 佐竹義祚継室
- 立花種温正室
- 緑操院 - 前田利豁正室