「横光利一」を編集中
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{{Infobox 作家 |
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| notable_works = 『[[日輪 (横光利一)|日輪]]』(1923年)<br />『[[頭ならびに腹]]』(1924年)<br />『[[機械 (小説)|機械]]』(1930年)<br />『[[上海 (小説)|上海]]』(1931年)<br />『純粋小説論』(1935年、評論)<br />『[[旅愁 (小説)|旅愁]]』(1937 - 1946年) |
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| influences = [[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]、[[オスカー・ワイルド|ワイルド]]、[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ|ダンヌンツィオ]]、[[フレデリック・ミストラル]]、[[高山樗牛]]、[[志賀直哉]]、[[夏目漱石]]、[[ギュスターヴ・フローベール|フローベール]]、[[ジェイムズ・ジョイス|ジョイス]]、[[マルセル・プルースト|プルースト]]、[[アンドレ・ジッド]]、[[ポール・モラン]]、[[モーパッサン]] |
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| influenced = [[橋本英吉]]、[[石塚友二]]、[[森敦]]、[[寺崎浩]]、[[多田裕計]]、[[八木義徳]]、[[中里恒子]]、[[菊岡久利]]、[[石川桂郎]]、[[清水基吉]]、[[野間宏]]<ref name=ban/><ref>以下、後藤明生まで出典は伴悦「横光利一と後代」「国文学 解釈と鑑賞」2000年6月号,p35</ref>、[[椎名麟三]]、[[武田泰淳]]、[[中村真一郎]]、[[大岡昇平]]、[[梅崎春生]]、[[小島信夫]]、[[坂口安吾]]、[[太宰治]]、[[石川淳]]、[[織田作之助]]、[[三島由紀夫]]、[[井上靖]]、[[大江健三郎]]、[[丸谷才一]]、[[後藤明生]] |
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'''横光 利一'''(よこみつ りいち、[[1898年]] |
'''横光 利一'''(よこみつ りいち、[[1898年]]([[明治]]31年)[[3月17日]] - [[1947年]]([[昭和]]22年)[[12月30日]])は、日本の[[小説家]]・[[俳人]]・[[評論家]]である。本名は横光利一(としかず){{Sfn|福田|1967|p=9}}。 |
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[[菊池寛]]に師事し、[[川端康成]]と共に[[新感覚派]]として[[大正]]から[[昭和]]にかけて活躍した。『 |
[[菊池寛]]に師事し、[[川端康成]]と共に[[新感覚派]]として[[大正]]から[[昭和]]にかけて活躍した。『日輪』と『蝿』で鮮烈なデビューを果たし、『[[機械 (小説)|機械]]』は日本の[[モダニズム]]文学の頂点とも絶賛され、また[[形式主義]]文学論争を展開し『純粋小説論』を発表するなど評論活動も行い、長編『旅愁』では[[西洋]]と[[東洋]]の文明の対立について書くなど多彩な表現を行った。1935年(昭和10年)前後には「文学の神様」と呼ばれ、[[志賀直哉]]とともに「小説の神様」とも称された<ref name=toeda>十重田裕一[https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/36447/3/Honbun-5471.pdf 横光利一における大正・昭和期メディアと文学の研究]、早稲田大学、2010.</ref>。 |
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戦後は戦中の戦争協力を非難されるなか、『夜の靴』などを発表した。死後、再評価が進んだ |
戦後は戦中の戦争協力を非難されるなか、『夜の靴』などを発表した。死後、再評価が進んだ。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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4歳上に姉・しずこがいた。父の鉄道敷設工事の仕事の関係で、幼少時、[[千葉県]][[佐倉市]]、東京[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]、[[山梨県]]、三重県東柘植村、[[広島県]]、[[滋賀県]][[大津市]]など各地を転々とする。 |
4歳上に姉・しずこがいた。父の鉄道敷設工事の仕事の関係で、幼少時、[[千葉県]][[佐倉市]]、東京[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]、[[山梨県]]、三重県東柘植村、[[広島県]]、[[滋賀県]][[大津市]]など各地を転々とする。 |
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[[1904年]](明治37年)4月に大津市[[尋常小学校]]に入学した{{Sfn|福田|1967|p=18}}。「尋常小学読本」施行後の最初の学年であり、横光らは日本近代の国語政策のもとで教育を受けた第一世代であった<ref name=toeda/>。[[1906年]](明治39年)6月から父が軍事鉄道敷設工事のため[[朝鮮]]へ渡ることとなり、母の故郷である三重県阿山郡東柘植村に戻り、小学校時代の大半を過ごした。友人に宛てた手紙でも「やはり故郷と云えば柘植より頭に浮かんで来ません」と記している。[[1909年]](明治42年)5月、滋賀県大津市に移住し、西尋常小学校に転校 |
[[1904年]](明治37年)4月に大津市[[尋常小学校]]に入学した{{Sfn|福田|1967|p=18}}。「尋常小学読本」施行後の最初の学年であり、横光らは日本近代の[[国語]]政策のもとで教育を受けた第一世代であった<ref name=toeda/>。[[1906年]](明治39年)6月から父が軍事鉄道敷設工事のため[[朝鮮]]へ渡ることとなり、母の故郷である三重県阿山郡東柘植村に戻り、小学校時代の大半を過ごした。友人に宛てた手紙でも「やはり故郷と云えば柘植より頭に浮かんで来ません」と記している。[[1909年]](明治42年)5月、滋賀県大津市に移住し、西尋常小学校に転校。 |
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[[画像:Mie pref Ueno highschool.jpg|thumb|利一が通った三重県第三中学校(現[[三重県立上野高等学校]])。建物は当時のまま。]] |
[[画像:Mie pref Ueno highschool.jpg|thumb|利一が通った三重県第三中学校(現[[三重県立上野高等学校]])。建物は当時のまま。]] |
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[[1911年]](明治44年)、大津市大津尋常高等小学校高等科を修了し、13歳で三重県第三中学校(現・[[三重県立上野高等学校]])入学{{Sfn|福田|1967|p=26}}。 |
[[1911年]](明治44年)、大津市大津尋常高等小学校高等科を修了し、13歳で三重県第三中学校(現・[[三重県立上野高等学校]])入学{{Sfn|福田|1967|p=26}}。当初は母と姉と共に[[上野町 (三重県)|上野町]]万町に移り住んで暮らしていたが、父が[[兵庫県]][[神崎郡]][[福崎町|福崎]]に移ったため、[[1913年]](大正2年)に一人で下宿生活を送る。柔道、水泳、陸上などスポーツ万能の少年であった{{Sfn|福田|1967|p=26}}。この頃、近所に住んでいた少女の宮田おかつに淡い恋心を抱き、のちに、下宿時代の初恋の思い出をもとに『[[雪解]]』を発表している。このころ[[夏目漱石]]、[[志賀直哉]]を読む{{Sfn|福田|1967|p=26}}。また[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]作、[[片上伸]]翻訳「死人の家([[死の家の記録]])」から「文学の洗礼」を受けたとのちに語っている<ref name=toeda/>。中学4年のとき、国語教師に文才を認められたのが契機で小説家を志望するようになった{{Sfn|福田|1967|p=27}}。[[1916年]](大正5年)3月校友会会報に「夜の翅」「第五学年修学旅行記」を掲載し、奇抜で象徴的なものであった{{Sfn|福田|1967|p=27}}。 |
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=== 大学時代 === |
=== 大学時代 === |
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[[1916年]](大正5年)、父の反対を押し切って[[早稲田大学]]高等予科文科に入学。[[東京府]][[豊多摩郡]][[戸塚町 (東京府)|戸塚村]]下戸塚の栄進館に住む{{Sfn|福田|1967|p=28}}。文学に傾倒し、文芸雑誌に小説を投稿しはじめる。文学をやりはじめてからは「[[極道]]息子」「極道坊主」と心配されたが、不良少年ではなかった{{Sfn|福田|1967|p=30}}。経費節約のため友人と三人で[[雑司が谷|雑司ヶ谷]]に家を借りて住んだ{{Sfn|福田|1967|p=34}}。夏休みのあと東京に帰ってみると、以前の下宿から連れてきた女中が部屋で友人と寝ており、横光は「まるで飲みほしたコップの麦酒の泡が一つ一つ消えてゆくのを見つめているような感じだった」といい、嫉妬は感じなかったのかという質問に「嫉妬は君、恋愛に付随する、必然の副産物だからね。僕はそれ以来、女性も友人も信じなくなった」と[[中山義秀]]に語っている{{Sfn|福田|1967|p=34}}。この女中寝取られ事件については小説「悲しみの代価」<ref>『[[文藝]]』1955年(昭和30年)5月臨時増刊号</ref>で書いた{{Sfn|福田|1967|p=35}}。この事件は「生涯における、たった一つの過失」であったと中山は語っている{{Sfn|福田|1967|p=35}}。12月14日に初恋の宮田おかつが |
[[1916年]](大正5年)、父の反対を押し切って[[早稲田大学]]高等予科文科に入学。[[東京府]][[豊多摩郡]][[戸塚町 (東京府)|戸塚村]]下戸塚の栄進館に住む{{Sfn|福田|1967|p=28}}。文学に傾倒し、文芸雑誌に小説を投稿しはじめる。文学をやりはじめてからは「[[極道]]息子」「極道坊主」と心配されたが、不良少年ではなかった{{Sfn|福田|1967|p=30}}。経費節約のため友人と三人で[[雑司が谷|雑司ヶ谷]]に家を借りて住んだ{{Sfn|福田|1967|p=34}}。夏休みのあと東京に帰ってみると、以前の下宿から連れてきた女中が部屋で友人と寝ており、横光は「まるで飲みほしたコップの麦酒の泡が一つ一つ消えてゆくのを見つめているような感じだった」といい、嫉妬は感じなかったのかという質問に「嫉妬は君、恋愛に付随する、必然の副産物だからね。僕はそれ以来、女性も友人も信じなくなった」と[[中山義秀]]に語っている{{Sfn|福田|1967|p=34}}。この女中寝取られ事件については小説「悲しみの代価」<ref>『[[文藝]]』1955年(昭和30年)5月臨時増刊号</ref>で書いた{{Sfn|福田|1967|p=35}}。この事件は「生涯における、たった一つの過失」であったと中山は語っている{{Sfn|福田|1967|p=35}}。12月14日に初恋の宮田おかつが14歳で急逝。 |
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翌年[[1917年]](大正6年)1月に大学を神経衰弱を理由に休学、父母の住む[[京都市|京都]][[山科区|山科]]で遊ぶ{{Sfn|福田|1967|p=30}} |
翌年[[1917年]](大正6年)1月に大学を神経衰弱を理由に休学、父母の住む[[京都市|京都]][[山科区|山科]]で遊ぶ{{Sfn|福田|1967|p=30}}。7月に「神馬」が佳作として『文章世界』に掲載された。雑誌『文章世界』は当時文壇の登竜門とされていた{{Sfn|福田|1967|p=32}}。10月には「犯罪」が当選作として『[[万朝報]]』に掲載された。筆名は横光白歩。11月には同じ筆名横光白歩で『文章世界』に[[近畿方言|関西方言]]を取り入れた「野人」を応募した<ref name=toeda/>。 |
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[[1918年]](大正7年)4月に英文科第一学年に編入{{Sfn|福田|1967|p=193}}。同級に[[佐藤一英]]がおり<ref name=homonki>[[都築久義]]「佐藤一英氏訪問記」愛知淑徳大学国語国文2pp.69 - 72 , 1979</ref>、下宿も同じで中山義秀も同じ下宿だった{{Sfn|福田|1967|p=31}}。佐藤一英の詩歌研究会に加わり、そこに中山義秀、[[吉田一穂]]、[[小島勗]](つとむ){{Sfn|福田|1967|p=193}}らも集まった<ref name=homonki/>。横光左馬の筆名で詩句を発表。先祖の横光右馬丞元維([[宇佐市|宇佐]]の光岡城主・赤尾[[備前守家|備前守]]種綱の[[家臣]])をもじった筆名であった。横光は学校には行かず、下宿にこもって小説を書いて、投稿を繰り返していた{{Sfn|福田|1967|p=31}}。たまに学校の講義に出席してもノートもとらず、瞑想するような態度で聞いているだけであった{{Sfn|福田|1967|p=32}}。[[村松梢風]]によれば横光はいつも[[和服]]に黒い[[マント]]をはおり、「教室へ入って来てもマントを脱がず、たつた一人中央の席へどつかり腰をおろすと、それから獅子がたてがみをふるように一と揺りぶるつと長髪を振り、左右を睥睨しながら、右手を上げて指で頭髪を掻き上げるのであつた。自分が一般のものと異つたものであることを人にも見せようとするし、彼自身も明かにそれを意識していた」{{Sfn|福田|1967|p=32}}。また村松梢風は横光の下宿の生活について次のように語っている{{Sfn|福田|1967|p=32}}。 |
[[1918年]](大正7年)4月に英文科第一学年に編入{{Sfn|福田|1967|p=193}}。同級に[[佐藤一英]]がおり<ref name=homonki>[[都築久義]]「佐藤一英氏訪問記」愛知淑徳大学国語国文2pp.69 - 72 , 1979</ref>、下宿も同じで中山義秀も同じ下宿だった{{Sfn|福田|1967|p=31}}。佐藤一英の詩歌研究会に加わり、そこに中山義秀、[[吉田一穂]]、[[小島勗]](つとむ){{Sfn|福田|1967|p=193}}らも集まった<ref name=homonki/>。横光左馬の筆名で詩句を発表。先祖の横光右馬丞元維([[宇佐市|宇佐]]の光岡城主・赤尾[[備前守家|備前守]]種綱の[[家臣]])をもじった筆名であった。横光は学校には行かず、下宿にこもって小説を書いて、投稿を繰り返していた{{Sfn|福田|1967|p=31}}。たまに学校の講義に出席してもノートもとらず、瞑想するような態度で聞いているだけであった{{Sfn|福田|1967|p=32}}。[[村松梢風]]によれば横光はいつも[[和服]]に黒い[[マント]]をはおり、「教室へ入って来てもマントを脱がず、たつた一人中央の席へどつかり腰をおろすと、それから獅子がたてがみをふるように一と揺りぶるつと長髪を振り、左右を睥睨しながら、右手を上げて指で頭髪を掻き上げるのであつた。自分が一般のものと異つたものであることを人にも見せようとするし、彼自身も明かにそれを意識していた」{{Sfn|福田|1967|p=32}}。また村松梢風は横光の下宿の生活について次のように語っている{{Sfn|福田|1967|p=32}}。 |
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==== 菊池寛との出会い ==== |
==== 菊池寛との出会い ==== |
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[[File: |
[[File:Kan Kikuchi smoking.jpg|thumb|菊池寛]] |
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[[1919年]](大正8年)、『[[新潮]]』が「菊池寛氏に対する公開状」を募集し、佐藤一英が応募すると入選し、それが機縁となって佐藤は菊池寛を訪ねるようになった<ref name=homonki/>。菊池は小説を書くようにすすめたが、佐藤はあくまで詩を作るとのべ、親友に小説志望がいるといい、[[1920年]]、横光を菊池寛に紹介し、以降、生涯師事することとなった<ref name=homonki/><ref name=toujyozengo/>。友人[[小島勗]]の |
[[1919年]](大正8年)、『[[新潮]]』が「菊池寛氏に対する公開状」を募集し、佐藤一英が応募すると入選し、それが機縁となって佐藤は菊池寛を訪ねるようになった<ref name=homonki/>。菊池は小説を書くようにすすめたが、佐藤はあくまで詩を作るとのべ、親友に小説志望がいるといい、[[1920年]]、横光を菊池寛に紹介し、以降、生涯師事することとなった<ref name=homonki/><ref name=toujyozengo/>。友人[[小島勗]]の妹君子に恋をする{{Sfn|福田|1967|p=38}}。 |
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[[1920年]](大正9年)1月、雑誌『サンエス』に小説「宝」を発表<ref name=toeda/>。9月、戸塚から[[小石川]]区初音町の初音館に移った{{Sfn|福田|1967|p=39}}。ここで横光が[[生田長江]]訳[[ギュスターヴ・フローベール|フローベール]]「サランボー」を手元において小説を書き、またデクエンシイや[[クヌート・ハムスン]]を読んでいたと吉田一穂、中山義秀が述べている<ref name=toeda/>。この頃は雑誌『サンエス』で親友の佐藤一英とともに外国文学紹介(無署名記事)のアルバイトをしていた<ref name=toeda/>。またこの頃、佐藤に「俺は余り志賀(直哉)氏にかぶれすぎていた |
[[1920年]](大正9年)1月、雑誌『サンエス』に小説「宝」を発表<ref name=toeda/>。9月、戸塚から[[小石川]]区初音町の初音館に移った{{Sfn|福田|1967|p=39}}。ここで横光が[[生田長江]]訳[[ギュスターヴ・フローベール|フローベール]]「サランボー」を手元において小説を書き、またデクエンシイや[[クヌート・ハムスン]]を読んでいたと吉田一穂、中山義秀が述べている<ref name=toeda/>。この頃は雑誌『サンエス』で親友の佐藤一英とともに外国文学紹介(無署名記事)のアルバイトをしていた<ref name=toeda/>。またこの頃、佐藤に「俺は余り志賀(直哉)氏にかぶれすぎていた、と書簡で書いている<ref name=toujyozengo/>。初音館から兄の小島が留守のときに小島君子の家に通った{{Sfn|福田|1967|p=39}}{{Sfn|福田|1967|p=45}}。 |
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[[File:Yasunari Kawabata 1938.jpg|thumb|川端康成]] |
[[File:Yasunari Kawabata 1938.jpg|thumb|川端康成]] |
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[[1921年]](大正10年)1月、[[時事新報]]に「踊見」を応募し、選外一位となった{{Sfn|福田|1967|p=193}}。[[政治経済学科]]へ転入するも長期欠席と学費未納のため除籍となる。6月、[[藤森淳三]]、[[富ノ澤麟太郎]]、古賀龍視らと同人誌『街』を創刊{{Sfn|福田|1967|p=193}}。 |
[[1921年]](大正10年)1月、[[時事新報]]に「踊見」を応募し、選外一位となった{{Sfn|福田|1967|p=193}}。[[政治経済学科]]へ転入するも長期欠席と学費未納のため除籍となる。6月、[[藤森淳三]]、[[富ノ澤麟太郎]]、古賀龍視らと同人誌j『街』を創刊{{Sfn|福田|1967|p=193}}。小石川中富坂の菊池寛の家で[[川端康成]]と出会い、菊池は二人を本郷の[[牛肉]]屋「江知勝」に連れて行き[[牛鍋]]をふるまった<ref name="jijoden">[[川端康成]]「文学的自叙伝」(新潮 1934年5月号に掲載)</ref>{{Sfn|福田|1967|p=39}}<ref name=toujyozengo>保昌正夫「横光利一の時代 文壇登場の前後」立正大学文学部論叢 (93), 19-33, 1991年</ref>。しかしストイックな横光はほとんど箸を持たなかった<ref name="jijoden"/><ref name="kaisetsu37">川端康成「解説 横光利一」(『日本の文学37・横光利一』)(中央公論社、1966年)</ref>。横光が先に帰ると菊池が川端に「あれはえらい男だから友達になれ」といい、川端は終生の友となった<ref name="jijoden"/><ref name="kaisetsu37"/><ref name=toujyozengo/>。「御身」を書くがこの時には発表せずにいる。この頃、ペンネームを「横光左馬(さま)」にすれば、「これならいつでも人から敬称されている」と昂然としていた{{Sfn|福田|1967|p=41}}。一時キリスト教徒になり教会にも出入りした{{Sfn|福田|1967|p=41}}。この頃「蝿」と「日輪」を書いていたが、暮らしは貧しく、一日の食事は十[[銭]]のラーメン一杯だけであった{{Sfn|福田|1967|p=42}}。一度だけ、中山義秀に少しの借金をした{{Sfn|福田|1967|p=43}}。 |
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[[1922年]](大正11年)2月に「南北」が『[[人間 (雑誌)|人間]]』に掲載された。5月、富ノ澤麟太郎、古賀、小島勗、中山義秀らと同人雑誌『塔』を創刊し、「面」(のち「笑はれた子」)を掲載{{Sfn|福田|1967|p=193}}。8月29日に父が仕事先の朝鮮[[京城府|京城]]で[[客死]](享年55)し、ひとり渡鮮した{{Sfn|福田|1967|p=36}}。「青い石を拾つてから」では京城は黄色く、駅で母と会い父の家にいくとすでに葬式はすんでおり、骨箱をみて横光は「何アんぢや、こんなものか」と笑ったが、夕方になると悲しみに浸った{{Sfn|福田|1967|p=35}}。 |
[[1922年]](大正11年)2月に「南北」が『[[人間 (雑誌)|人間]]』に掲載された。5月、富ノ澤麟太郎、古賀、小島勗、中山義秀らと同人雑誌『塔』を創刊し、「面」(のち「笑はれた子」)を掲載{{Sfn|福田|1967|p=193}}。8月29日に父が仕事先の朝鮮[[京城府|京城]]で[[客死]](享年55)し、ひとり渡鮮した{{Sfn|福田|1967|p=36}}。「青い石を拾つてから」では京城は黄色く、駅で母と会い父の家にいくとすでに葬式はすんでおり、骨箱をみて横光は「何アんぢや、こんなものか」と笑ったが、夕方になると悲しみに浸った{{Sfn|福田|1967|p=35}}。小島君子との恋愛もうまくいかないこともあり、虚無感にひたり、朝鮮について「ここの民族は、ひよつとすると歴史の頂上で疲れているのであろう。これはたしかにあの空が悪いのだ。笑ひを奪つたあの空が。冷酷で、どこかあまりに人間を馬鹿にし過ぎた空である。どこに風が吹いているかと云うかのような、ああ云う空の下ではとても民族は発展することが出来るものではない。何の親しみもない空だ。澄明で虚無的で応援力が少しもなく、それかと云つて、もしあの空に曇られたならとても仰ぐのも恐ろしくなるに相違ない」(「旅行記」)と書き、やがて「私はもう何事にもだんだん悲しまなくなつて来た。さうして私は私自身に冷たくなればなるほど私は次第に強みを感じて来た」と心境を表現した{{Sfn|福田|1967|p=38}}。 |
