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応仁の乱

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応仁の乱おうにんのらん1467年 - 1477年応仁1 - 文明9)は、室町幕府8代将軍足利義政のときに起きた内乱。細川勝元・山名持豊(出家して山名宗全)らの有力守護大名が争い、その後、戦国時代に突入した。


旧勢力の没落と新興勢力の台頭

室町時代をつらぬく流れは、”旧勢力の没落と新興勢力の台頭”である。鎌倉時代後期から、名門武家・公家を始めとする旧来の支配勢力は、生産力向上に伴い力をつけてきた国人(地侍)・商人・農民などによって、その既得権益を侵食され没落の一途をたどっていた。

また、守護大名による合議制の連合政権であった室町幕府は、3代将軍足利義満のときを除けば、成立当初から将軍の権力基盤は脆弱であり、同じように守護大名も、台頭する守護代や有力家臣の影響を受けていた。こうした環境は、当時、長子による家督権継承が完全に確立されていなかったことも相まって、しばしば、将軍家・守護大名家に“お家騒動”を発生させる原因になった。


将軍義政

足利義政は、嘉吉の乱で誘殺された6代将軍足利義教の跡を継いだ兄7代将軍足利義勝が夭逝すると、8代将軍に就任する。名付け親で執事の伊勢貞親や愛妾今参局に囲まれ甘やかされて成長した義政は、その文化人的な気質も手伝って、守護大名を統率する覇気に乏しく、幕府の運営は伊勢貞親・妻日野富子そして勝元・宗全らの有力守護大名が掌握するところであった。義政はといえば 、猿楽作庭に情熱を傾け、幽玄の世界に遊ぶ日々を過ごすのであった。

続発する土一揆や混乱する政治に興味をなくしていた義政は、産まれてくる子が女子ばかりであったこともあり、実弟足利義視を還俗させて将軍職を譲ることを決意した。義政は、29歳という若さで、憂き世を捨てて遊芸三昧の楽隠居を夢見たのである。義視(浄土寺門跡義尋)は将軍職就任を固持したものの説き伏せられて、1464年(寛正5年11月26日)、細川勝元の後見を得、次期将軍を予定されて今出川邸に移った。

翌1465年、武衛騒動が発生する。義政の権威を背景に伊勢貞親は、四職斯波氏のお家騒動に介入する。家督継承を餌に斯波義敏斯波義廉の間を渡り歩いて、私腹を肥やしたのである。斯波義廉の同盟者であった宗全は、激怒して武力で伊勢貞親を幕府から排除した。

伊勢貞親の追放に際して、義政は何の策も講じることがなかった。義政は文化的な事柄には異常なまでの執着心を示すが、事が政治や人間関係に及ぶと、今参局の殺害に際してもそうであったように、冷酷なまでに気紛れ・無関心・無責任であった。


勝元と宗全

嘉吉の乱で赤松家の鎮圧に功があった山名宗全は、婿の細川勝元が赤松家の再興に関して 赤松政則に肩入れしたことが原因で、両者は激しく対立するようになっていた。

武衛騒動では、宗全が斯波義廉の後ろ盾になったことから、斯波義敏は勝元を頼って復権を画策した。

富樫氏 の家督をめぐる富樫政親富樫幸千代の争いにも勝元・宗全が深く関与していて両者の対立関係は深まって行くのであった。

1465年(寛正6年11月23日)、義政と富子との間に 足利義尚(はじめ義煕)が誕生する。義尚を将軍にさせたいと願う富子は、勝元の舅でその対抗者でもあった宗全に接近し、義尚の次期将軍擁立を企てたことから、義視を奉じる勝元、義尚を奉じる宗全という構図もできあがった。

大乱の勃発

このころ、管領畠山政長と義弟畠山義就との間にも、家督継承権をめぐって騒動が発生していた。政長は勝元と義就は宗全と誼を通じ、両者は後ろ盾を頼んで激しく対立したが、足利義政は、この処遇をめぐっても無責任であった。政長と義就に対して勘当と赦免をくり返したのである。

そもそも畠山家総領の地位は義就であったが、享徳のころ(1452年ころ)、内紛によって義就は追放され、従兄弟である政長がその地位に就いた。その後、義就が宗全を頼って復権を画策していたところ、十数年を経て義政は宗全に懐柔されて、政長や勝元に断ることなく義就を赦免したのである。

