「市川房枝」を編集中
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1909年(明治42年)1月27日、尋常小学校準教員免許を取得{{Sfn|『市川房枝集 別巻』|pp=111-112}}。ほどなく、次姉が通っていた[[額田郡]]岡崎町(現・[[岡崎市]][[六供町 (岡崎市)|六供町]])の[[愛知第二師範学校|愛知県第二師範学校]]女子部に進むことを考えた。当時、師範学校は月謝もなく、寄宿舎の費用も無料であった。一年一着の袴と夏冬に着物一枚ずつが支給された。そして卒業後5年間、県内の小学校に勤務する権利と義務が与えられていた。独立の職業がもてるため少女たちの入学希望者が多く、第二師範学校の場合、応募者は定員約30人に対し毎年2、3倍あった。試験はむずかしいとされていたが、市川は本科1年の補欠試験に合格し、同年4月に入学。寄宿舎に入り、岡崎では3年学んだ{{Sfn|『市川房枝自伝 戦前編』|pp=15-21}}{{efn|愛知県第二師範学校女子部の1年上級に、劇作家の[[永井愛]]の祖母の永井志津がいた。市川は志津に「自分はいつか、全国女教員の読む雑誌を出したい」と語った<ref name="ito-yasuko"/>。永井愛は市川と祖母の交流や市川の授業ストライト事件などを題材にして1997年に戯曲『[[見よ、飛行機の高く飛べるを]]』を発表した<ref name="asahikwa-shimin-gegijo">{{cite web | url=https://www-10.potato.ne.jp/~a-enkan/pdf/c201702.pdf | title=見よ、飛行機の高く飛べるを | publisher=旭川市民劇場 | date= | accessdate=2024-2-12 }}</ref>。}}。テニスに夢中になり、同じ[[六供町 (岡崎市)|六供]]にあった岡崎町立高等女学校(現・[[愛知県立岡崎北高等学校]])との対抗マッチでは優勝した{{Sfn|『私の履歴書 第13集』|1961|pp=46-47 }}。 |
1909年(明治42年)1月27日、尋常小学校準教員免許を取得{{Sfn|『市川房枝集 別巻』|pp=111-112}}。ほどなく、次姉が通っていた[[額田郡]]岡崎町(現・[[岡崎市]][[六供町 (岡崎市)|六供町]])の[[愛知第二師範学校|愛知県第二師範学校]]女子部に進むことを考えた。当時、師範学校は月謝もなく、寄宿舎の費用も無料であった。一年一着の袴と夏冬に着物一枚ずつが支給された。そして卒業後5年間、県内の小学校に勤務する権利と義務が与えられていた。独立の職業がもてるため少女たちの入学希望者が多く、第二師範学校の場合、応募者は定員約30人に対し毎年2、3倍あった。試験はむずかしいとされていたが、市川は本科1年の補欠試験に合格し、同年4月に入学。寄宿舎に入り、岡崎では3年学んだ{{Sfn|『市川房枝自伝 戦前編』|pp=15-21}}{{efn|愛知県第二師範学校女子部の1年上級に、劇作家の[[永井愛]]の祖母の永井志津がいた。市川は志津に「自分はいつか、全国女教員の読む雑誌を出したい」と語った<ref name="ito-yasuko"/>。永井愛は市川と祖母の交流や市川の授業ストライト事件などを題材にして1997年に戯曲『[[見よ、飛行機の高く飛べるを]]』を発表した<ref name="asahikwa-shimin-gegijo">{{cite web | url=https://www-10.potato.ne.jp/~a-enkan/pdf/c201702.pdf | title=見よ、飛行機の高く飛べるを | publisher=旭川市民劇場 | date= | accessdate=2024-2-12 }}</ref>。}}。テニスに夢中になり、同じ[[六供町 (岡崎市)|六供]]にあった岡崎町立高等女学校(現・[[愛知県立岡崎北高等学校]])との対抗マッチでは優勝した{{Sfn|『私の履歴書 第13集』|1961|pp=46-47 }}。 |
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1912年(明治45年)4月、[[西春日井郡]][[金城村]](現・[[名古屋市]][[西区 (名古屋市)|西区]][[天神山町 (名古屋市)|天神山町]])に新設された愛知県女子師範学校 |
1912年(明治45年)4月、[[西春日井郡]][[金城村]](現・[[名古屋市]][[西区 (名古屋市)|西区]][[天神山町 (名古屋市)|天神山町]])に新設された愛知県女子師範学校に移る。同年7月、新校長の良妻賢母教育に反発。同級生28人と授業ストライキを実施し、28か条の要求書を提出した{{Sfn|『市川房枝集 別巻』|pp=111-112}}{{Sfn|『市川房枝自伝 戦前編』|pp=15-21}}。 |
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1913年(大正2年)、愛知県女子師範学校卒業{{Sfn|『市川房枝集 別巻』|pp=111-112}}。同校の第1回卒業生となる<ref>『岡崎・西尾の昭和』樹林舎、2011年12月7日、70頁。</ref>。同年4月、母校の朝日尋常高等小学校の[[訓導]]に任命される。1914年(大正3年)4月、名古屋市の第二高等小学校に転任{{Sfn|『私の履歴書 第13集』|1961|p=48 }}。 |
1913年(大正2年)、愛知県女子師範学校卒業{{Sfn|『市川房枝集 別巻』|pp=111-112}}。同校の第1回卒業生となる<ref>『岡崎・西尾の昭和』樹林舎、2011年12月7日、70頁。</ref>。同年4月、母校の朝日尋常高等小学校の[[訓導]]に任命される。1914年(大正3年)4月、名古屋市の第二高等小学校に転任{{Sfn|『私の履歴書 第13集』|1961|p=48 }}。 |