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=== 文壇への登場 === |
=== 文壇への登場 === |
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[[1923年]](大正12年)1月、菊池は雑誌『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』を創刊、定価十銭、32ページで三千部が完売した{{Sfn|福田|1967|p=41}}。菊池の推挙により川端康成とともに『文藝春秋』二号から編集同人(当時の同誌は[[同人誌]]だった)となった{{Sfn|福田|1967|p=41}}。ほか、編集同人には[[今東光]]、[[鈴木氏享]]、[[斉藤龍太郎]]、[[小柳博]]、[[船田享二]]、小山悦朗、小島健三、[[石浜金作]]、[[酒井真人]]、[[佐々木味津三]]、[[鈴木彦次郎]]、[[南幸夫]]らがいた<ref name=toeda/>。創刊号1月号には「時代は放蕩する(階級文学者諸卿へ)」を書いた<ref name=toujyozengo/>。 |
[[1923年]](大正12年)1月、菊池は雑誌『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』を創刊、定価十銭、32ページで三千部が完売した{{Sfn|福田|1967|p=41}}。菊池の推挙により川端康成とともに『文藝春秋』二号から編集同人(当時の同誌は[[同人誌]]だった)となった{{Sfn|福田|1967|p=41}}。ほか、編集同人には[[今東光]]、[[鈴木氏享]]、[[斉藤龍太郎]]、[[小柳博]]、[[船田享二]]、小山悦朗、小島健三、[[石浜金作]]、[[酒井真人]]、[[佐々木味津三]]、[[鈴木彦次郎]]、[[南幸夫]]らがいた<ref name=toeda/>。創刊号1月号には「時代は放蕩する(階級文学者諸卿へ)」を書いた<ref name=toujyozengo/>。 |
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5月に同誌に「 |
5月に同誌に「蝿」を、『[[新小説]]』に[[卑弥呼]]を題材にした「[[日輪 (横光利一)|日輪]]」を発表すると、有名新人作家となった{{Sfn|福田|1967|p=42}}。この「日輪」は生田長江が訳したフローベールの「サランボー」(1913年、博文館)の直訳体から影響を受けたものであった{{Sfn|福田|1967|p=123}}<ref name=toujyozengo/>。菊池寛は「映画劇」としての面白さは日本では類例がないと評価した<ref name=toujyozengo/>。 |
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6月、17歳の小島君子と結婚{{Sfn|福田|1967|p=43}}。兄の小島勗とは友人であったが社会思想派で、横光は芸術派であったため次第に対立し、また横光への競争心もあり、小島は妹との結婚に反対していた{{Sfn|福田|1967|p=44}}。また横光の母も結婚には反対し、姉の静子の説得で納得したが、やがて上京すると嫁姑の関係はうまくいかなった{{Sfn|福田|1967|p=47}}。 |
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6月、25歳の横光は、当時17歳の小島キミと同棲を開始<ref name=":0" />。横光は以前から親友の[[佐藤一英]]にしきりに「兄勗をなんとか説き伏せてほしい」と哀願していた。佐藤は小島家へ乗り込み、[[小島勗]]に「横光に君ちゃんを」と申し出たが、小島は即座に拒否した。申し出は幾度か執拗になされたが、小島の答えは覆らなかった。佐藤は最後の手を打ち、キミ自身に横光が好きかどうか尋ね、キミが好きだと答えたため、「では、君ちゃん、横光のところへ家出しなさい」と命令するように言った<ref name=":0" />。[[川端康成]]の回想によれば、「ある夜、小石川の餌差町の下宿に横光君を訪ねて、二人で散歩に出た。春日町、水道橋から、神田の通りを遠歩きして、下宿の近くまでもどると、「今夜、嫁が来ることになつてゐるんだ。寄つてゆかないか」と横光君が言つた。私はおどろいた。そんな話はまるで聞いてゐなかつた。私は結婚の当夜とは知らないで散歩してゐたわけである<ref>{{Cite journal|author=川端康成|year=|title=思ひ出二三|journal=川端康成全集|volume=29|page=|publisher=新潮社}}</ref>」とある。ただキミとの結婚には、小島家のみならず横光の母こぎくも反対だったようで、姉しずこの説得でいったんは納得したが、やがてこぎくが上京し横光・キミ・こぎくの3人の狭い家での同居生活が始まると、キミとこぎくの関係はうまくいかなくなった{{Sfn|福田|1967|p=47}}。キミは[[1906年]](明治39年)生まれのいわゆる「丙午の女」であり、迷信を気にしたこぎくが「丙午の女は男を四十人食べる」と言ってキミを気に入らなかったのと、キミの気性が激しく、こぎくと性格が合わなかったためであった<ref name=":0" />。横光は当時の嫁姑に挟まれた心境を、『夜の靴』の中で「鋸の歯の間で寝てゐるやうなもの」と綴っている。キミはこの年、日本高等女学校の第3学年に編入した<ref name=":0" />。 |
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7月には「碑文」を『新思潮』に発表、これは[[エドガー・アラン・ポー]]の『[[赤死病の仮面]]』や[[旧約聖書]]を典拠とした小説であった<ref name=toeda/>。「マルクスの審判」を『新潮』に発表。 |
7月には「碑文」を『新思潮』に発表、これは[[エドガー・アラン・ポー]]の『[[赤死病の仮面]]』や[[旧約聖書]]を典拠とした小説であった<ref name=toeda/>。「マルクスの審判」を『新潮』に発表。 |
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=== 新感覚派 === |
=== 新感覚派 === |
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[[1924年]](大正13年)5月、第一創作集『御身』を金星堂より、同時に文藝春秋叢書として『日輪』を刊行{{Sfn|福田|1967|p=193}}。9月、豊多摩郡[[中野町 (東京府)|中野町]]上町2802番地に移ったが、 |
[[1924年]](大正13年)5月、第一創作集『御身』を金星堂より、同時に文藝春秋叢書として『日輪』を刊行{{Sfn|福田|1967|p=193}}。9月、豊多摩郡[[中野町 (東京府)|中野町]]上町2802番地に移ったが、君子の肺が不調となった{{Sfn|福田|1967|p=49}}。 |
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10月、 |
10月、川端康成とともに、[[今東光]]、[[中河与一]]、[[石浜金作]]、[[酒井真人]]、[[佐々木味津三]]、[[鈴木彦次郎]]、[[南幸夫]]ら[[文藝春秋]]同人と重なる新進作家を糾合して『[[文藝時代]]』を創刊する<ref name=toeda/>。発行元は金星堂で、資金を援助した<ref name=toeda/>。[[プロレタリア文学]]全盛の中、この雑誌は[[新感覚派]]の拠点となる。また新感覚派は「震後文学」ともいわれた<ref name=toujyozengo/>。[[稲垣足穂]]も『文藝時代』に作品を投稿した<ref>稲垣足穂「文藝時代」発表作品目録[http://www.geocities.jp/maomao_mac/bungeijidai.html]</ref>。横光は『文藝時代』に「[[頭ならびに腹]]」を発表し、冒頭の「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けていた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された」という表現を、評論家の[[千葉亀雄]]が「新感覚派の誕生」において、「[[新感覚派]]」と命名した<ref>雑誌『世紀』1924年10月号</ref>。ただし、横光は「文藝時代の同人中、自分は新感覚派なりと云って出て来たものは、まだ一人もない」と述べている<ref name=toeda/>。11月雑誌『[[改造 (雑誌)|改造]]』に「愛巻」を発表<ref name=toeda/>。 |
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[[1925年]](大正14年)1月27日に中野の家で母が死去{{Sfn|福田|1967|p=50}}。同一月、[[北川冬彦]]の詩集「三半規管喪失」を賞賛し、激励した<ref name=jigoku/>。2月、「感覚活動−感覚活動と感覚的作物に対する非難への逆説」<ref>『文藝時代』1925年2月号</ref>を、[[イマヌエル・カント]]の『[[純粋理性批判]]上』([[天野貞祐]]訳、岩波書店、1921年2月)を典拠として書いた<ref name=toeda/>。6月に妻・キミが[[結核]]を発病し、10月に療養のため[[神奈川県]][[葉山町|葉山]]町森戸へ移る{{Sfn|福田|1967|p=194}}。 |
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11月、雑誌『[[改造 (雑誌)|改造]]』に「愛巻」を発表<ref name="toeda" />。『文芸春秋』11月号に、直木三十三(のちの[[直木三十五]])の執筆によるゴシップ風の「文壇諸家価値調査表」が掲載されると、横光はこれを読んで激怒した。まず[[川端康成]]の下宿へ行ったが川端が不在だったため[[今東光]]を訪ねた。今はその時の横光について、「彼(横光)はその十一月号を鷲掴みにして僕の家へ駆けこんで来た。本当に怒っていた。(中略)彼は僕の原稿用紙に自分でペンをとって反駁文を書いた。」と書いている<ref name=":1">{{Cite book|edition=Shohan|title=Tōkō kinranchō|url=https://www.worldcat.org/oclc/47409132|publisher=Chūō Kōronsha|date=Shōwa 53 [1978]|location=Tōkyō|isbn=4-12-200560-4|oclc=47409132|last=Kon, Tōkō, 1898-1977.|last2=今東光, 1898-1977.}}</ref>。横光が激怒したのは、『文芸春秋』が「俺たち『[[文藝時代]]』の者の競争心をマークで煽動させておいて結団心を邪魔させ、その隙に乗じて大家達をどつしりと坐らせようとした」と考えたためである<ref>{{Cite book|title=書翰 (横光 利一)|url=https://www.aozora.gr.jp/cards/000168/card60002.html|language=ja}}</ref>。横光は反駁文を読売新聞の学芸部に送った後、再び[[川端康成]]を訪ねた。事情を聞いた川端は驚き、懸命に横光をなだめて、深夜横光と一緒に読売新聞社へ行った<ref name=":0" />。原稿はすでに印刷所にまわっていたが、学芸部長の好意で取り戻すことができた。川端は「調査表」に不快を感じたものの、横光ほど潔癖な義憤は示さず意外なほど冷静で、師であり、日頃、物心両面の恩人である菊池に対し絶交を宣するのはよくないと考えていた<ref name=":0" />。この川端の慎重な配慮がなければ、作家としての横光のその後の立場は危ういものとなっていた可能性があった。その横光の身代わりのように、横光に同調して反駁文を書いて『新潮』へ送った[[今東光]]は、結果として『文藝時代』を一人脱退し菊池と喧嘩する破目に陥った。横光は川端に説得されて自分の反駁文を撤回したことを今には知らせなかった。この事件の後、罪悪感からか、横光は今を避けるようになった<ref name=":1" />。 |
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12月(推定)、[[佐藤一英]]を仲人役として、日本高等女学校を卒業したキミと茶碗酒の貧しい結婚式を行った<ref name=":0" />が、当時18歳のキミは保護者の同意なしに結婚が許されなかったため、婚姻届は提出されなかった。婚姻届が提出されたのはキミの死後のことである<ref name=":0" />。 |
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[[1925年]](大正14年)1月27日に中野の家で母が死去{{Sfn|福田|1967|p=50}}。同一月、[[北川冬彦]]の詩集「三半規管喪失」を賞賛し、激励した<ref name=jigoku/>。2月、「感覚活動-感覚活動と感覚的作物に対する非難への逆説」<ref>『文藝時代』1925年2月号</ref>を、[[イマヌエル・カント]]の『[[純粋理性批判]]上』([[天野貞祐]]訳、岩波書店、1921年2月)を典拠として書いた<ref name=toeda/>。6月に妻・キミが[[結核]]を発病し、10月に療養のため菊池寛の世話で[[神奈川県]][[葉山町|葉山]]町森戸へ移る{{Sfn|福田|1967|p=194}}。 |
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[[1926年]](大正15年)1月に「[[ナポレオンと田虫]]」を『文藝時代』に発表。この月、雑誌『文藝春秋』は発行部数11万部にのぼった<ref name=toeda/>。 |
[[1926年]](大正15年)1月に「[[ナポレオンと田虫]]」を『文藝時代』に発表。この月、雑誌『文藝春秋』は発行部数11万部にのぼった<ref name=toeda/>。 |
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1924年、[[直木三十五]]のすすめもあり、横光の小説に共感していた映画監督の[[衣笠貞之助]]によって『日輪』は映画化された{{Sfn|福田|1967|p=129}}。撮影は[[奈良市|奈良]]の[[春日山 (奈良県)|三笠山]]で、セットは[[春日 (奈良市)|飛火野]]に設営され、横光も見学にきた{{Sfn|福田|1967|p=129}}。しかしこの映画は[[内務省 (日本)|内務省]][[検閲]]によって[[不敬罪]]で告訴され、配給会社は上演を中止した{{Sfn|福田|1967|p=130}}。 |
1924年、[[直木三十五]]のすすめもあり、横光の小説に共感していた映画監督の[[衣笠貞之助]]によって『日輪』は映画化された{{Sfn|福田|1967|p=129}}。撮影は[[奈良市|奈良]]の[[春日山 (奈良県)|三笠山]]で、セットは[[春日 (奈良市)|飛火野]]に設営され、横光も見学にきた{{Sfn|福田|1967|p=129}}。しかしこの映画は[[内務省 (日本)|内務省]][[検閲]]によって[[不敬罪]]で告訴され、配給会社は上演を中止した{{Sfn|福田|1967|p=130}}。 |
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1926年3月、衣笠は葉山で妻を看病していた横光の自宅に赴き、映画製作の相談をした<ref name=toeda/>。了承した横光は、4月2日に川端を呼び出し、「営利を度外視してよき芸術映画を製作せんとする企て」を衣笠から横光邸で聞かされた<ref name=toeda/>。横光はこの他、[[片岡鉄兵]]、[[岸田国士]]、[[池谷信三郎]]にも声をかけ、新感覚派映画聯盟が成立した<ref name=toeda/>。同年、横光が題をつけた『[[狂つた一頁]]』が製作された{{Sfn|福田|1967|p=131}}。横光は字幕が入ることで損なわれる映画の純粋性を考慮して、無字幕を提案した<ref name=toeda/>。川端は脚本を書いたが、 |
1926年3月、衣笠は葉山で妻を看病していた横光の自宅に赴き、映画製作の相談をした<ref name=toeda/>。了承した横光は、4月2日に川端を呼び出し、「営利を度外視してよき芸術映画を製作せんとする企て」を衣笠から横光邸で聞かされた<ref name=toeda/>。横光はこの他、[[片岡鉄兵]]、[[岸田国士]]、[[池谷信三郎]]にも声をかけ、新感覚派映画聯盟が成立した<ref name=toeda/>。同年、横光が題をつけた『[[狂つた一頁]]』が製作された{{Sfn|福田|1967|p=131}}。横光は字幕が入ることで損なわれる映画の純粋性を考慮して、無字幕を提案した<ref name=toeda/>。川端は脚本を書いたが、妻の看病で葉山にいたため京都で撮影されていた映画に直接は関われなかった<ref name=toeda/>。 |
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1924年6月24日、妻・キミが三浦郡[[逗子町]]で20歳{{Sfn|福田|1967|p=54}}で死去{{Sfn|福田|1967|p=194}}。妻の葬儀は[[麹町]]の有島邸内[[文藝春秋]]社で執り行った{{Sfn|福田|1967|p=54}}。7月に婚姻届出。このころの二人のことは「[[春は馬車に乗って]]」「妻」「慄える薔薇」「花園の思想」「蛾はどこにでもいる」などに書かれている{{Sfn|福田|1967|p=54}}。8月に発表された「春は馬車に乗って」は文藝春秋社の一室を借りて書かれた{{Sfn|福田|1967|p=54}}。題は、ノルウェーの作家アレキサンダー・キーランドの「希望は四月緑の衣を着て」の影響を受けた{{Sfn|福田|1967|p=140}}。典拠とした翻訳は前田晃訳で博文館から1914年に刊行された『キイランド集』であった<ref name=toeda/>。 |
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1926年10月、[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]が「人生斫断家アルチュル・ランボオ」(現「ランボオ |
1926年10月、[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]が「人生斫断家アルチュル・ランボオ」(現「ランボオI」)を発表<ref>『仏蘭西文学研究』創刊号、1926年</ref>し、横光はこの論文を読み込み、「幸福を感じた」と感想を書いている<ref name=jigoku>日置俊次「横光利一と地獄 昭和初年代における韻文と散文の混沌」青山語文 37, 32-44, 2007年</ref>。1926年末には[[改造社]]が一冊一円の『現代日本文学全集』を刊行し、[[円本|円本ブーム]]が起きた<ref name=toeda/>。横光も改造社とともに躍進し、『現代日本文学全集』刊行記念講演なども[[1927年]](昭和2年)5月に行い、宣伝にも協力した<ref name=toeda/>。 |
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[[File:Akutagawa Ryunosuke photo.jpg|thumb|120px|left|芥川龍之介 1927年7月24日没]]1927年1月、『春は馬車に乗って』を改造社から刊行し、2月に「花園の思想」を発表<ref>雑誌『改造』昭和2年2月号</ref>。日向千代子 |
[[File:Akutagawa Ryunosuke photo.jpg|thumb|120px|left|芥川龍之介 1927年7月24日没]]1927年1月、『春は馬車に乗って』を改造社から刊行し、2月に「花園の思想」を発表<ref>雑誌『改造』昭和2年2月号</ref>。横光を崇拝していた[[女子美術大学|女子美術学校]]生の日向千代子の訪問を受けた{{Sfn|福田|1967|p=57}}。2月に菊池寛が媒酌人となり、再婚し、豊多磨郡[[杉並町]]大字[[阿佐ヶ谷]]に住んだ{{Sfn|福田|1967|p=194}}。11月3日に長男・象三が誕生した{{Sfn|福田|1967|p=58}}。7月24日、[[芥川龍之介]]が[[自殺]]した。1927年7月には「朦朧とした風」を発表し、〈セメント製アパートメント。丘と丘とを充填した義歯〉と表現したり、9月の「七階の運動」では〈エレベーターは吐瀉を続けた〉などとモダン都市を新しい感覚で表現した<ref name=toeda/>。[[モボ・モガ|モダンガール]]についても描いた<ref name=toeda/>。文藝春秋が事業展開していく一方、『文藝時代』はこの1927年に廃刊した<ref name=toeda/>。 |
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==== 形式主義文学論争 ==== |
==== 形式主義文学論争 ==== |
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[[1928年]](昭和3年)1月、『新潮』に評論「新感覚派とコンミニズム文学」を発表、2月には『創作月刊』に「文学的唯物論について」を発表し、[[形式主義 |
[[1928年]](昭和3年)1月、『新潮』に評論「新感覚派とコンミニズム文学」を発表、2月には『創作月刊』に「文学的唯物論について」を発表し、[[形式主義文学論争]]が起こった<ref name=toeda/>。横光のライバルは思想的には[[マルクス主義]]であり、表現形式的には[[映画]]であったといわれ、マルクス主義文学が好む題材を多く用い、横光は「マルキシズムとの格闘時代」と振り返っている<ref name=toeda/>。「ブルジョワ作家は抹殺しろ」と横光は叫ばれた{{Sfn|福田|1967|p=60}}。横光は19歳の時から31歳の時までマルクスに惹かれていたが芸術上相容れないものと確信していた{{Sfn|福田|1967|p=61}}。なお、前年の1927年には芥川龍之介と[[谷崎潤一郎]]が「小説の筋」論争をしていた<ref name=toeda/>。 |
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1928年3月には[[ポール・ヴァレリー]]の『ダヴィンチ方法論序説』に感激し、「虚無とは自身と客観との比重を物理的に認識した境遇に於ける自意識だ。この自意識の現れは、ただ今迄の文学に於いては、ポール・バレリーに現れていただけに過ぎぬ」と[[藤沢桓夫]]に宛てて書いた{{Sfn|福田|1967|p=62}}。 |
1928年3月には[[ポール・ヴァレリー]]の『ダヴィンチ方法論序説』に感激し、「虚無とは自身と客観との比重を物理的に認識した境遇に於ける自意識だ。この自意識の現れは、ただ今迄の文学に於いては、ポール・バレリーに現れていただけに過ぎぬ」と[[藤沢桓夫]]に宛てて書いた{{Sfn|福田|1967|p=62}}。 |
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芥川龍之介の最晩年に、「君は[[上海市|上海]]を見ておかねばいけない」と言われ、1928年4月から約1か月間、上海に滞在する{{Sfn|福田|1967|p=194}}。芥川は1925年11月に改造社から『支那游記』を発表していた。大正末期から昭和初期のこの頃、芥川龍之介をはじめ、[[吉行エイスケ]]、村松梢風、[[金子光晴]]などが上海を訪れている。また[[内山完造]]の経営していた内山書店には[[魯迅]]をはじめ、中国や日本の文学者が多く集まっていた。また[[内山完造]]と交遊関係のあった改造社社長[[山本実彦]]も横光の渡航に期待していた<ref name=toeda/> |