1467年(応仁元年正月)、義政は正月恒例の管領屋敷(このときは政長邸)への「お成り」を行わなかったばかりか義就が宗全邸で開いた酒宴に出席する。そのことは義就管領職就任の追認を意味した。

その後宗全は、政変を有利に進めるために兵を呼び寄せ、内裏花の御所(将軍邸)を囲んで固めると、諸大名が加担しないことを条件に政長と義就が雌雄を決することを義政に認めさせた。

事実上廃嫡され賊軍に近い扱いを受けた政長は勝元に援助を求めたが、勝元は天皇と将軍が宗全派に掌握されていたため、賊軍となることを恐れて援軍を出すのを断った。

1467年(応仁元年正月17日)義就との戦いを決意した政長は、無防備であった自邸に火を放つと、2000の兵を率いて竹薮に囲まれた上御霊社に陣を敷いた。

ここに戦いが開始され、新管領義就は勢いを駆って上御霊社に乱入したが、政長は少数でよく持ちこたえ夜陰にまぎれて都から逃亡してしまった。

東西軍の対峙

上御霊社の戦いの後、宗全派が都を席巻していたが、事態の推移を静観していた勝元は、宗全派の隙を見て、勝元邸・今出川邸周辺に同盟軍16万を上洛させ(東軍)、戦火から保護するという名目で天皇・義政・義尚・富子・義視を自己の管理下に置いて、宗全派への本格的な反攻を開始した。

対する宗全が周防国大内政弘らの有力守護大名を味方につけて11万の兵を宗全邸付近に集める(西軍)と、勝元は義政に圧力をかけて牙旗を授与させ東軍は官軍としての体裁を整えた。

当時の人口が22万人といわれる京都に、東西軍合わせて27万の兵が対峙する異様な状況が展開されることになった。

戦況の変遷

当初官軍を称する東軍が戦いをやや有利に進めたが、その後、一進一退をくり返し戦況は膠着するようになった。応仁元年8月29日、突然、義視が東軍を出奔して、伊勢国の北畠教具の元に身をおく。その後、義政や勝元に諭された義視は東軍に帰陣したものの、再度出奔して、応仁元年11月23日、西軍に迎えられた。義視出奔の原因は、自らの廃嫡と実子義尚の将軍職継承に傾いた義政や富子とその兄日野勝光らの勢力に、後見人であった勝元が懐柔されたためであろう。

相国寺における激しい戦いなどもあったが、両軍とも決定的な戦果をあげることは出来なかった。敵味方入り乱れての離散集合が著しく、文明年間には 骨皮道賢らに率いられた足軽が活躍するゲリラ戦も展開され、夜盗も跋扈して京都市街地は焼け野原と化した。京都に結集した守護大名の領国にも戦乱が波及し、いつ果てるとも知れない戦いに両軍の間に厭戦気分が漂うようになる。

1473年(文明5年3月18日)に宗全が、続いて勝元が死去(文明5年5月11日)した後、(文明5年12月19日)、義政は義尚に将軍職を譲って隠居した。1474年(文明6年4月3日)、宗全の子山名政豊と勝元の子細川政元の間に和睦が成立し、残存勢力による小競り合いが続いていたものの、1477年(文明9年11月11日)、大内義弘が周防国に撤収したことによって西軍は解体し京都での戦闘は収束に向かった。(文明9年11月20日)、幕府によって「天下静謐」の祝宴が催され「応仁の乱」の幕が降ろされた。


影響

応仁の乱では同盟関係が目まぐるしく交替し、混乱した当時の世相を色濃く反映している。商品経済の発達、生産力の増加に伴う自営農民の発生、国人の社会的地位の向上。それらは荘園制度に代表される旧制度を崩壊させ人々に新しい価値観を与えた。

応仁の乱を勃発させた畠山政長と畠山義就の争いはその後も継続し山城国一揆を誘発したが、これは新しい政治勢力が旧来の政治勢力に代わる力を持ったことを示している。

応仁の乱は室町幕府の権威を失墜させたばかりでなく、守護大名にとっても何ら得るものはなく朝倉孝景や織田家などの守護代や国人の政治介入を許し没落する原因になった。時代は、下克上の風潮や戦乱が全国に拡散されて戦国時代へと推移していった。