芥川龍之介の最晩年に、「君は[[上海市|上海]]を見ておかねばいけない」と言われ、1928年4月から約1か月間、上海に滞在する{{Sfn|福田|1967|p=194}}。芥川は1925年11月に改造社から『支那游記』を発表していた。大正末期から昭和初期のこの頃、芥川龍之介をはじめ、[[吉行エイスケ]]、村松梢風、[[金子光晴]]などが上海を訪れている。また[[内山完造]]の経営していた内山書店には[[魯迅]]をはじめ、中国や日本の文学者が多く集まっていた。また[[内山完造]]と交遊関係のあった改造社社長[[山本実彦]]も横光の渡航に期待していた<ref name=toeda/> |
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滞在中、横光は妻・千代へ「[[中国人|支那人]]の汚さと云つたらない。美しいのは、道路だけだ」と伝えた。また、案内された音楽会やダンスホールに集まる西洋人は、「下劣な獣」に見えたという。この上海で感じた数々の[[不条理]]や混沌が、西洋列強に支配される身近なアジア、「自分の住む惨めな東洋」を強く意識させ、横光に民族意識が目覚めた。長編『[[上海 ( |
滞在中、横光は妻・千代へ「[[中国人|支那人]]の汚さと云つたらない。美しいのは、道路だけだ」と伝えた。また、案内された音楽会やダンスホールに集まる西洋人は、「下劣な獣」に見えたという。この上海で感じた数々の[[不条理]]や[[混沌]]が、西洋列強に支配される身近なアジア、「自分の住む惨めな東洋」を強く意識させ、横光に民族意識が目覚めた。長編『[[上海 (小説)|上海]]』はこの“落差”と“汚さ”のショックから構想された<ref name="shincho">『新潮日本文学アルバム44 横光利一』([[新潮社]]、1994年)</ref>。 |
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改造社は横光に「上海紀行」を依頼したが、横光は紀行でなく長編小説を願い出た<ref name=toeda/>。改造社社長山本実彦宛書簡で「紀行に書いてしまいますと材料が盛り上がって来ませんし、たいていの人がそれで失敗しています」と書いている<ref name=toeda/>。横光は当初「ある唯物論者」と書名を想定していたがのちに「上海」と変更する最初の長編小説を執筆し始める<ref name=toeda/>。連作長編の形で執筆されたこの作品は、内容的には1925年の[[五・三〇事件]]を背景に、上海における[[列強]][[ブルジョアジー]]と[[中国共産党]]、押し寄せる[[ロシア革命]]の波と各国の[[愛国主義]]といった諸勢力の闘争を描いた野心作であると同時に、形式的には新感覚派文学の集大成であり、新心理主義への傾倒の兆しもみられる問題作であった。『上海』は第一篇「風呂と銀行」を[[1928年]](昭和3年)から書き始め、[[1931年]](昭和6年)にかけて『[[改造 (雑誌)|改造]]』に断続的に発表されたが、内務省の検閲を意識して改造社は[[自主規制]]し、多くの[[伏字]]が見られた<ref name=toeda/>。伏字となったのは、「(一団の新しい敵群)は…(破壊)する」「(日本人)を潰せ」といったストライキによる破壊行為の描写などであった<ref name=toeda/>。 |
改造社は横光に「上海紀行」を依頼したが、横光は紀行でなく長編小説を願い出た<ref name=toeda/>。改造社社長山本実彦宛書簡で「紀行に書いてしまいますと材料が盛り上がって来ませんし、たいていの人がそれで失敗しています」と書いている<ref name=toeda/>。横光は当初「ある唯物論者」と書名を想定していたがのちに「上海」と変更する最初の長編小説を執筆し始める<ref name=toeda/>。連作長編の形で執筆されたこの作品は、内容的には1925年の[[五・三〇事件]]を背景に、上海における[[列強]][[ブルジョアジー]]と[[中国共産党]]、押し寄せる[[ロシア革命]]の波と各国の[[愛国主義]]といった諸勢力の闘争を描いた野心作であると同時に、形式的には新感覚派文学の集大成であり、新心理主義への傾倒の兆しもみられる問題作であった。『上海』は第一篇「風呂と銀行」を[[1928年]](昭和3年)から書き始め、[[1931年]](昭和6年)にかけて『[[改造 (雑誌)|改造]]』に断続的に発表されたが、内務省の検閲を意識して改造社は[[自主規制]]し、多くの[[伏字]]が見られた<ref name=toeda/>。伏字となったのは、「(一団の新しい敵群)は…(破壊)する」「(日本人)を潰せ」といったストライキによる破壊行為の描写などであった<ref name=toeda/>。 |
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1928年11月、[[世田谷区]]北沢2丁目145番地に新居を立て、[[犬養健]]が「雨過山房」と名付けた{{Sfn|福田|1967|p=60}}。同11月、「その国にはその国の文学がある以上、その国の形式論が独特な長所を持って現れなければ、文学は発展しない。日本の文学は[[象形文字]]を使用するとすれば、殊に、独特の形式論が発生すべき筈である」と書いた<ref>『文藝春秋』1928年(昭和3年)11月号「文芸時評」</ref>。[[1929年]]にも「聴覚より視覚を根本とした日本独特の形式論」とも書いている<ref>1929年(昭和4年)3月15日[[読売新聞]]「文芸時評」</ref>。 |
1928年11月、[[世田谷区]]北沢2丁目145番地に新居を立て、[[犬養健]]が「雨過山房」と名付けた{{Sfn|福田|1967|p=60}}。同11月、「その国にはその国の文学がある以上、その国の形式論が独特な長所を持って現れなければ、文学は発展しない。日本の文学は[[象形文字]]を使用するとすれば、殊に、独特の形式論が発生すべき筈である」と書いた<ref>『文藝春秋』1928年(昭和3年)11月号「文芸時評」</ref>。[[1929年]]にも「聴覚より視覚を根本とした日本独特の形式論」とも書いている<ref>1929年(昭和4年)3月15日[[読売新聞]]「文芸時評」</ref>。 |
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1928年11月、『新選 |
1928年11月、『新選 横光利一集』を改造社から刊行。 |
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=== 『機械』 === |
=== 『機械』 === |
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[[1929年]](昭和4年)10月、横光、川端、犬養健、[[永井龍男]]、[[深田久彌]]、[[堀辰雄]]、[[吉村鐡太郎]]らが同人となって『文学』を創刊、小林秀雄は[[アルチュール・ランボー]]の「[[地獄の季節]]」翻訳を連載し、また[[淀野隆三]]は[[マルセル・プルースト]]の「スワン家の方」の翻訳を連載した<ref name=jigoku/>。 |
[[1929年]](昭和4年)10月、横光、川端、犬養健、[[永井龍男]]、[[深田久彌]]、[[堀辰雄]]、[[吉村鐡太郎]]らが同人となって『文学』を創刊、小林秀雄は[[アルチュール・ランボー]]の「[[地獄の季節]]」翻訳を連載し、また[[淀野隆三]]は[[マルセル・プルースト]]の「スワン家の方」の翻訳を連載した<ref name=jigoku/>。 |
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[[File:Japanese writers at Haneda.JPG|thumb|250px|左から[[池谷信三郎]]、横光利一、直木三十五、菊池寛。[[1931年]]、[[東京国際空港| |
[[File:Japanese writers at Haneda.JPG|thumb|250px|左から[[池谷信三郎]]、横光利一、直木三十五、菊池寛。[[1931年]]、[[東京国際空港|羽田空港]]。]] |
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[[1930年]](昭和5年)2月には[[高架橋|高架線]]が東京で建設されていったことを背景に「高架線」を『[[中央公論]]』に発表。同年8月、[[山形県]]由良海岸(現・[[鶴岡市]])に滞在して「[[機械 (小説)|機械]]」を執筆{{Sfn|福田|1967|p=63}}、[[町工場]]の人間模様を実験的な手法で描いた。「機械」は『改造』9月号に発表される。淀野隆三翻訳「スワン家の方」の文体や[[ジェイムス・ジョイス]]の『[[ユリシーズ]]』に影響を受けたといわれている{{Sfn|福田|1967|p=145}}<ref name=jigoku/>。小林秀雄は手法は外国にも類例がないほど新しいと絶賛した{{Sfn|福田|1967|p=64}}。文壇で横光は「文学の神様」の座に押し上げられた{{Sfn|福田|1967|p=147}} |
[[1930年]](昭和5年)2月には[[高架橋|高架線]]が東京で建設されていったことを背景に「高架線」を『[[中央公論]]』に発表。同年8月、[[山形県]]由良海岸(現・[[鶴岡市]])に滞在して「[[機械 (小説)|機械]]」を執筆{{Sfn|福田|1967|p=63}}、[[町工場]]の人間模様を実験的な手法で描いた。「機械」は『改造』9月号に発表される。淀野隆三翻訳「スワン家の方」の文体や[[ジェイムス・ジョイス]]の『[[ユリシーズ]]』に影響を受けたといわれている{{Sfn|福田|1967|p=145}}<ref name=jigoku/>。小林秀雄は手法は外国にも類例がないほど新しいと絶賛した{{Sfn|福田|1967|p=64}}。文壇で横光は「文学の神様」の座に押し上げられた{{Sfn|福田|1967|p=147}}。[[伊藤整]]は、1927年の芥川没後、志賀直哉は奈良に住み新作は発表せず、[[佐藤春夫]]は第一線を退き、谷崎は『[[卍 (小説)|卍]]』を発表したが関西に住んでおり、横光は東京の[[文壇]]の中心的な存在になっていたとしている{{Sfn|福田|1967|p=60}}。 |
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9月に[[南満州鉄道]]の招きで菊池寛、[[舟橋聖一]]とともに[[満州]]を旅した{{Sfn|福田|1967|p=195}}。11月から12月には最初の新聞小説「[[寝園]]」を『[[東京日日新聞]]』と『[[大阪毎日新聞]]』に連載。 |
9月に[[南満州鉄道]]の招きで菊池寛、[[舟橋聖一]]とともに[[満州]]を旅した{{Sfn|福田|1967|p=195}}。11月から12月には最初の新聞小説「[[寝園]]」を『[[東京日日新聞]]』と『[[大阪毎日新聞]]』に連載。 |
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『改造』[[1934年]](昭和9年)1月-9月号まで「紋章」を『改造』に連載し、直後に刊行。同年、[[森敦]]を『東京日日新聞』・『大阪毎日新聞』に推薦し、「酩酊船」が掲載された。 |
『改造』[[1934年]](昭和9年)1月-9月号まで「紋章」を『改造』に連載し、直後に刊行。同年、[[森敦]]を『東京日日新聞』・『大阪毎日新聞』に推薦し、「酩酊船」が掲載された。 |
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[[1934年]](昭和9年)7月の『文藝』に掲載された学生との座談会では、文壇を取引所、市場として形容している。またこの頃、「一番嫌ひなものは、私は文学だと云ひたい」「しかし、このごろは、嫌ひだからこそ文学をやるのだと、逆にまた私は私で云へるやうになつて来た」と書いている{{Sfn|福田|1967|p=73}}。 |
[[1934年]](昭和9年)7月の『文藝』に掲載された学生との座談会では、文壇を取引所、[[市場]]として形容している。またこの頃、「一番嫌ひなものは、私は文学だと云ひたい」「しかし、このごろは、嫌ひだからこそ文学をやるのだと、逆にまた私は私で云へるやうになつて来た」と書いている{{Sfn|福田|1967|p=73}}。 |
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=== 純粋小説論 === |
=== 純粋小説論 === |
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[[1935年]](昭和10年)1月、この年新設された[[芥川龍之介賞|芥川 |
[[1935年]](昭和10年)1月、この年新設された[[芥川龍之介賞|芥川賞]]の銓衡委員となる{{Sfn|福田|1967|p=196}}。4月、「[[純文学]]にして[[通俗小説]]、このこと以外に、文藝復興は絶對に有り得ない」と説く「[[四人称#純粋小説論|純粋小説論]]」を『改造』に発表、『紋章』での「私」を「自分を見る自分」という「[[四人称]]」であると説いた{{Sfn|福田|1967|p=161}}。 |
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また「日本文学の伝統とは[[フランス文学]]であり、[[ロシア文学]]だ。もうこの上、日本から日本人としての純粋小説が現れなければ、むしろ作家は筆を折るに如くはあるまい」と書いた。「純粋小説論」はこの頃に翻訳が出た[[アンドレ・ジッド]]の「[[贋金つくり (アンドレ・ジッド)|贋金つくり]]」の意識的なメロドラマ性が影響している{{Sfn|福田|1967|p=161}}。 |
また「日本文学の伝統とは[[フランス文学]]であり、[[ロシア文学]]だ。もうこの上、日本から日本人としての純粋小説が現れなければ、むしろ作家は筆を折るに如くはあるまい」と書いた。「純粋小説論」はこの頃に翻訳が出た[[アンドレ・ジッド]]の「[[贋金つくり (アンドレ・ジッド)|贋金つくり]]」の意識的なメロドラマ性が影響している{{Sfn|福田|1967|p=161}}。 |
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[[1935年]](昭和10年)8月から12月にかけて『東京日日新聞』・『大阪毎日新聞』に「家族会議」を連載し、東京と大阪の方言を対比させた。 |
[[1935年]](昭和10年)8月から12月にかけて『東京日日新聞』・『大阪毎日新聞』に「家族会議」を連載し、東京と大阪の方言を対比させた。 |
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1935年7月、『紋章』が第1回文芸懇話会賞を受賞した。 |
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=== 渡欧体験と『旅愁』=== |
=== 渡欧体験と『旅愁』=== |
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1936年[[3月27日]]にフランスの[[マルセイユ]]に着いた<ref name=hirano/>。上陸後は船客の年長者だけが荷物を調べられて、ほかの船客は横光も含めて調べられなかったので、「フランス人の最初の自由さをわれわれは見たのである」とヨーロッパの第一印象を横光は後に書いた<ref>『欧州紀行』</ref>。マルセイユでは[[ノートルダム聖堂|ノートルダム・ド・ラ・ガルド]]を訪れ、血まみれのキリスト像に衝撃を受けた<ref name=hirano/>。『旅愁』では「この国の文化にもやはり一度はこんな野蛮なときもあったのか」「しかも、この野蛮さが事物をここまで克明に徹せしめなければ感覚を承服することが出来なかった」「このリアリズムの心理からこの文明が生まれ育った」と小説の矢代の思念として書いている<ref name=hirano/>。同日夕刻には街角で、疲れて沈み込んだ群衆を目撃して、「これがヨーロッパか。―これは想像したより、はるかに地獄だ」と書いている{{Sfn|福田|1967|p=83}}。 |
1936年[[3月27日]]にフランスの[[マルセイユ]]に着いた<ref name=hirano/>。上陸後は船客の年長者だけが荷物を調べられて、ほかの船客は横光も含めて調べられなかったので、「フランス人の最初の自由さをわれわれは見たのである」とヨーロッパの第一印象を横光は後に書いた<ref>『欧州紀行』</ref>。マルセイユでは[[ノートルダム聖堂|ノートルダム・ド・ラ・ガルド]]を訪れ、血まみれのキリスト像に衝撃を受けた<ref name=hirano/>。『旅愁』では「この国の文化にもやはり一度はこんな野蛮なときもあったのか」「しかも、この野蛮さが事物をここまで克明に徹せしめなければ感覚を承服することが出来なかった」「このリアリズムの心理からこの文明が生まれ育った」と小説の矢代の思念として書いている<ref name=hirano/>。同日夕刻には街角で、疲れて沈み込んだ群衆を目撃して、「これがヨーロッパか。―これは想像したより、はるかに地獄だ」と書いている{{Sfn|福田|1967|p=83}}。 |
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翌日の[[3月28日]]に[[パリ]]に向かうが、車窓からの美しい田園風景を堪能しながらも、「なお[[植民地]]の勃興を考えて」いたという<ref name=hirano/>。パリで横光と交流した[[岡本太郎]]は「横光さんは憂鬱に打ちのめされて青黄色い顔をしていた」と回想している<ref name=hirano/>。しかし岡本がフランス語のできない横光を助けると、憂鬱、孤独感が和らげられ、横光は「すっかりパリファンになった」あと、「酔ったように街を歩き廻った」という<ref name=hirano/>。小説『旅愁』に出てくる欧化主義者久慈のモデルは岡本であるといわれる<ref name=hirano/>。パリで横光はオーギュストコント通りについて「夜のこの通りの美しさは、神気寒倹たるものがある」とし、[[ |
翌日の[[3月28日]]に[[パリ]]に向かうが、車窓からの美しい田園風景を堪能しながらも、「なお[[植民地]]の勃興を考えて」いたという<ref name=hirano/>。パリで横光と交流した[[岡本太郎]]は「横光さんは憂鬱に打ちのめされて青黄色い顔をしていた」と回想している<ref name=hirano/>。しかし岡本がフランス語のできない横光を助けると、憂鬱、孤独感が和らげられ、横光は「すっかりパリファンになった」あと、「酔ったように街を歩き廻った」という<ref name=hirano/>。小説『旅愁』に出てくる欧化主義者久慈のモデルは岡本であるといわれる<ref name=hirano/>。パリで横光はオーギュストコント通りについて「夜のこの通りの美しさは、神気寒倹たるものがある」とし、[[シャンゼリゼ]]については俗っぽいが、「文化の最高に位置するものは何となく俗っぽくなければ価値を失うものだ。私は好みを殺してここを最高と認める」と書き、[[コンコルド広場]]は「人工の美の極を尽くしたもの」と賞賛する一方、「こんな所は人間の住む所じやない」とも書いている<ref>『欧州紀行』4月4日付け</ref>。横光は岡本に「パリにはリリシズムがない」といったり、「パリにはリアリズムがない」といい、ラテン文化の都の肌理と日本文化の肌理との絶望的な食い違いに「絶望した横光さんは純粋であり、繊細であった」と回想している{{Sfn|福田|1967|p=87}}。[[5月3日]][[国民議会 (フランス)|フランス下院]]選挙で[[人民戦線]]派が過半数を獲得し、[[5月26日]]にはストライキが発生、横光はこれについて『旅愁』でも描いている。[[6月6日]]には[[レオン・ブルム]][[フランス人民戦線|人民戦線内閣]]が成立し、7月17日には[[スペイン内戦]]が勃発した。パリ滞在中、[[5月4日]]から[[5月8日]]まで[[イギリス]]に旅行する<ref name=hirano/>。横光は[[カルチャーショック]]を受け、一時[[神経衰弱]]になった<ref name=hirano/>。「ここには豊かな知識と性があるだけだ。感情のある真似をしたくてはならぬ悩みーこれがパリーの憂鬱の原因である」と書いている<ref>『欧州紀行』6月3日付け</ref>。また横光は「[[ルネ・デカルト|デカルト]]に始まった都市国家の智的設計は、ヨーロッパから個性を奪ったのだ。この幾何学の勝利は人心の中に於いてでも暴威を逞しくして近代に及んだ」と随想している<ref name=hirano/>。[[6月12日]]には岡本の紹介で[[ダダイスム]]の創始者である詩人[[トリスタン・ツァラ]]を訪問し、日本は[[地震]]国で自然力から襲われるために日本独自の自然に対する考え方があると述べるなどした<ref name=hirano/>。このほか、[[ルーアン]]、[[オーストリア]]、[[イタリア]]などにも旅行で赴くが、パリに帰るたびに心が落ち着くほどパリの魅力を感じ取ってもいた<ref name=hirano/>。[[チロル]]、[[ウィーン]]、[[ブダペスト]]、[[フィレンツェ]]などを訪ねた。 |
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[[ベルリン]]は清潔で、「日本の市街はその汚さのために何といふ豊富な自由があることだらう」と感じた{{Sfn|福田|1967|p=90}}。ベルリンオリンピック観戦記は東京日日新聞で連日報道され、見出しには「花紅く旗翻る |
[[ベルリン]]は清潔で、「日本の市街はその汚さのために何といふ豊富な自由があることだらう」と感じた{{Sfn|福田|1967|p=90}}。ベルリンオリンピック観戦記は東京日日新聞で連日報道され、見出しには「花紅く旗翻る 伯林祭 楽園は戦前の静けさ」「日本軍益々活躍」「玉砕期す」といった国家民族間の戦争によって表現されていた<ref name=toeda/>。8月にベルリンオリンピック観戦後、[[モスクワ]]から[[シベリア]]経由で1936年[[8月25日]]に帰国した<ref name=toeda/>。 |
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[[8月26日]]東京日日新聞夕刊には「帰朝した横光利一氏の談 |
[[8月26日]]東京日日新聞夕刊には「帰朝した横光利一氏の談 オリムピックを機に日本の文化は十年飛躍しよう 今にして想ふ日本女性の美」と題して[[門司区|門司]]のホテルでの写真とともに掲載され、フランスは左翼、ドイツは右翼だが、右翼も左翼も紙一重であり、大部分は利益によって動いていること、アンドレ・ジッドから招待されたが都合で会えず残念であったこと、オリンピックでは民族的差別観念がなかったことなどが報じられた<ref name=toeda/>。帰国直後の9月、[[温海温泉]]に一か月滞在する<ref name=hirano/>。帰国後、横光は「あれほど大都会の中心を誇っていた銀座は全く低く汚く見る影もなかった」「内充して外に現れることが形式の本然であるならまだまだ日本の内側は火の車だ」と、日本の「貧寒さ」について『厨房日記』で書いている<ref name=hirano/>。こうした日本批判は後にも先にもないといわれる<ref name=hirano/>。 |
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この旅の経験をもとに、翌[[1937年]](昭和12年)4月から[[1946年]](昭和21年)1月まで11年ほどかけて『東京日日新聞』・『大阪毎日新聞』に「[[旅愁 (小説)|旅愁]]」の連載をはじめる(未完)。挿画は[[藤田嗣治]]。『旅愁』を書くために横光は「門を閉じて客との面会を謝絶し、この作品に心血をそそいだ」(中山義秀)といわれた{{Sfn|福田|1967|p=176}}。『旅愁』では「西洋が二十世紀だからといって、東洋もそうだとは限らない」「そこを何だって、西洋の論理で東洋が片付けられちゃ、僕らの国の美点は台無しですから、果たしてそんなに周章てて美点を台無しにすべきかどうかという、そこの疑問から今のすべての論争が発展したり、押し込められたり、引き延ばされたりしている始末」と書かれて、小説のなかで矢代と千鶴子の結婚を妨げる要因に宗教の対立が描かれ、[[カトリック]]信者である千鶴子に対して、矢代は「カソリックをも赦し、むしろそれを援ける平和な寛大な背後の力」として[[仏教]]でも[[神道]]でもなく[[古神道]]を見いだしている。西洋の思想と日本の[[古神道]]との対決を志したこの長編は、[[盧溝橋事件]]の勃発までを書いたところで未完に終わった。 |
この旅の経験をもとに、翌[[1937年]](昭和12年)4月から[[1946年]](昭和21年)1月まで11年ほどかけて『東京日日新聞』・『大阪毎日新聞』に「[[旅愁 (小説)|旅愁]]」の連載をはじめる(未完)。挿画は[[藤田嗣治]]。『旅愁』を書くために横光は「門を閉じて客との面会を謝絶し、この作品に心血をそそいだ」(中山義秀)といわれた{{Sfn|福田|1967|p=176}}。『旅愁』では「西洋が二十世紀だからといって、東洋もそうだとは限らない」「そこを何だって、西洋の論理で東洋が片付けられちゃ、僕らの国の美点は台無しですから、果たしてそんなに周章てて美点を台無しにすべきかどうかという、そこの疑問から今のすべての論争が発展したり、押し込められたり、引き延ばされたりしている始末」と書かれて、小説のなかで矢代と千鶴子の結婚を妨げる要因に宗教の対立が描かれ、[[カトリック]]信者である千鶴子に対して、矢代は「カソリックをも赦し、むしろそれを援ける平和な寛大な背後の力」として[[仏教]]でも[[神道]]でもなく[[古神道]]を見いだしている。西洋の思想と日本の[[古神道]]との対決を志したこの長編は、[[盧溝橋事件]]の勃発までを書いたところで未完に終わった。 |
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同時期に[[永井荷風]]は『[[濹東綺譚]]』を連載しており好評を博していた。横光はこれに対抗して『旅愁』を書いていたが、『[[濹東綺譚]]』連載が終了すると、『旅愁』の連載を中止した{{Sfn|福田|1967|p=177}}。 |
同時期に[[永井荷風]]は『[[ぼく東綺譚|濹東綺譚]]』を連載しており好評を博していた。横光はこれに対抗して『旅愁』を書いていたが、『[[ぼく東綺譚|濹東綺譚]]』連載が終了すると、『旅愁』の連載を中止した{{Sfn|福田|1967|p=177}}。 |
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また『欧州紀行』を発表したが、読者の異国趣味を満足させるものではなく、アフォリズム的な表現をちりばめたもので発表当時不評判であった<ref name=hirano/>。 |
また『欧州紀行』を発表したが、読者の異国趣味を満足させるものではなく、アフォリズム的な表現をちりばめたもので発表当時不評判であった<ref name=hirano/>。 |
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[[1940年]](昭和15年)8月に、温海温泉に滞在する{{Sfn|福田|1967|p=196}}。[[日本文学者会議]]の発起人となる<ref name=hirano/>。1940年10月に菊池寛、[[高見順]]、[[林芙美子]]らと共に[[文芸銃後運動]]講演会のため、[[四国]]へ赴く{{Sfn|福田|1967|p=196}}。横光は基本的には[[自由主義]]者であったが祖国の勝利を信じていた愛国者でもあった<ref name="shincho"/>。他方、[[ナチス]]の[[焚書]]に抗議する意味で結成された[[学芸自由同盟]]にも参加したこともあった。 |
[[1940年]](昭和15年)8月に、温海温泉に滞在する{{Sfn|福田|1967|p=196}}。[[日本文学者会議]]の発起人となる<ref name=hirano/>。1940年10月に菊池寛、[[高見順]]、[[林芙美子]]らと共に[[文芸銃後運動]]講演会のため、[[四国]]へ赴く{{Sfn|福田|1967|p=196}}。横光は基本的には[[自由主義]]者であったが祖国の勝利を信じていた愛国者でもあった<ref name="shincho"/>。他方、[[ナチス]]の[[焚書]]に抗議する意味で結成された[[学芸自由同盟]]にも参加したこともあった。 |
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[[1941年]](昭和16年)5月、[[文芸銃後運動]]中部地方班に参加<ref name=hirano/>。1941年8月に[[箱根]]の日本精神道場で行なわれた[[大政翼賛会]]中央訓練所主催の第一回特別修練会の<[[禊|みそぎ]]>に参加した<ref name=kokugaku/>。[[滝井孝作]]、[[中村武羅夫]]も参加した<ref>『横光利一全集』年譜。「[https://www.kanabun.or.jp/0f17.html 神奈川文学年表 |
[[1941年]](昭和16年)5月、[[文芸銃後運動]]中部地方班に参加<ref name=hirano/>。1941年8月に[[箱根]]の日本精神道場で行なわれた[[大政翼賛会]]中央訓練所主催の第一回特別修練会の<[[禊|みそぎ]]>に参加した<ref name=kokugaku/>。[[滝井孝作]]、[[中村武羅夫]]も参加した<ref>『横光利一全集』年譜。「[https://www.kanabun.or.jp/0f17.html 神奈川文学年表 昭和11年~20年8月]」[[神奈川近代文学館]]</ref> |
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みそぎからは「極度に謙虚」になることを体験し、天地、神、人間、自然について考え、「みそぎほど生理的なものはない」と書いている{{Sfn|福田|1967|p=96}}。しかし雑誌では匿名記事で修練参加を非難したり、自宅には攻撃的な投書が届いた{{Sfn|福田|1967|p=97}}。 |
みそぎからは「極度に謙虚」になることを体験し、天地、神、人間、自然について考え、「みそぎほど生理的なものはない」と書いている{{Sfn|福田|1967|p=96}}。しかし雑誌では匿名記事で修練参加を非難したり、自宅には攻撃的な投書が届いた{{Sfn|福田|1967|p=97}}。 |
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==== 『軍神の賦』 ==== |
==== 『軍神の賦』 ==== |
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[[File:9 Gunshin.jpg|thumb|250px|[[軍神|九軍神]]]] |
[[File:9 Gunshin.jpg|thumb|250px|[[軍神|九軍神]]]] |
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1941年12月8日の[[真珠湾攻撃]]の翌日の日記には「先祖を神だと信じた民族が勝つたのだ」「パリにいるとき、毎夜念じて伊勢の大廟を拝したことが、つひに顕われてしまつたのである」と書いた{{Sfn|福田|1967|p=97}}。真珠湾攻撃における[[特別攻撃隊]]([[特殊潜航艇]][[甲標的]])による[[ハワイ]]攻撃で戦死した兵士9名は「[[軍神#九軍神|九軍神]]」として政府によって[[顕彰]]されたが、この「九軍神」について横光は翌[[1942年]](昭和17年)4月に発表した「軍神の賦」<ref>『文芸』1942年(昭和17年)4月号</ref>で次のように[[聖戦]]の犠牲として哀悼している<ref name= |
1941年12月8日の[[真珠湾攻撃]]の翌日の日記には「先祖を神だと信じた民族が勝つたのだ」「パリにいるとき、毎夜念じて伊勢の大廟を拝したことが、つひに顕われてしまつたのである」と書いた{{Sfn|福田|1967|p=97}}。真珠湾攻撃における[[特別攻撃隊]]([[特殊潜航艇]][[甲標的]])による[[ハワイ]]攻撃で戦死した兵士9名は「[[軍神#九軍神|九軍神]]」として政府によって[[顕彰]]されたが、この「九軍神」について横光は翌[[1942年]](昭和17年)4月に発表した「軍神の賦」<ref>『文芸』1942年(昭和17年)4月号</ref>で次のように[[聖戦]]の犠牲として哀悼している<ref name=taguchi>[[田口律男]]「横光利一と太平洋戦争」『国文学 解釈と鑑賞』2000年6月号、[[至文堂]]、p.28-33.</ref>。 |
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{{Quotation|青春なほ愛惜おほき年、かくのごとき純忠の涙あつて海に沈むもの。世の狂躁を醒めしめ、幻影の通路を切断しておのれの柩を磨く粛々痛切なこの一刻の事実あつてこそ、暗転する歴史はその正しさに復帰し、呼吸を取り戻し、寒く散り失せる敵陣にさへなほ覚醒を与へ熄まざらんとす。|横光利一「軍神の賦」1942年(昭和17年)4月}} |
{{Quotation|青春なほ愛惜おほき年、かくのごとき純忠の涙あつて海に沈むもの。世の狂躁を醒めしめ、幻影の通路を切断しておのれの柩を磨く粛々痛切なこの一刻の事実あつてこそ、暗転する歴史はその正しさに復帰し、呼吸を取り戻し、寒く散り失せる敵陣にさへなほ覚醒を与へ熄まざらんとす。|横光利一「軍神の賦」1942年(昭和17年)4月}} |
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==== 大東亜文学者会議 ==== |
==== 大東亜文学者会議 ==== |
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[[File:Kashihara shrine1.JPG|thumb|[[橿原神宮]]。戦前の絵はがき。]] |
[[File:Kashihara shrine1.JPG|thumb|[[橿原神宮]]。戦前の絵はがき。]] |
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1942年1月、[[水上温泉]]に旅行{{Sfn|福田|1967|p=197}}。1942年[[5月26日]]に設立した[[日本文学報国会]]が企画運営した「[[大東亜文学者大会|大東亜文学者会議]]」は、その目的を「大東亜戦争完遂、大東亜共栄圏確立について文学者として挺身協力の方途を議し、亜細亜文学者の大使命を明かにす」とされ<ref name=taguchi/>、横光はその決議文起草に参加した{{Sfn|福田|1967|p=197}}。1942年11月5日の第一回会議では横光は小説部会幹事長として宣言文を朗読し、[[1943年]](昭和18年)8月25日の第二回会議では所信表明演説を行った<ref>「大東亜文学者会議挨拶」『定本 |
1942年1月、[[水上温泉]]に旅行{{Sfn|福田|1967|p=197}}。1942年[[5月26日]]に設立した[[日本文学報国会]]が企画運営した「[[大東亜文学者大会|大東亜文学者会議]]」は、その目的を「大東亜戦争完遂、大東亜共栄圏確立について文学者として挺身協力の方途を議し、亜細亜文学者の大使命を明かにす」とされ<ref name=taguchi/>、横光はその決議文起草に参加した{{Sfn|福田|1967|p=197}}。1942年11月5日の第一回会議では横光は小説部会幹事長として宣言文を朗読し、[[1943年]](昭和18年)8月25日の第二回会議では所信表明演説を行った<ref>「大東亜文学者会議挨拶」『定本 横光利一全集』補巻、河出書房新社、1999.</ref><ref name=taguchi/><ref name=toeda/>。また文芸報国会で九州で講演{{Sfn|福田|1967|p=197}}。 |
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1942年12月に刊行した『刺羽集』では、[[筧克彦]]の『国家之研究』(1913年(大正2年))の一節「皇国の国法は随神道、即ち、古神道の顕現に外ならぬ。各人は即ち八百万の神の顕現であり、国法は神道の現れである。」を引用して、「日本人を神として取扱ふ我が国の国法のこれが原理である。この爽やかな、愛情に満ちた意識を根底としている文化について、怪しむに足るだけの何が自分らの知の中にあるだらうか」と書いている<ref>「日記から」『刺羽集』1942年(昭和17年)12月、生活社。</ref><ref name=taguchi/>。また[[橿原神宮]]を参拝して、「[[八紘一宇]]」(八紘を掩いて宇と為さん事)について「この崇高な道徳こそ、世界最高の神意たること、瞬時も決戦下われわれの心から失せしめ給ふな」と祈ったと東京日日新聞で書いた<ref>東京日日新聞1942年(昭和17年)12月30日</ref><ref name=taguchi/>。 |
1942年12月に刊行した『刺羽集』では、[[筧克彦]]の『国家之研究』(1913年(大正2年))の一節「皇国の国法は随神道、即ち、古神道の顕現に外ならぬ。各人は即ち八百万の神の顕現であり、国法は神道の現れである。」を引用して、「日本人を神として取扱ふ我が国の国法のこれが原理である。この爽やかな、愛情に満ちた意識を根底としている文化について、怪しむに足るだけの何が自分らの知の中にあるだらうか」と書いている<ref>「日記から」『刺羽集』1942年(昭和17年)12月、生活社。</ref><ref name=taguchi/>。また[[橿原神宮]]を参拝して、「[[八紘一宇]]」(八紘を掩いて宇と為さん事)について「この崇高な道徳こそ、世界最高の神意たること、瞬時も決戦下われわれの心から失せしめ給ふな」と祈ったと東京日日新聞で書いた<ref>東京日日新聞1942年(昭和17年)12月30日</ref><ref name=taguchi/>。 |
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=== 終戦直後の戦犯追求 === |
=== 終戦直後の戦犯追求 === |
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[[日本の降伏|敗戦]]後の[[連合国軍占領下の日本]]で、戦時協力をした「文壇の[[戦犯]]」と名指しで非難を受ける。 |
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[[日本の降伏|敗戦]]後の[[連合国軍占領下の日本]]で、戦時協力をした「文壇の[[戦犯]]」と名指しで非難を受ける。その主な論者は、1945年12月に設立された[[新日本文学会]]の[[小田切秀雄]]や[[宮本百合子]]、[[杉浦明平]]らであった。小田切秀雄は1946年6月、新日本文学会の機関誌『[[新日本文学]]』に「文学における戦争責任の追及」を発表し、そこで「菊池寛、[[久米正雄]]、中村武羅夫、[[高村光太郎]]、[[野口米次郎]]、[[西條八十]]、[[斎藤瀏]]、[[斎藤茂吉]]、[[岩田豊雄]]、[[火野葦平]]、横光利一、[[河上徹太郎]]、小林秀雄、[[亀井勝一郎]]、[[保田與重郎]]、[[林房雄]]、[[浅野晃]]、中河与一、[[尾崎士郎]]、佐藤春夫、[[武者小路実篤]]、[[戸川貞雄]]、[[吉川英治]]、[[藤田徳太郎]]、[[山田孝雄]]らは最大かつ直接的な[[戦争責任|戦争責任者]]である」と問いただし、「文学界からの[[公職追放|公職罷免]]該当者である」と断定した<ref>小田切秀雄「文学における戦争責任の追及」『新日本文学』1巻3号、1946年6月号、1946年6月15日。</ref><ref>大原クロニカ『社会・労働運動大年表』解説編「新日本文学の戦犯リスト[社]1946.6.」[[法政大学大原社会問題研究所]]、2014年11月14日閲覧。法政大学大原社会問題研究所編『新版社会・労働運動大年表』労働旬報社、1995年</ref>。杉浦明平は「横光抹殺論」を展開した<ref name="ban">伴悦「横光利一と後代」『国文学 解釈と鑑賞』2000年6月号、至文堂</ref>。宮本百合子は1947年(昭和22年)に「横光利一・小林秀雄というような人々の悲惨は、いかに文飾したとしても、自身を、日本の民主的文学の伝統に固定的に対置させた反措定としての存在以上に発展せしめる人間的能力をもっていないという点です。そのために動的な歴史の過程にあっては真実の反措定でさえもありえず、単に反動的存在でしかありません」と非難した<ref>「一九四六年の文壇 新日本文学会における一般報告」『日本評論』1947年(昭和22年)5・6月合併号</ref>。横光自身はこうした動きに家族に「みんなして、俺の足を引っ張りおる。横綱を倒せば、名があがるからのう。」と寂しく呟いたという<ref name="fathe" />。 |
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その主な論者は、1945年12月に設立された[[新日本文学会]]の[[小田切秀雄]]や[[宮本百合子]]、[[杉浦明平]]らであった。小田切秀雄は1946年6月、新日本文学会の機関誌『[[新日本文学]]』に「文学における戦争責任の追及」を発表し、そこで「菊池寛、[[久米正雄]]、中村武羅夫、[[高村光太郎]]、[[野口米次郎]]、[[西條八十]]、[[斎藤瀏]]、[[斎藤茂吉]]、[[岩田豊雄]]、[[火野葦平]]、横光利一、[[河上徹太郎]]、小林秀雄、[[亀井勝一郎]]、[[保田與重郎]]、[[林房雄]]、[[浅野晃]]、中河与一、[[尾崎士郎]]、佐藤春夫、[[武者小路実篤]]、[[戸川貞雄]]、[[吉川英治]]、[[藤田徳太郎]]、[[山田孝雄]]らは最大かつ直接的な[[戦争責任|戦争責任者]]である」と問いただし、「文学界からの[[公職追放|公職罷免]]該当者である」と断定した<ref>小田切秀雄「文学における戦争責任の追及」『新日本文学』1巻3号、1946年6月号、1946年6月15日。</ref><ref>大原クロニカ『社会・労働運動大年表』解説編「新日本文学の戦犯リスト[社]1946.6.」[[法政大学大原社会問題研究所]]、2014年11月14日閲覧。法政大学大原社会問題研究所編『新版社会・労働運動大年表』労働旬報社、1995年</ref>。杉浦明平は「横光抹殺論」を展開した<ref name=ban>伴悦「横光利一と後代」『国文学 解釈と鑑賞』2000年6月号、至文堂</ref>。宮本百合子は1947年(昭和22年)に「横光利一・小林秀雄というような人々の悲惨は、いかに文飾したとしても、自身を、日本の民主的文学の伝統に固定的に対置させた反措定としての存在以上に発展せしめる人間的能力をもっていないという点です。そのために動的な歴史の過程にあっては真実の反措定でさえもありえず、単に反動的存在でしかありません」と非難した<ref>「一九四六年の文壇 新日本文学会における一般報告」『日本評論』1947年(昭和22年)5・6月合併号</ref>。 |
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こうした追求が進む中、文壇では退廃的なムードがもてはやされ、横光の小説は「神秘めかした観念主義」として冷たく否定されていった{{Sfn|福田|1967|p=106}}が、戦争責任の追及はその後「戦争責任者の資格の再吟味<ref>{{Cite journal|author=本田秋五|year=1960|title=物語戦後文学史|journal=新潮社|volume=|page=}}</ref>」や色々な事情が絡まって曖昧なかたちで消滅したため、横光には「文壇の戦犯」としての指名は苦々しいものではあったものの、横光の作家生活を脅かすほどの打撃とはならず<ref name=":0" />、横光文学は戦後もなお読者を獲得していた<ref name="toeda" />。この指名について[[橋本英吉]]が横光に話をした際、横光は言下に「そんなことは大した苦痛ではない」と言い切った<ref>{{Cite journal|author=橋本英吉|year=1948|title=戦争中のこと|journal=改造文芸 |volume=3月|page=}}</ref>。むしろ、横光の苦痛はその指名よりも、『旅愁』を終章にしなければならなくなった敗戦後の世相と体力の衰弱にあった<ref name=":0" />。 |
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こうした追求が進む中、文壇では退廃的なムードがもてはやされ、横光の小説は「神秘めかした観念主義」として冷たく否定されていった{{Sfn|福田|1967|p=106}}。しかし一方で、戦後もなお読者を獲得していた<ref name=toeda/>。 |
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横光は家族に「みんなして、俺の足を引っ張りおる。横綱を倒せば、名があがるからのう。」と寂しく呟いたという<ref name=fathe/>。 |
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==== 『旅愁』検閲 ==== |
==== 『旅愁』検閲 ==== |
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[[File:GHQ building circa 1950.JPG|thumb|GHQ本部。]] |
[[File:GHQ building circa 1950.JPG|thumb|GHQ本部。]] |
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1946年1月、『旅愁』一篇を改造社から改造社名作選として刊行、改造社にとっては戦後初の出版であった<ref name=toeda/>。この小説が戦前の大ヒット商品であったことや社長と横光との親密な関係などが要因となり、その他に平行して進められていた[[石坂洋次郎]]の『[[若い人]]』や林芙美子の『[[放浪記]]』より前に改造社の戦後出版第一号に選ばれた<ref name=toeda/>。同年2月に『旅愁』二篇、6月に『旅愁』三篇、7月に『旅愁』四篇を刊行した<ref name=toeda/>。当時活字に飢えていた日本人読者は『旅愁』や『改造』などに殺到し、『旅愁』各巻は |
1946年1月、『旅愁』一篇を改造社から改造社名作選として刊行、改造社にとっては戦後初の出版であった<ref name=toeda/>。この小説が戦前の大ヒット商品であったことや社長と横光との親密な関係などが要因となり、その他に平行して進められていた[[石坂洋次郎]]の『[[若い人]]』や林芙美子の『[[放浪記]]』より前に改造社の戦後出版第一号に選ばれた<ref name=toeda/>。同年2月に『旅愁』二篇、6月に『旅愁』三篇、7月に『旅愁』四篇を刊行した<ref name=toeda/>。当時活字に飢えていた日本人読者は『旅愁』や『改造』などに殺到し、『旅愁』各巻は十万部も売れた<ref name=toeda/>。横光の作品は[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ/SCAP)の下、[[民間検閲支隊|民間検閲局]](CCD)による[[日本における検閲|検閲と表現規制]]によって改変されたもので、検閲によって削除された部分は反ヨーロッパ的な表現であった<ref name=toeda/>。 |
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;異同の例 |
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例えば、戦前の版では{{Squote|「日本がそのため絶えず屈辱を忍ばせられたヨーロッパ」}}は、{{Squote|「日本がその感謝に絶えず自分を捧げて来たヨーロッパ」}}へと、ヨーロッパに対して否定的な評価から肯定的な評価へと書き換えさせられた<ref name=toeda/>。 |
例えば、戦前の版では{{Squote|「日本がそのため絶えず屈辱を忍ばせられたヨーロッパ」}}は、{{Squote|「日本がその感謝に絶えず自分を捧げて来たヨーロッパ」}}へと、ヨーロッパに対して否定的な評価から肯定的な評価へと書き換えさせられた<ref name=toeda/>。 |
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*戦前の版では{{Squote|「何が詭弁だ。万国共通の論理といふような立派なもので、ヨーロッパ人はいつでも僕らを誤摩化してきたぢやないか」}}は、{{Squote|「何が詭弁だ。万国共通の論理といふ風な、立派なものがあるなら、僕だつて自分をひとつ、そ奴で縛つてみたいよ」}}と、ヨーロッパへの名指しの批判は削除された<ref name=toeda/>。 |
*戦前の版では{{Squote|「何が詭弁だ。万国共通の論理といふような立派なもので、ヨーロッパ人はいつでも僕らを誤摩化してきたぢやないか」}}は、{{Squote|「何が詭弁だ。万国共通の論理といふ風な、立派なものがあるなら、僕だつて自分をひとつ、そ奴で縛つてみたいよ」}}と、ヨーロッパへの名指しの批判は削除された<ref name=toeda/>。 |
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{{Squote|「しかし、われわれがヨーロッパ、ヨーロッパと騒いで来たのは、騒いだ理由はたしかにあつたね。いつたい自分の国を善くしたいと思ふのは人情の常として、誰にでもあるものだが、騒ぎすぎると、次ぎには要らざる人情まで出て来るのが恐いよ。」}}とヨーロッパの[[植民地主義]]についての言及が削除され、「人情」が代わりに使用された<ref name=toeda/>。 |
{{Squote|「しかし、われわれがヨーロッパ、ヨーロッパと騒いで来たのは、騒いだ理由はたしかにあつたね。いつたい自分の国を善くしたいと思ふのは人情の常として、誰にでもあるものだが、騒ぎすぎると、次ぎには要らざる人情まで出て来るのが恐いよ。」}}とヨーロッパの[[植民地主義]]についての言及が削除され、「人情」が代わりに使用された<ref name=toeda/>。 |
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*戦前の版では{{Squote|「日本だけは滅んでくれちや困るとひそかに思ふ」}}は、GHQ版では{{Squote|「たつた一つの心だけ失つちや困ると思ふ」}}へと書き換えさせられた<ref name=toeda/>。 |
*戦前の版では{{Squote|「日本だけは滅んでくれちや困るとひそかに思ふ」}}は、GHQ版では{{Squote|「たつた一つの心だけ失つちや困ると思ふ」}}へと書き換えさせられた<ref name=toeda/>。 |
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*「アメリカ人」は「その男」と国籍不明に書き換えさせられた<ref name=toeda/>。 |
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*戦前の版では{{Squote|「大神に捧げまつらん馬曳きて峠を行けば月冴ゆるなり」}}は、GHQ版では{{Squote|「父母と語る長夜の爐(炉)の傍に牛の飼麦はよく煮えてをり」}}に変更された<ref name=toeda/>。 |
*戦前の版では{{Squote|「大神に捧げまつらん馬曳きて峠を行けば月冴ゆるなり」}}は、GHQ版では{{Squote|「父母と語る長夜の爐(炉)の傍に牛の飼麦はよく煮えてをり」}}に変更された<ref name=toeda/>。 |
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このようにヨーロッパの[[植民地主義]]や欧米を批判していると読まれるおそれのある箇所はすべて改変され、「人情」「ヒューマニズム」「心」といった普遍的な問題に置き換えられ、愛国心についての発言なども削除された<ref name=toeda/>。 |
このようにヨーロッパの[[植民地主義]]や欧米を批判していると読まれるおそれのある箇所はすべて改変され、「人情」「ヒューマニズム」「心」といった普遍的な問題に置き換えられ、愛国心についての発言なども削除された<ref name=toeda/>。 |
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これらの検閲について[[山本健吉]]は「カットされたが、たいしたことはなかった」と評価しているが、意味が逆になる書き換えも行われ、百カ所以上がカットされた<ref name=toeda/>。戦前版と戦後版の異同については『定本 |
これらの検閲について[[山本健吉]]は「カットされたが、たいしたことはなかった」と評価しているが、意味が逆になる書き換えも行われ、百カ所以上がカットされた<ref name=toeda/>。戦前版と戦後版の異同については『定本 横光利一全集』第九巻「編集ノート」に対照表が掲載されている<ref name=toeda/>。なお、[[新潮文庫]]や[[講談社文芸文庫]]の『旅愁』はこのGHQ/SCAPによる検閲を受けた1950年の改造社版を採用している<ref name=toeda/>。 |
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『旅愁』の訂正に横光はひどく神経を使ったらしく、敗戦の衝撃と相まって横光は健康を崩した。当時『[[中央公論]]』の編集長だった[[木佐木勝]]は日記に「横光氏もなかなか立ち直れないようである。梅雨期から真夏へかけて、気候の悪条件の中で、くずれゆく肉体を支える横光氏の精神力が問題である。戦後の心の深手は当分いえそうもない。問題の「旅愁」もいよいよ最終巻を迎えて、作者の健康のさらに衰えたことを聞く。なにかいたいたしい気がしてならない」と書いた<ref>{{Cite journal|author=木佐木勝|year=1967|title=図書新聞|journal=|volume=|page=}}</ref>。 |
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『旅愁』は合計30万部売れたが、その印税は封鎖預金で支払われた。封鎖預金は月額300円しか引き出せない仕組みになっており、いくら『旅愁』が売れても生活は窮迫した<ref name=":3" />。[[川端康成]]が、刊行予定の『紋章』の印税の内金の名目で、当時重役をしていた[[鎌倉文庫]]から出してくれた3千円で糊口をしのぐなどした<ref name=":0" />。 |
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=== 晩年 === |
=== 晩年 === |
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1946年[[6月23日]]に[[脳溢血]]の発作を起し、[[アレルゲン免疫療法]]の蜜蜂療法([[w:Apitherapy|アピセラピー(Apitherapy、Bee venom therapy]])を始める{{Sfn|福田|1967|p=198}}。9月に『罌粟の中』を刊行。[[11月16日]]に内閣告示された「[[当用漢字]]表」「[[現代仮名遣い|現代かなづかい]]」については、賛成かどうかははっきりいえないが、日本語は自然に美しく変化していくだろうとの見解を述べた<ref name=toeda/>。 |
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1945年12月15日に、疎開先から東京の北沢の家に戻る。12月28日、戦後最初の単行本『雪解』を養徳社から刊行<ref name=":0" />。 |
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1947年(昭和22年)6月頃より吐血があり床に伏すことが多くなる。 |
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1946年の横光は仕事に追い回されて多忙であった。この頃、[[川端康成]]の推薦で『人間』に掲載された[[三島由紀夫]]の「[[煙草 (小説)|煙草]]」をしきりに褒め<ref name=":0" />、長男・象三にも「こういうのを新しい小説と云うんだ。まだ東大の学生だそうだが、目茶に上手い奴だよ」と三島の作品を読むように勧めた<ref>{{Cite journal|author=横光象三|year=1956|title=三島由紀夫氏|journal=|volume=|page=}}</ref>。6月半ばに血を吐いて倒れる。実際はのどの血管が破れて出たものであったが、横光は疎開中の無理がたたって肺をやられたのだと思い込んだ<ref name=":0" />。横光を最初に診察したのは[[中山義秀]]の紹介した医師免許を持つ出版屋で、仕事で横光の自宅を訪れた際、横光は軽い脳溢血にかかっていると診断した(後に誤診と判明)<ref name=":0" /><ref name=":4" />。結果として横光は、肺病と脳溢血が同時に襲ってきたとすっかり信じ込み、肺病を治すには滋養をとるにかぎると精出して鰻や鶏を食べたが、生来の医者嫌いから医師には掛からず、専ら揉み療治や灸をすえていた<ref name=":0" />。中山は横光に手紙を書き、半年くらい山野に静養するよう忠告したが、横光は取り合わなかった。このことを後に中山は、「(横光)氏は親しいもののいうことだと余り用いなかった。相手を知りすぎているので、いうことに新鮮さが感じられないためであろう。そしてきのう、きょう知り合ったような他人の言葉を変に信用する」と振り返っている<ref name=":4">{{Cite journal|author=中山義秀|year=1955|title=横光利一の文学的生涯|journal=『文藝』臨時増刊 横光利一読本}}</ref>。横光が戦争責任者のリストに載ったのはこの頃である。『旅愁』の検閲による精神的疲労から体調を崩し、寝たり起きたりを繰り返した。病床の中で、少年の日を思ったり、「実際私は菊池先生のことを思っただけでもいまだに何一つ恩返し出来ない自分を省みて、これはもう貰い放しの方がと、そんなことを思ったり、老来いたく胸をしめることのみ増して来る」「菊池寛氏のテーマ小説の意義は、あの人が批評家だっだからだと思いますが、人がこれを問題にしないというのが、人がそれだけ貧弱だからだと僕は思っています」など、しきりに師の[[菊池寛]]に思いを馳せていた<ref name=":0" />。[[川端康成]]が横光を心配して何度か鎌倉から医者を連れてきた<ref>{{Cite book|edition=|title=川端康成伝 - 双面の人|url=https://www.worldcat.org/oclc/846193170|location=|isbn=978-4-12-004484-7|oclc=846193170|last=小谷野 敦|last2=|date=2013/5/24|year=2013|publisher=中央公論新社}}</ref>が、横光はこれを拒絶し、おかしな宗教に縋って「生き神様の言う薬を飲むといい」と言って御符を焼いた灰を飲んだり<ref>{{Cite journal|author=横光象三、横光佑典、八木義徳|year=1955|title=座談会 父を語る|journal=『文藝』臨時増刊 横光利一読本}}</ref>、民間療法の一種である[[アレルゲン免疫療法]]の蜜蜂療法([[w:Apitherapy|アピセラピー(Apitherapy、Bee venom therapy]])などを始める{{Sfn|福田|1967|p=198}}が、思わしい効果は得られなかった。9月に『罌粟の中』を刊行。[[11月16日]]に内閣告示された「[[当用漢字]]表」「[[現代仮名遣い|現代かなづかい]]」については、賛成かどうかははっきりいえないが、日本語は自然に美しく変化していくだろうとの見解を述べた<ref name="toeda" />。 |
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1947年11月、杉浦明平が「横光利一論」(『文藝』)で『旅愁』の[[ナショナリズム]]について厳しく指弾した<ref name=toeda/>。しかし、十重田裕一は用いられた版が戦前版なのか、戦後版なのかによって意味は大きくなるとしている<ref name=toeda/>。 |
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1947年(昭和22年)6月頃より吐血があり床に伏すことが多くなる。見かねた[[川端康成]]が東京大学佐々内科の柴豪雄博士に診察を依頼した。川端は横光に対してかなりの説得を行ったらしく、柴博士は「私は横光さんがかねて大変な凝り性であることは、水野成夫氏や川端康成氏から聞いていた。(中略)病気のことも彼独特の判断で自己流の療法を固執し、他人にも得意に説得して信じさせねばおかない横光さんが、診察をうけ様と決心したのは余程の事だったにちがいない」と当時を振り返っている<ref name=":2">{{Cite journal|author=柴豪雄|year=1948|title=横光さんの臨終|journal=別冊文藝春秋|volume=6|page=}}</ref>。それでも最初の往診時、柴博士は案内役の清水立夫に「あんなに医者嫌いの横光さんが、柴さんに診て貰う気になったのは、余程信用した場合でしてね。然し、今日は病気の雑談をする位に心得ていてほしい」と言われたという<ref name=":2" />。診察の結果、脈搏は整調、血圧は160mmHgで少々高めではあるが脳溢血の懸念なし、肺臓にも心臓にも異常なしとのことであった。ただ腹部触診で格別な異常を認めないが、消化器系等のレントゲン線検査の必要を感じて東大病院に来るようにと、柴博士は横光に約束させた<ref name=":2" />。横光はこの診察ですっかり元気を取り戻し、中村嘉市宛ての手紙に「小生の方も無事にてご安心下され度く。私も頭の方は、去年のは機械が間違っていたらしく血圧はずっと減っており、中風も脳溢血も心配なしとの名医の診断にて、安心しました。ただ今は胃が思わしくないのでこれを癒せば宜敷しいのですから、食いしんぼうの小生、何よりむずかしく、塩湯のみ飲むことにしています」と書いた<ref name=":0" />。横光は一貫して自分の信じる療法のみに固執し、柴博士と約束したレントゲン線検査のことは放置した<ref name=":2" />。脳溢血の不安がなくなったことで、今度は異常なほど甘味にとりつかれ、「家人に隠して蔵書をもちだし、それを金にかえてマーケットの粗悪な大福餅や饅頭のたぐいを、ひそかにむさぼり喰べ」た<ref name=":3">{{Cite journal|author=中山 義秀|year=1963|title=台上の月|journal=|volume=|page=}}</ref>。11月、杉浦明平が「横光利一論」(『文藝』)で『旅愁』の[[ナショナリズム]]について厳しく指弾した<ref name=toeda/>。しかし、十重田裕一は用いられた版が戦前版なのか、戦後版なのかによって意味は大きくなるとしている<ref name=toeda/>。12月、疎開時の日記という体裁をとった小説『夜の靴』を刊行。河上徹太郎は横光の最大傑作と評した<ref>「同時代評 夜の靴」『定本横光利一全集』第11巻月報11、河出書房新社、1982.</ref>。 |
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疎開時の日記という体裁をとった小説『夜の靴』を1947年12月に刊行。河上徹太郎は横光の最大傑作と評した<ref>「同時代評 夜の靴」『定本横光利一全集』第11巻月報11、河出書房新社、1982.</ref>。 |
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12月14日、母の実家にあったランプを通して青春時代の柘植での思い出を書いた『洋燈(ランプ)』を執筆中に突然目まいに襲われ、さらに翌15日の夕食後、胃に激痛が起こり、一時意識不明になる<ref name=":0" />{{Sfn|福田|1967|p=109}}。診察した医師は胃潰瘍と診断した。以後、客との面接を一切断り、自宅の二階座敷を病室にして臥床する<ref name=":0" />。22日、再び重篤になり、[[川端康成]]の連絡で往診を行った東大病院の柴博士は、「六日前に上腹部の激痛を感じ黒赤色の便通を見てから急激な貧血に陥り、遂に意識不明、脈搏消失の危篤状態となったが徐々に回復して来たと云う容態にあった。床中の彼は顔面蒼白、脈搏数九〇、微弱、緊張不良、心音かなり稀弱。然し腹部の自然痛は最早消退し、圧痛は上腹部に僅か存在する位で、危篤の域を脱して来ていた。出血がひどく続いて止血徴候のない場合は、危険を冒して摘出手術のことも考えられるが、何分軽々に動かしも出来ない容態であるし、又この分では慎重な食餌療法で徐々に回復するものと見当がつけられた」と診断を下した<ref name=":2" />。柴博士の帰り際、横光が「何か起死回生の方法はないか」と詰問したため、「絶対安静に養生して離床の時が来たらレントゲン線検査で潰瘍の適格な位置、大きさ、深さを診断した上で摘出手術をすれば再発の憂いもなくなり、起死回生の療法になるのだ」と説明したところ、横光は満足げに頷いた<ref name=":2" />。その後、徐々に元気を回復し、家族や友人がこのまま回復するだろうと思われた中、29日の夜半に「ヒコーキに乗りたい」とか「今日はね、おんりょうがたくさん出て来よった」と口走って妻・千代を驚かせた<ref name=":0" />。 |
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絶筆となったのは、母の実家にあったランプを通して青春時代の柘植での思い出を書いた『洋燈(ランプ)』で、執筆中の12月15日の夕食後、胃に激痛が起こり、意識不明になる{{Sfn|福田|1967|p=109}}。[[胃潰瘍]]に加えてさらに12月30日には急性[[腹膜炎]]を併発し、午後4時13分、49歳で死去した{{Sfn|福田|1967|p=198}}。 |
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12月30日の暁方3時半ごろ、突然急激な腹痛で苦しみだし、そのまま午後4時13分、49歳で死去{{Sfn|福田|1967|p=198}}。その10分後に急な来診の連絡で駆け付けた柴博士は、「昨夜来ひどい腹痛が連続的に起って、昼すぎ昏睡状態に陥り十分前にこときれた」と説明を受けた。触診の結果、上腹部から下腹部にかけて腹筋緊張と膨隆が認められ、潰瘍が腹膜腔に穿孔して急性腹膜炎を併発したと診断した<ref name=":2" />。死去した際の横光は、柴博士と同じように駆けつけていた[[川端康成]]と同じ位まで痩せていたという<ref name=":2" />。川端の「横光利一弔辞」の一節「君を敬慕し哀惜する人々は、君のなきがらを前にして僕に長生きせよと言う」はこの時交わされた会話であろう。また鎌倉の家で病床にあった[[中山義秀]]は、横光の訃報を知ると家人のとめるのも聞かずに横光の家に走り、横光の死に顔を見て「横光は顔をしかめ、苦しげな表情で死んでいた。それほど病気の苦痛がひどかったのか、それとも招かざる死神に、最後まで抵抗して闘ったのか、つきぬ憾みと執念とを、まざまざとこの世にとどめているような、いたましい死顔であった」と書き残した<ref name=":3" />。 |
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=== 葬儀 === |
=== 葬儀 === |
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[[ファイル:Grave of Riichi Yokomitsu.jpg|サムネイル|横光利一の墓]] |
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翌年[[1948年]](昭和23年)1月3日に自宅で仏式葬儀が行なわれた{{Sfn|福田|1967|p=198}}。川端康成は弔辞で次のように述べた。 |
翌年[[1948年]](昭和23年)1月3日に自宅で仏式葬儀が行なわれた{{Sfn|福田|1967|p=198}}。川端康成は弔辞で次のように述べた。 |
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{{Quotation|国破れてこのかた一入(ひとしお)木枯に吹きさらされる僕の骨は、君といふ温い支へさへ奪はれて、寒天に砕けるやうである。君の骨もまた国破れてくだけたものである。このたびの戦争が、殊に敗亡が、いかに君の心身を痛め傷つけたか。僕等は無言のうちに新な同情を通はせ合ひ、再び行路を見まもり合つてゐたが、君は東方の象徴のやうに卒に光焔を発して落ちた。君は日本人として剛直であり、素僕であり、誠実であつたからだ。君は正立し、予言し、信仰しようとしたからだ。君の名に傍へて僕の名の呼ばれる習はしも、かへりみればすでに二十五年を越へた。(中略)君に遺された僕のさびしさは君が知つてくれるであらう。君と、最後に会つた時、生死の境にたゆたふやうな君の眼差の無限の懐かしさに、僕は生きて二度とほかでめぐりあへるであらうか。(中略)横光君 僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく」|川端康成「弔辞」}} |
{{Quotation|国破れてこのかた一入(ひとしお)木枯に吹きさらされる僕の骨は、君といふ温い支へさへ奪はれて、寒天に砕けるやうである。君の骨もまた国破れてくだけたものである。このたびの戦争が、殊に敗亡が、いかに君の心身を痛め傷つけたか。僕等は無言のうちに新な同情を通はせ合ひ、再び行路を見まもり合つてゐたが、君は東方の象徴のやうに卒に光焔を発して落ちた。君は日本人として剛直であり、素僕であり、誠実であつたからだ。君は正立し、予言し、信仰しようとしたからだ。君の名に傍へて僕の名の呼ばれる習はしも、かへりみればすでに二十五年を越へた。(中略)君に遺された僕のさびしさは君が知つてくれるであらう。君と、最後に会つた時、生死の境にたゆたふやうな君の眼差の無限の懐かしさに、僕は生きて二度とほかでめぐりあへるであらうか。(中略)横光君 僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく」|川端康成「弔辞」}} |
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[[戒名]]は「光文院釋雨過居士」。[[デスマスク]](銅製)は[[本郷新]]により作成。死顔のスケッチも[[佐野繁次郎]]と[[岡本太郎]]により描かれた。[[1949年]](昭和24年)7月、[[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]]の[[多磨霊園]]に墓が建てられた{{Sfn|福田|1967|p=109}}。墓碑の「横光利一之墓」は川端康成の筆である。 |
[[戒名]]は「光文院釋雨過居士」。[[デスマスク]](銅製)は[[本郷新]]により作成。死顔のスケッチも[[佐野繁次郎]]と[[岡本太郎]]により描かれた。[[1949年]](昭和24年)7月、[[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]]の[[多磨霊園]]に墓が建てられた{{Sfn|福田|1967|p=109}}。墓碑の「横光利一之墓」は川端康成の筆である。 |
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== 死後 == |
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1948年1月、[[鎌倉文庫]]の『人間』に遺作である「[[微笑 (横光利一の小説)|微笑]]」が掲載される<ref>『人間』1948年1月号(鎌倉文庫)</ref><ref name=toeda/>。鎌倉文庫は1945年(昭和20年)5月に[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[川端康成]]、[[高見順]]、[[久米正雄]]ら鎌倉在住の文士によって貸本屋として開店され、終戦後の9月に大同製紙の申し入れにより出版社となって出発し、『人間』が創刊された<ref name="nenpu">[[羽鳥徹哉]]「年譜」『作家の自伝15 川端康成』([[日本図書センター]]、1994年)</ref>。編集長は[[木村徳三]]で、作家の[[三島由紀夫]]、[[安部公房]]、[[野間宏]]、[[遠藤周作]]、[[堀田善衛]]らが寄稿し、有力な文芸雑誌となり、GHQ/SCAP[[民間情報教育局]]([[CIE]])の調査でも「代表的文芸誌」とされていた<ref name=toeda/>。創刊号の表紙は[[アダム]]と[[イヴ]]のような若い男女の姿が手を後ろに回して並び立つ姿であったが、GHQの担当女性将校は、これは敗戦国の日本人を表現するもので、日本人は囚われの身ではなく連合軍によって解放された[[人民]]でなければならないという理由で不適切との勧告を受けた{{Sfn|十重田|2010|p=330}}。 |
1948年1月、[[鎌倉文庫]]の『人間』に遺作である「[[微笑 (横光利一の小説)|微笑]]」が掲載される<ref>『人間』1948年1月号(鎌倉文庫)</ref><ref name=toeda/>。鎌倉文庫は1945年(昭和20年)5月に[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[川端康成]]、[[高見順]]、[[久米正雄]]ら鎌倉在住の文士によって貸本屋として開店され、終戦後の9月に大同製紙の申し入れにより出版社となって出発し、『人間』が創刊された<ref name="nenpu">[[羽鳥徹哉]]「年譜」『作家の自伝15 川端康成』([[日本図書センター]]、1994年)</ref>。編集長は[[木村徳三]]で、作家の[[三島由紀夫]]、[[安部公房]]、[[野間宏]]、[[遠藤周作]]、[[堀田善衛]]らが寄稿し、有力な文芸雑誌となり、GHQ/SCAP[[民間情報教育局]]([[CIE]])の調査でも「代表的文芸誌」とされていた<ref name=toeda/>。創刊号の表紙は[[アダム]]と[[イヴ]]のような若い男女の姿が手を後ろに回して並び立つ姿であったが、GHQの担当女性将校は、これは敗戦国の日本人を表現するもので、日本人は囚われの身ではなく連合軍によって解放された[[人民]]でなければならないという理由で不適切との勧告を受けた{{Sfn|十重田|2010|p=330}}。 |
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死後の1948年、「横光利一全集」は[[新潮社]]との激しい争奪戦の末、改造社から刊行された<ref name=toeda/>。 |
死後の1948年、「横光利一全集」は[[新潮社]]との激しい争奪戦の末、改造社から刊行された<ref name=toeda/>。 |
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1949年には「横光利一賞」が設定され、[[大岡昇平]]『[[俘虜記]]』が受賞した。しかし改造社社長山本実彦は公職追放を受け、経営も思わしくなく、 |
1949年には「横光利一賞」が設定され、[[大岡昇平]]『[[俘虜記]]』が受賞した。しかし改造社社長山本実彦は公職追放を受け、経営も思わしくなく、1995年に雑誌『改造』は終刊した<ref name=toeda/>。 |
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== 文学碑 == |
=== 文学碑 === |
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[[1959年]](昭和34年)12月15日、三重県阿山郡[[伊賀町]](旧・[[柘植町]])に記念碑がたてられ、横光が生前に最も好んでいた自筆の句が、[[川端康成]]によって選出され<ref name="shincho"/>、 |
[[1959年]](昭和34年)12月15日、三重県阿山郡[[伊賀町]](旧・[[柘植町]])に記念碑がたてられ、横光が生前に最も好んでいた自筆の句が、[[川端康成]]によって選出され<ref name="shincho"/>、 |
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</blockquote>と刻まれた{{Sfn|福田|1967|p=110}}。 |
</blockquote>と刻まれた{{Sfn|福田|1967|p=110}}。 |
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[[1993年]](平成5年)10月30日、生誕95年記念として大分県宇佐市の市民グループ「[[豊の国宇佐市塾 |
[[1993年]](平成5年)10月30日、生誕95年記念として大分県宇佐市の市民グループ「[[豊の国]]宇佐市塾」により、同市赤尾の光岡城跡に『旅愁』文学碑が建てられた。碑文は森敦の[[揮毫]]で『旅愁』の一節が記された。 |
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[[2013年]](平成25年)11月23日、東京世田谷区の市民ボランティア団体「[[北沢川文化遺産保存の会]]」が、横光利一旧居「雨過山房」近くの[[北沢川 (東京都)|北沢川緑道]]に「橫光利一文学顕彰碑」を建立した。このモニュメントには小説『[[微笑 (横光利一の小説)|微笑]]』に出てくる石畳([[鉄平石]])二枚が用いられている。これに響く靴音で訪客の用向きが分かったと作品には記されている。石は橫光家から寄贈されたものである。 |
[[2013年]](平成25年)11月23日、東京世田谷区の市民ボランティア団体「[[北沢川文化遺産保存の会]]」が、横光利一旧居「雨過山房」近くの[[北沢川 (東京都)|北沢川緑道]]に「橫光利一文学顕彰碑」を建立した。このモニュメントには小説『[[微笑 (横光利一の小説)|微笑]]』に出てくる石畳([[鉄平石]])二枚が用いられている。これに響く靴音で訪客の用向きが分かったと作品には記されている。石は橫光家から寄贈されたものである。 |
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横光の名を冠したものとして、父の故郷の大分県宇佐市でおこなわれる横光利一俳句大会がある。これは横光が自らを松尾芭蕉の末裔であるこという矜持があり<ref name=jigoku/>、また本人も数多くの句を作ったところよりきている。 |
横光の名を冠したものとして、父の故郷の大分県宇佐市でおこなわれる横光利一俳句大会がある。これは横光が自らを松尾芭蕉の末裔であるこという矜持があり<ref name=jigoku/>、また本人も数多くの句を作ったところよりきている。 |
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=== 記念館 === |
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[[三重県立上野高等学校]]に同窓会が横光利一記念館を設置。 |
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== 発言、思想 == |
== 発言、思想 == |
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人民戦線政府が成立したフランスで日本の[[左翼]]について質問された際には「左翼はなかなか繁栄したときもあります。しかし、日本は昔からそのときの思想状態を是非必要と感覚しないかぎり、どのような思想も行為も無駄となりますから、そのために秩序が乱れる恐れが生じると、これを枯らしてしまう自然という恐ろしい力があるのです。この自然力は物理的なもので、ヨーロッパの知性も日本へ侵入して来る度に、この自然力と争わねばならぬのです。つまり、日本はいかなる思想も物もそれを選択する場合に個人の意志では出来ません。自然力に任せてこれの命ずるままに従わねばならぬのです。個人の役に立たぬそのような日本では、従って第一番の芸術家や思想家は自然という秩序です。日本の左翼も自然発生から自然消滅の形をとって進行していますが、それは思想の無力というよりも、思想と同程度に整えられた秩序の強力なためなのです」と答えた<ref name=tyubo/>。 |
人民戦線政府が成立したフランスで日本の[[左翼]]について質問された際には「左翼はなかなか繁栄したときもあります。しかし、日本は昔からそのときの思想状態を是非必要と感覚しないかぎり、どのような思想も行為も無駄となりますから、そのために秩序が乱れる恐れが生じると、これを枯らしてしまう自然という恐ろしい力があるのです。この自然力は物理的なもので、ヨーロッパの知性も日本へ侵入して来る度に、この自然力と争わねばならぬのです。つまり、日本はいかなる思想も物もそれを選択する場合に個人の意志では出来ません。自然力に任せてこれの命ずるままに従わねばならぬのです。個人の役に立たぬそのような日本では、従って第一番の芸術家や思想家は自然という秩序です。日本の左翼も自然発生から自然消滅の形をとって進行していますが、それは思想の無力というよりも、思想と同程度に整えられた秩序の強力なためなのです」と答えた<ref name=tyubo/>。 |
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フランスの婦人に日本人はなぜ[[切腹|腹切り]]をするのかと聞かれ、横光は体験記の体裁の小説『厨房日記』で「それは見栄でも責任でもない。世の中の秩序を乱したと感じるものが、自分の行為を是認するために行うもの」で、「日本人は社会の秩序を何より重んじるから、自然に個人を無にしなければならぬ。つまり、生活の秩序を完成さすためには人間は意志的に無になる度胸を養成しなければならぬ。日本文化の一切の根柢はこの無の単純化から咲き出したもので、地球上の総ての文化が完成されればこのようになるものだという模型を造っているような社会形態が、日本だと思う」「つまり知性の到達出来る一種の限界までいっている義理人情の完璧さのために、も早や知性は日本には他国のようには必要がないのだと思う」と答えた<ref name=tyubo>「厨房日記」『定本 |
フランスの婦人に日本人はなぜ[[切腹|腹切り]]をするのかと聞かれ、横光は体験記の体裁の小説『厨房日記』で「それは見栄でも責任でもない。世の中の秩序を乱したと感じるものが、自分の行為を是認するために行うもの」で、「日本人は社会の秩序を何より重んじるから、自然に個人を無にしなければならぬ。つまり、生活の秩序を完成さすためには人間は意志的に無になる度胸を養成しなければならぬ。日本文化の一切の根柢はこの無の単純化から咲き出したもので、地球上の総ての文化が完成されればこのようになるものだという模型を造っているような社会形態が、日本だと思う」「つまり知性の到達出来る一種の限界までいっている義理人情の完璧さのために、も早や知性は日本には他国のようには必要がないのだと思う」と答えた<ref name=tyubo>「厨房日記」『定本 横光利一全集』第7巻、河出書房新社。[http://www.aozora.gr.jp/cards/000168/card2156.html 青空文庫No.2156]</ref>。 |
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== 他から受けた影響とその評価 == |
== 他から受けた影響とその評価 == |
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ストリンドベリの『地獄』『青巻』については1925年の「感覚活動」において「より深き認識への追従感覚を所有した作品」と評価し、松尾芭蕉、志賀直哉の『剃刀』(1913年)、『范の犯罪』などになぞらえた。横光は志賀の『范の犯罪』に影響をうけて、『殺人者』のち『マルクスの審判』を執筆した<ref name=toeda/>。またこの小説は芥川龍之介の『[[薮の中]]』にも影響を受けている<ref name=toeda/>。横光によるストリンドベリについての言及はランボーよりも頻度が多い<ref>小田桐弘子『横光利一比較文化的研究』南窓社、平成12年,p139</ref><ref name=jigoku/>。 |
ストリンドベリの『地獄』『青巻』については1925年の「感覚活動」において「より深き認識への追従感覚を所有した作品」と評価し、松尾芭蕉、志賀直哉の『剃刀』(1913年)、『范の犯罪』などになぞらえた。横光は志賀の『范の犯罪』に影響をうけて、『殺人者』のち『マルクスの審判』を執筆した<ref name=toeda/>。またこの小説は芥川龍之介の『[[薮の中]]』にも影響を受けている<ref name=toeda/>。横光によるストリンドベリについての言及はランボーよりも頻度が多い<ref>小田桐弘子『横光利一比較文化的研究』南窓社、平成12年,p139</ref><ref name=jigoku/>。 |
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また、1933年には、『[[源氏物語]]』、[[井原西鶴]]、[[樋口一葉]]『[[たけくらべ]]』、[[森 |
また、1933年には、『[[源氏物語]]』、[[井原西鶴]]、[[樋口一葉]]『[[たけくらべ]]』、[[森鴎外]]の『雁』と谷崎潤一郎の『[[蓼喰ふ虫]]』などを挙げて、日本の国語は人情を書くのに一番適していると評価している<ref name=toeda/>。1937年には志賀直哉の作品を「日本文の模範」とも賞賛している<ref name=toeda/>。 |
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また、横光は[[フェルディナン・ド・ソシュール]]の言語理論を踏まえており、[[1928年]](昭和3年)7月3日から6日にかけて[[読売新聞]]で「一つの形式の生まれるのは、その民族の中から生まれる」とソシュールの言語理論を踏まえて論じ、文学の形式と民族の問題として位置づけた<ref name=toeda/>。ソシュールの書籍は同年翻訳されており(岡書店刊行『言語学原論』[[小林英夫 (言語学者)|小林英夫]]訳)、さらにソシュールの言語理論を踏まえた[[外山卯三郎]]の『詩の形態学序説』が刊行され、同年創刊された『詩と詩論』創刊号に掲載された[[西脇順三郎]]なども、横光に影響を与えたといわれている<ref name=toeda/>。 |
また、横光は[[フェルディナン・ド・ソシュール]]の言語理論を踏まえており、[[1928年]](昭和3年)7月3日から6日にかけて[[読売新聞]]で「一つの形式の生まれるのは、その民族の中から生まれる」とソシュールの言語理論を踏まえて論じ、文学の形式と民族の問題として位置づけた<ref name=toeda/>。[[フェルディナン・ド・ソシュール]]の書籍は同年翻訳されており(岡書店刊行『言語学原論』[[小林英夫 (言語学者)|小林英夫]]訳)、さらにソシュールの言語理論を踏まえた[[外山卯三郎]]の『詩の形態学序説』が刊行され、同年創刊された『詩と詩論』創刊号に掲載された[[西脇順三郎]]なども、横光に影響を与えたといわれている<ref name=toeda/>。 |
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『旅愁』での古神道の典拠については、[[筧克彦]]、[[川面凡児]]の[[禊]]思想、[[ブルーノ・タウト]]、[[小泉八雲]]などが挙げられている<ref name=kokugaku>舘下徹志「横光利一『旅愁』における国学言説の射影」京都語文 ( 16 ) 2009年、佛教大学</ref>。 |
『旅愁』での古神道の典拠については、[[筧克彦]]、[[川面凡児]]の[[禊]]思想、[[ブルーノ・タウト]]、[[小泉八雲]]などが挙げられている<ref name=kokugaku>舘下徹志「横光利一『旅愁』における国学言説の射影」京都語文 ( 16 ) 2009年、佛教大学</ref>。 |
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== 評価と研究 == |
== 評価と研究 == |
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戦前は |
戦前は賞賛され、文壇の寵児となったが、批判もあり、たとえば志賀直哉は横光を認めなかった<ref>滝井孝作『志賀直哉対談日誌』全国書房、1947年</ref><ref name=hosyomiryo13>保昌正夫「横光利一の魅力」『国文学 解釈と鑑賞』2000年6月号、至文堂、p13.</ref>。また中條(宮本)百合子は、「厨房日記」批判を公にした<ref>宮本、1937</ref>。 |
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=== 戦後 === |
=== 戦後 === |
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戦後になると、横光の評価は戦犯追及の時流のなかで否定され、埋没されかかった。一貫して横光を守ったのは河上徹太郎であったといわれる<ref name=hosyomiryo13/>。 |
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戦後になると、横光の評価は戦犯追及の時流のなかで否定され、埋没されかかった。一貫して横光を守ったのは[[河上徹太郎]]であったといわれる<ref name=hosyomiryo13/>{{refnest|group="注釈"|河上徹太郎は、横光否定派が混ざっている飲み会などの時に、「横光さん、あなたはぜひ猥本を書きなさい、あなたは書ける人だ」と横光を励ましていたという<ref name=ningen/>。}}。なお、横光を戦犯視する風潮は彼の死後もしばらく文壇内に続いていったとみられ、当時新人作家であった[[三島由紀夫]]は知人への手紙の中で、「横光利一氏の死に対してあらゆる非礼と冒瀆がつづけられてゐます。私の愛するものがそろひもそろつてこのやうに踏み躙られてゐる場所でどうしてのびのびと呼吸をすることなどできませう」と書き綴っている<ref>三島由紀夫「[[伊東静雄]]宛ての書簡」(昭和23年3月23日付)。{{Harvnb|三島38巻|2004|pp=200-202}}</ref>。 |
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しかし、 やがて改めて再認識されはじめ、[[1955年]](昭和30年)5月には『文芸臨時増刊 横光利一読本』が河出書房から刊行された。[[1958年]](昭和33年)になると野間宏が立て続けに横光を中心とした新感覚派についての論文を発表していった<ref>野間宏「感覚と欲望と物について」『[[思想 (雑誌)|思想]]』1958年(昭和33年)7月号、「新感覚派文学の言葉」『文学』1958年(昭和33年)9月号、「芸術大衆化について」『季刊現代芸術』1959年(昭和34年)6-10月号</ref><ref name=ban/>。当時野間は「さいころの空」を連載中であったが、戦後横光を糾弾していた杉浦明平が友人の野間のこの作品について横光の方法を呑み込んだ結果であると[[1961年]](昭和36年)に論じた<ref name=ban/>。 |
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横光利一が「小説の神様」と呼ばれていた時代に関しては、三島由紀夫は[[1954年]](昭和29年)の[[舟橋聖一]]との対談で、「神さま問題になるけど、横光さんなんかが神さまに思われていた時代というのは読者が今よりばかだったんでしょうかね」と発言し、舟橋はそれに対して「あのころは一生懸命なら神さまなんだ」と答えている<ref>三島由紀夫と舟橋聖一の対談「私の文学鑑定」(群像 1954年11月号)。{{Harvnb|三島39巻|2004|pp=145-168}}</ref>。[[菅野昭正]]は当時を振り返り、「じっさい、私が学生だった昭和二十年代、すくなくとも若い世代の文学読者のなかで、横光利一は落ちた偶像だった。戦前、小説の神さまとして畏敬を集める存在だったとは、誰しも知っていたが、その余光もすっかり消えうせていたと言ってよい。横光利一の肩をもったりするのは、どちらかといえば、軽蔑を買いかねまじき雰囲気だったのを覚えている」としている<ref>{{Cite journal|author=菅野昭正|year=1982|title=横光利一の問題性|journal=定本横光利一全集|volume=月報集成|page=331}}</ref>。 |
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しかし、やがて改めて再認識されはじめ、[[1955年]](昭和30年)5月には『文芸臨時増刊 横光利一読本』が河出書房から刊行された。[[1958年]](昭和33年)になると野間宏が立て続けに横光を中心とした新感覚派についての論文を発表していった<ref>野間宏「感覚と欲望と物について」『[[思想 (雑誌)|思想]]』1958年(昭和33年)7月号、「新感覚派文学の言葉」『文学』1958年(昭和33年)9月号、「芸術大衆化について」『季刊現代芸術』1959年(昭和34年)6-10月号</ref><ref name=ban/>。当時野間は「さいころの空」を連載中であったが、戦後横光を糾弾していた杉浦明平が友人の野間のこの作品について横光の方法を呑み込んだ結果であると[[1961年]](昭和36年)に論じた<ref name=ban/>。 |
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[[1962年]](昭和37年)には[[中村真一郎]]が『[[文學界]]』8月号で「純粋小説論再読--文学の擁護12」を発表し、翌年[[1963年]](昭和38年)の『文學界』3月号には[[篠田一士]]が「横光利一のために」を発表し、再評価の気運が高まっていった。 |
[[1962年]](昭和37年)には[[中村真一郎]]が『[[文學界]]』8月号で「純粋小説論再読--文学の擁護12」を発表し、翌年[[1963年]](昭和38年)の『文學界』3月号には[[篠田一士]]が「横光利一のために」を発表し、再評価の気運が高まっていった。 |
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=== 映画との関係 === |
=== 映画との関係 === |
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作品としてみると『 |
作品としてみると『蝿』や『ナポレオンと田虫』『上海』など[[映像]]を意識した作品が数多くあるが、これは同時代に製作されたソビエト映画『[[戦艦ポチョムキン]]』に見られる[[モンタージュ]]技法に非常に近いものがある。横光の小説では、映画からモンタージュ、[[ロングショット]]、[[クロースアップ]]などの表現が言語表現に転換された<ref name=toeda/>。前記の通り、横光は映画監督の衣笠貞之助と親交があり、『狂つた一頁』の製作に関わるなど新感覚派の文学と映画との近さは指摘されている。 |
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=== 西洋近代の超克 === |
=== 西洋近代の超克 === |
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[[1936年]](昭和11年)の横光の渡欧体験について[[ |
[[1936年]](昭和11年)の横光の渡欧体験について[[吉田健一]]は[[永井荷風]]や[[島崎藤村]]が描いたパリは現実のパリそのものではなく、横光は「ヨーロッパに現れた日本の最初の近代人だった」「その現実を知るのには、眼は外にではなく、絶えず我々自身に向けられていなければならない。それ故にそれは自意識の問題であり、近代の特徴をなしているものが、自意識であるのと同じく現実の想念は近代に属している」と評している<ref>吉田健一「先駆者横光利一」『文芸』臨時増刊『横光利一読本』1955年</ref>。 |
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[[吉本隆明]]は『悲劇の解読』で「この外遊ほど決定的な悲劇は明治以後の文学史のうえで想定することができない」として「横光の悲劇は<西欧>という原理に、<日本>という原理を対立させたことにある」とし、『旅愁』で矢代が[[言霊]]ではイは過去の大神で、ウは現神で、エは未来の神であり、この三つをつづめて「エッ」と祈ると説明する場面について「涙が出るほど悲惨で滑稽である」と評している<ref name=hirano/>。この「神叫び」については横光も体験したことのある[[川面凡児]]の禊思想を象徴的に表現したものとされている<ref name=kokugaku/>。 |
[[吉本隆明]]は『悲劇の解読』で「この外遊ほど決定的な悲劇は明治以後の文学史のうえで想定することができない」として「横光の悲劇は<西欧>という原理に、<日本>という原理を対立させたことにある」とし、『旅愁』で矢代が[[言霊]]ではイは過去の大神で、ウは現神で、エは未来の神であり、この三つをつづめて「エッ」と祈ると説明する場面について「涙が出るほど悲惨で滑稽である」と評している<ref name=hirano/>。この「神叫び」については横光も体験したことのある[[川面凡児]]の禊思想を象徴的に表現したものとされている<ref name=kokugaku/>。 |
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田口律男は、横光の「日本的原理」は[[保田與重郎]]や[[京都学派]]の「世界史の哲学」とは異なるものであったが、保田與重郎は一顧だにしなかっただろうし、また京都学派の哲学者にとっては全く問題にならない杜撰な論理と思っただろうと推理し、横光が追求した「日本的原理」の構築の作業は失敗しつづけたとしている<ref name=taguchi/>。 |
田口律男は、横光の「日本的原理」は[[保田與重郎]]や[[京都学派]]の「世界史の哲学」とは異なるものであったが、保田與重郎は一顧だにしなかっただろうし、また京都学派の哲学者にとっては全く問題にならない杜撰な論理と思っただろうと推理し、横光が追求した「日本的原理」の構築の作業は失敗しつづけたとしている<ref name=taguchi/>。 |
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三島由紀夫は、横光利一の文学と川端康成の文学の分かれ目を考察し、横光と川端は元々、同じ「人工的」な文章傾向の「[[天性]]」を持った作家であったが<ref name="riichi">「横光利一と川端康成」(『文章講座6』河出書房、1955年2月)。{{Harvnb|三島28巻|2003|pp=416-426}}に所収</ref>、横光は、その天性の「[[感受性]]」をいつからか「[[理知|知的]]」「西欧的」なものに接近し過ぎて、「[[地獄]]」「知的迷妄」へと沈み込んでいき、自己の本来の才能や[[気質]]を見誤ってしまったとしている<ref name="tabibito">「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」(別冊文藝春秋 1956年4月・51号)。{{Harvnb|三島29巻|2003|pp=204-217}}に所収</ref><ref name="seiyo">「川端康成の東洋と西洋」(國文學 解釈と鑑賞 1957年2月号)。{{Harvnb|三島29巻|2003|pp=485-490}}に所収</ref>。一方それに対し川端文学は、寸前でその「地獄」から身を背けたことで、「知的」「西欧的」「批評的」なものから離れることができ、「感受性」を情念、感性、官能それ自体の法則のままを保持してゆくことになったと論考している<ref name="tabibito"/><ref name="seiyo"/>。また、三島は横光の方法について川端とは逆に、「徹底的に愚直な方法でやった」とし、「あんな誠実な人はいないな。横光さんという人は好きです。ほんとに誠実だ。あの人は自分のエロティシズムの効用に全く無知だった」「あんなにすべてに無意識だった人はいない」としている<ref name="ningen">三島由紀夫と中村光夫の対談「対談・人間と文学――川端文学の『処女』」(講談社、1968年4月)。{{Harvnb|40巻|2004|pp=63-65}}</ref>。 |
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== 作品 == |
== 作品 == |
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*南北 - 『人間』1922年(大正11年)2月号 |
*南北 - 『人間』1922年(大正11年)2月号 |
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*面 (のち「笑はれた子」) - 『塔』1922年(大正11年)5月号 |
*面 (のち「笑はれた子」) - 『塔』1922年(大正11年)5月号 |
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* |
*[[日輪 (横光利一)|日輪]] - 『新小説』1923年(大正12年)5月号 |
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* |
*蝿 - 『文藝春秋』1923年(大正12年)5月号 |
||
*碑文 - 『新思潮』1923年(大正12年)7月号 |
*碑文 - 『新思潮』1923年(大正12年)7月号 |
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*マルクスの審判 - 『新潮』1923年(大正12年)8月号 |
*マルクスの審判 - 『新潮』1923年(大正12年)8月号 |
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*御身 - 1924年(大正13年) |
*御身 - 1924年(大正13年) |
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*無礼な街 - 『新潮』1924年(大正13年)9月号 |
*無礼な街 - 『新潮』1924年(大正13年)9月号 |
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* |
*[[頭ならびに腹]] - 『文藝時代』1924年(大正13年)10月・創刊号 |
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*愛巻 - 『改造』1924年(大正13年)11月号 |
*愛巻 - 『改造』1924年(大正13年)11月号 |
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*街の底 - 『文藝時代』1925年(大正14年)8月号 |
*街の底 - 『文藝時代』1925年(大正14年)8月号 |
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*ナポレオンと田虫 - 『文藝時代』1926年(大正15年)1月号 |
*ナポレオンと田虫 - 『文藝時代』1926年(大正15年)1月号 |
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* |
*[[春は馬車に乗って]] - 『文藝春秋』1926年(大正15年)8月号 |
||
*花園の思想 - 『改造』1927年(昭和2年)2月号 |
*花園の思想 - 『改造』1927年(昭和2年)2月号 |
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*朦朧とした風 - 『改造』1927年(昭和2年)7月号 |
*朦朧とした風 - 『改造』1927年(昭和2年)7月号 |
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*七階の運動 - 『文藝春秋』1927年(昭和2年)9月号 |
*七階の運動 - 『文藝春秋』1927年(昭和2年)9月号 |
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*蛾はどこにでもゐる - 『文藝春秋』1927年 (昭和2年) 10月号 |
|||
*或る職工の手記 - 『[[サンデー毎日]]』1928年(昭和3年)5月13日号 |
*或る職工の手記 - 『[[サンデー毎日]]』1928年(昭和3年)5月13日号 |
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*風呂と銀行(『[[上海 ( |
*風呂と銀行(『[[上海 (小説)|上海]]』第一篇) - 『改造』1928年(昭和3年)11月号 |
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*高架線 - 『中央公論』1930年(昭和5年)2月号 |
*高架線 - 『中央公論』1930年(昭和5年)2月号 |
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*鳥 - 『改造』1930年(昭和5年)2月号 |
*鳥 - 『改造』1930年(昭和5年)2月号 |
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* |
*[[機械 (小説)|機械]] - 『改造』1930年(昭和5年)9月号 |
||
*寝園 - 『[[東京日日新聞]]』・『[[大阪毎日新聞]]』1930年(昭和5年)11月-12月号、『文藝春秋』1932年(昭和7年)5月-11月号 |
*寝園 - 『[[東京日日新聞]]』・『[[大阪毎日新聞]]』1930年(昭和5年)11月-12月号、『文藝春秋』1932年(昭和7年)5月-11月号 |
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*時間 - 『中央公論』1931年(昭和6年)4月号 |
*時間 - 『中央公論』1931年(昭和6年)4月号 |
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*悪魔 - 『改造』1931年(昭和6年)4月号 |
*悪魔 - 『改造』1931年(昭和6年)4月号 |
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* |
*[[上海 (小説)|上海]] - 『改造』1928年(昭和3年)11月-1931年(昭和6年) |
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*紋章 - 『改造』1934年(昭和9年)1月-9月号 |
*紋章 - 『改造』1934年(昭和9年)1月-9月号 |
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*時計 - 『婦人之友』1934年(昭和9年)1月-12月号 |
*時計 - 『婦人之友』1934年(昭和9年)1月-12月号 |
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374行目: | 359行目: | ||
*比叡 - 『文藝春秋』1935年(昭和10年)1月号 |
*比叡 - 『文藝春秋』1935年(昭和10年)1月号 |
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*家族会議 - 『東京日日新聞』・『大阪毎日新聞』1935年(昭和10年)8月-12月 |
*家族会議 - 『東京日日新聞』・『大阪毎日新聞』1935年(昭和10年)8月-12月 |
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*厨房日記 - ([ |
*厨房日記 - ([http://www.aozora.gr.jp/cards/000168/card2156.html 青空文庫No.2156]) |
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* |
*[[旅愁 (小説)|旅愁]] - 『東京日日新聞』・『大阪毎日新聞』、その他各誌1937年(昭和12年)4月 - 1946年(昭和21年)1月 |
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*続紋章 - 『改造』1940年(昭和15年)3月-11月号 |
*続紋章 - 『改造』1940年(昭和15年)3月-11月号 |
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* |
*鶏園 - 『婦人公論』1941年(昭和16年)1月-12月号 |
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*雪解 - |
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*鶏園 - 『[[婦人公論]]』1941年(昭和16年)1月-12月号 |
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* |
*睡蓮 - 『文藝春秋』1940年(昭和15年)7月号 |
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*罌粟の中 - 『 |
*罌粟の中 - 『改造』1944年(昭和19年)2月号 |
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* |
*[[夜の靴]] - 1947年(昭和22年) |
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* |
*洋燈 - 1947年(昭和22年)12月(未完) |
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*[[微笑 (横光利一の小説)|微笑]] - 『[[人間 (雑誌)|人間]]』1948年1月号 |
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* [[夜の靴]] - 1947年(昭和22年) |
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* [[微笑 (横光利一の小説)|微笑]] - 『[[人間 (雑誌)|人間]]』1948年(昭和23年)1月号 |
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* 洋燈 - 『[[新潮]]』1948年(昭和23年)2月号(絶筆) |
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== 詩歌 == |
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*雲 - 『十月』1918年(大正7年)(横光左馬名義) |
*雲 - 『十月』1918年(大正7年)(横光左馬名義) |
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*水車 - 『十月』1918年(大正7年)(横光左馬名義) |
*水車 - 『十月』1918年(大正7年)(横光左馬名義) |
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393行目: | 376行目: | ||
*浪々 - 『朗々』1919年(大正8年) |
*浪々 - 『朗々』1919年(大正8年) |
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== 戯曲 == |
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*愛の挨拶 - 『文藝春秋』1927年(昭和2年)6月号 |
*愛の挨拶 - 『文藝春秋』1927年(昭和2年)6月号 |
||
*食はされたもの |
*食はされたもの |
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410行目: | 393行目: | ||
*新しき三つの焦点 - 『文藝春秋』1923年(大正12年)3月号 |
*新しき三つの焦点 - 『文藝春秋』1923年(大正12年)3月号 |
||
*震災 - 『文藝春秋』1923年(大正12年)11月号 |
*震災 - 『文藝春秋』1923年(大正12年)11月号 |
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*黙示のページ - 『読売新聞』1924年(大正13年)1月21日([ |
*黙示のページ - 『読売新聞』1924年(大正13年)1月21日([http://www.aozora.gr.jp/cards/000168/card2164.html 青空文庫No.2164]) |
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*文藝時代と誤解 - 『文藝時代』1924年(大正13年)10月・創刊号 |
*文藝時代と誤解 - 『文藝時代』1924年(大正13年)10月・創刊号 |
||
*感覚活動―感覚活動と感覚的作物に対する非難への逆説(のち「新感覚論」と改題) - 『文藝時代』1925年(大正14年)2月号 |
*感覚活動―感覚活動と感覚的作物に対する非難への逆説(のち「新感覚論」と改題) - 『文藝時代』1925年(大正14年)2月号 |
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416行目: | 399行目: | ||
*文学的唯物論について - 『創作月刊』1928年(昭和3年)2月 |
*文学的唯物論について - 『創作月刊』1928年(昭和3年)2月 |
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*宮沢賢治氏について - 『文藝』1934(昭和9年)4月号 |
*宮沢賢治氏について - 『文藝』1934(昭和9年)4月号 |
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*作家の生活 - 1934年(昭和9年)4月 ([ |
*作家の生活 - 1934年(昭和9年)4月 ([http://www.aozora.gr.jp/cards/000168/card49993.html 青空文庫No.49993]) |
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*純粋小説論 - 『改造』1935年(昭和10年)4月号 ([ |
*純粋小説論 - 『改造』1935年(昭和10年)4月号 ([http://www.aozora.gr.jp/cards/000168/card2152.html 青空文庫No.2152]) |
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*琵琶湖([ |
*琵琶湖([http://www.aozora.gr.jp/cards/000168/card46173.html 青空文庫No.46173]) |
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*欧州紀行 - 1937年(昭和12年) |
*欧州紀行 - 1937年(昭和12年) |
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*軍神の賦 - 『文芸』1942年(昭和17年)4月号 |
*軍神の賦 - 『文芸』1942年(昭和17年)4月号 |
||
*橋を渡る火 [[畠山勇子]]のこと 『婦人公論』1944年(昭和19年)第29巻1月号 |
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*特攻隊 - 『文芸』1945年(昭和20年)3月号 |
*特攻隊 - 『文芸』1945年(昭和20年)3月号 |
||
=== 単行本 === |
=== 単行本 === |
||
* |
*『御身』金星堂、1924年(大正13年)5月 |
||
* |
*『日輪』文藝春秋叢書、1924年5月(沙羅書店、1935年4月) |
||
* |
*『無礼な街』文芸日本社、1925年(大正14年) |
||
* |
*『春は馬車に乗って』改造社、1927年(昭和2年) |
||
* |
*『愛の挨拶』金星堂、1927年 |
||
* |
*『機械』[[白水社]]、1931年(昭和6年)4月([[創元社]] 1935年) |
||
* |
*『書方草紙』白水社、1931年 |
||
* |
*『上海』改造社、1932年(昭和7年)7月(書物展望社、1935年3月) |
||
* |
*『寝園』[[中央公論新社|中央公論社]]、1932年11月 |
||
* |
*『雅歌』書物展望社、1932年12月 |
||
* |
*『花花』文体社、1933年(昭和8年)10月(山根書店、1947年3月) |
||
* |
*『紋章』改造社、1934年(昭和9年)9月(普及版 1935年8月) |
||
* |
*『時計』創元社、1934年12月(斎藤書店、1946年5月) |
||
* |
*『覚書』沙羅書店、1935年(昭和10年)6月 |
||
* |
*『天使』創元社、1935年9月 |
||
* |
*『盛装』新潮社、1936年(昭和11年)2月 |
||
* |
*『欧州紀行』創元社、1937年(昭和12年)4月 |
||
* |
*『春園』創元社、1938年(昭和13年)4月 |
||
* |
*『薔薇』[[岩波書店]]〈[[岩波新書]]〉、1938年11月 |
||
* |
*『家族会議』創元社〈創元選書〉、1938年 |
||
* |
*『考へる葦』創元社、1939年(昭和14年)4月 |
||
* |
*『實いまだ熟せず』[[実業之日本社]]、1939年6月 |
||
* |
*『旅愁』 第一篇、第二篇 改造社、1940年(昭和15年)6,7月 |
||
* |
*『秘色』新声閣、1940年7月 |
||
* |
*『菜種』甲鳥書林、1941年(昭和16年)3月 |
||
* |
*『鶏園』創元社、1942年(昭和17年)1月 |
||
* |
*『刺羽集』生活社、1942年12月 |
||
* |
*『旅愁』第三篇 改造社、1943年(昭和18年)2月 |
||
* |
*『雪解』養徳社、1945年(昭和20年)12月 |
||
* |
*『旅愁』一篇、改造社〈改造社名作選〉、1946年(昭和21年)1月 |
||
* |
*『旅愁』二篇、改造社〈改造社名作選〉、1946年2月 |
||
* |
*『旅愁』三篇、改造社〈改造社名作選〉、1946年6月 |
||
* |
*『旅愁』四篇、改造社〈改造社名作選〉、1946年7月 |
||
* |
*『罌粟の中』新文藝社、1946年9月 |
||
* |
*『時間』山根書店、1947年(昭和22年)10月 |
||
* |
*『夜の靴』鎌倉文庫、1947年11月 |
||
* |
*『微笑』斎藤書店、1948年3月 |
||
* |
*『旅愁』全 改造社、[[1950年]]11月、GHQ検閲版<ref name=toeda/>。(1958年、新潮社。のち新潮文庫、講談社文芸文庫) |
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=== 選集、全集 === |
=== 選集、全集 === |
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* |
*『新選 横光利一集』改造社、1928年(昭和3年)11月 |
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* |
*『横光利一全集』全十巻(非凡閣、1936年3〜11月) |
||
* |
*『横光利一集 短篇集』 創元社、1940年(昭和15年) |
||
* |
*『三代名作全集――横光利一集』河出書房、1941年(昭和16年)10月 |
||
* |
*『横光利一短篇集』 創元社、1947年(昭和22年)-1951年(昭和26年) |
||
* |
*「横光利一全集」(23巻で中絶)、改造社、1948年(昭和23年)-1951年(昭和26年) |
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* |
*『昭和文学全集1横光利一』 角川書店、1952年11月 |
||
* |
*『横光利一全集』(全12巻)、[[河出書房新社|河出書房]]、1955年-1956年 |
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* |
*『定本横光利一全集』(全16巻別巻1)、河出書房新社、[[1981年]](昭和56年)-1999年(昭和62年)12月 |
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=== 文庫 === |
=== 文庫 === |
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* |
*『旅愁』 [[新潮文庫]](上下)、1967年(昭和42年)。GHQ検閲版<ref name=toeda/>) |
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* |
*『春は馬車に乗って・機械』 [[新潮文庫]]、新潮社、1969年(昭和44年)8月 |
||
* |
*『日輪・春は馬車に乗って』 [[岩波文庫]]、新潮社、1981年(昭和56年) |
||
* |
*『上海』講談社文芸文庫、1990年(平成2年) |
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* |
*『寝園』講談社文芸文庫、1991年(平成3年) |
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* |
*『紋章』講談社文芸文庫、1992年(平成4年) |
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* |
*『愛の挨拶・馬車・純粋小説論』講談社文芸文庫、1993年(平成5年) |
||
* |
*『夜の靴・微笑』講談社文芸文庫、1994年(平成6年) |
||
* |
*『旅愁』 講談社文芸文庫(上下)、1998年(GHQ検閲版<ref name=toeda/>) |
||
* |
*『家族会議』講談社文芸文庫、2000年(平成12年) |
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* |
*『欧洲紀行』講談社文芸文庫、2006年(平成18年) |
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* |
*『上海』 岩波文庫(改版2008年) |
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* |
*『旅愁』 岩波文庫(上下)、2016年。無削除版 |
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=== 未発表原稿 === |
=== 未発表原稿 === |
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500行目: | 482行目: | ||
*父・梅次郎 |
*父・梅次郎 |
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*母・こぎく(小菊) |
*母・こぎく(小菊) |
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*姉・しずこ(静子) |
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*妻・小島キミ(君子)、日向千代(子) |
*妻・小島キミ(君子)、日向千代(子) |
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*長男・象三 |
|||
*長男・象三 - [[横光昭象]]の筆名で横光に関するエッセイなどを書いた |
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*次男・佑典 - [[小堀杏奴]]の娘・桃子と結婚 |
*次男・佑典 - [[小堀杏奴]]の娘・桃子と結婚 |
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== 関連作品 == |
== 関連作品 == |
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; |
;映画 |
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* |
*[[衣笠貞之助]]『日輪』1924年 |
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* |
*衣笠貞之助『[[狂つた一頁]]』1926年 |
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* |
*[[島津保次郎]]『[[家族会議 (映画)|家族会議]]』1936年(主演:[[佐分利信]]) |
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* [[ロウ・イエ]]『[[サタデー・フィクション]]』(原題:蘭心大劇院)2019年 |
|||
; |
;エッセイ |
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* |
*劇作家[[宮沢章夫]]『時間のかかる読書―横光利一「機械」を巡る素晴らしきぐずぐず』 (河出書房新社)。『機械』を11年かけて読み、その一文一文から想像を膨らませたエッセイで、[[伊藤整文学賞]]を受賞した。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
{{脚注ヘルプ}} |
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{{Reflist|3}} |
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=== 注釈 === |
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{{Reflist|group="注釈"}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|30em}} |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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{{Columns-start|num=2}} |
|||
{{Columns-list|2|<!--執筆に際し実際に参照した論文・書籍のみを記述する。読めば参考になる書籍は不要。--> |
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* |
*[http://www.pref.oita.jp/10400/viento/vol12/006_bungaku/bungaku.html おおいた文学紀行 横光利一『旅愁』]大分県庁 |
||
*[[小田切秀雄]]「文学における戦争責任の追及」『[[新日本文学]]』1巻3号、1946年6月号 |
|||
* {{Citation|和書|editor=[[井上謙 (日本文学者)|井上謙]]|date=1994-08|title=新潮日本文学アルバム43 横光利一|publisher=[[新潮社]]|isbn=978-4-10-620647-4|ref={{Harvid|アルバム|1994}}}} |
|||
* |
*[[小田桐弘子]]『横光利一比較文化的研究』南窓社、平成12年 |
||
*[[河田和子]]『戦時下の文学と日本的なもの』花書院 2009 |
|||
* [[小田切秀雄]]「文学における戦争責任の追及」『[[新日本文学]]』1巻3号、1946年6月号 |
|||
* |
*[[菅野昭正]]『横光利一』[[福武書店]]1991年 |
||
*『新潮日本文学アルバム44 横光利一』([[新潮社]]、1994年) |
|||
* {{Cite book|和書|author=河田和子 |title=戦時下の文学と「日本的なもの」: 横光利一と保田與重郎 |publisher=花書院 |year=2009 |series=比較社会文化叢書 |issue=15 |NCID=BA90500070 |ISBN=9784903554419 |ref=harv}} |
|||
* |
*[[篠田一士]]「横光利一のために」『文学界』1963年(昭和38年)3-4月号 |
||
* |
*[[杉浦明平]]「横光利一論」『文藝』[[1947年]]11月号 |
||
* |
*[[関川夏央]]『東と西 横光利一の旅愁』([[講談社]]、2012年) |
||
*[[滝井孝作]]『志賀直哉対談日誌』全国書房 1947 |
|||
* [[関川夏央]]『東と西 横光利一の旅愁』([[講談社]]、2012年) |
|||
*[[田口律男]]「横光利一と太平洋戦争」『国文学 解釈と鑑賞』2000年6月号、[[至文堂]]、p.28-33. |
|||
* [[滝井孝作]]『志賀直哉対談日誌』全国書房 1947 |
|||
*舘下徹志「横光利一『旅愁』における国学言説の射影」京都語文 ( 16 ) 2009年、佛教大学。 |
|||
* [[田口律男]]「横光利一と太平洋戦争」『国文学 解釈と鑑賞』2000年6月号、[[至文堂]]、p.28-33. |
|||
*[[千葉亀雄]]「新感覚派の誕生」『世紀』1924年10月号. |
|||
* {{Cite journal|和書|author=舘下徹志 |title=横光利一『旅愁』における国学言説の射影--言挙・産霊・古神道をめぐって |journal=京都語文 |ISSN=13424254 |publisher=佛教大学国語国文学会 |year=2009 |month=nov |issue=16 |pages=209-226 |naid=110007973801 |url=https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_KG001600000497}} |
|||
*[[辻邦生]]「横光利一からの光」 『新潮日本文学アルバム44 横光利一』[[新潮社]]、1994年 |
|||
* [[千葉亀雄]]「新感覚派の誕生」『世紀』1924年10月号. |
|||
*[[都築久義]]「佐藤一英氏訪問記」愛知淑徳大学国語国文2pp.69 - 72 , 1979 |
|||
* [[辻邦生]]「横光利一からの光」『新潮日本文学アルバム44 横光利一』[[新潮社]]、1994年 |
|||
* {{Citation |last=十重田 |first=裕一 |year=2010 |title=[https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/36447/3/Honbun-5471.pdf 横光利一における大正・昭和期メディアと文学の研究]|publisher=早稲田大学}} |
|||
* [[都築久義]]「佐藤一英氏訪問記」愛知淑徳大学国語国文2pp.69 - 72 , 1979 |
|||
* |
* 十重田裕一「横光利一と川端康成の関東大震災」早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌 1, 171-175, 2013. |
||
* |
*[[中村真一郎]] |
||
**「純粋小説論再読--文学の擁護12」『文學界』1962年(昭和37年)8月号 |
|||
** {{Cite journal|和書|author=中村真一郎 |title=「純粋小説論」再読--「文学の擁護」-12- |journal=文學界 |ISSN=05251877 |publisher=文藝春秋 |year=1962 |month=aug |volume=16 |issue=8 |pages=144-149 |naid=40003389722 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I709767-00}} |
|||
**『夢の復権』昭和60年、[[福武書店]]。 |
**『夢の復権』昭和60年、[[福武書店]]。 |
||
* |
*[[中山義秀]]『台上の月』新潮社 1963年 |
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{{Column}} |
|||
* [[野間宏]] |
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*[[野間宏]] |
|||
**「感覚と欲望と物について」『思想』1958年(昭和33年)7月号、岩波書店 |
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**「感覚と欲望と物について」『思想』1958年([[昭和]]33年)7月号、岩波書店 |
|||
**「新感覚派文学の言葉」『文学』1958年[[昭和]]33年9月号、岩波書店 |
**「新感覚派文学の言葉」『文学』1958年[[昭和]]33年9月号、岩波書店 |
||
**「芸術大衆化について」『季刊現代芸術』1959年 |
**「芸術大衆化について」『季刊現代芸術』1959年[[昭和]]34年6-10月号 |
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*[[伴悦]]「横光利一と後代」「国文学 解釈と鑑賞」2000年6月号、[[至文堂]]、p34-40 |
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*[[日置俊次]]「横光利一と地獄 昭和初年代における韻文と散文の混沌」青山語文 37, 32-44, 2007年 |
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* [[平野謙 (評論家)|平野謙]]『昭和文学の可能性』1972年 岩波新書 (『平野謙全集』3巻、新潮社) |
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*[[平野謙 (評論家)|平野謙]]『昭和文学の可能性』1972年 岩波新書 (『平野謙全集』3巻、新潮社) |
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* {{Cite journal|和書|author=平野幸仁 |title=横光利一における東西対立 |journal=横浜国立大学人文紀要 第二類 語学・文学 |ISSN=0513563X |publisher=横浜国立大学 |year=1983 |month=oct |issue=30 |pages=67-85 |naid=110005857691 |url=https://hdl.handle.net/10131/2727}} |
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*平野幸仁「横光利一における東西対立」1983年、[[横浜国立大学]]人文紀要30. 横浜国立大学教育学部 編,p67~85. |
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* {{Citation |last=福田 |first=清人、荒井惇見 |year=1967 |title=横光利一|publisher=清水書院}}、昭和42年 |
* {{Citation |last=福田 |first=清人、荒井惇見 |year=1967 |title=横光利一|publisher=清水書院}}、昭和42年 |
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*[[保昌正夫]] |
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**「横光利一の時代 文壇登場の前後」立正大学文学部論叢 (93), 19-33, 1991年 |
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**「横光利一の魅力」『国文学 解釈と鑑賞』2000年6月号、[[至文堂]]、p10-13. |
**「横光利一の魅力」『国文学 解釈と鑑賞』2000年6月号、[[至文堂]]、p10-13. |
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*[[前田愛 (文芸評論家)|前田愛]]「『上海』論」(『都市空間のなかの文学』 1982、『前田愛著作集5』[[筑摩書房]]、ちくま学芸文庫1992) |
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*村松梢風『近代作家伝』創元社、1951年。 |
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* {{Citation|和書|author=[[三島由紀夫]]|date=2003-03|title=決定版 三島由紀夫全集28巻 評論3|publisher=新潮社|isbn=978-4106425684|ref={{Harvid|28巻|2003}}}} |
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*[[宮本百合子]] |
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* {{Citation|和書|author=三島由紀夫|date=2003-04|title=決定版 三島由紀夫全集29巻 評論4|publisher=新潮社|isbn=978-4106425691|ref={{Harvid|29巻|2003}}}} |
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* {{Citation|和書|author=三島由紀夫|date=2004-03|title=決定版 三島由紀夫全集38巻 書簡|publisher=新潮社|isbn=978-4106425783|ref={{Harvid|三島38巻|2004}}}} |
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* {{Citation|和書|author=三島由紀夫|date=2004-05|title=決定版 三島由紀夫全集39巻 対談1|publisher=新潮社|isbn=978-4106425790|ref={{Harvid|39巻|2004}}}} |
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* {{Citation|和書|author=三島由紀夫|date=2004-07|title=決定版 三島由紀夫全集40巻 対談2|publisher=新潮社|isbn=978-4106425806|ref={{Harvid|40巻|2004}}}} |
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* 村松梢風『近代作家伝』創元社、1951年。 |
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* [[宮本百合子]] |
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**「『迷いの末は』-横光氏の『厨房日記』について」『文芸』1937(昭和12)年2月号 |
**「『迷いの末は』-横光氏の『厨房日記』について」『文芸』1937(昭和12)年2月号 |
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**「一九四六年の文壇 |
**「一九四六年の文壇 新日本文学会における一般報告」『日本評論』1947(昭和22)年5・6月合併号 |
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*『横光利一事典』[[2002年]](平成14年)、[[おうふう]] |
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* 横光佑典「父とわたし」「国文学 解釈と鑑賞」2000年6月号、[[至文堂]]、p49-52. |
* 横光佑典「父とわたし」「国文学 解釈と鑑賞」2000年6月号、[[至文堂]]、p49-52. |
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*[[吉田健一]]「先駆者横光利一」文芸臨時増刊『横光利一読本』1955年(昭和30年)5月、河出書房。 |
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*[[吉本隆明]]『悲劇の解読』筑摩書房, 1979年、ちくま学芸文庫 1997年 |
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== 関連人物 == |
== 関連人物 == |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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{{commonscat|Riichi Yokomitsu}} |
{{commonscat|Riichi Yokomitsu}} |
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*{{青空文庫著作者|168}} |
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*[http://yokomitsu.jpn.org/ 横光利一文学会ホームページ] |
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*[http://www.horagai.com/www/who/75yokom1.htm 横光利一経歴] |
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* {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/penginkk/pengin.html |title=横光利一研究の部屋 |date=20190331144321}} |
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* {{Wayback |url=https://www.tsuruokakanko.com/cate/p0297.html |title=横光利一文学碑 |date=20171224101158 }} |
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* {{Wayback |url=http://merlot.wul.waseda.ac.jp/sobun/y/yo005/yo005p01.htm |title=早稲田と文学(横光利一) |date=20151005013607 }} |
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{{横光利一}} |
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[[Category:横光利一|*]] |
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[[Category:日本の小説家]] |
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[[Category:俳人]] |
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[[Category:明治大学の教員]] |
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[[Category:福島県出身の人物]] |
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[[Category:三重県立上野高等学校出身の人物]] |
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[[Category:三重県出身の人物]] |
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[[Category:1898年生]] |
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[[Category:1947年没]] |
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[[Category:多磨霊園に埋葬されている人物]] |